子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

その5 原博おじさんの戦争体験

原博おじさんの戦争体験 墨田区立小梅小学校 五年

 僕の家の知り合いに、江東区に住む原さんという八十六才のおばあちゃんがいます。博おじさんは、そのおばあちゃんの長男で六十三才、ぼくの大好きなおじさんです。
 ぼくが初めておじさんにあったのは、五才の幼稚園の頃です。原おばあちゃんが病気で二ヶ月くらい入院して、その病院がぼくの言っていた幼稚園のそばでした。ぼくは、毎日帰りに母と一緒に、お見舞いによって、その病院で博おじさんに会いました。おじさんとは、何階もあってもあっていますが、おうちをおたずねしたのは、五階くらいしかありません。おじさんは、踊りや歌が上手で、やさしくて、
「子どもは、うそをつかないから好きだ。」
と言います。いつもぼくに、何か珍しいものがあると、わざわざ、届けてくれたり、ぼくのお礼の手紙には、きちんと返事などを下さいます。
 このおじさんが、戦争に行ってきた人だと言うことを母から、ひょいと聞きました。ちょうど、ぼくは、国語で「お母さんの木」という戦争の話を勉強していました。
「お母さんの木」には、七人の息子を次々に戦争に取られ、そのたびにきりの木を植えてその木を育てながら、帰りを待っていたお母さんのことが書かれています。その息子達は、次々に戦死して、たったひとりだけが帰ってきたとき、お母さんはたおれていた。と言うお話です。ぼくは、戦争のことが聞きたくて、さっそくたくさん質問してみました。おじさんは、一つ一つていねいに文章やテープのお話にして応えてくださいました。

おじさんの入隊

 昭和十六年、十二月八日、日本はハワイ真珠湾を奇しゅうしました。そして日本とアメリカ、イギリスの連合国と太平洋戦争が始まりました。
 おじさんは、満二十才で赤紙を受けずに、戦争に行きました。その頃男子は二十才になると、ちょうへい検査を、区役所で受けました。それで甲種合格になると、全員入隊するのです。甲種合格とは、健康で、身長、体重。視力などが、それぞれ基準以上と言うことで、下に乙種、丙種に分かれていました。おじさんは、甲種合格になり、東部六部隊、あざぶ三連隊へ入隊しました。

最初の訓練

 初め初年兵と言って、学校で言うと一年生の各部屋に十二,三名入ります。軍隊の中はきまりがきびしくて、何かというとすぐほっぺたにげんこつでぶんなぐられました。例えば言葉づかいです。上の人に呼ばれたら、「はい○○○○どの。」の「はい。」が小さいとなぐられます。
 また、できるだけかんけつにはなさないとなぐられます。といれにいくのに、「中山、便所に行ってきます。」帰ったら「行ってきました。」というのです。言い方が悪かったり、声が小さくてもなぐられます。ずらっと、横一列にならんで順にひっぱだかれるので、初めの人は痛くても、最後の人は、それほどでもなくなります。なぐる人がつかれてきてしまうからです。
 朝は、六時に起床ラッパで起きます。一分ぐらいで制服をつけて外に出て、すぐ上半身はだかになり、かんぷまさつをします。食事のあとで休む間もなく訓練があります。それらは、敬礼が一ばん最初です。軍隊帽をかぶり、真っ直ぐのしせいで、斑づきの上等兵の号令で、右手を目の横ななめ、ひじをぴんとはって敬礼です。帽子をかぶっていない屋内では、真っ直ぐのしせいからこしを十五度の角に曲げる礼です。
 ぼくは、こんな敬礼の仕方をなぜ決めたのだろうかと思います。それが出来ないとなぜ、ぶんなぐられなくちゃいけないのでしょうか。
 次に、右向け、左向け、前へ進めと歩くこと、それが終わると、鉄砲の打ち方とかです。動作が一分早くても一秒おそくても、斑づきの上等兵または、下士官にすごい勢いでなぐられるのです。手だけでなく、ベルトやくつも使います。
 「痛い。」とか、声を出すとよけいになぐられるので、みんな歯をくいしばってがんばるのでした。歯をしっかりかんでないと、口の中が切れてしまうと榎本先生が、教えてくださいました。
 軍隊と言うところは、本当にきそくずくめだったんだなあとびっくりします。

中国(天津)での出来事

 おじさんが初めに行った所は、中国の天津でした。そこでは、家の人から送られてくるいもん袋が楽しみでした。その中に入っていた、お菓子などを中国の子どもたちに分けてあげたりして喜ばれたりしました。
 おじさんは、二年目で上等兵、また少したって、兵長に、それから伍長にと進級しました。
 中国は、広くて八路軍や馬賊とか匪賊とか、日本の昔の山賊のような人たちの集団がありました。その人達は、定期便のような輸送車をおそって荷物や色々なものをうばっていました。日本軍のトラックが通りかかったとき、ちょうど八路軍は、いつものようにおそったのです。そのトラックには、日本の兵隊が二十人位乗っていて、おじさんの仲良しの四人の戦友も乗っていました。そして、十六人の人といっしょになくなりました。初年兵でいっしょに入った気の合う。大の仲良しでした。
「生きるのも、死ぬのもいっしょだよ。」
とちかった同期の友だちに死なれたことは、おじさんの一生で一番悲しいことでした。ちょうどおじさんは、大隊本部の衛兵要員として、大隊本部へ連絡に行っていたので、きせきてきに助かったのです。
 戦地では、このようにいつも死ととなり合わせでした。その後、部隊は満州に転進しました。そこでおじさんは、憲兵隊に所属しました。憲兵隊は、軍隊の中の警察という役目です。町を守ったり、スパイやきそくをかんりする仕事で、非戦とういんです。つまり、ちょくせつ戦とうには、加わらない役目です。

