子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

作品14.生まれた頃からの悩み

作品14.生まれた頃からの悩み

手術してから十年  墨田区立柳島小 六年

 私は二才の時に手術をしたのです。そのため足のバネが弱くなり、走るのもおそいし、跳び箱もほとんど跳べないのです。これが私の悩みです。
 私が生まれる前、母は、
(どんな子が生まれるかしら。)
と、初めて子どもが生まれdてくるのを楽しみにしていました。私は昭和五十三年十一月十二日墨東病院で生まれたのです。けれども、
「この子は足が悪いですね。」
と生まれてすぐに言われたのです。病名は先天性内反足というもので、両足がものすごく内側に曲がっていたのです。母は夢にも足が悪い子など生まれると思ってみなかったので、すごく悩んで悲しんだのです。母は、
(自分は悪い薬なども飲んだ覚えもないのに、どうして私の子が生まれたのか。)
と、すごく考え込んでよく泣いたのです。
 生まれて三日目には、同じ墨東病院の中にある整形外科に行きました。そのときは、まだ私には名前がついていなかったので、診察券にはUべービーと書いてありました。整形外科の曽我先生に診察してもらい、マッサージをすることになりました。
 リハビリの部屋に行き、泣いているところを押さえつけて足を外側に曲げると、私の顔やくちびるが赤を通り越して紫色になるまで続けて声が出なくなると休むと言うことを何回送り返したので、そのとき一緒にいた父は見ていただけで気持ちが悪くなってしまいました。母はそばにいるだけで何もしてやれず、涙をこらえることができずぼろぼろ泣いていたのです。私は、
(お母さんはとてもつらくて泣いてしまったのだ。)
と思いました。入院している間は、そのマッサージを続け、十日目に退院するときには、足にお湯でとけるギブスをしていました。退院したと言っても、一日おきに病院へ通わなくてはいけないので、実家に帰ることもできず、母の実家の祖母に来てもらいました。病院へ行く前にお湯でギブスをとかしから取り、お風呂に入れました。病院に行くと、またあのマッサージをしてギブスをつけて帰るというのを一日おきに続けました。ギブスをつけた足は重いので、足の下にざぶとんを置いて寝ていたのです。写真にはこういう風景が何枚かあり、このざぶとんがなぜあったか初めて知りました。
 一ヶ月を過ぎた頃、肩からつるすきょうせい具を作って、やっとギブスをしないですむようになったので、病院へ行くのも二週間に一回になりました。
 一才のお誕生日には、内またながら二,三歩歩けるようになりました。父や母は、私が歩いたときとても喜んだでしょう。外に行く時は、家の中ようのきょうせい用具をつけ、その上にくつを二重にはいて、外を歩いていました。その頃、父が知り合いの人から人工革をもらってきて、母がそれできょうせい具の上からはけるくつしたを作ってくれたので、いつもそれをはいていたのです。
 二才の誕生日が過ぎて、曽我先生に、
「あまりきょうせい具の効果がないので、やっぱり手術をした方が良いでしょう。」
と言われました。そのとき、母は、
(内まただけど、何とか歩けるようになったのだから、手術しないですむものならやりたくない。女の子だからあとできずが残って悩んだらかわいそうだし、手術しないで足が今以上に悪くなったら困るし・・・・。)
と色々悩んで、父や祖父母などと相談して、結局手術することに決めたのでした。
 お正月が過ぎた一月の十七日に入院して、一月の二十日に手術することになったのです。入院していろいろな検査をしていよいよ明日手術という夜になって、私が急に具合が悪くなり、夜中に何回ももどしてしまったのです。
 次の日の朝、先生の診察を受けて、結局手術は中止になり、家に帰ったのです。
 三月になり、先生から
「今度は大部屋ではなく、個室に入院して手術にそなえましょう。」
と言われ、三月二十四日に入院しました。
 今度は、無事手術の日を迎えました。眠くなる薬をいやがって飲まなかったので、ギャーギャー泣きながら母から、引き離されて手術室に入って行きました。手術は六時間くらいかかり、帰ってきたときはマスイが切れてギャーギャー泣いて点滴もできない位でした。母にだかれてやっと泣き止んで寝たのでした。
 五日目にギブスをしたまま退院しました。ギブスをつけたまま家の中をはって歩いたので、たたみはぼろぼろになり、ギブをずい分すりへりました。また中がかゆくて、はしでギブスの中の足をかいたのを覚えています。
 一ヶ月半くらいして、ギブスをはずすとき、いつもの先生じゃなかったのでで、泣いてあばれたのです。ギブスを切るときに、足を切られ、今でも切られたあとが黒く残っています。
 手術が終わり、外を歩くきょうせいぐつを作っていつもそれをはいていました。それは皮でできた赤いくつで、普通のくつより重かったのを記憶しています。両親は、
(幼稚園に入る頃には、普通のくつをはけるようになるといいなあ。)
と思って、夜寝たあとで病院で教わったマッサージをよくしてくれたのです。そのおかげかどうかわかりませんが、幼稚園に入る年には、普通の運動ぐつをはいてもいいという許可が出ました。
(やっと普通の子と同じくつがはけると、父も母も喜んだんじゃないのかな。)
 でも、夜寝るときには、まだきょうせい具をつけていました。
 幼稚園、学校では、いつもかけっこは最後の方でした。病院の曽我先生には、
「運動以外のことでがんばればいいんだよ。」
と言われました。
 手術してから十年がたち、私は六年生になり、最初は跳び箱が跳べなかったけど、友達にはげまされたりして、六段の跳び箱が跳べるようになりました。
 今回この作文は、榎本先生に勧められて、母に話を聞いて書き上げることができました。初め話を母に聞こうとしましたが、なかなか話してくれませんでした。
 最後に話してくれたときは、話をしながら泣いていました。
「本当は、もっと大きくなって、母親になる頃、話すつもりだったんだよ。」
と言いました。
 私は、父や母たちが色々苦労して育てられたんだというのがよくわかりました。とてもつらいことをよく話してくれたなあと思いました。 1991年年刊文詩集

よくぞ語ってくれたおかあさんに感謝

 あれから22年たった。もうこの子も、立派なお母さんになっているかもしれない。今回、理論研究会の仲間である日色さんが、年刊児童生徒文詩集を1960年代の頃から今までの作品を、分析中である。その中で、この作品を取り上げて、優れた作品とご指摘いただいた。今回あらためて読んでみたが、語り手と書き手が真剣に向き合って完成した作品であることを、今になっても新鮮に伝わってくる。

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