私の生い立ちに記
私の生い立ちの記
自分史を作るための資料
榎本 稲子の歴史(相続のための資料作成)
1920(大正9)年7月29日父榎本喜重 母志満の長女として誕生 東京市芝区金杉3丁目26番地
1920(大正9)年8月9日 父 榎本喜重役所に届け出
1923(大正12)年9月1日 関東大震災 3才
1934(昭和9)年 1月 埼玉県与野町下落合772番地へ転居 14才
1937年 日中戦争始まる
1941(昭和16)年 埼玉女子師範学校を卒業し、大宮三橋高等小学校勤務 21才
1941年12月8日 太平洋戦争開始(真珠湾攻撃)
1944(昭和19)年 今野幸正と結婚 大宮三橋高等小学校退職 24才
1945年 3月10日東京大空襲
1945年 8月6日広島原爆投下 8月9日長崎原爆投下
1945年 8月15日 太平洋戦争に負ける(敗戦)
1945(昭和20)年 10月22日 長男豊誕生 下落合1696番地 25才
1947(昭和22)年 9月20日 次男宏誕生 27才
1948(昭和23)年 2月26日 協議離婚 28才
1950(昭和25)年 浦和市立北浦和小学校教諭採用 30才
1958(昭和33)年 与野市下落合より浦和市常盤6-95番地に転居 38才
1960(昭和30)年 浦和市立常盤小学校に転勤 40才
1970(昭和40)年 浦和市立別所小学校に転勤 50才
1975(昭和45)年 浦和市立仲町小学校に転勤 55才
1980(昭和50)年 浦和市立仲町小学校定年退職 60才
1980(昭和50)年 浦和市立別所公民館副館長に採用 65才 5年間勤め
2000(平成12)年 さいたま市浦和区常盤6-17-9で一人暮らし 85才
2008(平成20)年 老人ホーム『まどか中浦和』に入居 88才
2015(平成27)年 老人ホーム『まどか中浦和』で死亡7月21日 94才
榎本豊の歴史
1945昭和20〉年 10月22日誕生
1948年1月 母の離婚。今野幸正という人だった。 豊3才 宏1才
母の実家に戻る。祖母・母の弟・母の妹2人。私たち3人で、7人家族。1948年頃 父親が私の前に突然現れる。父親に抱っこしてもらった。
1952年 与野町立本町小学校へ入学
1954年 埼玉大学教育学部附属小学校3年生へ転入。担任中本博先生。豊9才。
1957年 埼玉大学教育学部附属小学校卒業し、附属中学校へ。 豊12才。
従兄弟の松岡猛君も入学。
1958年 与野町下落合772番地より、浦和市常盤6ー17ー9へ転居。
豊12才 宏10才。宏浦和市立仲町小へ転入。
1960年 埼玉大学教育学部附属中学校卒業し、埼玉県立蕨高校へ入学。豊15才。
高校では、バスケットに入部。2年生の途中まで続ける。
高校2年から、文化祭に燃える。2年で「新竹取物語」3年で戦争をテ ーマにした劇を作る。
1964年 埼玉県立蕨高校卒業。大学受験すべて不合格。 豊18才。
4月より、大塚の武蔵予備校へ午後の部へ入学。
10月 東京オリンピ
合格発表は、母と一緒に見に行く。自分の番号があったときは、母と抱き合った。
バスケットクラブへ入部。4年間そこで汗を流す。
卒論は、石水照男教授の指導を受ける。
1969年 埼玉大学教育学部小学校課程卒業。 豊23才。
4月 豊島区立池袋第三小学校へ採用。4年生の担任。
その学校は、組合の強い学校であった。その学校で、様々な教育実践を学ぶ。同学年に、日本作文の会の会員の大須賀敬子先生がいた。
1870年 日本作文の会全国大会が、東京で行われる。豊島作文の会として、宿泊係 で全国の仲間のお世話をする。
1972年 4・5・6年と担任した子ども卒業。
この頃、国分先生のお宅に、大須賀さんに連れられて参加。関口敏雄さん 永易実さん、折居ヒロ子さん、武田和夫さん、杉浦涉さん等がおられた。
途中から本間繁輝さん、田中定幸さん、乙部武志さんらが加わる。
1972年 2年生の担任へ。同時に豊島区教職員組合の執行委員に。 豊26才。
1973年 再び2年生の担任へ。 この年、日教組半日ストライキ貫徹。
1974年 1年生の担任へ。 豊28才。
この年日教組4月9日半日11日1日ストライキ。
4月25日赤旗(日本共産党新聞)が、教師聖職論を打ち出す。日教組がストライキで闘った闘争を否定するような見解を出す。スト否定路線。
1975年 2年生へ持ち上がり担任。
1976年 異動するときに、管理職に言われる前に、組合から墨田の小梅小に異動を伝えられた。押上にあった組合事務所へ、内田委員長に挨拶に行く。
押上駅に出迎えてくれたのは、竹田弘執行委員であった。
墨田区立小梅小学校へ転勤。10年間勤める。 豊29才。
最初5・6年担任。3・4年担任。1・2年担任。1・2年担任。
最後5・6年担任。
1979年 10/20日、柴山典子さんと結婚・仲人に国分一太郎さんにお願いする。豊33才 典子27才1984年 国分さんのふるさと、山形県東根市の研究会参加。
1985年 1月国分一太郎さん 日教組の全国教研(北海道)で倒れる。その年の2月亡くなる。74才。
1986年 墨田区立柳島小学校へ転勤。10年間勤める。 豊39才。5・6年担任。
組合の強い学校で、元気な組合員が何人かいた。尊敬する大田原先生が、1年間一緒で、次の年に退職した。
1989年 6/30日 結婚して10年経ち子ども授かる。千香と名づける。
1996年 墨田区立立花小学校へ転勤。8年間勤務。 豊49才。
墨田教組の副委員長になる。次の年に、執行委員になり、退職1年前の64才まで続ける。
2クラスの学年が中心で、途中から1クラスが多くなった。
2004年 墨田区立緑小学校へ転勤。5・6年担任定年退職へ。、 豊57才。
2006年 墨田区立堤小学校へ再任用就職。算数の少人数学級担任。3年間。
2009年 墨田区立堤小学校・再雇用理科専科。2年間。完全退職。 豊65才。
祖母志満の思い出 2018年 6月2日(土」)の日記より
母の母である祖母は、1900(明治33)年生まれ。私が1945(昭和20)年生まれなので、年の差は45才になる。つまり、2才ちがいの弟宏が、寝返りもできない1才になる前に、母は父と別れて、与野の実家に戻ってきたことになる。祖母は、小学校2年まできり、学校へ行っていない。それは、その頃が小学校2年生で、義務教育終了なのである。何かちょっとした文章を書いてもらうと、カタカナで書くことが多かった。その頃のもじの教え方は、カタカナが先で、次にヒラガナを習ったらしい。作文のことを「綴り方」と祖母は言った。つまり、時間割が「綴り方」になって1週間に2時間確保されていたらしい。
記憶力のいい人
その祖母は、記憶力の確かな人で、昔の出来事は、かなり正確に思い出すことができた。その祖母は、昔話をするのが大変上手で、夜一緒に寝るときに、色んな話をしてくれた。特に話がうまかったのは、祖母の子供時代の話は、いつ聞いてもおもしろかった。また、こわい話をするのも得意だった。また、狸や狐や蛇などの動物も良く出てきた。そういう動物たちが、生活の中に一緒に暮らしていたことなのだろう。祖母が小さかった頃、良く蛇が、屋根からわざと落ちる話には、今でも良く覚えている。それは、蛇が、にわ鶏の卵などを飲み込んだあとに、屋根から落ちて卵の殻を割る話だった。
祖母の実家の職業
また、祖母の実家は、戦前は、百姓をしていたが、「馬喰」(ばくろう)を商売にしていた。つまり、その当時の馬や牛は、大事な生き物だった。物を運ぶ運送や田んぼの耕耘機の役割をした。また、戦争のときには、軍馬として、重宝がられていたと言うことだ。
曾祖母のこと
その祖母の実家に、祖母と一緒に出かけることが、時々あった。まだ、馬小屋があったり、庭はたいそう広いことを良く覚えている。そこに行くと、祖母の両親がまだ元気にしていた。私から見ると、曾祖父母になる。特に曾祖母は、腰が大変曲がってしまっていたが、良く与野の家に泊まりに来たりしていた。腰が曲がっていたので、杖をついで大和田から、与野の家まで電車に乗って一人で来るのであった。祖母は、たまに泊まりに来ると、いつも同じことをよくしていた。それは、曾祖母の頭を洗ってあげて、丁寧に串を使ってとかしてあげることを、良くしていた。だいたい、1泊か2泊して、帰るのであった。そんな時は、一緒にごはんを食べるのが楽しかった。私は、曾祖母の手が、ばかにしわくちゃなので、その手を触りながら、おばあちゃんずいぶん手がしわくちゃだねと言って、つまましてもらった記憶がある。大変穏やかな人で、いつもにこにこしていたのを覚えている。祖母も、自分の親が、わざわざ会いに来てくれたので、ささやかな親孝行をしていたのであろう。
忘れられない思い出
祖母は、3人兄弟の真ん中である。一番上の人が、男で下1人は、女であった。祖母は、自分の上の兄のことを、「あにき」と呼んでいた。その兄貴は、自分の奥さんがいるのに、外で女性を作り、大和田の家を出て、暮らしていた。あるとき、祖母と一緒に大和田の家に行く途中の電車の中で、その「あにき」と偶然に出っくわした。2人は、懐かしそうに話をしていた。祖母が、私のことを、「稲子の子ども」と紹介したのかも知れない。すると、そのあにきが、腰に巻いていた風呂敷をほどいて、中からぼた餅を私に差し出してくれた。食べなと言われたのだろう。私は、そのぼた餅を、口の中に入れて食べ始めた。まだ、砂糖などが貴重品で、ましてや小豆で作ったぼた餅などは、なかなか手に入れることはできなかった。その時のぼた餅の味は、今まで食べたどんなお菓子よりおいしかった。その後、色んな甘いものを食べてきたが、この時のぼた餅の味にはかなわない。それほどおいしかったのだ。
誕生日に思うこと 2018年10月23日(火)の日記より
73年前の昨日、私は生まれた。1945年10月は、日本が戦争に負けて、2ヶ月半経つ日に生まれたのだ。おそらく日本中戦争に負け、至るところに戦争の傷跡が残っていたに違いない。その2年後に弟の宏が生まれている。大変なときに生きてきたのである。それは、我々の家族だけでなく、日本中のどの家族も、この時代に生きてきたのである。私の記憶の中にも3才くらいまでの記憶は、ある1つの出来事以外は、何も残っていない。前にも書いたが、母が教師を辞めた。その後離婚し、生きるために「闇市」で天ぷら屋の仕事をしていた。その時の記憶が、うっすらと、私には、残っている。それは、与野駅の西口に、たくさんの闇市が並んでいた。その店の前で、私は、三輪車に乗って、一人でよく遊んでいた。店はたいそうもうかったらしい。ものがあまりない頃で、油だってなかなか手に入らなかったであろう。天ぷらの具である野菜だってなかなか手に入らない。それを、祖母の実家である大和田で、農業を営んでいた所から安く手に入れていたらしい。「弟の宏は、どこにいたの?」と、ずいぶん経ってから母に聞いたことがある。お店の隅で寝かせていたそうだ。その店をどのくらい続けていたのか、母が元気なときにきちんと聞いておけば良かったが、今はそのことはわからない。母の妹の政子叔母が、まだ元気だから、今のうちに聞いておこう。
風呂場を作る
やがて少しずつ物心が付いてきた頃には、弟の宏とよく遊んだ記憶が残っている。それは、近所の遊び仲間といつも一緒に遊んでいた。与野の家に住んでいた頃の記憶である。与野の家は、柿の木、梅の木、栗の木などがあり、それが実るのが楽しみだった。まだ水道はなかった。井戸の生活だった。最初はおふろがなかったので、近くの風呂屋に出かけた。やがて近所の電気屋の鈴木さんのおじいさんが、外に風呂を作ってくれた。水道がなかったので、風呂桶に水を運ぶのが大変だった。風呂釜は、外から木をくべてたくのであった。時々木がなくなる前に継ぎ足さないと、消えてしまうのでその管理が大変だった。
与野から浦和へ転居
やがて、浦和の家に引っ越すことになった。私が中学1年生で、宏君が小学校5年生の時だった。そこのくらしは、おふろもタイル張りで、水道もありそれまでよりずっと快適であった。しかし、風呂を暖めるのは、やはりまきを使い、木を時々くべないとやはり火元がなくなってきてしまうので、それなりに大変だった。やがて、その木が、石炭になり、ある程度火が付くと、石炭を入れておけば、長持ちするので、ずいぶん楽になった。
その燃料がガスに変わったときは、本当に楽になった。一度ガスに火を入れれば、あとは最後まで温かかった。まだ、都市ガスが我が家まで来てなかったので、プロパンガスだった。
薪→コークス→石炭→電気
やがて、ガスから電気に変わり、今ではおふろが入れるようになると、「おふろが沸きました。」と合図までしてくれる。今では、1度入れた風呂は、そのまま流すのでなく、次の日に暖めることが出来る。昔は、その水をバケツで汲み取り、洗濯機の中に入れて水を再利用していた。それが今では、風呂にホースを入れて、洗濯しながら、風呂の水を補充しながら洗濯できる。ずいぶん楽になったものだ。
しかし、この間の台風の被害で、電気が全面ストップして、1週間近く停電だった地域が出た。そうなると、本当に大変なことになる。その電気の下は、石油の火力発電が大きな役割を持つ。今その石油が大変高騰してきている。
今、サウジアラビアが大変な問題になってきている。こう考えていくと、世の中の動きが色んな所で繋がっているといういことである。
1度快適な生活を体験すると、元の不便な生活に戻ることが、いかに大変なことになるか、人々は実感を持ってわかっている。大変な時代に入ってきているのである。
88才になった母に聞き書きをする
結婚してから
戦争中に、お見合い結婚で結ばれた。私が23歳の時だった。結婚して、2人の子供に恵まれた。長男豊は、1945年10月22日、次男宏は2年後の1947年9月20日に誕生した。その頃、2人の子どもを育てるために教師を退職した。今みたいに、保育園があるわけでなく、子どもを育てながらでは、勤めることは無理だった。
