子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

作品5. ぼくの小学校時代

ぼくの小学校時代

二〇〇五.二.十(木)
 ぼくは、1951年に小学校に入学している。埼玉県与野町立与野第1小学校という学校で、児童数が2000人くらいいたのではないかと記憶している。自宅から歩いて、30分くらいかかるところに学校があった。

父親がいない子

 ぼくの学年は、きょくたんに子どもの数が少なかった。それは、太平洋戦争で、父親がほとんど兵隊に取られて、外国に戦争に行っていた。そのために、かぞくは、母親とその前に生まれた子供はいたが、1945年生まれは、本当に少なかった。それが生まれたと言うことは、父親が外地にいないで、内地の日本にいたと言うことであった。様々な理由があったのであろうが、父親は、軍需工場で働いていた。したがって、小学校に入学して、クラスの中に50人中10人近くは、父親が戦争でなくなった友達がいた。ぼくのうちも貧しかったが、周りの友達は、みんな貧しかった。

仲良しの信ちゃん

 ぼくの家に、仲良しの「信ちゃん」という友達がいた。そのこの家も父親がいなく、5人兄弟の末っ子だった。その子は、鼻の下がいつも黒かったが、なぜなのかがしばらく立って、すぐにわかった。それは、ちり紙がなかったので、新聞紙で鼻をかんでいたのである。したがって、鼻の下が、新聞の印刷の黒い印刷の字がつき、いつも黒かったのである。
 ぼくは、この信ちゃんといつも一緒に学校へ行った。学校に行く途中は、田んぼがまだたくさんあった。かえるや、ザリガニなどがたくさんいた。したがって、学校の帰りは、いつもしんちゃんと一緒になると、田んぼや川で道草を作って楽しんだ。30分くらいで家に着くのだが、1時間以上かけて、かえることは、けっこうあった。誘拐だ、交通事故だと言うことは、ほとんど心配なかったので、家の人も心配していなかった。のどかな自然の中で、楽しんでいた。家に帰れば、かばんをすぐに放り投げて、外に遊びに出かけた。空き地や広場が結構残っており、三角野球、すもう、缶けり、かくれんぼ、おにごっこ、ベイゴマ、メンコ、たこ揚げ、ビー玉と何でも楽しんで遊んだ。そういう空き地に行けば、友達がすぐに集まってきて、その場で、何をするかを決めて、夜暗くなるまで遊んでいた。

落とし穴作り

 良く楽しんだ遊びの1つに、落とし穴作りというのがあった。自分の家の小さな庭に、友達何人かとスコップで穴をほる。作り方は、穴を掘ったら、細い小枝を拾ってきて、穴の上を、おおう。そのあと、新聞紙をその上にしき、まわりを石で押さえる。最後に静かに土をかけておしまいだ。誰を落とすか相談をして、その友達を連れてくる。「幅跳びをしよう。」と誰かが言い出し、とんだ先に落とし穴がちょうど来るようにしておく。うまく落ちたときは、みんなでおおさわぎして、大笑いする。落とされた方も、一緒になって、笑い転げることが多かった。しかし、泣き虫の子などを落とすと、大変だ。その子が家に帰って、「豊ちゃんが、落とし穴を作って落とした。」と母親に告げる。その親が時には、怒鳴り込んだりしに来た。ぼくら遊び仲間は、そういう子どもとは、絶対に遊ぶのをさけるようにした。

ガキ大将

 遊びは、たてけい列で、一番上が6年生で、下が1年生と幅があった。「みそっかす」と言って、1年生くらいの小さな子は、何かして遊んでいてダメになっても、鬼にしない約束などができていた。そんなふうにして、5~10人くらいの子どもが、広場などに集まってきて、遊びを楽しんだものだった。ぼくは、そういう中で、「ガキ大将」だった。ガキ大将とは、みんなを楽しませるリーダーみたいなものだ。他の友達も、ガキ大将には、一目置いてくれた。

車がめずらしかった

 何しろ、戦争に負けて、食べる物もそんなにぜいたくに食べる時代ではなかった。自分の家だけでなく、みんな貧しかったのである。でも、みんなで、外で元気に遊ぶことだけは、みんな天才であった。ろじうらと言って、細い道は、子供らの遊び場であった。車などと言うものも、ほとんどは知っていなかった。乗り物は、馬車が荷物を運ぶのも残っていた。馬以外に、牛も荷物を運ぶこともあった。馬や牛が、道路のすみで一休みしていることもいつでも見られた。

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