フィリピンでの出来事

 軍隊は、いつも司令部の命令で、異動します。おじさんは、まもなく南の方に転ぞくするために、船に乗せられ、着いてみると、フィリピンのマニラでした。そこでも憲兵隊司令部に所ぞくしました。戦いは、だんだんはげしくなり、アメリカ軍の攻げきも強く、日本軍は、だんだん山の中に追われて行くようになりました。
 山の中では、つらいことばかりでした。アメーバ赤りにかかり、マラリアで死にそうになったりしました。アメーバー赤りは、川の水を飲むことによってかかる病気です。水がないので、川の水を使い、川上から川下へと次々に病気が広がって、食べ物も、薬もなくみんな「戦病死」していくのでした。
 おじさんも、この病気にかかって動けず、山の中の一けんの小屋でじっとしていました。おじさんは、持っていた「クレオソート」を飲み、あとは飲まず食わずでじっとねていました。
 マラリアとは、蚊にさされて高い熱が出て息苦しくなり、食べ物がのどを通らなくなって、うわごとを言いながら死んでしまう病気です。おじさんは、それほどひどくなく、熱で苦しみながら、
(ぜったいこんな所では死ねない、母さんの所へ帰るんだ。)
と自分に言い聞かせて、
「母さあん。」
とさけんだ時、元気をとりもどしました。マラリアにもアメーバ赤りにも負けず、よごれたままの軍服とズボン、ただ必死で山の中を歩き通しました。草の根を食べたり、トカゲを食べたりしました。
 山の中で、フィリピンにある日本の会社につとめていた人たちと会いました。この人たちも病気や飢えで次々と死んでいきました。
 ある女の人は、夫と子どもをなくし、一人になって生きていてもしかたないから、そのピストルでうって殺してほしいと言いました。この女の人は、けっきょくなくなってしまったのがわかりました。おじさんは、部下に手伝わせて、ていねいにほうむってあげました。
 死んでいった兵隊に出っくわすと、浅く土をほって、その場にねたまま土をかけてほうむりました。家族に知らせるためには、その人の小指だけ焼いて、その骨を小箱に入れ名前といっしょに保かんしました。
 おじさんは、心の底から戦争のこわさ、おろかさを感じて悲しく思いました。

捕りょ

 昭和二十年八月十五日、日本は、アメリカ、イギリス最後にはソ連まで加わった連合国との戦争に負けたのです。このことをおじさんは山の中の憲兵隊司令部で知りました。戦争が終わっても、すぐには日本に帰れず、きょうせいてきにアメリカ軍の捕りょになって、収容所に入れられ働かされました。毎日、作業をやらされて、アメリカ兵にこん棒でなぐられたこともありました。ある日、
「何かやろうよ。」
と言うことになり、おじさんは歌に自信があったので、申し込み用紙に記入して、演芸部に入りました。そして「青春日記」というげきをやりました。
 部隊を作り、着物はメリケン粉のふくろで作り、色は花でそめたり、かつらをあさなわを一本ずつそろえてほぐして作りました。げきを演じると、みんな涙を流してじいっと見つめていました。おじさんは、このげきの歌の作曲をして、主役の妹役をし、歌ったりしました。作詞をした人は、西野さんと言って、荒川区の人でした。この人は、帰国後十二年くらいあめ屋をしていました。ガンという恐ろしい病気でなくなりました。その後、おじさんは、西野さんの三人の娘さんの結婚式に招かれました。その式で三回とも、
「これがお父さんの作詞した歌ですよ。」
と言って歌いました。するといつもおくさんと三人の子どもさんも、涙をポロポロこぼして泣いていました。

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員船の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。

焼けあとの東京

 おじさんは、十三才の時から、お父さんに仕事を教えられ、手に職をつけていました。ガラスのお皿やコップに、もようをきざむカットガラスという仕事です。それが始められるというので、一年ぐらいで一人で東京に出てきました。墨田向島一丁目の家は燃えずに焼け残っていました。その家には、お母さんといっしょには、そかいしなかったお父さんと妹二人が、ずっと住んでいました。おじさんは、お父さんと妹二人と四人でくらし始めたのです。
 東京は焼けて食べ物もなく、ひどい状態でした。焼けあとを掘って鉄くずや、ガラスくずをあつめるもの、食べ残しの食物を拾い集めるもの、子どもたちは、かっぱらいやスリをやったりしていました。
 戦争で親をなくした子どもたちが、上野の山などにわんさといました。めんどうを見てくれる人はいないので、グループを組んで食べるためには、なんでもしたようです。昼は、くつみがき、夜は駅の地下道で寝て、服はよごれ、おふろへ入らないので、かみのけもボサボサ、しらみ(虫)が住みついてしまうのです。
 こんな状態は、ぼくにはそうぞう出きません。住む家もなくて、子どもだけで、毎日、本当にくらせたのだろうかと不思議です。こころぼそくて泣いたり、おなかがすいて泣いたり、けんかもあったと思います。昔の子は、生きていく力がすごいと思いました。
 その後、この子たちは戦災孤児として、いろいろなし設で、りっぱに育てられたのです。

