子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

その1 信ちゃんの思い出を語ってくれた福田稔さん

信ちゃんの思い出を語ってくれた福田稔さん

二〇〇五.三.十(木)  
 墨田の老人会の立花地域の方々が、戦争体験の語りと昔の遊びの紹介をする会があった。お昼の食事は、当時よく食べられた雑炊を作って、食べさせていただいた。年配の老人会の人、総勢五十人程度の人達が集まってくださった。その時の語りをしてくださったのが、福田稔さんであった。今から二年前の出来事であった。前任校の立花小学校のこどもたちとの交流会の出来事であった。
 緑小学校に転勤したら、平和集会と言うことを三月十日の東京大空襲の日とつなげてやっているとのことであった。どなたか語りをしてくださる方はおられないでしょうかという依頼があり、ぼくはすぐに福田稔さんのことを紹介したのであった。
戦災孤児 Edit

 戦争中に両親いなく、戦災孤児になられた。戦災孤児とは、戦争が原因で、両親や家族も誰もいなくなり、ひとりぼっちになってしまった子どものことをそう呼んだ。一九四五(昭和二十)年の八月十五日を境に、日本は平和な世の中になった。福田さんは、家もなく身を寄せる親せきもなく、上野のガード下に転がり込むようになった。そこには、たくさんの同じ境遇の浮浪児が、たくさん夜になると集まってくるのであった。やがて福田さんは、生きていくために「たばこのもく拾い」をすることによって、生きるすべを覚えていった。一日朝早く起きて、夕方暗くなるまで、働き続けて、その拾ったたばこをほぐし、「上野のアメ横」に持って行くのであった。一日くたくたになるまで働いて、サツマイモ一本が手にはいるのである。そのサツマイモを一本を、おなかに入れるために必死に働いた。
信ちゃんとの出会い Edit

 やがてある日いつもと同じように上の駅の地下道で寝ようともどったが、寝る人が多すぎて自分が横になる場所がなかった。そこで、寝る場所を求めて浅草方面に歩いていくと、大きなお寺にたどり着いた。そこは、浅草の東本願寺という寺だった。疲れた体だったので、その晩はすぐに空いているところに身を寄せて寝てしまった。やがて、自分のおなかのところが重たいことに気がつき、夜中に目がさめた。じっくり見てみると、重たいものとは二本の足だった。しかも、自分よりずっと小さい子どもの足であった。かわいそうに思い、そのままにしてまた寝てしまったというのである。朝目がさめると、その子も目がさめていた。色々聞いてみると、小学校一年生ということで、名前を「信ちゃん」と言うことがわかった。福田さんは、朝早かったが、すぐに「もく拾い」に出かけるために立ち上がろうとした。しかし、自分の後ろの腰あたりをつかまれて、すぐに動けなかった。「どうしたの?」とたずねると、「ぼくも一緒に連れてって。」という顔をして、福田さんに頼むのであった。福田さんは、その時、この「信ちゃん」を連れて、一緒に働くことを決意するのであった。しかも、お父さんやお母さんとはぐれてしまったので、何とかこの子の親が見つかるまでは、行動をともにしようと決意するのであった。
二人が六人に Edit

 やがて信ちゃんを連れて、福田さんは、たばこを拾えるところを、朝から晩まで歩き続けた。ある日二人で歩いていると、お茶の水の万世橋のところで、四人の小学生の浮浪児とであった、やが福田さんは、六人のリーダーになられた。そこで、たばこのもく拾いだけでなく、何か他の仕事もしようと考え出した。相談の結果、くつみがきをすることに決まった。しかし、靴墨やみがくための道具が何もなかった。色々考えた結果、アメリカ人で女性の、ハワイ二世の人に相談することになった。福田さんは、その人と仲良くなり、時々交流があった。その方は、もうじきアメリカに帰らなければならないので、私の「ぞうり」をさがしてほしいとお願いされた。その当時、今ならすぐに見つかるのだが、当時は「物不足」のためになかなかていは入らない時代であった。福田さんたちこどもたちは、手分けをして、「ぞうりさがし」が始まった。やがて三日目に見つかってそれを持っていくと、その方は大変喜ばれた。そこで、福田さんは「靴磨きをしたいので、その資金がほしい。」と頼んだ。すると、その方は、次の日くらいに、アメリカ製のたばこを二十箱、感謝の気持ちでくれた。当時外国製のたばこなどは、なかなか手に入らない時代であった。福田さんは、それを持って、「アメ横」で金にかえることが出来た。そのお金を元手に、くつみがきの仕事も始めた。生活も少しずつ安定してきた。
おにぎりがほしい Edit

 生活も少しずつよい方向に来たが、雨が降ると、靴磨きももく拾いも、なかなか収入につながらなかった。六人は、おなかをペコペコにして、上野の西郷さんの銅像の近くまで歩いてきた。そこに年配のおじいさんとおばあさんが、腰を下ろして、おにぎりをおいしそうにして食べていた。信ちゃんたち六人は、おなかがすいていたので、それをうらやましそうに眺めていた。特に一年生でもあった信ちゃんは、よだれが出る思い出、そのおにぎりにじっと目がいった。福田さんは、なんとかして、そのおにぎりの一部をせめて、信ちゃんだけにいただけないかとお願いに言った。すると、年配の二人は、六個のおむすびを信ちゃんに手渡した。信ちゃんは、すぐに食べずに、そのおにぎりを六つに分けて、すぐには食べようとしなかった。福田さんは、その時、信ちゃんのやさしさに涙がこぼれた。福田さんは、「お礼は何も出来ないが、靴を磨かせてください。」と頼んだ。その靴は、信ちゃんが磨くことになった。信ちゃんは、年は一番小さいが、靴磨きは、ていねいで一番上手であった。
信ちゃんとの別れ Edit

 福田さんたちは、その後上野の駅の近くに、電車の枕木をもらい、それを元に小さな家を造った。そこにたどり着くまでには、三年近くの月日が経っていた。六人がその家に定住するようになると、ある日、児童相談所の人が見えて、一番小さいしんちゃんだけを引き取り「施設で育てたい。」と言う申し出があった。福田さんは、信ちゃんの両親が見つかるまでは、待ってくれないかとお願いした。しかし、信ちゃんの両親は、空襲でなくなっていると言うことを知らされた。信ちゃんには、そのことは、話すことは出来なかった。やがて、福田さんは、自分たちでクラスより、施設に行き、そこから誰かの家に引き取られて育てられた方が幸せだろうと考え、了承した。そこで、一つの約束をさせられた。つまり、今後一切信ちゃんとは、連絡を取らないことと言う約束である。それはまた、誰かに引き取られていったときに、またそこで連絡を取られると、養子先で迷惑がかかると言うことであった。福田さんは、渋々そのことを約束して、信ちゃんたちと悲しい別れをしなければならなかった。あれから六十年近くたち、福田さんは、信ちゃんとは会わないまま今に至っている。福田さんは、信ちゃんに会いたい気持ちもあるが、会わない方がよいのかも知れないと今は、思っているそうだ。戦後六十年経ち、昨日は、東京大空襲六十年の年を迎えた。新聞やテレビなどでは、特集を組んで取り上げている。福田さんのように、気の毒な生活を送っていた人が、日本中のどこにでもまだたくさんおられることも知っておいてほしい。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional