忘れえぬ思い出の詩・その1
忘れえぬ思い出の詩・その1
忘れられない詩を書いた子供達 十月二十八日(日)
原 爆 豊島区立池袋第三小学校 五年 女子
原爆のけむりは、
人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
「本当に、悪かった。」
と言っているんだ。
でも、広島の人のくやしさは、
今でも消えない。
きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
一人残された子どもは、
きっと、戦争をとめるだろう。
その時の気持ちがわかるなあ。
きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
一九七0年 十月三十一日発行 一枚文集 「太陽の子二十三号」より
教師になって二年目の夏、隣のクラスの担任0教師に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。その大会に参加することによって、日本全国には、個性のある様々な教師がいることを知る。子供達に感動のある本を読み聞かせして、それを詩に表現している教師の実践に大変感動して、自分も実践してみようと試みた。
その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、心洗われる思いで一気に読み終えた。その中の作品で、当時の子供達の書いた原爆投下後に書かれた作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。彼女は、小さいときに交通事故に遭われ、大変大きな傷を受けたと言うことを、最初の家庭訪問の時に説明を受けた。そんな彼女であったが、作文や詩を表現するのが人一倍優れた子であった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて印刷した。
ガリ版なんて言っても、知っている人はかなり少なくなってしまった。ロウ原紙と言って、その用紙のロウを鉄筆で削って字をカリカリと書いていくものである。それを印刷機にかけて刷っていくのである。その印刷機も、手刷りで一枚一枚刷っていくのである。輪転機と言って、回転式の印刷機も今や姿を消してしまったが、まだそんな機械もなかった頃である。コピー等という機械もなかった。
子供達に詩や日記や作文を印刷して、それをみんなで読み合うと、みんな喜んでじっくりみんなの文を鑑賞した。それをやると、次の機会になると、文章表現力がどんどん伸びていくことがわかった。わたしが、子どもと取り組み始めた最初の文集が、「太陽の子」と言う文集である。今でも、時々懐かしくなると、開いてながめることがある。閉じたわら半紙の色も、だいぶ色あせてしまい、鉄筆で書いた字も薄くなって読みずらくなってしまったページもあるが、私にとっては、他の文集とともに宝物の一つになっている。その文集の一番最初のページには、担任の私のことを詩に書いてもらった。
○○先生 豊島区立池袋第三小学校 五年 女子
○○先生が、作文や班日記を読んでひひょうを書いているとき
先生の顔、とってもおもしろい。
おこったような、しかめっつらしてみたり、
ニカニカわらいだしたり、
まるで百面相みたい。
特におでこに、しわを寄せて考えているときなんか、
思わず吹き出しちゃう。
また口をポカーンとあけて、
ボーッとして読んでいるところも、
これまたおもしろい。
○○先生は、百面相じゃなくて、
二百面相ぐらいできるんじゃないか。
一九七0年 九月九日発行 一枚文集「太陽の子一号」より
この時の子供達は、十一才で担任の私は、教師二年目の二十四才であった。その子供達の中の一人が、突然我が家に仕事先から連絡があり、これからおじゃましたいと言うことであった。同窓会を開きたいので、名簿がほしいと言うことで、わざわざ夜遅く訪れてくれたのであった。彼は、今は警視庁の刑事をやっているとのことであった。暴力団対策の専門の刑事と言うことで、苦労話をひとしきりしてくれた。命をはってやる仕事でもあるので、危険なことも何度か会ったという生々しい話もしてくれた。この彼とは、思い出のある子であった。卒業してからも、何人かの子どもを海へつれていったりした中に彼もいた。色んな事情を持っていた子なので、人一倍卒業してからもつながりを持てた子であった。その彼とも、ここしばらく連絡が取れなかったのであるが、同じ警察官という縁で、Tさんのお父さんに連絡先を調べていただいたら、すぐにわかって教えていただいたのが昨年の一年前であった。ありがたいことであった。おかげで、すぐに連絡が出来、おいしいお酒を久しぶりに飲みあい、昔の話を語り合った。
その子供達が、来月の連休の最後の日に、隣のクラスにも声をかけて同窓会を開いてくれるというのである。卒業以来全く会ってない子もいるので、彼ら彼女らの変身を今からとても楽しみにしている。