子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

卒業文集の参考作品

卒業文集の参考作品

アトピー性皮膚炎の辛さ 6年男子

幼い時のアトピー

 ぼくがアトピーになった理由は、今だに分からない。しかし、一才か生後何ヵ月かで、自分の体をかいていたらしい。そのせいで、体が血で真っ赤になっていた。それに、うみが全身に出ていた。母は、ぼくのアトピーのせいで仕事を休んだ。休み続けたせいか、だんだん給料が下がっていった。後に首となる結果だった。しかも、ぼくには特殊な癖があった。なんと、かゆいせいか、点滴の注射を抜いてしまうのだ。それで、母は看護婦を呼んできて、点滴を付け直してもらった。それを夜、何度も何度もくり返した。そのせいで、母と看護婦は寝ずの番となってしまったのだ。その事は、よく覚えていて、なぜか頭の中にしまわれている。

病院の先生

 ぼくのアトピーは時には悪くなり、時には良くなっていた。ぼくは色々な病院に行った。中で一番心に残っているのは、同愛記念病院だ。ぼくは小さいころから行っているため、少しばかり友達になった人もいた。担当している先生はいつも同じだった。しかし、いつからか違う病院に転院してしまった。それからか、あまり良い先生に出会わなくなっていた。

大好物が食べられない

 たしか三・四年生の時の事だった。母はどこからか分からないが、ステロイドを使わない病院を見つけてきた。ぼくと母は、次の日曜日に行くことにした。行ってみると病院らしきものは見当たらなかった。だから、手当たり次第に進んでいくと、なんとか見つかった。そこはまさに小屋というほどの大きさだった。患者の人数はだいたい四・五人で、給料はもうかるのか気になった。ぼくの番がきた。とことこと歩いて、先生の目の前に座った。その先生の名前はマユミ先生といって、おじいさん先生だった。思っていたよりもやさしかった。診察が終わって薬を出してもらった。その薬の中には、ぼくのアトピーがひどいせいか、ステロイドがあった。
(ぼくの皮膚は、それほどまでにひどいのか。)
とがっかりした。マユミ先生は他に、ある一言を残してくれた。それは、
「食品はカタカナ文字をひかえてください。」
ということだった。カタカナ食品とは、漢字で書けない食べ物だ。例えばチョコレートやクッキーなどだ。ぼくは、それが出来なかった。なぜなら、ぼくの好物にカタカナ文字がいっぱいあったからだ。なのでマュミ先生の忠告は、無駄に終わってしまった、ということになる。その他の病院にも行ったが、たいした効き目は無かった。

アトピーはトラウマ

 このアトピーは、今だにぼくの体に付いている。それにこのアトピーは、悪口の素材となっている。一番言われている悪口の中で、ベストⅡがぼくの体に関する事だ。それは「ボツボツ」だ。ひどい言葉なので、無視しようとしているが、気になってしまう。それと、ぼくの生活にはずかしい事がある。それは、睡眠の時だ。クラスでただ一人知っている人がいるが、口止めはしている。それは言う決心がつかない。ぼくにとって、アトピーとはトラウマとも言える。

これから・・・

 これからアトピーを治そうと思うと、大人になるまで治らないかもしれない。アトピーを治すには、家での食品が大切だという。これから治しにはいるのは、至難の技だ。ぼくはこの体であることを、認めなければいけない。今はつらい。しかし、いつかアトピーと、おさらばして、楽な生活になる。
この十二年間、母と二人で、苦労しながら、歩んできた。これからも、アトピーにも負けずに、元気に生きていきたい。