終戦後、与野駅前の闇市に「天ぷら屋」を開いた。そのころは、油が手に入らなかった。そのため、天ぷらは、飛ぶように売れた。材料は、私の母の大和田の家に行って、安くもらってきた。天ぷら屋は、2年間くらい続いた。
☆この闇市時代のことは、うっすらと記憶に残っている。店の前で、三輪車に乗って 遊んでいたのも記憶にある。(このことは、以前にも書いた。)
離婚してから
1948年1月に離婚した。今野幸正という人だった。榎本家の親戚の人にお金を借り、それが原因だった。1度目は、すべて返して、やり直そうと話し合ったが、2度目も反省なく、同じように借りてしまったようなのだ。母は、もう少し、続けようとも思っていたが、私の母(榎本志満)が許さなかった。祖母にとっては、我慢できなかったのだろう。
★祖母志満が、私の父のことを憎んでいたことが1つ、心に残っている。それは、結婚式に母と父がならんでいた記念写真を、私の目の前で、はさみで切ってしまったのである。そのくらい、父のことを憎んでいたのである。したがって、その貴重な記念写真は、もう手元にはない。父の存在を、消し去ろうとしたかった祖母の行動だろう。
★この頃のことを、母と11歳年下の政子叔母が、つい最近話してくれた。まだ正式に離婚してない頃に、祖母は、おこって色々な家財道具を、自分が住んでいた自宅の方へ持ってきてしまったようなのだ。まだ、いっしょに旦那と暮らしていたので、母が政子叔母に頼んで、どうしても必要の物を、また運んだと言うことだった。しかし、正式に離婚すると、母は家に戻ってきて、2階の部屋で、いつも泣いていたと言うことを、政子叔母に最近聞いて、母は、焦心だったんだなあと改めて、知ることになった。
★政子叔母は、1931年生まれなので、今年87才になる。私と、14才ちがいなので、3才で、榎本家に戻ってきたときは、政子叔母は、まだ17才せつ叔母は、1才ちがいなので、16才になる。哲一郎叔父は、1926年生まれであるから、私と19才離れているので、23才になる。その頃、志満祖母は、1946年5月12日に52才で、自分の旦那である喜重さんを亡くしている。一家の働き手を失い、家は貧乏暮らしであったということを、政子叔母に聞いた。
ずっと心にしまっていた話
離婚をして、実家に戻ってきたある日のことだ。これからどう生きていこうかと悩んでいたときに、とんでもないことを考えていた。しかし、そのことは、豊さんのひとことで、我に返ってやめた。つまり、まだ寝返りも出来ない弟の宏をおぶって、3才にもなっていない豊さんの手を引いて、暗い夜道を歩いていた。今はなくなったかも知れない大宮と与野駅の間にある「欄干橋」(らんかんばし)の近くを歩いていた。その下は、鉄道が通っている。そのとき、「お母ちゃん、お星様がきれいだね。」という豊さんの言葉で、我に返ったんだ。「あの時の豊さんの言葉がなかったら・・・」。
★そんなことがあったのかと、その話をしみじみと聞いた。その後、2度とその話はしなかった。母は、私が聞き書きを始めたのをきっかけに、今まで心の中にしまっていたことを、88才になって、初めて心を開き語ってくれた。ずっと胸の奥にしまっておきたかったのかも知れない。
今でも覚えている父の顔
父親の思い出が1つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、小さい頃は、「お父ちゃんは、なくなった。」と、志満おばあちゃんから何度も言われていた。ところが、私の目の前に、現れたのであった。「ごめんください。」と言う声で、よちよち歩きの私が、玄関に歩いていくと、懐かしい父が立っていたのである。私は、うれしくて、「お父ちゃんだ。」と言って跳び跳ねた。こたつのあった部屋に戻り、母に伝えに行った。母が私をだっこして、父にだっこさせたのを覚えている。父は、私を抱っこすることによって、我が子を最後抱いて、そのぬくもりを感じておきたかったのだろう。3歳前のことであるが、この時はうれしくて、ずっと今でも覚えている。そのことを、家にいなかった志満おばあちゃんに話すと、「それは幽霊だよ。」と言って、相手にしてくれなかった。
ずいぶん経った頃に、このときの話を母にすると、父は、離婚が決まってしまったので、最後の別れに私の顔を見に来たのだということを、教えてもらった。なお、父親は、私が、高校3年の頃、なくなった言うことを、父の兄の子どもの輝彦さんが、夜、伝えに来たのを覚えている。生きているときに、1度会ってみたかった気もする。その父の墓は、仙台の方にあると、その叔父から、間接的に聞いた。
父の遺骨
このことは、最後まで母から直接聞かないままになってしまった。ただ、祖母から、間接的にしばらくたってから聞いたことがある。祖母の話によると、父は、再婚もせず、独身で一生を終えたと言うことだ。元気だった頃は、「私には、2人の男の子がいる。」と親しい人に話をしていたらしい。「自分が亡くなったら、お骨を、私の兄の元に届けてほしい。」と言い、当時いくらかのお金を残して、亡くなっている。知らせを聞いて、その晩に母は、そのお骨が届けられた与野の家に出かけた。母は、そのお金は受け取らず、「これから仙台にあるお墓に埋葬するのだし、今までお世話になったこのお骨を届けてくれた人に、全部差し上げて下さい。」と言って帰ってきたらしい。「らしい。」と書いたのは、祖母からの又聞きだったからである。
本当に嬉しかった
★この時は、私は、まだ3歳になっていない頃のことであるが、鮮明におぼえている。この時のことを、最近政子叔母に聞いたのだが、「豊が、本当に嬉しそうにして、こたつのある部屋に知らせに来たんだ。」と、私が、本当に嬉しそうだったんだよと、教えてくれた。あの時のことは、やはり本当のことだったんだと言うことを、改めて認識できた。それにしても、志満おばあちゃんがいない時を狙って訪れた父のことを、今になって想像すると、ずっと、家の近くで祖母が出かけたことを確かめてから、私に最後の別れに、会いに来たのかも知れないと、今になって考えている。
★父の兄にあたる叔父は、私達家族とは、離婚したのだが、交流を続けていた。小さな株屋の社長をしていて、羽振りもよかった。何かちょっとした祝い事があると、私達家族を招き、ごちそうを振る舞ってくれた。お正月などに行くと、桁違いのお年玉をくれた。私と2歳ちがいの輝彦さんとは、交流があり遊ぶことがよくあった。私が、浪人して、大学に合格したときに、あいさつに行くと、大変喜んでくれた。当時鮨を食べるのは贅沢なことだったのだが、寿司屋のカウンターに行き、そこで叔父と一緒に色んな話をした。その店を出ると、靴屋に行き、革靴を買ってくれた。あの頃、この叔父と、もっと交流して、父のことを聞いておけばよかったと、今になって後悔している。何か、父のことを聞くことは、やめた方が良いと、自己規制していた。
★なお、自分のうちには、父親がいないと言うことはわかっていたが、それで寂しい思いをしたことは一度もなかった。母を含めて、賑やかな7人家族であり、狭いながらも楽しい我が家だった。母の帰りが遅いときは、政子叔母とせつ子叔母の間に入って、寝ることも何度かあった。哲一郎叔父さんには、時々釣りに行ったり、野球をしたり色々遊び相手をしてくれた。36年前(1982年)9月に、55歳の若さでなくなってしまった。
★あの頃、どこの家もそうだったかも知れないが、夜になると、天井裏で、ネズミが運動会をすることがたびたびあった。また、大きな家だったが、結構年月も経っていたので、大雨が降ると、雨漏りが、色んなところでおき、洗面器などをその下に置いた。また、よくあの頃は、停電が起きた。今みたいに、安全器があるわけでないので、ヒューズがとんで、停電になったのだ。また、自分の家だけでなく、近所全体が、停電になることもよくあった。
3丁目の夕日の頃その2 2017年 3月17日(金)の日記より
1945年の戦争に負け、私が小学校に入学したのが、1951年になる。まだまだ、戦争の傷跡が、結構残っていた。前にもこのことは書いた記憶があるが、上野動物園に母に連れられていく途中に、戦争で家を焼かれたりした人たちが、鶯谷の駅から、ずっとバラックのような建物に住んでいた。また、上野駅のホームの屋根には、浮浪児の人が、たくさん寝転がっていた。戦争で、手や足がなくなった傷痍軍人が、白い着物を着て、お金をカンパしてと、訴えて立っていたりした。
みんな貧しかった。
学校に行くと、クラスの中に父親がいない子供が結構いた。戦争で、父親が亡くなっていたのだ。また、鼻の下に青鼻を垂らしている子が多かった。ちり紙がない子どもは、洋服でふいたりしていた。だから、腕のところが、てかてかに光っている子どもがいたりした。鼻紙がないので、新聞紙を小さく切って、ちり紙代わりにしている子が結構いた。そういう子どもの鼻の下は、新聞紙のインクでいつも黒かった。トイレの紙は、今のような高級なものはなかった。たいてい新聞紙を切って入れてあった。汚い話で恐縮だが、おしりをふくときは、その新聞紙を手でもんで、柔らかくしてふいたものだった。
まずくても飲んだ
給食は、始まった頃で、脱脂粉乳が、牛乳代わりに配られた。GHQ(連合軍の進駐軍)が、アメリカから家畜のえさを、腹を空かしている日本の子どもたちに配給した。ユニセフでお世話になったのである。まずくて、鼻をつまんで飲んだ記憶がある。鯨の肉は、当時のタンパク源として、結構出された。
季節ごとの遊び
家に帰ると、今ほど、車などは走ってなかった。道路が、路地裏と言って子どもたちの遊び場だった。季節によって、遊びが流行った。冬のたこ揚げ、竹馬乗り。春になると、空き地での三角ベース。すもう。夏は、セミ取りをしたり、近くの小川に出かけて、ザリガニや小魚を釣ったりした。夜になると、蛍がでるので、蛍狩りを楽しんだりした。秋は、メンコ、ビーダマ、ベイゴマ、剣玉などが流行った。
お金の価値が、今より価値があった。1万円、5千円札などはなかった。一番大きなお札が、聖徳太子の千円札だった。10円、5円でも駄菓子屋に行けば結構なものが買えた。今はなくなっているが、50銭玉がまだ使われていた。
当時の漫画雑誌
貸本屋さんがあり、好きな漫画本を、1冊いくらかで貸してくれた。当時の子ども雑誌は、赤銅鈴の助やいがぐり君などが付録になっていた「少年画報」「冒険王」「漫画王」等という月刊雑誌が、売られていた。あまり小遣いもたくさんなかったけれど、月に一度その雑誌を買うことが楽しみだった。3冊も買えないので、「少年画報」を購入していた。それを買うと、中に付録の単行本の漫画が、6冊くらい入っていた。
自分のうちも、貧しかったが、日本中の人々が、みんな貧しかったので、何とも思わなかった。むしろ、お腹をすかしていたが、いつも心は明るく毎日が、遊びで充実していた。
5月1日(火」)生い立ち・母からの聞き書き 2018年記録
古希を過ぎ、自分の生きてきた道の一端をふり返ることは、大切であると考えた。私がこの世を去ってしまったら、私の子供時代のことは、誰も知ることは出来ない。そこで、娘千香に、お父さんは、こうやって生きてきたんだよと、伝えるためにここに記す。
生い立ちの記
私は、1945年10月22日に、埼玉県与野町(旧与野市で、現在さいたま市)に誕生した。2才下に、弟宏が同じところで誕生している。私の生まれた年は、日本が戦争に負けてから2ヶ月の10月に誕生している。この年に生まれた人は、弟たち団塊の世代と違って、人口も最も少ない世代になる。それは、父親の世代が、兵隊にとられて、本来なら海外に兵隊に行っているので、結婚できない女性が、日本に残っていたのである。あまりそのあたりのことは、母は、語りたがらなかった。祖母が、時々こちらが聞くと、教えてくれた。父は、軍需工場に勤めていたとのことであった。それは、弟の宏がまだ寝返りもできない頃に、離婚していたので、母は、そのことはあまり話したがらなかった。だから、正式にいつ離婚したのかは、かなりたって、自分が大学受験に合格し、戸籍謄本を役所に取りに行って、初めて、「離婚」という2字を自分の目で確かめてからであった。
☆このあたりのことは、母が88歳になってから、聞き書きをしてまとめたものをその通りに書いてみる。
5月1日(火」)生い立ち・幼稚園時代 2018年記録
幼稚園は、遠かった
母が離婚する前の家は、与野駅から近くのところにあったが、あまり記憶にない。私が物心ついたときの家は、与野駅の西口から歩いて10分くらいのところにあった。2階建てのかなり大きな家だった。庭も程ほどにあり、大世帯の家だった。そこに祖母、母、母の弟、妹2人と私達兄弟が一緒に住む賑やかな家だった。となりは、長屋で3世帯の家族が住んでいた。裏は、愛し幼稚園が建っていた。そこの幼稚園経営者とは、祖母が仲が悪くて、私は、そこの幼稚園には通わず、与野駅から1駅目の北浦和駅と与野駅のちょうど中間にある、双恵幼稚園に通うことになった。電車には乗らず、歩いて通った。そこの幼稚園経営者の松尾先生の子どもを、母が担任していたことから、母が見つけてきた幼稚園であった。遠い幼稚園だったが、私は休まず毎日元気に通った。今でも覚えているのは、「ひかり組」と「のぞみ組」があった。私は、ひかり組に所属した。担任は、うた先生という名前だった。のぞみ組は、細川先生と言う名前だった。私は、美人の細川先生が好きだった。あとでわかったことだが、細川先生の弟さんを、母が担任していた。そこの幼稚園で心に残っていることがいくつかある。それは、キリスト教系の幼稚園なので、お弁当の時間になると、経営者の松尾先生が、「天に召します、我らの父よ・・・」とかならず唱え、最後に「アーメン」で締めくくり、「いただきます。」と言って、お弁当のふたを開けるのだった。私のお弁当は、いつも卵をスクランブルして、甘く煮てくれたものを、ごはんの上に黄色く敷き詰められていた。その弁当が1ばん好きだった。
