子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

私の中の国分一太郎先生

わたしの中の国分一太郎

こぶし忌に寄せて 2003年4月13日(日)山形県東根市
国分一太郎さんの思い出

初めての出会い

 私が、国分先生の「思い出を語る」などという大役を、お引き受けすることになりました。まだ、先生との関わりが深い方がたくさんいらっしゃるのに、なぜ私に回ってきたのか、とまどっているところです。多分こぶし忌には、第1回の時に欠席した以外は、今回まで含めて、全部出席しているので、そのようなことでこの役目をすることになったのかもしれません。
 私が国分一太郎先生と初めてお会いすることになったのは、全くの偶然です。先生の名前は、小学校教師をしていた私の母親の本箱などに岩波新書の『教師』や宗像誠也さんとの共著の『日本の教育』の著者と言うことで知っておりました。大学を卒業して、初めて勤めた学校が、東京都豊島区立池袋第三小学校でした。大学時代の四年間は、バスケットボールの燃えて、過ごしてきました。いわゆる体育系のスポーツ学生だったのです。四年生の担任になり、隣のクラスの担任が、作文教育をされていた大須賀敬子先生でした。その先生に、「作文教育やる気ある?」という誘いをうけました。「新卒の時には、何でもハイと返事をする方がよい。」と、大学の先生から言われていたので、「やる気ありません。」と返答できずに、「はい。」と返事をしてしまいました。それから、その先生から、すごい攻撃がどんどん押し寄せてきました。教師2年目の夏には、東京で「日本作文の会」の全国大会が開かれました。何にも知らないのに、宿泊係を分担して、全国の仲間のお世話をしました。そのときに、国分先生と初めてお会いした気がします。まだ、お話などできずに、遠くから見つめているだけの関係でした。やがて、いつの間にか、「豊島作文の会」などというサークルを作り、その仲間に加えさせられました。サークルを軌道に乗せるために、講演会をして、人集めをしようと言うことになり、国分先生にお願いしました。先生は、その年に「ヘルニア」の手術をされて、病み上がりであったのですが、わざわざ来てくださいました。そのときに話された作文の話が、私のその後の「作文教師」の道を、決定的にしてくれたのでした。一九七一年の五月、今から三十二年前のことでした。

先生の本をむさぼり読む

 やがて、私は国分先生の本を次から次に読むようになりました。「新しい綴り方教室」「君人の子の師であれば」「しなやかさというたからもの」「日本の児童詩」「実践綴り方ノートⅠ」国分一太郎という名前が出ていれば、どんどん読むようになっていきました。「新しい綴り方教室」などは、私がまだ小学校1年生の時に発行された本でしたが、読んでいて大変新鮮でした。『きのう私は、私の家のうらの、私の家の畑の、私の家の桃をとってたべました。』「なんべんもくりかえす『私の家の』は、かんたんに、削りさってよい、よけいなコトバではないのである。かって他人のものを盗み、ドロボウ気があると、うたがわれたこの少年の心理状態を知っている、細心な先生だけが、この綴り方の深い意味を知ることができる。」このように解説した文章に、作文とは、単に子供に文章を書かせるだけでなく、子供の心の状態まで読みこなさなければならないと言うことを教えさせられました。

作文教育の神髄

 子どもたちに「ひとまとまりの文章」を書かせていくと、ものをていねいに見たり、聞いたり、じっくり思い出すことも得意になりました。つまり毎日を生き生きと暮らす力がついてくるのです。「生きる力」などということを、やかましく文部省などが言うようになってきましたが、先生は「綴り方教育」を実践し、ものや事に具体的に関わらせていくと、「生きる力」などは、確実に身に付くと、戦前の実践から気がついておられたのです。どの本を読んでも、「胸のどきどきとくちびるのふるえ」を押さえることはできませんでした。子供の書かれた作文の一文一文をを具体的にとらえ、作品のおくに込められた子供の願いをしっかり受け止めなければならないことを教えていただきました。

しなやかさというたからもの

 「しなやかさというたからもの」が発行された頃は、日本が高度経済成長の真っ最中の頃でした。子供たちの心や体が、大人の作られた便利さの中で、次々とむしばまれていく事への警鐘として、当時の子供たちやその保護者や学校の教師たちに発信されたメッセージでした。私が中学三年の時に、社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の青年に暗殺され、マスコミはこぞって子供たちに刃物を持たせないことを宣伝しました。鉛筆を削るのにも、鉛筆削り機ができ、切り出しナイフやボンナイフが取り上げられていきました。この本のはじめに、次のように書かれました。「〇子どものからだと手足のしなやかさ。○こどもたちの筋肉が神経とむすびつき、脳とむすびついたところでの、そのしなやかさ。○したがって、ものをつくったり、はこんだり、もとにもどしたり、かたづけたりするときの、こどもの身についたそのしなやかさ。」それぞれの章を「キル」だとか「とぐ」だとか「むく」などという動詞を見出しにして、この本をまとめられました。手先をしなやかにするためには、こどもたちの生活を、我々がこどもの時に普通にしていた原始的な生活を取り戻すように訴えられました。私は、そのとき以来、子どもたちには、鉛筆削りは、ナイフを使わせるようにしてきました。昔のこどもたちが楽しく遊んだ、剣玉やベイゴマを授業や遊びの中に取り入れてきました。1年間それを続けていきますと、こどもたちの体も心も、本当に「しなやか」になっていくのです。私は、何年生を担任しても、手先を器用にさせるために、このことを大切にしてきました。このようなことを継続していくと、物事に意欲的・積極的になっていきます。集中力も大変つくことにも気がつきました。