養護施設にいた日 6年 男子

 ぼくは、三才から四才まで養護施設(ヨゼフホーム)に姉といっしょにいました。その時のぼくは、緊張していました。先生たちはやさしそうでした。でも、お母さんが心配で、泣きそうになりました。そこにはいろんな人がいました。
(仲良くなれるかな。)
と不安でした。先生たちが部屋を案内してくれました。一番最初に会った友達は、元気君でした。
 ぼくと元気くんは、外の砂場で遊んでいると、姉が来て一緒に砂遊びをしました。先生は、
「おやつだよ。」
と優しそうに言いました。ぼくは、手を洗っておやつにしました。おやつを食べていると、母のことが心配でした。
(お母さんだいじょうぶかな)
と心配でした。でも、母はお仕事で大変だと思いました。その夜ぼくは母のことでいっぱいでした。

母が来た日

 その日の朝、母から一本の電話があった。先生が受話器を取って話していました。先生が、
「もしもし。」
と言いました。母が、
「フユの母ですけど。」
と言いました。先生が、
「お母さんだよ。」
といいました。ぼくが、
「もしもし。」
と泣きそうな声でいいました。
母が、
「きょうあいに行くから。」
といいました。
ぼくが先生に、
「きょう会いにくるって。」
と喜んで言いました。先生にかわりました。先生が電話を切ってぼくにいいました。次の日に、母はぼくたちに会いに来てくれました。その日は、一泊留まってくれました。
 次の日に、ぼくと姉は、母といっしょに、今住んでいる家にもどりました。ぼくも、姉もとてもうれしそうにして、三人の生活にもどりました。今から、八年くらい前の、ぼくが四才くらいのころのことでした。

親子三人の暮らし

 ぼくが四才で、姉は六才になっていました。母は、そのころから、仕事をしていました。そのころから、母は、夜お仕事に出かけて行きました。母は、仕事で忙しくて、夕食の用意だけはしてくれました。冷蔵庫に食べるものは入れておいてくれました。母が出かけた後、僕と姉の二人で、夕食を食べました。施設にいるときは、母がいないので、大勢友達と一緒に食事でした。でも、たった二人で食べる夕飯だけど、僕たちにとっては、楽しい生活でした。母が帰ってくるのは、次の日の朝でした。でも、夜おそく帰って来るかもしれないと思って、二人で起きて待っていることもありました。でも帰ってくることは、ほとんどありませんでした。僕たちは、眠くなって、ふとんに入って眠ってしまいました。ある時などは、眠い目をこすりながら、夜中の二時、三時まで起きて待っていることもありました。次の日、学校へ行くこともなかったので、そんなおそくまで起きていることもできました。

姉のけやき小学校入学

 姉が、小学校入学して、今の家から通っても、家にぼく一人になってしまうので、また、ヨゼフホームにもどりました。ぼくは、ヨゼフホームに、一人でした。姉は、けやき小学校に、入学しました。姉が学校へ行っているときは、ぼくと先生で、遊んだり、勉強をしていました。だから、さびしい思いは、しませんでした。 そこでの暮らしは、三年生まで続きました。母は、月に一~回会いに来てくれました。来てくれたときは、すごくうれしかったです。しかし、来ても、だいたい、その日に帰ってしまいました。帰るときは、ぼくも姉もさびしくて泣いてしまいました。すると、母は、「また、来るからね。」
といって、タクシーで帰ってしまいました。その時が、一番悲しいときでした。

ふたたび親子三人暮らし

 ぼくが、小学校三年生の終わりに、しせつの先生が、母と話し合って、親子三人で暮らすことになりました。その話を聞いた時は、うれしくて姉といっしょにだき合って喜び合いました。やがて、今住んでいるところに、ふたたびもどってきました。姉が六年生で、ぼくが四年生の時でした。

小さいころの思い出 6年 女 子

中国から日本へ

 私達が産まれる前、母が一人で留学しました。
母は日本の筑波大学に入り、そのまま日本に移住することにしました。そこで、同じく中国から来た親せきの方や、中国語が話せる大学の友達と仲良くなりました。母はまず兄の来往を産み、一年半後に私達を産みました。