紙芝居が楽しみ
もう1つ印象に残っていることは、みんなが帰るときに、庭に集まって、紙芝居を見せてくれた。その紙芝居が、いつまでも心に残るお話が多かった。例えば、「泣いた赤鬼」
(濱田広介作)など、いつまでも、青鬼のことを考えていた。あらすじは、こんな内容だった。
「とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。
赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。しかし、これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。
だが、赤鬼には一つ気になることがあった。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。それは「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」という青鬼からの置手紙であった。赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流した。(ウィキペディア参照)
大人になってから、濱田広介が、山形県出身で、広介童話館が山形にあることを知り、研究会の打ち合わせのあとに、田中定幸さんと訪れたことがある。この童話は、本当にすぐれた童話である。その他に「ジャックと豆の木」「さるかに合戦」「イソップ物語シリーズ」などを、毎日のようにしてくれた。
この時期に、紙芝居だとか、読み聞かせなどをたくさんしておくと、じっくりものを考える子どもになると、自分の経験から感じている。
1年間、この遠い幼稚園に通った。子どもの足で歩いたら、1時間近くかかった。行きも帰りも、いつも一人だったが、毎日雨の日も台風の日も休まず通った。
★幼稚園では、お遊戯会がよくあった。今でも覚えていることが、一つだけある。『金太郎』の歌をうたいながら、踊ることが出来た。ネットで調べるとでてきた。
金太郎のうた
まさかりかついで きんたろう
くまにまたがり おうまのけいこ
ハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウ
ハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウ
あしがらやまの やまおくで
けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
私は、その歌詞を歌いながら、祖母や母の前で得意になって踊ったのを今思い出した。終わると、祖母も母も嬉しそうに、にこにこ笑いながら拍手をしてくれた。弟の宏にも一緒に踊ろうと誘ったが、のってこなかった。そこで、一人で、もう一度楽しく同じことを、やってみせたのだった。そこは、与野の家の一番広い8畳の部屋であったことも覚えている。今、あの時の母の嬉しそうな顔も、はっきりと浮かんでくる。
5月2日(水)生い立ち・小学校時代
再び教職の道へ
天ぷら屋を辞めたきっかけは、その店の前を通りかかった小学校時代の恩師である吉沢先生に会った。その先生に、「先生になりたかったら、いつでも声をかけていいよ。」と親切に言われた。
★吉沢先生は、浦和の中学校の校長先生をしていた。その頃は、教員不足で、代用教員が多かった時代であった。やがて、北浦和小学校に就職できた。
★吉沢先生は、やがて浦和市立高校の校歌を作詞している。浦和市立高校が、甲子園に出て、大活躍した頃に、吉沢先生作詞の校歌が流れた。
★この頃のことは、私も時々北浦和小には、遊びに行ったり、プールに入れてもらったりして、懐かしい思い出になっている。なお、北浦和小で教えた子どもの何人かは、母の葬式に来てくれた。今年、75歳になっていた。
戦後、何年か経ち我々2人の子どもたちを育てるために、再び教職の道に入った。最初は、5年生を担任した。6年生まで担任し、卒業させた。そこで、10年間いて、4回ほど卒業生を出した。戦後の大変な時期に、母は、必死に働いた。家に帰ってきてからも、ガリ版に向かって、テスト問題をカリカリと切ったり、テストの丸付けをよくやる姿を思い出す。私が5年生になったときに、母も5年生の担任になった。同じテストを時々やらされた。あまりよいできでないことが多かった。そんな時は、「何でこんな問題が出来ないんだい。私の子なのに。」と言われたりした。事実その学級の子どもたちは、特にすぐれている子どもたちであった。開成や慶応の中学に行くような子もいた。母が言うには、「この時のクラスが、最も優秀な子が多くいたね。」と言うのが、口癖だった。そんな子どもたちと比べられたりしたので、たまったものではなかった。また、母は、教えることが好きで、クラスのためならと、教育実践を大切にする人だった。じっさい、私や弟の宏は、母に見てもらうことは、ほとんどなかった。それほど忙しかったのかも知れない。
小学校入学の頃
小学校は、与野町立本町小学校へ入学した。この学校には、政子叔母やせつ叔母や哲一郎叔父も学んだ学校である。まだ、戦争に負けて6年くらい切り経っていないので、校舎も粗末なものだった。でも、学校へ行くのが楽しみだった。となりの信ちゃんやその兄弟の重信ちゃん達と、いつも一緒に学校に向かった。冬の寒い日などは、となりのかっぱ屋の叔母さんが、石油缶の中に、燃えるごみと一緒にまきなどを燃やしてくれて、そこにしばらく暖まってから学校に向かったりした。歩いていくと、結構な距離である。子どもの足でも、30分近くかかったのではないかと思う。まだ、田んぼが結構あって、自然がたくさん残っていた。だから、帰りは、いつも道草をしながらとなりの信ちゃんと一緒に帰った。
★まだ、給食は始まっていなかったが、簡単なものがでた。脱脂粉乳といって、色は牛乳とあまり変わらないのだが、味は、ちっともおいしくなかった。少しずつ、おかずも増えていった。1週間に2回は、鯨の肉がよくでた。でも、みんなおいしく食べていた。
仲良しの信ちゃん
ぼくの家に、仲良しの「信ちゃん」という友達がいた。そのこの家も父親がいなく、5人兄弟の末っ子だった。その子は、鼻の下がいつも黒かったが、なぜなのかがしばらく経って、すぐにわかった。それは、ちり紙がなかったので、新聞紙で鼻をかんでいたのである。したがって、鼻の下が、新聞の印刷の黒い印刷の字がつき、いつも黒かったのである。
我が家も新聞紙をつかっていたが、ちり紙はあまり使わなかった。むしろ、トイレの紙につかった。かたかったので、手でもみほぐして、つかったのを覚えている。
ぼくは、この信ちゃんといつも一緒に学校へ行った。学校に行く途中は、田んぼがまだたくさんあった。かえるや、ザリガニなどがたくさんいた。したがって、学校の帰りは、いつもしんちゃんと一緒になると、田んぼや川で道草を作って楽しんだ。30分くらいで家に着くのだが、1時間以上かけて、かえることは、けっこうあった。誘拐だ、交通事故だと言うことは、ほとんど心配なかったので、家の人も心配していなかった。のどかな自然の中で、楽しんでいた。家に帰れば、かばんをすぐに放り投げて、外に遊びに出かけた。空き地や広場が結構残っており、三角野球、すもう、缶けり、かくれんぼ、おにごっこ、ベイゴマ、メンコ、たこ揚げ、ビー玉と何でも楽しんで遊んだ。そういう空き地に行けば、友達がすぐに集まってきて、その場で、何をするかを決めて、夜暗くなるまで遊んでいた。
従兄弟の4人が仲良しだった
母のすぐ下の妹に川越のおばさんがいた。そこには、3人の兄弟がいて、上2人が男で、下が女の子であった。猛ちゃんと私は、同じ年で、弟の宏の1才下が滋ちゃんだった。だから、この4人でお盆のときやお正月は、与野の家に集まるので、いつも楽しみにしていた。川越の叔母さんと一緒に滋ちゃんの2才下に恭子ちゃんがいたが、その子とは、あまり遊ばなかった。この男同士の4人が、いつも遊びの仲間だった。まわり将棋、金将棋、本将棋など必ずやった。本将棋は、猛ちゃんの方が強くて、いつも勝てなかった。その日に帰ることもあったが、叔母さんと恭子ちゃんだけ帰って、2人がとまることもよくあった。それがとても楽しくて、いつもたわいもない遊びをみんなで考えて遊んだ。猛ちゃんは、その頃ラジオの番組の江戸川乱歩の『少年探偵団』などを聞いていたので、チューニングの悪いラジオに耳を傾けて、みんなで聞いたりした。次の日になると、今度は、川越に僕ら2人の兄弟が泊まりに行ったりした。当時川越の家が、新しく建てたばかりの家で、玄関から入る廊下が、よくすべる廊下なので、靴下をはくと大変すべりやすかった。そこで、単純なすベリっこをして遊んだのも思い出す。また、川越の味噌汁は、みそが手作りみそで、与野の家の味噌汁とひと味違っておいしかった。帰りは、二人だけで帰ることもあったが母が迎えに来て一緒に帰ったりした。その頃の川越線は、ガソリンカーと言って、ディーゼルのガソリンで走る電車だった。また、時々SLの蒸気機関車が、時間帯によって乗ることが出来た。帰りは、母と3人で電車か汽車に乗るのだが、座席に座ると、母は、すぐに目をつぶり眠ることが多かった。その時の顔が、いつも淋しげな顔に見えたのだ。今考えれば、毎日必至になって生きていた母が、ほっとするのが、そんな時だったのかも知れない。私は、「お母さん、寝ているときは、淋しそうだね。」と言いたかったが、言わなかった。
5月3日(木)生い立ち・小学校2
道が遊び場だった
何しろ、戦争に負けて、食べる物もそんなにぜいたくに食べる時代ではなかった。自分の家だけでなく、みんな貧しかったのである。でも、みんなで、外で元気に遊ぶことだけは、みんな天才であった。ろじうらと言って、細い道は、子供らの遊び場であった。車などと言うものも、ほとんど走っていなかった。乗り物は、馬車や牛車が荷物を運ぶので残っていた。馬や牛が、道路のすみで一休みしていることもいつでも見られた。
家に帰ってからが楽しみ
遊びは、たてけい列で、一番上が6年生で、下が1年生と幅があった。「みそっかす」と言って、1年生くらいの小さな子は、何かして遊んでいてダメになっても、鬼にしない約束などができていた。そんなふうにして、5~10人くらいの子どもが、広場などに集まってきて、遊びを楽しんだものだった。ぼくは、そういう中で、「ガキ大将」だった。ガキ大将とは、みんなを楽しませるリーダーみたいなものだ。他の友達も、ガキ大将には、一目置いてくれた。
相撲大会
今でも印象に残っている遊びの1つに、遊ぶときは、縦の系列でガキ大将を中心に、集団でよく遊んだ。一番印象に残っている遊びに、相撲大会がある。上は、中学3年生で下は、私達小学校1年生が、大勢集まって遊ぶのだ。相撲大会は、楽しかった。雨が降っても遊べる、屋根付きの遊び場があった。そこに土俵を作り、みんなで相撲を楽しんだのだ。まわしは、藁で作った縄をこしに巻き付けて、ふんどし代わりにして、ズボンの上から巻き付けて、そこを掴んですもうを取った。勝ち抜き戦など、子どもなりに工夫して楽しんだ。この時の遊びは、本当に楽しかった。
落とし穴作り
良く楽しんだ遊びの1つに、落とし穴作りというのがあった。自分の家の小さな庭に、友達何人かとスコップで穴をほる。作り方は、穴を掘ったら、細い小枝を拾ってきて、穴の上を、おおう。そのあと、新聞紙をその上にしき、まわりを石で押さえる。最後に静かに土をかけておしまいだ。誰を落とすか相談をして、その友達を連れてくる。「幅跳びをしよう。」と誰かが言い出し、とんだ先に落とし穴がちょうど来るようにしておく。うまく落ちたときは、みんなでおおさわぎして、大笑いする。落とされた方も、一緒になって、笑い転げることが多かった。しかし、泣き虫の子などを落とすと、大変だ。その子が家に帰って、「豊ちゃんが、落とし穴を作って落とした。」と母親に告げる。その親が時には、怒鳴り込んだりしに来た。ぼくら遊び仲間は、そういう子どもとは、絶対に遊ぶのをさけるようにした。
アメリカザリガニの思い出
ざりがにとは、アメリカザリガニと言うのが正式な学問的な名前である。僕らは、ざりがにと言ったり、えびがにと言ったりした。このえびがにを、つかまえるのが楽しみの一つであった。たんぼや川などに住んでいて、その頃どこにいってもつかまえることができた。今は、たんぼにはほとんどいなくなってしまった。それは、農薬をたんぼに使うようになってから、このざりがには見られなくなってしまった。もちろん川などにもたくさんいたが、この頃は、気をつけてみないと、なかなか見付けることも難しくなってしまった。ぼくは小学生の時には、自分の家の近くに田圃や池があったので、よく二才下の弟と一緒に出かけたものだった。
このざりがにをつかまえるやり方は、二つあった。一つは、ざりがにの大好きなするめを餌にする方法である。それを、糸につなげてちょっとした棒に結び付けてやる。ざりがにようのつりの道具は、それで十分であった。餌がない時は、つり場の近くに行って、エサさがしと言うことになる。そのエサはカエルである。とのさまガエルと言う、カエルをつかまえてきて、それを、殺して皮をはいで、立派な餌になるのである。ずいぶん残酷なことをしたものである。こうやって、子どもたちは、休みの日だとか、土曜日も午後などに出かけていき、バケツ一杯のざりがにを、つかまえることも出来た。