おじさんのうけた教育

 おじさんの小さいころは、
「男の子は、かならず戦争へ行って兵隊になるのだから。」
と、強く正しくと教えられました。また、体をきたえる運動や剣道、柔道などもきびしくしごかれました。
「戦争になったら、喜びいさんで行ける人になれ。」
と、そればかり心がまえを教えられたのです。
 科目は、「算術」「読み方」「修身」「図画」「唱歌」「操行」とかです。男子と女子はいっしょに並びません。男子はいつも女子より上と教えられ、学校でも家でも、男子はとくべつに大事なあつかいを受けました。
 兵隊に行くことになった時、おじさんは、人がいる前ではうれしそうにして、一歩外へ出ると、とたんにがっくりしました。お母さんが、心から喜ぶはずがないと思ったからです。
 今は、あんなところ(軍隊)へ行くのはいやです。これから若い人にはぜったいに戦争には参加してほしくありません。このことを忘れずに、とおじさんは強く言っておりました。   

ぼくの思うこと

「赤紙」を見せてもらいました。おじさんは、赤紙が来て戦争に行ったのではありません。手元に持っていたものです。ぼくには、むずかしくて全部は読めませんが、「臨じ召集令状」と書いてありました。次の所には、名前を書く所、とう着地、召集部隊。うらには、びっしりと注意や心得、しょち、刑罰などが書いてあります。これをもらうと、どんな人も軍隊に入らなければなりません。乙種合格の人にも、年の多い人にも、戦争がひどくなると、ほとんどの家々に赤紙が来ました。「学徒出陣」と言って学生さんも、みんな戦争に行きました。
「兵隊に行くと言うことは、死ぬことだ。」
とみんなかくごしていたそうです。そうすると、死ぬことをしょう知して、みんな、りっぱに出かけたと言うことですから、ここのところは、こわいと思います。
 また、そのように小さいときから訓練されたと言うのも、ひどいことだと思います。
 おじさんのように戦地に行って、生きて帰ってきた人は、本当に少ないのです。フィリピンから帰った人は、特に少ないそうです。
 ある人は、ジャングルの中で戦病死、またばくげきでひとかたまりに吹き飛んで、また船が沈んで海の底で、そして、飛行機といっしょにつっこんだりして、みんななくなりました。
「お国のため」とか「天皇へい下バンザイ」と言って死ぬ人もいましたが、ほとんどの人は「お母さん。」と言って死んでいったのです。ぼくはやっぱりもうだめかなと思っても、最後まで生命をそまつにしないで、れいせいに行動する人になりたいです。
 実際に戦地に行ってきたおじさんから聞いたこの戦争の話は、とつげきとか、鉄砲や飛行機で戦うような場面ではありませんでした。でも、じゅう分、戦争のこわさ、むなしさ、悲しさを伝えてくれました。ぼくは、戦争はひどいな、やってはいけないな、悲しいことだなあと、心の底から思います。
 なぜ戦争が起こるのか。どうして国と国が戦う所まで行ってしまうのか、今のぼくにはわかりません。
 ぼくは、これからいろいろ勉強して、何が正しいかを知ったり、日本の国の憲法なども、しっかり学んでいきたいと思います。平和の大事さ、ありがたさをわすれないようにしたいと思います。
 おじさんは、戦争体験を今までは、他の人に話したがらなかったそうです。でも、ぼくに、よくわかるように、正直に話してくださいました。生きるために、フィリピンの人の水牛をつかまえて、殺して食べたり、そのことでフィリピンの人々に、おじさんが捕虜になって、車で収容される時、
「カラパオ、パタイ(水牛を殺した)」
と言って、石を雨のように投げられたりしました。
 また、捕りょで作業の時、アメリカ軍のいもん袋から、お菓子をぬいて食べました。
「こんなことは、しちゃ行けないんだよ。本当はね。」
と言いながら話してくださいました。
(ずいぶん、苦労したんだなあ。)
とぼくは、つくづく思いました。
(でも、生きて帰ってきて、よかったね。おじさん。)
と何度も心の中で言いました。 一九八五年 三月作

 今から26年前にできあがった作品である。当時原博さんにもお会いし、86才になられたお母さんにもお会いできた。お母さんはクリスチャンで、この作文を読み感動し、「親子の対面のことをまざまざと思い出しました。」と語ってくれた。うれしくて、クリスチャン仲間の所にこの作品を持っていき、昔の話を思い出しながら「戦争は、二度としてはいけない。」と訴えたと話してくれた。

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