中国での生活

 母一人では、四人の小さい子供をいっぺんに育てることは難しく、何週間も眠れない日が続きました。そこで、中国の南京にいる祖父と祖母に、私達三人を二年間預けることにしました。
 中国での生活は毎日が楽しく、毎日の会話が中国語でした。中国から日本の江東区にいる母と来往に写真や手紙を送って、成長を伝えていました。そのことを祖父と祖母に聞いてみると、
「大変だったわよ。二人だったから良かったものの。夜、笑南が泣いて、泣きやんだと思ったら、笑西が泣きはじめてね。また泣きやんだと思えば、笑北が泣き始めてね・・・。」
としみじみと語っていました。

中国から日本へ、保育園での生活

 三才の初めの頃、母から、
「もう、日本で育てられますよ。」
という一本の電話がかかってきました。私達は喜ぶどころか、がっかりしていました。
(ここでの生活も楽しいのに、なぜ、行ったこともない日本に行かなくてはいけないのかな。)
と私は思いました。
 そのまま飛行機で、日本に行くことになりました。日本に着き、日本語の分からないまま、墨田区の水神保育園に通いました。保育園での生活は、日本語が分からなくて苦しいけど、楽しいものでした。母は朝(八時ごろ)に仕事へいくので、保育園の送りむかえは祖母と祖父がしてくれました。兄は隣の白ひげ保育園に入りましたが、人数の関係で、私達は水神保育園に入ったのです。
 日本語が分からなかったので、会話するのも苦労しました。それに、私達は三才でもろくに椅子に座ることができなかったので、給食の時間も大変でした。他の子に、
「それ、だめだよ。」
「間違ってるよ。」
と言われていました。でも、日本語がわからなかったので、
(この子たちは一体、何を話しているのだろう。)       と思い続けるばかりでした。保育園の先生に、
「こうやるのよ。」
といって、実際に手や足を動かしてもらわなくては分かりませんでした。      

小学校へ入学

 私の住んでいる都営アパートは普通、梅若小学校へ行きます。でも、私達は堤小学校に行きました。母が、
(この子たちは体が弱いから、緑が多い堤小学校の方がいいんじゃないかしら。)
と思ったからです。
 堤小学校への入学式は、とてもドキドキしました。不安な気持ちもありましたが、
(どんな事をするのかな。)
と第一に思いました。

小学校での生活

 私たちは日本語教室へ通いました。算数の授業での数字(一、二、三・・・)は中国でも共通なので、なんとか理解はできました。でも、文章題は全然理解できませんでした。
 算数よりも国語の方が大変でした。「丸読み」(一文一文「。」で区切り、交代していく読み方)になると、少ししか読めませんでした。それでも日本語教室に通い続けたおかげか、二、三、四、五年の時は日本語ができるようになりました。

日本語学級で学んだこと

 日本語学級では、色々な事を学びました。一つは、日本語の面白さです。日本語は発音が難しく、『しゃ、しゅ、しょ』の区別がつきません。それに、中国語と比べたら言いにくいので、なまりがとても大変でした。友達に
「言い方、おかしいね。」
と言われてばっかりでした。とても悔しく感じることもあり、苦しかったです。でも、うまくなっていくにつれ、日本語が面白く感じられるようになりました。

六年生になって

 今、思えば、堤小学校での六年間は、とても早いものでした。六年間を通して、努力をする大切さや乗り越える素晴らしさを、学ぶことができました。友達も沢山できました。自分で言うのもおかしいですが、私はとても苦労しました。日本語も、平仮名もカタカナもわからないところから始め、このように日本語で文章が書けたのがとてもうれしいです。将来は国際関係の、通訳のような仕事をしたいです。中国語が話せるのを利用して、将来にも役立てたいです。
 改めて思い返してみると、昔はなぜあんなことができなかったのだろう、と言うことが沢山あります。ただ、素敵なことを色々学び、六年間過ごしてきました。私は日本に来て、堤小に入学してきて正解でした。この六年間の生活を忘れずに、卒業していきます。 

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