もう一つの方法は、たんぼに直接行き巣を作っているところで、大変大きなざりがにをつかまえる事ができる。それには、ざりがにの巣を見付ける事が一番大切になる。この巣は、なれてくるとすぐに見付かる。それはたんぼの中に泥で作った糞の形をした物の中にすんでいる。ざりがには、日本中どこへ行っても、巣を作って住んでいた。エサは、お米の稲の根っこ等を荒らすので、農家の人は子供達が取ることをとても感謝してくれていた。この糞の泥まんじゅうをどけると、その下は、直径四~五センチくらいの穴が出てくる。その穴に手を突っ込むのである。そうすると、穴の下の方に大きなザリガニに触れる事ができる。なれてくると、そのまま手でつかまえることができる。穴の長さは、大きいもので、子供のうでの付け根当たりまで行くことがある。こうやって取ると、半日もしないうちに二十匹位のザリガニをつかまえる事ができた。
つかまえた物は、うちへ持ってきて飼う事が多かった。時には、テンプラの餌になるようなこともあった。このざりがには、家でも上手に飼う事ができた。ただし、餌をあまりあげないと、すぐにざりがにどうしで共食いをしてしまうので、気をつけて飼っていた。
大変元気な動物で、寒い冬でも元気に生きていた。洗面器に氷が張っても氷の下で元気良く生きていた。冬は寒いのでじっとして活発には行動しなかった。
一度母の勤めていた小学校のプールに離して、一年間そのままにしておくと、どのくらい大きく成長するかをやってみたことがある。母が小学校の教師であったのでやらせてもらったら、倍以上の大きさになってビックリしたのを覚えている。昔の子供達は、このように自然がたくさんあるところで生活していたことが、今の子供との大きな違いである。日本中どこでもこんな生活をしていたのである。その頃の農業人口は、50パーセント近くいたにちがいない。現在は、十パーセントをわっている。
親子3人のお風呂屋へ
また、今でも時々思い出すのは、おふろが家になかったので、近くの風呂屋に出かけた。大人15円、子ども8円だった記憶がある。母の仕事が、少し早く終わったときには、兄弟2人と母の3人で風呂屋に出かけた。小学校高学年まで、男風呂でなく、女風呂に入っていた。何しろ、男風呂は、時々浪花節などのうなり声が聞こえたりして、ちょっとこわかったのである。風呂から出ると、母は、いつも空を指さして、「あの白く帯のように見えるのが、天の川だよ。」と教えてくれたりした。冬の空は、なおさら星がいっぱい見えた。「あのひしゃくの形が、北斗七星で、ダブリュウがカシオペアで、あの北の空に光っているのが、北極星だよ。」と、楽しく語り合いながら、家に帰ってきたことを、なぜか鮮明に覚えている。あの頃の空は、よく星が見えたのである。
5月3日(木)生い立ち・ラジオとテレビ
相撲は、ラジオで聞いた
僕が、相撲に関心を持つようになったのは、栃若時代の少し前のテレビが少しづつお茶の間に、普及してきた頃のことである。それまでは、ラジオで相撲中継を聞いていた。前に書いた、力道山が外人レスラーを、空手チョップで倒していた頃の少し後になる。その頃、活躍していた力士は、東富士・千代の山・杤錦・鏡里・吉葉山らがいて、東富士が引退をして四横綱時代の話しである。松登・朝潮・信夫山・大内山・出羽錦・若乃花・北の洋・安念山・若羽黒・成山・鳴門海などという名前がすぐに浮かんで来る。大鵬や柏戸などが出てくるずっと前の話しである。最初は、ラジオに耳を傾けながら、熱心に聞いた。その頃いた行司で印象に残っている人でひげの伊之助と言う方は、良く覚えている。この頃は,今みたく定年制がまだない頃で、結構な年齢だったが、なかなかの貫禄であった。この行司さんが、栃錦対北の洋戦で、土俵際の際(きわ)どい勝敗を、北の洋の勝ちとした。しかし、物入りがつき行司差し違いで、横綱栃錦の勝ちとなった。今見たく、ビデオがある時代ではないので、検査役と行司の眼だけがたよりの時代である。これに納得せず、長い事土俵の上で話し合いをしていたのを良く覚えている。僕は、行司の方が正しいと見ていたが、結局差し違いで伊之助は謹慎処分(きんしんしょぶん)になって、しばらく休場してしまうのであった。この時の、理事長は、69連勝の双葉山の時津風であった。双葉山は1912年(明治45年)生れで、もう亡くなったが、いま生きていれば106才と言うことになる。連勝記録はいまだに破られていない。1年に1場所か2場所で、11日間だった気がする。そういう時代の、69連勝だから、今とは比べものにならないくらい体調管理が大事になる。その後、出てきた横綱で強いと思われるのは、大鵬・北の湖・千代の富士・白鳳位であろう。
近所の空き地が遊び場
あの頃、家に帰ってくると、近くの空き地に行き、良く相撲を近所の友達ととった。今見たく、アスハルトにおおわれていなかったので、土俵もすぐ作り、転んでも痛みはそれほど強くはなかった。雨が降ると、屋根つきの遊び場があり、そこに子供達は、集まってきて相撲大会をした。あの時、一緒に遊んだ子供達の集団は、上は中学生から下は僕ら小学一年生までであった。遊びを、組織してくれるのはガキ大将である子が、中心になって面倒を見てくれた。あの時の楽しさは、今でもよく覚えているし、僕が一番輝いていた時かもしれない。
ラジオが娯楽で1番
僕らの年令の世代の人達は、テレビよりラジオからの情報が最初であった。もっとも、テレビなどと言うものは、自分達の生活の中にはなかった。いまだに、新聞の「テレビばん」を見る時、「ラジオばん」と言うことの方が、なじみ深い言葉になっている。ラジオも今のように、声がはっきり聞こえるのでなく、はっきり聞き取りにくいものであった。どこの家にも、ラジオがあり、子供も大人も楽しみな番組はいくつかあった。僕は、祖母の影響(えいきょう)もあって、落語や漫才を聞いたり、浪曲などを聞いていたりしていた。あの頃、お金を使わない娯楽(ごらく)と言ったら、夕食後家族でラジオを聞くのが一番であった。また、じょうずで個性のある落語家がけっこう出てきた。三遊亭円生、桂文楽、金馬、桂枝太郎、金原亭馬生、柳家小さん、鈴令舎馬風、志ん生などと言う名人がたくさんいてそれぞれ、良い出し物を聞くことができた。まだ、あの有名な林家三平などが出てくる前の時代である。そのほか、今かすかに覚えているのが「一丁目一番地」「お笑い三人組」「三つの歌」「話の泉」をNHKでやっていた。民放では、「素人(しろうと)寄席」を牧野周一と言う司会者がやっていた。また、「赤胴鈴之助」に吉永小百合が出てきて、それ以来ずっとあこがれていた。
テレビの思い出
やがて、テレビのことが少しずつ話題になったりしてきた。でも、どこの家にもテレビはなかった。それは、街頭テレビと言って、駅の近くの人が一番に集まる広場に、一台だけそなえつけられていて、それを、大勢の人達が見ていた。おそらく、千人から二千人の人々が、一台のテレビに向かって、夜暗くなってから、見にいっていたのである。それは、日本国中の人々が、そんなふうにして見ていたのである。僕も、大勢の人々の中に入って、そのテレビの画面を吸いつくようにしていて見ていた一人であった。
あこがれの人「力道山(りきどうざん)」
夜の街頭テレビで一番印象に残っているのは、プロレスである。太平洋戦争に敗れ、日本中の人々が、心も体もズタズタにされていた時に、力道山が「空手チョップ」で外国人レスラーを徹底(てってい)的にやっつけてくれるのである。シャープ兄弟、ダラシン、オルテガ、キングコング、プリモカルネラなどと言うレスラーを次々に倒していくのである。その頃活躍した日本人レスラーとしては、遠藤幸吉、豊登、東富士などが出てくる。かなり前に亡くなった馬場や、まだ現役のアントニオ猪木が有名になるずっと前のことである。やがて、金持ちの家にテレビが一台入るようになってくる。そうすると、僕たち小学生は、何人かの友達を誘(さそ)って、夕方になると、「テレビ見せてください。」と言って、一時間くらいおじゃまするようになった。土曜の夜9時頃から、TBSで「ひまな氏飛び出す」と言う30分番組をやっていて、ちょっとした推理番組なので当時人気番組であった。それは、2週間で解決する「前編・後編」番組なので、毎週かかさないで見ないと、すじが分からなくなってしまうのである。その家の人も、親切に僕ら子供達を、家に上がらせて見せてくれたのである。矢野さんという家だった。そこには、娘さんが2人とあっちゃんという男の子がいた。
自分のうちにもテレビが
やがて、どこの家にもテレビが入るようになり、自分の家でゆっくり見られるのが、「豊かさ」の一つであった。小学生の頃は、買えずに確か、中学二年生頃に、買ってもらった記憶がある。その頃は、テレビにふたがついていて、かんのんびらきと言って、左右に開くのであった。また、映画を見るみたく電気を消して回りを暗くして、全員がテレビに向かって姿勢を正して見るのであった。相撲(すもう)の方も、テレビ中継されるようになって、人気もさらに出てきた。千代の山・鏡里・吉場山・栃錦の4横綱がいた頃である。栃若時代の前である。あの頃の番組では、「私の秘密」と「ジェスチャー」と言うのが視聴率三十パーセト前後をしめる超(ちょう)人気番組であった。「私の秘密」は司会の高橋恵三アナウンサーの語りがうまかったことと、ゲストで出てくる人が最後に「思い出の人」と、久し振りに会う所が劇的な幕切れで終わるのであった。今、1つ印象に残っているご対面は、金田一京助さんの対面シーンであった。たしか、若いころ、アイヌ語の研究で、北海道に行っていたときのアイヌの子どもとの対面だった気がする。60年以上前のことである。「ジェスチャー」の方は、水の江滝子と柳家金五楼のキャップテンが中心になり、ゲスト4人ずつ招いての争いになる。ことに、柳家金吾楼は、抜群(ばつぐん)の演技でみんな大笑いして見ていたのである。3人組と言えば「お笑い3人組」という番組も、NHKテレビで毎週放送された。落語家の三遊亭小金馬(現、金馬)、講談の一竜斎貞鳳、物真似の江戸屋猫八の3人組が登場する。最初は、ラジオ番組だったが、テレビに切り替わった。トニー谷と言う人もソロバン芸で人気があった。「あなたのお名前なんて言うの?」というトニー谷さんの呼びかけに、2人の恋人同士がでてきて自分たちの名前を最初に紹介して始まる。「雲の上の段五郎一座」の舞台は、祖母と見ながら大笑いした覚えがある。八波むと志さんと三木のり平さんの掛け合いは、おなかが痛くなるほど笑って見ていた。八波さんは、のちに交通事故で亡くなってしまった。元気なときに由利徹、南利明、八波むと志の3人で「脱線トリオ」というお笑いも楽しかった。
*5月4日(金)生い立ち・小学校転入
埼玉大学教育学部附属小学校へ転入
小学校3年生の時に、与野町立本町小から附属小学校へ、途中編入した。当時は、途中編入試験というのを、やっていた。その頃は、まだ与野に住んでいたので、与野駅から電車で北浦和駅まで行き、そこから歩いて学校に通った。優秀な子どもが多くいて、私は、そこで少しずつ自信をなくしていった。授業中指されると、顔をまっかにして、何も言えない子になってしまった。赤面恐怖症という病気だったのかも知れない。しかし、学校に慣れてくると、そういうくせは自然に治っていった。友だちとは、仲良くして、学校生活を楽しんだ。4年生になると、クラス替えもあり、そこで、色々な友だちができた。体育の時間に相撲を取り入れる先生が、担任になった。荒木恒則先生だった。相撲は、小さい頃からよくやっていたので、クラスの中では、横綱か大関だった。そのことも、自分に自信がついてきた。5年生になると、図工の得意な柴崎和夫先生になった。私は、小さい頃から、せつ叔母に図工を習っていたので、絵を描くことは好きだった。通信簿で言うと、5か4を、いつももらっていた。どの担任の先生も、それぞれ、思い出を作ったが、2年間担任をしてくれた柴崎先生とのことが、一番心に残っている。母は、卒業式の時に、柴崎先生に最後のご挨拶をしようと思っていたのだが、どうしてもそれができなかったそうだ。「胸がいっぱいになって、しゃべれなくなってしまったんだ。」と、卒業式が終わってから、ぽつりと、私に話してくれた。今から考えてみると、1つの節目に、色々なことを思い出したのだろうと、察しはつくが、その時はどうしてなんだろうと、不思議に思った。
母の帰りがいつも遅かった
祖母や母の妹2人や弟たちと一緒に暮らしていた。狭いながらも楽しい我が家だった。その間、母は、「教え子を戦場に送るな」というスローガンに共感し、日教組の運動にも関わり始めた。私が小学生の時には、浦和市教組の執行部に加わり、帰りは、いつも遅い毎日だった。当時の浦和市教組は、組合員が3000人くらいいた。そこで、母は、婦人部長(今は、女性部長)になった。その頃のことで覚えていることは、夕飯を食べ終わり寝る頃になっても母は、帰らなかった。祖母と一緒に玄関に出て、待っていても結局帰る姿は見えなかった。そんな時は、「もう遅いから、寝よう。」と言って、祖母と一緒に寝たり、母の妹たち2人の間に入って寝ることもしばしばだった。1957年の「学力テスト」反対闘争の時には、家に帰らず、そのまま職場に行ったということもあった。また、家庭科教育にも力を入れて、家庭科教育者連盟に加わり、教育実践にも力を入れ、日教組の全国教研にも何度か出かけた。また、家計を助けるために、家庭教師の掛け持ちなどをして、生計の足しにしたりしていた。母が、遅く帰ってきても、祖母がいたおかげで、私達2人兄弟は、安心して暮らすことが出来た。
浦和の県庁前の通りで
あるときは、こんなことがあった。学校の帰りに、県庁前を通りかかったときに、大勢の人たちがデモ行進をしていた。それも今のような、整然としたデモ行進でなく、激しいジグザグデモをくりかえしていたのである。みんな赤い鉢巻きをして、男の人も女の人も気勢を上げていた。何とはなしにそのデモを見ていると、その渦の中に母の姿を見つけたのだった。今から考えてみれば、全国の教師が、「勤務評定反対!」(勤評反対)と言って、一斉に立ち上がった闘争があり、埼玉県教組もその中で、果敢に闘っていた頃だった。その頃の埼玉県教組の井上委員長が逮捕されたりしていた。たしか、母親も戒告処分をされていた。やがてこの闘争は、裁判闘争になり、結局和解をして、決着した。母の戒告処分も取り消された。家に帰って来た母に、「今日県庁の前の通りで、ジグザグでもしていた?」と聞くと、「ああやっていたよ。」という返事だった。「あの中で、鉢巻き姿のお母さんの姿を見つけたよ。」と母に言うと、「よく見つけたわね。」と笑っていた。