二度目の出会い

 その勤めた学校は、職場の教育研究会も盛んでした。今回も参加されている、鈴木宏達さんも、その職場におられ中心になって活躍されていた方です。「校内研究会」では、外部から著名な講師を呼んで、教師の研修を深めておりました。その時に、国分先生に来ていただきました。先生と間近にお会いするのは、この時が初めてでした。その時は、文学作品の読みをどう深めるて指導するかというお話を、先生にしていただいた気がします。私のつたない実践がたたき台で、話していただきました。「かわいそうなぞう」という作品でした。新卒四年目位の年でした。いい加減な私の実践を、励ましていただきました。文学作品の読みの大事さも、そのとき教えていただきました。

先生のお宅での研究会

 やがて、東京や神奈川や千葉の教師が連絡しあって、国分先生のお宅で勉強会をお願いしようとなったようです。今はこの世の人でなくなった永易実さんや関口敏夫さんが中心におられました。私も途中から参加を許可されて、月に一度の研究会に出られるようになりました。今作文の会の副委員長をされている田中定幸さんや国分先生のご長男の真一さんの奥様になられているヒロ子さんもまだ、二十代でした。この会は最初、日本作文の会の常任委員の人は参加できませんでした。乙部武志さんや本間繁樹さんなどは、ずいぶん経ってから参加するようになったと記憶しております。この会は、土曜日の二時半頃から始まる会でした。会は、提案者がおり、そのレポートをみんなで討論して進める会でした。その時、先生は、最初はいつも黙って聞いておられました。会の最後の方になると、そのレポートをまとめて、理論化してくださるのが、先生の真骨頂の場面でした。「君たちは、この会を単なるサークルと思わないでほしい。作文教育を理論化して、だれにでもできる理論を打ち立てるぐらいの気構えでやりなさい。」したがって、「この会を『綴り方理論学会』と名前を付ける位の気持ちでやりなさい。」と我々を激励されていました。この会で学んだことを、『いま、なにをどう書かせたいか』と低中高の三部作の本に、出版することができました。この本は、指導題目をたて、それに見合った指導過程をふみながら、『ひとまとまりの文章を』書かせていく本でした。先生が七十歳の年を迎えたときに、『この本を、古希を迎えられた国分一太郎先生にささげる』というタイトルを付けました。出版するのに先生がずいぶん苦労されたのに、できあがると本当に嬉しそうに喜んでくださいました。先生は、日本作文の会を大きくするためには、理論化して、系統的な指導計画を作り、誰にでもきちんとできる方向性をいつも視野において、この会も大事にしておられました。七十年代、八十年代前半までの「日本作文の会」の「作文と教育」は、巻頭論文にしろ、実践報告文にしろ、その方向性がはっきり出ていたものでした。事実この頃の「作文と教育」が一番発行部数も多い頃でした。

会が終わると、おいしい手作り

 先生は、「君たちが勉強する気があるなら、月に二回やろう。」と途中から言ってくださいました。やがてこの会は、月に二回持つようになりました。それほど、先生はこの会を大事にされていたのではないか、それと同時に「日本作文の会」のことを常に心配されていたのです。私たちは、この会でもう一つ楽しみがありました。それは、会が終わると、先生は台所にたって、「いなかのうまいもの」を作ってくださり、それを肴にして、おいしいお酒を振る舞ってくださるのでした。ある時は、庭に芽を出したフキノトウであったり、アケビであったり、納豆汁でありました。奥様の久枝さんもときどき顔を出されて、ていねいな挨拶をして歓待してくださるのでした。そのとき、先生のアルコールは、いつも決まっていました。「焼酎のお湯割り」でした。今では、飲み屋に行けばどこでも出してくれますが、この飲み方は、先生が広めたのではないかと考えてしまいます。そのお酒の席になると、先生が一番みんなと楽しんで語らう時でもありました。私などは、まだこの会では、いつも緊張してしゃべるのもなかなかできずに、参加しておりました。しかし、こういう席になると、私などのようなものにまで気軽に声をかけて、気を遣ってくださるのも先生の人柄でした。私たちは、この『綴り方理論研究会』を先生が、1985年の北海道での日教組教育研究全国大会の日本語分科会で倒られるまでお世話になりました。私たちは、なくなられる前の年の暮れの十二月に先生のところでいつものように会を開き、それが先生との最後の別れになってしまいました。なくなってからも、先生の遺志を継いでいこうと言うことで、今は、乙部武志さんのところで続いております。

