子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

国分ヒロ子さんへ

国分ヒロ子さんへ

くやしいよ、ヒロ子さん    

 あれは、いつの日のことであったのだろうか? 墨田区立隅田第二小学校に勤めて、つづり方教育に邁進している教師がいることを知った。同僚の先輩に、永易実という先輩教師がおられた。ぼくは、教師二年目で、日本作文の会の全国大会の宿泊係をしていた。やがて、『きのうよりも、よい教師に』という本を手に取り、あなたの名前をはじめて知ることになる。一九七一年の年であった。まだ、教師三年目の年であった。ぼくより一年後輩のあなたが、共著とはいえ単行本を書いておられたのである。以来あなたには、いつもあこがれていたのである。
 やがて、国分一太郎先生の所におじゃまするようになると、そこであなたの存在を知ることになった。その傍らには、いつも髪の毛を長々と伸ばしておられた、永易実さんがおられた。その会が、綴り方理論研究会と言う研究会であった。ぼくもあなたも二十代の若さであった。その会には、十人前後のメンバーが参加していた。永易さんやあなたの一枚文集の合本を見るたびに、ぼくにもこんな文集ができたらいいなあと感じていた。あれから十三年、国分先生が亡くなられる前の年までの、一九八四年十二月まで国分先生のお宅での会は続いた。あなたの師であった永易実さんが次の年に、国分先生を追うように、亡くなられた。最初の連絡はあなたからであった。第一声のあとあなたの声は、すぐにしゃくり上げるようになり、聞き取れないほどになってしまった。それほどまで、悲しい知らせであった。
 やがて、先生が亡くなられたあと、乙部武志先生の所に研究会が移ったあとも、いつも会の中心のメンバーであった。やがて、国分先生の息子さんの真一さんと、愛を育まられて結婚をされた。僕ら理論研究会のメンバーは、その結婚式にご招待を受けた。ぼくはその席で、国分一太郎先生のお祝いの言葉をテープに流した。私の結婚式で仲人を務めてくれた先生が、真心込めて私に贈ってくれた言葉であった。
 真一さんは、結婚される前から今に至るまで、不当な解雇闘争に日夜心も体も砕いて闘い続けている。夫である真一さんの職場復帰を願いながら、厳しい闘いの大きな支援者の一人だった。真一さんにとっては、どんなに厳しい攻撃があっても、あなたの大きな支えがあったから、安心して二人三脚で歩んでこられた。あなたは、真一さんが闘っておられることは、あまりお話にならなかった。何も支援できないのだが、真一さんから届く闘争の記録を読むたびに、頭が下がる。真一さんには、本当にきつい闘いだが、粘り強く最後の勝利まで、闘って欲しいと願っている。それにしても、息の長い闘争だが、真一さんの真摯な姿勢に、いつもいつも敬服している。
 そんな中でもお二人の生活は、いつも幸せな家庭を築かれておられた。五年くらい前になるでしょうか。夏休みに沖縄の最南端の八重山列島を真一さんと旅した話しを、アルバムを持ってこられてとてもうれしそうに話されていたのが、昨日のことのように感じる。
「榎本さんのような実践は、本当にすばらしい。」といつも、激励の話しをしてくださり、大きな励みになった。あれから十八年、あなたの訃報を聞き信じられないほどのショックであった。病気などしたこともないあなただったから、早々と去っていってしまったことが、くやしくてならない。
 今年の四月の十一日に、山形県東根市で行われた国分一太郎資料展の開館に参加した。資料館には、あなたの若かりし頃の姿が、国分先生を囲むようにして写っていた。ヒロ子さんの笑顔が、一番光り輝いていた。ぼくもその写真のすみで並ばせていただいた。一太郎先生が亡くなられて、19年も経っていた。一番喜んでおられたのは、真一さんや正三郎さんであったにちがいない。その真一さんの横にあなたが座っておられないことが、残念でならないし、くやしくてならない。「安らかにお眠りください。」という言葉を、言う心境ではない。もっと、もっと、一緒につづり方教育の勉強会を一緒にしたかった。くやしいよ、ヒロ子さん。

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