与野から浦和へ引っ越し
与野から、浦和の別所沼地区の常盤町に引っ越した。その頃から、住宅ブームが始まった頃で、母が住宅金融公庫に金を借りて、新築の家を建てた。母の給料から考えたら、大変な借金だったが、25年ローンの1軒家に住むことになった。母にとっては、大変だったけど、一番充実していたに違いない。浦和の駅からは、歩いて20分くらいのところであった。そこで、中学、高校、大学と通い、結婚するまで、そこで暮らすことになった。
祖母が元気だったので、よく我が家に泊まりに来ていた。祖母も気ままなところがある人で、しばらくいると、いつの間にかいなくなり、他の自分の娘の家に泊まりに行ってしまうことがたびたびだった。私達も中学生と、小学校5年生になっていたので、祖母がいなくなっても、少し気になったが、そのままにしていた。
附属中学校へ
附属中学校へ入学した。今度は、電車に乗らずに、歩いて、15分くらいで、学校に着いた。従兄弟の松岡猛ちゃんも、中学の試験に合格し、入学式は、なかよしだった猛ちゃんと一緒に学べることがうれしかった。入学式が終わった後は、川越の叔母さんと猛ちゃんと私と母の4人で、どこかの食堂に入って、一緒に食事をしたことを覚えてる。1年A組になり、猛ちゃんは1年B組になった。あるとき、文房具を売る店が校内にあり、そこで、猛ちゃんが購買の叔母さんと何やら言い合って泣いていた。そのことをあとで、川越のおばさんに言うと、猛ちゃんと気まずくなり、以後学校のことについては、一切言わないことにした。また、2人が、従兄弟であることも言わないことにした。クラブ活動は、最初バスケットボール部に加入した。その頃は、体育館でなく、外で、練習した。1年間やっていたが、部内の人間関係がいやで、バレーボールクラブに転部した。勉強の方は、あまり成績はよくなかった。何しろ、男子の半分の50人近くが、浦和高校へ合格する。女子も50人くらいは、浦和第一女子高校合格する。クラスのどのくらいかはわからないが、家庭教師がついていたようだ。英語などにも、特別に習っている子もいたようだ。そんなわけで、まわりの子は、経済的にも安定していた。猛ちゃんは小さい頃から本好きで、頭もよかった。高校は、浦和高校に合格し、ぼくは蕨高校だった。
5月5日(土)生い立ち・高校から浪人へ
充実した高校生活
中学では実力が発揮できずに、高校は蕨高校に合格した。当時、蕨高校は創立4年目の学校であった。最初は、町立蕨高校だった。3年目か4年目の時に、県立に移行した。
新設高校のにおいが至るところに感じた。運動場が瓦礫がたくさん埋まっていて、それを全校生徒で掘り返すような作業が学期に1回くらいあった。私が入学したときは、5クラスだったが、そのあとの学年からは、8クラスになった。先生方は、熱心な先生方が多く、生徒一人ひとりに愛情を込めて教えてくれた。学期に1回実力テストがあり、学年30番以内の生徒の名前が張り出された。私は、そこに名前が出たくて、かなり勉強に熱を入れるようになった。数学が、代数と幾何に別れていた。どちらも解けると、楽しくなってきた。国語は、関根みよ子先生が、大変熱心な先生で、補習授業などもしてくれて、学習に関心がある生徒は、随分世話になった。おかげで、成績も少しずつ伸びて、学年実力テスタなどに、上位に入るようになった。
また、文化祭には、クラスで熱を入れて、必ず出し物を考えた。2年生の時には、「新竹取物語」を演じることになった。女役のかぐや姫は、私が演じた。その脚本は、島津嘉準君が担当した。夏休みになると、毎日のように学校に行き、脚本のことを、スタッフで考えた。スタッフのメンバーは、斉藤一夫君、島津嘉準君と私の3人だった。男子全員が、その劇の役に就き、当日を迎えた。全校の生徒がその劇を見てくれて、大好評だった。私は、かぐや姫を演じながら、観客が大笑いしてくれることが、うれしくてたまらなかった。島津君は、芸術はだの人で、絵を描くのが好きだった。文章を書くのも上手く、脚本は、彼が手がけた。芸大を目指していたが、結局大学は行かずに、一人で絵の勉強をしていた。収入がないので、色々な仕事で、家計をつないでいた。やがて、結婚し子どもができ、子どもの好きな昆虫を、木彫で彫った。それも、トンボやチョウチョを天井に届くくらいの大きさのものを作った。だんだん有名になり、20年くらい前に、久米宏さんのニュースステーションで取り上げられたりした。アメリカのニューヨークなどに行って、個展を開いたりした。1年前は、東京新聞で取り上げられ、1面を埋め尽くすくらいの記事で紹介されていた。斉藤一夫君は、ストレートで東京教育大に合格した。彼は、学生運動にエネルギーを費やし、ヘルメットをかぶり、運動に燃えていた。卒業し、小さな出版社を自分で作り、ついこの間まで、そこで働いていた。
3年生になっても、文化祭は、さらに充実したものを作った。戦争をテーマにしたものだった。歌あり、踊りあり、戦争中の兵隊生活ありの物語だった。最後に戦争に負け、女の人が、場末で、淋しく客集めをしているところで幕になる。この時の女役も私が演じた。この時の経験が、その後の教師になってからの「学芸会」で子どもと劇を作るのに随分役立った。こういうことに熱を入れていたので、大学の受験勉強は完璧ではなかった。
東京オリンピックでピークに
1964年、オリンピックが東京で行われた。どこの家もオリンピックを見るために、テレビを買い求めた。日本中がオリンピックで浮かれていた時に、僕はテレビなど見ずに、毎日暗い日々を過ごしていた。それは、大学受験にすべて落ち、予備校に通いながら一年後の合格を夢見ていたのであった。ラジオとテレビは、ぼくの生活といろいろな形で関わってきた。今でも、ラジオも時々聴いている。朝の満員電車の中では、ラジオを聴きながら、通勤していた。テレビは、報道番組を中心に見ている。
1年間の浪人生活
やがて、大学は、猛ちゃんは、東京工業大学に現役で合格した。私は、希望の大学にすべて不合格になり、1年間浪人生活を送ることになった。その年は、東京オリンピックの年であった。10月10日の開会式に向けて、日本中が大騒ぎしていた。しかし、私は、浪人生活で、必至であった。1年間浪人したからと言っても、次の年に合格するとは、限らない。武蔵予備校に1年間通った。予備校で1番力がついたのは、社会科の日本史と理科の生物の暗記教科が力がついた。数学と英語は、少し力がついた程度だった。当時、国立大学の受験科目は、5教科と決まっていた。国語・数学・英語・理科・社会だった。理科は、科学・物理・生物の中から1つ選ぶ。社会は、日本史・世界史・地理の中から1教科選ぶことだった。私立は、3教科が大半だった。国語・英語は必須であり、文科系はそれに社会が加わり、理科系は、それに理科が加わった。いずれにしても、5教科を受験するので、受験勉強は大変だった。浪人生活は、あまりいい思い出はない。午前中家で勉強し、午後になったら出かける方を選んだ。合格発表を母と一緒に見に行ったのだが、自分の番号があったときは、母に飛び付いて喜んだことを覚えている。まだ自分のうちに電話がない頃で、近所の宮尾さんのうちから、祖母に連絡したのを覚えている。
5月5日(土)生い立ち・大学時代
大学はバスケットボールに青春をかける
私は、埼玉県の浦和に長い事住んでいた。中学校も家から歩いて十分位の所に通っていた。クラブ活動は、バスケットクラブに入った。途中でバレークラブに入ったりしたが、高校になってふたたびバスケに入った。二年生の途中まで心も体も、ボールを追って過ごした。やがて、一年間の浪人生活の後、大学に何とか合格できた、4年間なにか一生懸命になれるものはないかと考え、結局バスケットに入ることに決めた。大学が我が家のすぐそばにあったりしたので、通うのは、いつも歩きか自転車のどちらかであった。休講(きゅうこう)と言って、授業がお休みの時は、家に帰って一休みをしにいく事もあった。1965年入学であるから、今から63年前の話になる。クラブは、授業の終わった後、午後4時過ぎから、7時くらいまでの3時間近く、毎日練習した。練習内容は、準備体操から入り、パス・ドリブル・シュートの三つの内容を組み合わせた物を色々織(お)り混ぜてやった。コーチは特にいなく、時々卒業した、先輩が見にきてくれた。部員は、15人位いた。運動部は、上下の関係がやかましいところで、言葉使いやあいさつをうるさく言われた。練習が一番厳しかったのは、夏の合宿であった。暑い夏にやるので、涼しい群馬県や栃木県の方へ出掛けた。合宿代は結構お金がかかるので、アルバイトでかせいだ。デパートの中元の配達は、大変だったが結構なお金になった。合宿は、一週間くらいだったが、朝から夕方までボールをおい続ける。3日か4日くらいたつと、足が棒のようになって、筋肉がつかれてきて、体を動かすのも気力でやる。練習中は、いつも声を出してやるので、一日の練習が終わるとのどもからからになる。最近の運動は、途中で適当な水分をとるというのが当たり前であったが、この当時は、途中の水分は禁止であった。夜は、ミーテイングと言ってその日の反省をする。
とにかく練習もきつく、練習前と後では、体重が3~4キロくらい減る。汗が相当出ると言うことだ。この練習を、4年間毎日やったお陰で、体力的には、大きな自信になった。どんなに厳しい練習も、このときのことを思い出すと、いつも乗り越えられる。練習後の水が、本当においしかったのも忘れられない思い出である。
私が大学1年生の時の3年生は4人いて、シュートドリブル、パスがみんな上手かった。私が2年生の時に、関東甲信越大会が行われた。そこで、見事に優勝できた。4人とも教育学部の体育科に所属していた。私が3年生になると、教育学部以外に、経済学部、理学部、と他の学部の生徒が入部してきた。結構上手かったのだが、理学部の人たちは、実験が多くなり、途中でやめていく学生も何人かいた。私は、4年間そんな気持になることはなく、卒業するまで続けることが出来た。
あれから、体重もずいぶん増え、筋肉もふやけておなかも出て、ちょっと悲しい体になってしまった。学生の時の体重より、ちょうど十キロ増えたことになる。
卒論で苦労したこと
私の担当は、石水照男教授だった。もう亡くなってしまったが、統計地理の専門家であった。男子4人女子4人が、先生の指導を受けることになった。しかし、私は、バスケットの方にエネルギーをつかっていた関係で、教授の所に相談にも行かず、自分の自力で研究テーマを決めて、それをまとめることにしていた。「埼玉県における、平地林の分布とその利用状況」というテーマだった。県庁の都市計画課に行って、平地林の分布面積の統計を見せてもらったり、それをどのように利用するのかを伺い、問題点などを考えて、自己流でまとめてみた。枚数的には、50枚程度にまとめたのだが、誰の指導も受けてなかったので、最後に教授に提出したときに、かなりの書き直しを言われて、これでは受け取れないようなことを言われてしまった。何とか書き直しなどをして、ギリギリ認めてもらった。だから、卒論には、あまりいい思い出はない。
心を奪われてしまった女性
最後に卒論仲間と、一緒に軽井沢にスケートに行ったりして楽しんだ。石水教授も含めて、卒業旅行を企画した。伊豆下田の「えりか荘」に1泊の旅だった。その旅が、本当に楽しかった。女子の中でS・Aさんという素敵な人がいた。私は、その人に完全に心を奪われてしまった。男子の何人かも、同じ気持ちだったに違いない。そのくらい素敵な子だった。一度、そのメンバーが、我が家に遊びに来たこともあった。また、彼女はI市に住んでいたので、S君と一緒に彼女の家に強引に遊びに行ったことも思い出す。そこで、鮒又のウナギをごちそうしてくれた。
I市の鮒又と言えば、当時有名であった。なぜ、知っていたかというと、この鮒又の家とは、祖母の旦那が親戚だったのである。だから、祖母が亡くなったときには、この鮒又から叔母さんが見えていた。
その後卒業し、それぞれ就職した。K君は、江戸川区へ。H君は、板橋区へ。S・Aさんは、北区の小学校へ決まった。学校が決まってから、S・Aさんに連絡して、池袋で会いたいと話をもちかけたら、OKしてくれた。お寿司屋に行った記憶がある。初めての担任になり、お互いに色んなことをおしゃべりして、別れた気がする。その後何回か、池袋で会った気がする。何回目かのデイトの時に、「今、職場で、警備員をしている方に声をかけられているの。とても気が合うの」というような趣旨の話をしてくれた。私は、その時に「良いんじゃないの。」というような返事をしてしまった。多分、一応私と付き合っているから、私の気持ちを確かめたのに、そんな対応をしてしまったのである。「それって、私と、お付き合いやめると言うこと。ことわってよ。」といえば、彼女は、私と付き合うことを続けたはずなのだ。それを、そんな返事をしてしまったために、彼女の心は、私から離れて行ってしまった。その年の12月に私が、豊島区のバスケットの大会で、ひざをひねって大けがをしてしまった。その時に久しぶりに、彼女に電話し、今三楽病院に入院していると連絡したら、すぐにお見舞いに来てくれた。2ヶ月の退院生活から解放されて、家に戻った。すぐにお礼をしたいので、会いたいと連絡したら、「もう会えません。」という返事だった。でも、どうしても会いたいからとお願いして、やはり池袋で会ってもらうことにした。それは、お別れの会になってしまった。あの時、私の鈍感な返事の結末だった。
5月6日(日)生い立ち・社会人へ
豊島区立池袋第三小学校