教育労働運動の面で

 私は、東京の墨田区の小学校の教師を勤めております。その墨田区で、三十数年間墨田区教職員組合のリーダーであった内田宜人さんは、ご自分の闘いを振り返って、最近ある雑誌に1年間連載をされました。その1回目の連載と、最後の締めくくりのところに、国分先生との関わりがふれられておりました。それほど大きな精神的な力を、与えられたと言うことがよくわかりました。墨田に限らず、第10回のこぶし忌で講演された、日高六郎先生の「概念砕き」の話にもありましたが、日本の教師たちへ大きな勇気と自信を与えました。日高さんとも交流のあった内田さんをこのこぶし忌にお誘いしたときに、どうしても用があって来られなくなってしまいました。そのときに、次のような歌を一首、私に託してくださいました。「北に向く枝より夢は墜ちしとよ国分一太郎逝きて十年」かって朝日歌壇にたびたび載った方です。このように国分先生は、日本の多くの教師たちに、「教育労働運動」の面でも大きな影響を与えたことがよくわかります。

下町墨田での平和教育

 その墨田区ですが、皆さんご承知のように、東京大空襲のあったところです。57年経った昨年、大空襲の体験者をお呼びして、「平和集会」を学校で今年もやりました。墨田では、3月10日が近くになると、かなりの学校で取り組まれていることです。私は、墨田区に転勤して、今年で28年目になります。1年に1回は、戦争や平和のことに向き合うことを大事にしております。
 本日お配りした資料の中に、3年前、5年生を担任したときに、自分の母親が中国人の血を半分持っていることを初めて知らされて、母親の姉が今中国にいることを知らされる文を書いた子がいました。母親もまだ一度も会ってない姉です。なぜ、そんなことになってしまったのかは、戦争がそうさせてしまったのです。母親は、こどもが書き終えた最後のところに次のような添え書きをしてくれました。
  昭城には、理解できないことも多く、この文章を書くのに何日もかかかりました。
 ご苦労様!私にとってもいろいろ整理するよい機会となりました。変色した古い布の切れ
 端は、大人になったら娘に見せてほしいと中国の父から託されたそうです。
一部読めない字もありますが、
路進神不阻
心連別何妨
○○存証
康哥1953.3 と書かれています。
 この文字を書くためにどれだけ血を流したのか。この文字を目にするたび、父の 深い愛情と励まし、同時に無念さを思い胸が痛みます。戦争ほど残酷なものはあり ません。これからも子供たちとは、機会あるたびに語り合いたいと思います。世界 中から戦争をなくすにはどうしたらいいのかを。遠藤昭城の母より
※ 康哥は書家としての号で、陳康初さんのことです。
私は、この書き上げられた作品をクラスのみんなで読み合い、平和や人権のことを学習しました。クラスのこどもたちも、その文を読んで偉く感動しました。その感想文を読んだ母親は、意識変革をしていきます
 母親は、自分も結婚してしばらく経つまで知らなかった自分の生い立ちをこどもに語り終えて、八十に近い自分の母親を連れて、中国にぜひ行って、まだ一度も会っていない姉と対面してきたいと話しておりました。この文を書いてもらい、戦争は様々な悲劇をもたらすと言うことを、あらためて思い知らされました。今、イラクが攻撃にさらされている戦争が、1日でも早く終わることを願うばかりです。

仲人をしていただく

 最後になりましたが、私は国分先生に大変お世話になったことがもう一つあります。それを今でも誇りにしてもおります。それは、私の結婚式に仲人をお願いしました。先生は忙しい身であったにもかかわらず、快く引き受けてくださり、私たち二人のためにすばらしい媒酌人の語りをしてくださいました。そのテープの声を今でも聞くとジーンとするところがあります。それは、その結婚式の二日前に、先生は兵庫県の教育研究集会に参加されていました。そのおりに、運悪く台風とぶつかり、帰りの電車が動かなくなってしまい、駅のホームでしばらく待っていたら、一番列車がやっと動き出して、新幹線に乗り継いで、その日の午後の私の結婚式に間に合わせてくれたのでした。1979年10月20日、先生が68歳の時でした。

おわりに

 先生と私との出会いは、本当に偶然からでした。身近に接するようになってからは、先生の優しい人柄にふれ、いつも勇気と自信を持って小学校教師の道を歩み続けております。その私も、あと3年で小学校教師を定年になりますが、子どもたちに「ひとまとまりの作文」を書かせ続けていきます。こどもたちの書いた作文や詩を読むのは、本当に楽しいです。晩年先生は、障害児教育や被差別部落の人々との交流を大事にされてきました。社会の中で、もっとも差別をされている側に立って発言をしておられました。まじめに働いている民衆の側に立って、いつも発信続けておられました。
 私は、作文教育をしているおかげで、毎年たくさんの宝物をいただくことができます。昨年は、地域に住んでいる広島の被爆者の方が、原子爆弾の模型を作ったのでこどもたちに見せたいと言うことで、すてきな交流ができました。定年になるまで、こどもたちの書いた文章を読みながら、小学校教師でいられることを、心の底から喜んでおります。国分先生との出会いなしでは、今の私の実践はありません。偶然の出会いでありましたが、人間の生き方も決定的にしてくださったのが、国分一太郎先生でした。ご静聴ありがとうございました。

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