卒業生へのメッセージ
卒業生へのメッセージ
苦あれば、楽あり 2005年度
誰でも、苦しいことに出会うと、本当にもがき悩み「どん底に落ち込んだ」と思いこむことがある。その時は、必死になんとかしたいと考える。長い人生をこれから歩んでいくが、おそらくたくさんのいやなことに出会う。どうして良いのかわからなくなってしまうこともあるにちがいない。これを「挫折」を味わうというのだろう。しかし、その苦しみを避けて通ってしまったら、本当の喜びを知らないまま終わってしまう。「挫折」を乗り越えて、解決の方向が見えてきたときに、喜びは、大きく広がる。さらに人間は、一回り大きく成長していく。
「苦しみ」をこの世から取り去ったら・・・・。楽しみも、一緒に姿を消すだろう。喜びや楽しみすべては、苦しいことにくらべてあるのだから、苦しい世界が一番楽しいのだ。みなさん、楽しいことばかり続いたら、どうなるだろうか。おそらく、楽しいと感じることもできなくなるだろう。おいしいものをたくさん食べていたら、そのおいしさを感じなくなるだろう。感じなくなる前に、あきてしまう。だから、たくさんの苦しみを乗り越えていくことこそ、喜びが倍増していくのだ。
人生八十年、九十年の時代だ。まだ、始まったばかりの人生だ。その人生を、豊かに、思い出多きものにできるのは、いやなことに出会ったら、正面から向き合って、「解決」しようと努力することだ。「挫折」を味わっても構わない。大事なことは、そこに行くまでの過程である。苦しみが多いほど、そのあとの喜びは、大きなものになる。
ぼくも、君らと同じに、一つの節目の年を迎える。この六十年間、喜びあり、苦しみありの「思い出多き」月日を重ねてきた。これからの人生も、その連続になるであろうと、期待もしている。
「夢は君らの宝物」心が冷えたら、遇いにいこう。
夢は君らの宝物 2007年度
映画「三丁目の夕日」の時代は、一九五五~六五年頃の話しである。日本が太平洋戦争に負け、兵隊に行っていた男の人たちが日本に戻り、やがて結婚する。生まれた子どもたちが、小学生を迎える頃の時代の話だ。その子どもたちは、今、五〇~六〇代の大人になっている。皆さんのお祖父さん、お祖母さんも、その中にいる人もいるかもしれない。実は、僕もその時代の子どもだ。
街頭テレビに群がって、小さな画面に、二~三百人の人々の目が注がれていた。力道山の空手チョップに拍手喝采をしながら見ていた。家に帰れば、暗い電球の下で、一家が集まり、粗末な食事だが、笑顔で肩を寄せ合い食べていた。
映画の中にも出てくるように、子どもも大人もみんな貧しかった。貧しかったけれど、人々は、夢と希望を持って、愉快に楽しく生きていた。困った人がいれば、みんなが一緒になって心配する時代でもあった。
心が冷えたら、共に過ごしたこの仲間のことを思い出そう。夢を持ち続けて、生きていって欲しい。元気で、楽しい宮坂学級の皆さんありがとう。
君らと過ごした四年間 2009年度
堤小に転勤してきたのは、君らが三年生の時だった。少人数の算数の担当で、そのときの担任は、宮坂先生だった。やがて、日記帳を持たせ、宮坂先生と一緒に、君らの文章を読ませてもらうことになった。時々「作文」の授業もさせてもらった。「五感(五官)を生き生きと働かせたことを思い出して書こう!」「 文章を生き生きと書かせる六つの大事なこと!」君らは、真心込めて、書いてくれた。「何でこんなめんどくさいことやるの?」などと、思った人もいたに違いない。あれから四年間、卒業文集も、お手伝いさせていただいた。文章を書くことは、心を豊かにさせる。日々人間は、様々のことに出会い暮らしている。心躍らせる、うれしいこと、友だちに馬鹿にされ、腹が立つほど悔しい思いをしたこと、様々な感動と巡り会っている。それをしっかり刻み込んでおくには、日記に書き込んでおくことである。やがてそれらの日記帳を、大事に保存しておくと、十年、二十年後宝物になる。
夢は君らの宝物 2010年度
ベーゴマ・たこ揚げ・竹馬・ビー玉・めんこ・剣玉・かんけりなどという遊びが、ぼくが子どもの頃の遊びの中心であった。この遊びは、ぼくが産まれる前からずっと続いていた遊びであった。その特徴は、みんな集団で楽しむ遊びであった。学校が終わると、宿題を後回しにして、近所の仲間を募って、夕方薄暗くなるまで夢中で楽しんだ。途中で、「かみしばいや」さんが来た。水飴や昆布をしゃぶりながら、紙芝居を楽しんだ。あの頃、テレビは誰のうちにもなかった。ラジオが娯楽の中心であった。「怪人二十面相」や「赤銅鈴之助」や「1丁目一番地」などに耳を傾けた。お風呂がある家は、ほとんどなかった。だから、家族でお風呂屋などに行った。帰りに夜空を見ると、「天の川」がはっきり見えるほど、星が散りばめられていた。やがてテレビが、町の広場に置かれ、一台のテレビにむかって、何百人の人々が群がった。街頭テレビである。力道山が、空手チョップで外人レスラーを倒すと大きな歓声がどよめいた。小学生のぼくも、大人たちの群れの中に入って一緒に見ていた。やがて家庭の中に、洗濯機・掃除機・冷蔵庫が「三種の神器」として、入ってきた。まだぼくのうちにはテレビは、なかったので、近所のテレビのあるうちに見に行った。もちろん電話もなかった。今の世の中に比べたら、すべて便利なものはなかった。鉛筆削りは、「肥後の守」というナイフでけずった。ぼくの家も貧しかったが、誰の家も、みんな貧乏な家が多かった。でも、大人も子どももみんな明るかった。日本が戦争に負け、十年くらい経っていた。戦争で父親が戦死していない友だちが、クラスに何人かいた。でも、みんな「平和」のありがたさを肌で感じて、暮らしていた。「昨日よりも今日を」幸せにして生きていこうと、みんな大きな夢を持っていた。子どもの夢は、「プロ野球選手」が多かった。あれから五十年以上経った。夢は、いつも大きいほどいい。元気で未来に輝け!