大学を卒業し、初めての職場が、決まった。背広にネクタイを締めて、希望に燃えて、学校の門をくぐった。4年生の担任になった。そこの職場は、9割以上の人たちが組合員だった。週に1回職員会議が開かれた。会の終わりごろになると、井上憲治先生が、黒板に「職場会を開きます」と書いていた。職員会議が終わると、席を立つ人は、校長、教頭と幾人かの人が、出ていった。やがて、その会が、組合の会議であることが自然にわかった。職員会議で、堂々と発言をする先生方が、ほとんど組合員の方だったのだ。
私は、この学校で、教育実践の様々なやり方を学んだ。同学年に日本作文の会の会員だった大須賀敬子さんがいたことも、その後の人生に大きな影響を受けた。その先生から、作文教育の大切さを教えていただいた。一枚文集の作り方、日記の書かせ方、班日記のやり方、赤ペンの入れ方、お誕生日特集、詩のノートすべて教わった。
何度かの巡り会いのあとで
それは、豊島区の互助会のスキーを楽しむ2泊の旅での出来事であった。同じ池袋第三小学校の中嶋一成さんの誘いで、初めてスキーに参加することになった。何しろ初めてのことであったので、スキーウエヤ-から板、ストック、手袋を、お茶の水までまで中嶋さんに付き合ってもらい、購入した。
何しろ初めてのスキーだったので、スキー靴を家から履いて、池袋の集合場所まで出かけた。我が家から、浦和の駅まで歩いて行くのに、大変な時間がかかった。その時、スキーというのは、大変なんだなあと感じた。リュックに入れていくことは知らなかったのだ。バスの1番前の方に席をとったことは、今でも覚えている。おそらく、私の姿を見て、こんな場所から、スキー靴を履き、スキーの服装で、バスの乗り込んでいたのだから、目立ったに違いない。
2度目の出会い
その時、以前組合の作文講座に参加してくれた、巣鴨小の女性が、同じツアーの参加者であった。初めて会ったときは、おかっぱのイルカさんみたいな女性で、何とも思わなかったのだが、2度目のその時には、髪の形もちがいあか抜けて見えたのである。スキー教室に入ったときには、偶然同じ教室であった。何しろ、向こうは、初心者でなく、何度か経験していたので、滑り方もかっこうよくて、すぐにその女性に魅了されてしまった。1日目にスキーを終えると、偶然その彼女は、職場の人と2人で来ていて、隣の部屋だった。私は、中嶋さんに頼んで、その部屋に行き、トランプか何かをしようと誘った。部屋をノックしてその旨を伝えると、何の抵抗もなく、部屋に入れてくれた。多分楽しく、トランプをしたに違いない。2日目は、彼女とだけしゃべりたかったので、それとなく伝えて、2人だけで、スナックのような所に行き、おしゃべりをした。当時、豊島区教職員組合に加入していたので、組合の話もした。その時に住所を聞くと、蕨に住んでいると言うことで、浦和に住んでいた私と割合近いことがわかり、電話番号などを聞いてその時は、別れた。
スキー教室を終えて
家に帰ってから、彼女と連絡を取りたくて、電話をした。それで、今度は、池袋の喫茶店で会うことにした。どんな話をしたのかは、もう忘れてしまった。その時に、彼女の方から、組合加入のために誘われたのかも知れないと思ってきてくれたのだ。まだ、彼女は、1年目で、非組合員であった。次にあう日を決めて、別れた。だんだん慣れてくると、週に、2~3回は、会うようになっていった。そして、いつの間にか結婚をしようという関係になって、5年間お付き合いが続いた。すぐに、結婚できなかったのは、同居するかどうかで、母親と揉めていたからである。最初に会ったときは、私は、29歳で、彼女は22歳だったと思う。5年も待たしてしまったので、遂に、同居は無理だと考えて川口に安いマンションを購入し、そこに住むことに決めた。それにしても、5年間も待たしてしまい、それまで待っていてくれたことは、本当にありがたいことであった。普通なら、自分から離れていってもおかしくない長さだった。
仲人は、国分一太郎さん
「榎本君。結婚するなら、仲人をしてあげるよ。」と約束していた。結婚式場もきまり、2人で、国分さんの家にあいさつに行った。田舎のうまいものを準備して待っていてくださった。「仲人をするのに、お二人のことを紹介するので、簡単な文章を書いて、私に送ってください。」とその時に自分達の簡単な「生い立ちの文章」を書いてくる宿題を課された。それぞれが、原稿用紙4枚程度にまとめて、何日か後に手紙で送った。
あとからわかったことだが、国分さんは、結婚式前に兵庫県の教研集会に記念講演で出かけていた。運悪く、帰る日に台風が西日本を直撃すると言うニュースが伝わり、新幹線などは、とまってしまった。講演が終わった前の日に、駅のホームのベンチに座り、電車が動くのを待っていたそうだ。そのことを、結婚式当日、私達を紹介する前に、感動的に話してくれた。「やっと1番列車が動き出し、新幹線の窓から、富士さんがはっきり見えたとき、何とか結婚式に間に合う、よかったなあと思いながら、今ここに立っております。」と言う趣旨のあいさつから始まった。そばで聞きながら、上手い話をされるなあと思いながら聞いていた。スピーチの最後の方で、国分さんは、当時日教組の「教育課程審議会」の委員であった。各教科の役員から、その教科の特徴などを調査し、何を大切に育てるかのことを調べていた。そこで、「榎本君のお母さんからは、教育課程の時には、たくさんのことを教えていただきました。」という趣旨のことまで入れて話をしてくれたのである。
最後に、この忙しい中で、私達のために色紙を書いてそれを結びの言葉にして下さった。
「いくはるあきを ふたりいくただにはるけきそのみちに まぶしきほどに ひかりあれ 国分 一太郎。」
その文の下には、国分先生得意の絵が描かれていた。若い夫婦が、すわって仲良く食事をしている絵であった。
母が最後にお礼のあいさつをしたときに、そのことに触れて、感謝の言葉で締めくくっていたことを思い出す。司会は、豊島時代からお世話になった深町さんがしてくれた。出席者の中には、滝の会のメンバーや大学時代のバスケット仲間、池袋第三小時代の先輩教師のみなさん方、他に中学時代の友人、小学校時代の恩師など多数参加してくれた。乾杯は、鈴木宏達さんが、やってくれた。小学校時代の恩師の柴崎和夫先生が、小学校時代の私の作文を読んでくれた。その中で印象的なあいさつをしてくれたのは、松浦俊昭先生だ。池三小時代の私との7年間の思い出を、感動的な文章で、読み上げてくれた。あまりにも素敵な文章だったので、それを、ずっと残せるように、プロに頼んで、経師屋に頼んだ。その時の文章を、ここに載せておく。
足あと
駒中とのバスケの試合。
執念のジャンプシュートそして捻挫
練習の厳しかったバレーボール
泳ぎっくらをした夏のプール
子どもたちや親の目を輝かせ、みはらせた
運動会での職員のかけっこ
最初で最後のサッカーの準優勝
あなたの腕は太く、ももの筋肉は盛り上がりふんまえた足は大きかった
楽器なしでやったリズム指導の研究授業
わらべ歌の劇
毎朝ならした輪転機の音。
あなたの文集作りは 夜中に始まって 朝に終わった
水道方式でやった算数指導
それらの実践を広く紹介した友社(雑誌「婦人の友」)での座談会
初めから最後の最後まで子どもの心をとらえ
子どもの真の理解者としての児童会活動での活躍
休み時間よく子どもたちと遊んだ先生
あなたの手は分厚く暖かだった
そして瞳も。
初めの頃は嵯峨と蒔田ずし終始一貫は一休そして今は黒潮で。
ほろ酔いに歌うあのわびしい歌声・・・
あの声は授業で子どもに語る声と同じだった
ときに「ヨシ!」とのかけ声、力強い本音の響き
その若々しさみずみずしさ
力・若さ・かしこさ・誠実・やさしさそしてわびしさのかげり。
わたしは去っていく貴男への想いでいっぱいです
1976年10月20日 榎本 豊先生へ 松浦 俊秋
結婚式が終わると、普段の日だったが、一週間職場を休み、ハワイへ新婚旅行へ出かけた。あの頃は、学校を休んで、堂々と出かけることが出来た。
5月6日(日)生い立ち・千香の誕生
すばらしい先輩教師がおられた
私と一緒に、この学校へ転勤してきた先生が、松浦先生だった。私は、この先生から、たくさんのことを教えていただいた。朝は、7時過ぎには学校の職場に着いていた。そこで、その日の授業の教材研究をし、みんなが出勤する頃は、職員室で、硯の墨をすって筆で字の練習をされていた。またときには、校庭を一人で走って体を鍛えていた。子どもたちともよく遊ぶ先生だった。放課後は、我々と一緒に職員スポーツを楽しんだ。卓球の達人で、誰も勝てる人はいなかった。その他、職員スポーツは、何でもみんなと一緒に楽しんだ。バレーボール、野球、サッカー、バスケット、卓球と何でも楽しんだ。汗をながしたあとは、ときには職員室で、冷たいビールをみんなで飲みあった。飲みながら、必ず「教育談義」になる。その日のクラスの子どもの話。何でも自由に語り合った。この時に出る話が、わたしには、一番勉強になった。ときに話が長くなりそうになると、誰かが「外で飲みながら話そう。」となり、池袋の近くの飲み屋に場所が動いた。そこで色々な約束事が決まった。例えば、「明日からバスケットの早朝練習をしよう。何時に集合ね。」と提案される。提案者は、いつも年長の松浦さんだった。だから年下の鈴木さんや石谷さんや中嶋さんや私は、そのことに同調する。「プールで1万メートル泳ぎっこをしよう」夏が終わると、「校庭のトラックを毎朝授業前に、10周以上走っておこう。」「卓球を毎朝やろう。」などと言うことが決まり、みんなそれに同調して楽しんだ。私が、池三小にいた7年間は、何かの目標に向かってみんな走り続けた。正月になると、そのメンバーの家を持ち回りで「新春放談」として楽しんだ。この会は、私が墨田区へ異動してからもしばらく続いた。
酒も飲んだが、教育談義も多かった
鈴木宏達先生からは、いつもお酒を飲みながら、組合の話、教育実践の話、何でも語り合った。1軒めでかなり飲んでいても「もう1軒行こう。」と誘われると、断らずに同行することがたびたびあった。そういうときは、鈴木さんの家までタクシーに乗って送り届けるのであった。奥さんがでてきて、「よかったら、あがって下さい。」となり、またしばらく話しに弾むのであった。奥さんも慣れた人で、「すみませんね。榎本先生。」といつも申し訳なさそうにあやまるのであった。今でも思い出す懐かしい出来事がある。それは、夏休みに、鈴木先生の提案で、東京から、九州の博多まで、新幹線でなく普通列車に乗り継いで、1週間くらい旅をした思い出がある。まさに「弥次喜多道中」だった。佐賀県の日教組の定期大会を傍聴したりした。会が始まると、天井からガスボンベが降りてきて、組合員の人が、「ああ!」と言ってその場が離れた。右翼が前の晩から天井裏に潜んでいたらしい。すぐに取り除いて、会が始まった。たしか宮之原委員長の時代だった。書記長か書記次長が、槙枝元文さんだった。日教組が、最も強くなる頃のことだった。最後は、博多の昔の職場で一緒だった人の家に泊めていただいた。大変な美人の女性だった。おそらく鈴木先生の好きだった人ではなかったのではないだろうかと、勝手に推察した。若い私が一緒だったので、何の抵抗もなく泊めていただいた。その後、鈴木先生とは、「滝の会」や国分先生の「こぶし忌」の会などには、亡くなるまでお付き合いしていただいた。
このほかに、音楽教育に熱心だった中嶋一成先生。どんなときにもお付き合いしてくれた石谷勝治先生。この先生方以外に、組合意識の高い先生方が、たくさんおられた。
千香の誕生
結婚して、子どもがなかなかできなかった。10年間も、出来なかった。もう、我々夫婦には、子どもが出来ないんだろうと、あきらめて、2人だけの人生設計を考え始めていた。ところが、ハレー彗星のように、我々夫婦に子どもが出来た。それが初めてわかったのは、柳島小学校で、授業をしているときに、「家から電話です。」教室に連絡が入った。職員室に降りていくと、「何だか、はっきりしてないんだけど、赤ちゃんが出来たみたい。ごみかも知れないけど。」と言う典子さんの声だった。その日は、深町さんと飲む約束をしていたので、たしか曳舟かどこかで飲むことになっていた。飲みながら、「まだごみかも知れないけど、子どもができたと連絡があった。」と伝えると、深町さんは、「それは良かった。」と言って、一緒に乾杯した覚えがある。
それから1年、板橋の病院で生まれたので、次の日に、蕨のおばあちゃんを車に乗せて、2人で見に行った。初めての対面の時に、千香の片目は、まだ完全に開いていなかった。それを見て、「片目のジャックだ。」とおばあちゃんが声を出して、笑った。病院から退院すると、しばらくは、蕨の家で、寝起きしていた。私は、毎日のように、蕨によって千香の様子を見に行った。夜泣きが激しくて、典子さんは、寝不足だった。千香が生まれて、蕨のひいばあちゃんが寝たきりだったのに、元気になったことには驚いた。私だけ、一人住まいであった。1ヶ月くらい過ごして、川口の家に戻ってきた。
典子さんは、1年間育休をとったので、毎日家で育児に関わっていた。今でも思い出すのは、千香を背中におぶいながら、台所に立っていたときの姿が、本当に幸せそうに見えた。蕨のおばあちゃんは、千香に会いたくて、蕨から自転車に乗って、よく会いに来ていた。土曜日や日曜日になると、こちらから蕨に出かけた。玄関を開けて、我々を迎える、おばあちゃんの笑顔が忘れられない。1才の誕生日の時に、浦和の叔母さんなどがお祝いに来てくれた。せなかに1升のお餅をしょって、歩かせたら、フラフラして歩いてみんなで大笑いしたのも懐かしい。その千香も、今年で29才になる。早く結婚してほしい。
日本作文の会への参加
教師になって二年目の夏、大須賀先生に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。全体会の開会式は、2000人以上の人々が、手弁当で集まってきた。高学年の詩の分科会に参加した。世話人は、江口季好さんと小沢勲さん。提案者は、京都の岡本博文さん。感動的な詩をいっぱい紹介して下さった。昼休みの休憩があり、午後の会が再開された。そのときに、世話人の小沢勲さんが、岡本さんの実践への感動を、詩に仕上げて、読み上げてくれた。昼休みの短い時間に詩を書いてきて読み上げた小沢さんにビックリしてしまった。岡本さんから、教師も感動するような本を読んだら、すぐ読み聞かせを勧められた。
野球帽をかぶって、参加していた小沢さんの姿が懐かしい。江口さんも、小沢さんも、岡本さんも、もうこの世の人ではない。
その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、一気に読み終えた。原爆投下後に書かれた子どもの作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。その中の一人の石田弘子さんは、小さいときに交通事故に遭われ、大変大きな傷を受けた。戸お母さんから、家庭訪問のときに説明を受けた。詩の表現がすぐれていた。
忘れられない詩を書いた子供達
原 爆 豊島区立池袋第三小学校 五年 石田 弘子
原爆のけむりは、
人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
「本当に、悪かった。」
と言っているんだ。
でも、広島の人のくやしさは、
今でも消えない。
きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
一人残された子どもは、
きっと、戦争をとめるだろう。
その時の気持ちがわかるなあ。
きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
1970年 10月31日発行 一枚文集 「太陽の子23号」より
詩の書き方など、たいして教えなかったのだが、「人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。」といきなりの書き出しが気にいった。読み聞かせをした作文の事実に、石田さんは、感動してくれたのだ。作文や詩を表現するのが人一倍優れた子であった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて一枚文集にして、クラスで読み合った。。
子供達に詩や日記や作文を印刷して、それをみんなで読み合うと、次の機会になると、文章表現力がどんどん伸びていくことがわかった。
わたしが、子どもと取り組み始めた最初の文集が、「太陽の子」と言う文集である。今でも、時々懐かしくなると、開いてながめる。閉じたわら半紙の色も、だいぶ色あせ、鉄筆で書いた字も薄くなって読みずらくなってしまったページもある。私にとっては、他の文集とともに宝物の一つになっている。この文集が、私の作文教育のスタートであった。
5月7日(月)生い立ち・平和教育の出発
豊島区教職員組合の執行委員に立候補
教師になって1年目の終わりに、組合に加入した。1週間に1度、職場会が行われた。そこで話し合われる内容が、いつも新鮮で、組合の大切さが、よくわかった。そこで、いつもリーダー的に発言するのが、松浦俊昭先生や、鈴木宏達先生だった。他にも組合センスのよい先生方がたくさんいらっしゃって、いつも職場会は、賑やかだった。やがて、3年間担任した子どもたちを卒業させると、2年生のクラスを担任することになった。同時に、組合の執行委員に立候補し、執行委員になった。毎週2時になると、執行委員会に出かけた。やがて執行委員の仕事は、結構大変であることがわかった。また、国会議員の選挙になると、社会党の腕章を付けて、ポスター貼りをしたり、ビラをまいたりして活動した。まだ、日教組が強かった頃なので、参議院の全国区に日教組から、2人が立候補する力があった。豊島区は、粕谷照美を支援した。毎日のように、池袋の駅で、立候補者の粕谷さんと握手をした。そこで執行委員の何人かが仲良しになり、学習会を開くようになった。最初は、田子さんと二人で、池袋西口にあった喫茶店「たきさわ」で日教組の定期大会の方針案を読み合った。その喫茶店の名前をとって、『滝の会』として、スタートした。メンバーは、最初は、5人くらいだったが、だんだん増えて、10人以上になった。やがて、1週間に1度会合を持つようになった。また、夏休みになると、合宿をしたりして、1人レポートをもって集まるようになった。いつも2泊3日くらいかけた。会員の1人が、八丈島に異動したときは、その年の夏に八丈島で学習会を開いたりした。たしか15人くらいが、今井さんの住む八丈島に出かけた。都教組の定期大会にも、代議員で参加した。そこで、他の支部には、発言の上手い代議員がたくさんいることを知ることになる。その中でも、墨田の内田宜人委員長の総括討論を聞いていると、鳥肌が立つほど感激して聞いていた。今度異動するなら墨田に行こうと決めていた。
豊島区から墨田区へ
7年間豊島区に勤めて、墨田区に転勤した。言問橋のたもとの小梅小学校という粋な名前の学校へ勤めることになった。地下鉄銀座線の浅草駅から歩いて、言問橋や吾妻橋を渡って通った。今から40年以上前の当時の言問橋は、橋のあちこちに黒い油のシミのようなものが結構残っていた。それは、東京大空襲の時に、そこに大勢の人々が集まり、逃げ道を失い川に飛び込んだり、焼け死んだりした、人々の黒焦げになったシミだと聞かされた。今、スカイツリーの立っている下は、大勢の焼け死んだ人々がそこで折り重なっていたという話を、当時そこから逃げてきた生き証人の滝保清さんに語っていただいた。
1945年3月9日の夜から10日の未明にかかけて、一度に10万人の人々が亡くなってしまった。亡くなった人々を、臨時で埋葬するのに、現在の隅田公園に埋めたという。何年か経ち、そのままではまずいだろということで、また掘り起こして、近くのお寺にいくつかに分けて埋葬したと言うことである。その掘り起こしの仕事をした人は、刑務所にいた人たちが強制的に働かされたと言うことも聞いた。
今でも、吾妻橋や言問橋のたもとには、3月10日には、お花が飾られ、お参りする人が、たくさんおられる。墨田区内の小学校では、「平和教育」を学校ぐるみで取り組んでいるところが、かなり残っている。語り部に来ていただいて、全校集会を1時間必ず教育課程の中に組み込んで取り組んでいるところもある。また、言問橋近くの「すみだ郷土文化資料館」では、学芸員の人たちが中心となって、大空襲を風化させないとして、体験者にその時の体験を絵にして毎年、それを展示している。
平和教育への出発
5年生の担任になったが、まだ、保護者の中には、大空襲の火の海の中を逃げたりした方もおられた。中には、満州から引き上げてくるときに、ソ連兵から逃れるために頭を丸坊主にして、男のかっこうで、日本に逃げ帰ってきたというお母さんもいた。
私の教育実践は、そこで決まった。年配の人たちから、昔の貴重な体験を聞き書きしようと決めた。聞き書きをすることによって、年配者から昔の貴重な話を聞き出すことができた。特に「戦争」と言うことを体験した話は、「生きるか死ぬか」の場面で、人々は、どのように向き合ってきたのかが、よく伝わってきた。戦争が始まると、人間の尊厳がすべて無視される。「人は、幸せに生きていく権利がある」ということが、いとも簡単に壊されてしまう。語る方の側も、今まで沈黙していたが、やはり語ることによって、生きる大切さを語る相手に伝えることができた。書かれた作品をクラスで読みうことによって、聞き書きの仕方を学べた。語った内容をさらにくわしく聞くために、再度質問したり、自分の考えをそこで入れる書き方も学べた。
この仕事を通して、大事なことに気がついた。それは、語り手の話し方が、抽象的でなく具体的であること。書き手の本人が、しっかりと聞き出し、そこに自分の考えも入れて書いていること。最後に、この2人の関係をしっかりと応援する担任がいて、聞き書きのポイントを事前に学んでいくことが大切になる。
退職するまで、墨田区に勤めることができたので、前半は、平和教育を後半は人権教育を学校ぐるみで取り組めるところまで、行き着いた。これらの作品は、今読んでもよく頑張って書いてくれたなあと、その子どもと語ってくれた人たちに感謝である。
年刊児童子ども文詩集(百合出版・今はなくなった)には、何人かの作品を、載せることができた。これらの作品は、ホームページに全文載っているので、ご覧いただきたい。
「えのさんの綴方日記」の「私の平和教育」を検索してほしい。
「お父さんから聞いた戦争の話」小梅小2年 池田純子 82年版
「先生から聞いた東京大空襲の話」小梅小1年鈴木理恵 83年版
「原博おじさんの戦争体験」 小梅小5年 中山建人 85年版
「母の姉は中国に」 立花小5年 遠藤昭城 01年版
心に残っている作品の一部
この中で、今読んでも心にジーンとくる作品の一部を紹介したい。それは、85年版に載った中山君が聞き書きした作品の一部である。母親の知り合いの原博おじさんが、兵隊にとられて、戦争体験者であることを知る。そこで、母親と一緒に、戦争体験の話を聞きに行く。事前に聞き書きする前に、担任の私と相談した。10項目ぐらい何を聞くかを箇条書きし、それを事前に相手の原さんに渡しておく。当日は、テープレコーダーを持参して、聞き書きを勧めた。中国・フィリピンと生死の間を彷徨いながら、日本に帰国して、肉親と対面するときの場面である。
帰 国
やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員泉の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。
中山君は、この文のあとに、「おじさんの受けた教育」と小見出しを付けて、なぜ戦争が起きてしまったのかを考えている。まとめとして「ぼくの思うこと」として、最後に、戦争に負けてから作られた「日本国憲法」等をしっかり学び、平和のありがたさを忘れないようにしたいまとめている。
作文教育は人間教育だ
聞き書きも、この作品が最後かなと考えていた。それは戦争に負けて40年もたってしまったから、聞き書きする人もいないだろうと考えて、しばらくやめていた。しかし、当時「作文と教育」の編集長をされていた本間繁輝さんからの依頼で、「平和教育と言うことで、取り組んでほしい。」と依頼されて、出来上がった作品が、遠藤昭城君の書いた「母の姉は中国に」。それは、私も初めて知る、歴史の事実から起きてしまった本当の話を、母親はずっと秘密にしていた。だが、子どもにせがまれて、初めて自分の生い立ちを語りながら、自分の本当の姉が、今中国にいて、まだ会ったこともないという話であった。遠藤君は、母に辛抱強く聞き書きをし、遂に完成してくれた。やがて、その作品をクラスのみんなで読み会う中で、大きくなったら、まだ元気なおばあちゃんを連れて、中国に行き対面させてほしいと、激励された。
やがて彼は大学に進学し、留学先を北京大学にして、そこで中国語を習い、母親やおばあちゃんを連れて、中国のまだ見ぬ母親のお姉さんやその子どもたちと対面することができた。5年ほど前に、その時の写真を持って、母親と遠藤君が我が家まで訪ねてくれた。作文教育は、子どもたちを賢くするだけでなく、人と人のつながりも大切にしてくれる。
この作品が一つのきっかけになり、本間繁輝さんを団長にして、田中定幸さんと私が副団長で中国に出かけた。日中文化交流協会の援助もいただきながら、中国の人たちと有意義な交流が出来た。
今回取り上げられなかった作品については、私のホームページ「えのさんの綴方日記」の「私の平和教育」「低学年の作文」「中学年の作文」「高学年の作文」「確かな文章表現力」等を参照していただきたい。
なお、私に作文教育を楽しく実践できたのは、サークルのおかげである。1970年に始まった豊島作文の会も、今年で48年目に入る。月に1回の例会が、この6月で、527回を迎える。(サークル紹介で、6月号に載る)このサークルで仲間とともに歩んだ蓄積は、私に作品の見方をたくさん教えてくれた。
最初の教え子達は、今年還暦を迎える。10年ぶりに3クラス合同の同窓会を開いてくれた。4月22日、池袋に久しぶりに集まった。彼等彼女らは、来年還暦を迎える。
5月7日(月)生い立ち・国分先生との出会い
わたしの中の国分一太郎
国分先生の自宅での理論研究会は、月に1回続いたが、途中から2週間に1度になった。10人以上のメンバーがいつも集まってきた。国分先生と一緒に教えていただいて、10年が経ち、そこで教えていただいたことを本にまとめることになった。出版社は、国分先生のお世話で明治図書と決まった。本の題名は、「今、何をどう書かせたいか」低・中・高学年の3部作となって出来上がった。それぞれの本の前半「第1部」の1「永遠の課題としての文章表現指導」、2は「『時代の課題』に答えていく文章表現指導」と言う表現指導の基本を、国分先生が書き下ろして下さった。第2部「私達の実践的視点と具体的展開」は、我々が、分担して書き下ろした。それは「指導題目」を書き、それにあった作品を紹介し、このような作品をこそ大事にしなければならないと結ぶ。本が出来上がったときに、表表紙の裏側のところに、国分先生は人一倍お世話にもなったので、次のような文を入れることにした。「この本を、古希をこえられた国分一太郎先生にささげる」とした。
この本の発行年月日は、1982年8月となっている。この本が出来上がったあとに、国分先生は、我々に次の学習課題を与えてくれた。それは、カード作りというものであった。ひとまとまりの文章の中の、すぐれているところを2文か3文取り出し、「叙述説明・描写」「なぜ高く評価するのか」「単語文の選択」「表現可能な根拠」という項目を作り、A4の紙1まいにまとめるものだった。最初は、見本を作って、我々の前に提示してくれた。この学習は、国分先生が亡くなったあとも続き、10年近く行われた。しかし、色々な課題が出来てこの仕事は、本にまとめることもしないで、途中で終わってしまった。そのことを、最近乙部武志さんが、もう一度あのカード作りは、挑戦した方が良いのではないかと訴えられて、最近は、このカード作りを始めている。今回は、やや長い間の出来事をまとめた説明的文章にしぼって書くことにした。従って、大人の文章も含めて取り上げることにした。
理論研究会は、国分先生が亡くなる、前の年の1984年の12月まで続いた。地元山形の東根では、亡くなった年から、「こぶし忌」という名前で、1年に1回研究会を開いてきた。わたしは、第1回だけは出席できなくて、そのあとは全部出席してきた。
こぶし忌に寄せて 2003年4月13日(日)
山形県東根市で、 国分一太郎さんの思い出を語る機会に恵まれた。その時にお話をさせていただいた内容を紹介したい。
初めての出会い
私が、国分先生の「思い出を語る」などという大役を、お引き受けすることになりました。まだ、先生との関わりが深い方がたくさんいらっしゃるのに、なぜ私に回ってきたのか、とまどっているところです。多分こぶし忌には、第1回の時に欠席した以外は、今回まで含めて、全部出席しているので、そのようなことでこの役目をすることになったのかもしれません。
私が国分一太郎先生と初めてお会いすることになったのは、全くの偶然です。先生の名前は、小学校教師をしていた私の母親の本箱などに岩波新書の『教師』や宗像誠也さんとの共著の『日本の教育』の著者と言うことで知っておりました。大学を卒業して、初めて勤めた学校が、東京都豊島区立池袋第三小学校でした。大学時代の4年間は、バスケットボールの燃えて、過ごしてきました。いわゆる体育系のスポーツ学生だったのです。四年生の担任になり、隣のクラスの担任が、作文教育をされていた大須賀敬子先生でした。その先生に、「作文教育やる気ある?」という誘いをうけました。「新卒の時には、何でもハイと返事をする方がよい。」と、大学の先生から言われていたので、「やる気ありません。」と返答できずに、「はい。」と返事をしてしまいました。それから、その先生から、すごい攻撃がどんどん押し寄せてきました。教師2年目の夏には、東京で「日本作文の会」の全国大会が開かれました。何にも知らないのに、宿泊係を分担して、全国の仲間のお世話をしました。そのときに、国分先生と初めてお会いした気がします。まだ、お話などできずに、遠くから見つめているだけの関係でした。やがて、いつの間にか、「豊島作文の会」などというサークルを作り、その仲間に加えさせられました。サークルを軌道に乗せるために、講演会をして、人集めをしようと言うことになり、国分先生にお願いしました。先生は、その年に「ヘルニア」の手術をされて、病み上がりであったのですが、わざわざ来てくださいました。そのときに話された作文の話が、私のその後の「作文教師」の道を、決定的にしてくれたのでした。1971年の5月、今から32年前のことでした。
先生の本をむさぼり読む
やがて、私は国分先生の本を次から次に読むようになりました。「新しい綴り方教室」「君人の子の師であれば」「しなやかさというたからもの」「日本の児童詩」「実践綴り方ノートⅠ」国分一太郎という名前が出ていれば、どんどん読むようになっていきました。「新しい綴り方教室」などは、私がまだ小学校1年生の時に発行された本でしたが、読んでいて大変新鮮でした。『きのう私は、私の家のうらの、私の家の畑の、私の家の桃をとってたべました。』「なんべんもくりかえす『私の家の』は、かんたんに、削りさってよい、よけいなコトバではないのである。かって他人のものを盗み、ドロボウ気があると、うたがわれたこの少年の心理状態を知っている、細心な先生だけが、この綴り方の深い意味を知ることができる。」このように解説した文章に、作文とは、単に子供に文章を書かせるだけでなく、子供の心の状態まで読みこなさなければならないと言うことを教えさせられました。
作文教育の神髄
子どもたちに「ひとまとまりの文章」を書かせていくと、ものをていねいに見たり、聞いたり、じっくり思い出すことも得意になりました。つまり毎日を生き生きと暮らす力がついてくるのです。「生きる力」などということを、やかましく文部省などが言うようになってきましたが、先生は「綴り方教育」を実践し、ものや事に具体的に関わらせていくと、「生きる力」などは、確実に身に付くと、戦前の実践から気がついておられたのです。どの本を読んでも、「胸のどきどきとくちびるのふるえ」を押さえることはできませんでした。子供の書かれた作文の一文一文をを具体的にとらえ、作品のおくに込められた子供の願いをしっかり受け止めなければならないことを教えていただきました。
しなやかさというたからもの
「しなやかさというたからもの」が発行された頃は、日本が高度経済成長の真っ最中の頃でした。子供たちの心や体が、大人の作られた便利さの中で、次々とむしばまれていく事への警鐘として、当時の子供たちやその保護者や学校の教師たちに発信されたメッセージでした。私が中学3年の時に、社会党の浅沼稲次郎委員長が右翼の青年に暗殺され、マスコミはこぞって子供たちに刃物を持たせないことを宣伝しました。鉛筆を削るのにも、鉛筆削り機ができ、切り出しナイフやボンナイフが取り上げられていきました。この本のはじめに、次のように書かれました。「〇子どものからだと手足のしなやかさ。○こどもたちの筋肉が神経とむすびつき、脳とむすびついたところでの、そのしなやかさ。○したがって、ものをつくったり、はこんだり、もとにもどしたり、かたづけたりするときの、こどもの身についたそのしなやかさ。」それぞれの章を「キル」だとか「とぐ」だとか「むく」などという動詞を見出しにして、この本をまとめられました。手先をしなやかにするためには、こどもたちの生活を、我々がこどもの時に普通にしていた原始的な生活を取り戻すように訴えられました。私は、そのとき以来、子どもたちには、鉛筆削りは、ナイフを使わせるようにしてきました。昔のこどもたちが楽しく遊んだ、剣玉やベイゴマを授業や遊びの中に取り入れてきました。1年間それを続けていきますと、こどもたちの体も心も、本当に「しなやか」になっていくのです。私は、何年生を担任しても、手先を器用にさせるために、このことを大切にしてきました。このようなことを継続していくと、物事に意欲的・積極的になっていきます。集中力も大変つくことにも気がつきました。
2度目の出会い
その勤めた学校は、職場の教育研究会も盛んでした。今回も参加されている、鈴木宏達さんも、その職場におられ中心になって活躍されていた方です。「校内研究会」では、外部から著名な講師を呼んで、教師の研修を深めておりました。その時に、国分先生に来ていただきました。先生と間近にお会いするのは、この時が初めてでした。その時は、文学作品の読みをどう深めるて指導するかというお話を、先生にしていただいた気がします。私のつたない実践がたたき台で、話していただきました。「かわいそうなぞう」という作品でした。新卒四年目位の年でした。いい加減な私の実践を、励ましていただきました。文学作品の読みの大事さも、そのとき教えていただきました。
先生のお宅での研究会
やがて、東京や神奈川や千葉の教師が連絡しあって、国分先生のお宅で勉強会をお願いしようとなったようです。今はこの世の人でなくなった永易実さんや関口敏夫さんが中心におられました。私も途中から参加を許可されて、月に一度の研究会に出られるようになりました。今作文の会の副委員長をされている田中定幸さんや国分先生のご長男の真一さんの奥様になられているヒロ子さんもまだ、20代でした。この会は最初、日本作文の会の常任委員の人は参加できませんでした。乙部武志さんや本間繁樹さんなどは、ずいぶん経ってから参加するようになったと記憶しております。この会は、土曜日の二時半頃から始まる会でした。会は、提案者がおり、そのレポートをみんなで討論して進める会でした。その時、先生は、最初はいつも黙って聞いておられました。会の最後の方になると、そのレポートをまとめて、理論化してくださるのが、先生の真骨頂の場面でした。「君たちは、この会を単なるサークルと思わないでほしい。作文教育を理論化して、だれにでもできる理論を打ち立てるぐらいの気構えでやりなさい。」したがって、「この会を『綴り方理論学会』と名前を付ける位の気持ちでやりなさい。」と我々を激励されていました。この会で学んだことを、『いま、なにをどう書かせたいか』と低中高の三部作の本に、出版することができました。この本は、指導題目をたて、それに見合った指導過程をふみながら、『ひとまとまりの文章を』書かせていく本でした。先生が七十歳の年を迎えたときに、『この本を、古希を迎えられた国分一太郎先生にささげる』というタイトルを付けました。出版するのに先生がずいぶん苦労されたのに、できあがると本当に嬉しそうに喜んでくださいました。先生は、日本作文の会を大きくするためには、理論化して、系統的な指導計画を作り、誰にでもきちんとできる方向性をいつも視野において、この会も大事にしておられました。七十年代、八十年代前半までの「日本作文の会」の「作文と教育」は、巻頭論文にしろ、実践報告文にしろ、その方向性がはっきり出ていたものでした。事実この頃の「作文と教育」が一番発行部数も多い頃でした。
会が終わると、おいしい手作り
先生は、「君たちが勉強する気があるなら、月に二回やろう。」と途中から言ってくださいました。やがてこの会は、月に二回持つようになりました。それほど、先生はこの会を大事にされていたのではないか、それと同時に「日本作文の会」のことを常に心配されていたのです。私たちは、この会でもう一つ楽しみがありました。それは、会が終わると、先生は台所にたって、「いなかのうまいもの」を作ってくださり、それを肴にして、おいしいお酒を振る舞ってくださるのでした。ある時は、庭に芽を出したフキノトウであったり、アケビであったり、納豆汁でありました。奥様の久枝さんもときどき顔を出されて、ていねいな挨拶をして歓待してくださるのでした。そのとき、先生のアルコールは、いつも決まっていました。「焼酎のお湯割り」でした。今では、飲み屋に行けばどこでも出してくれますが、この飲み方は、先生が広めたのではないかと考えてしまいます。そのお酒の席になると、先生が一番みんなと楽しんで語らう時でもありました。私などは、まだこの会では、いつも緊張してしゃべるのもなかなかできずに、参加しておりました。しかし、こういう席になると、私などのようなものにまで気軽に声をかけて、気を遣ってくださるのも先生の人柄でした。私たちは、この『綴り方理論研究会』を先生が、1985年の北海道での日教組教育研究全国大会の日本語分科会で倒られるまでお世話になりました。私たちは、なくなられる前の年の暮れの十二月に先生のところでいつものように会を開き、それが先生との最後の別れになってしまいました。なくなってからも、先生の遺志を継いでいこうと言うことで、今は、乙部武志さんのところで続いております。
*5月8日(火)生い立ち・2人の巨人との別れ
松浦俊秋先生の訃報 Edit
いつも一番お元気で、電話をすると元気な声で「お体大事にしてますか。」と丁寧なあいさつから始まり、一番長生きするのではないかと考えていたが、年には勝てずに80才でなくなった。連絡は、鈴木宏達さんからであった。私は弔辞のつもりで、文章を書き、のちほど奥様へ手紙にして送った。
松浦俊秋先生 あれから35年経ったのですね
1969年4月、希望に胸膨らませて、はじめての学校に向かった。
その時に校長室で、先生とお会いしたのが、最初であった。
学校現場は教育実習ではあったが、何でも初めての体験だった。
朝の打ち合わせから始まり、放課後の自由な時間まで、緊張の連続だった。
「榎本先生、いつでも私の授業を見にいらっしゃい。」
松浦さんの優しい眼差しを今でも覚えている。
突然おじゃました授業は、いつも新鮮だったし、プロの授業だった。
こどもたちの真剣な授業への取り組みを見て、いつも圧倒された。
朝の打ち合わせや職員会議の議論の中心に、いつも先生がおられた。
その一言ずつの発言を聞きながら、いつもうなずくぼくだった。
職員会議の終わったあとは、いつも職場会が開かれた。
組合の先生方が集まり、そこで何でも語り合う会であった。
ほとんどの先生方が、組合員であることも驚きだった。
その輪の中心にやはり先生の姿があった。
ぼくらはやがて職員スポーツに燃えた。
バレーボール、野球、サッカー、卓球、バスケットボールと何でもこなした。
終われば職員室で、おいしい酒を飲みながら、教育談議であった。
話が盛り上がると、時には居酒屋へ行って、その延長戦が続いた。
このときの話は、今のぼくの教師生活の背骨のようなものになっている。
先生は、いつもアイディアマンだった。
夏のプールが始まると、こどもたちが帰ったあとで、「教師の泳ぎ比べ」を提案した。
当時四十代組と二・三十代組が三人ずつに分かれ楽しんだ。
夏が終わると、おかでのマラソン長距離競走の提案があった。
ぼくらは、その提案にすぐにのり、毎朝一時間くらい早く登校して、校庭を走った。
そんな身も心も充実して、突っ走った。
そんなある時、職員会議があった。
疲れからか、ぼくはちょっとばかり、睡魔に襲われた。
右の太ももをつねられて、目がさめた。
となりを見たら、松浦さんがにやりと笑っていた。
あれから七年間、ぼくは先生の影響をたくさん吸収して、転勤した。
その後、ぼくらは一年に一回正月に集まり、「新春放談」を開いた。
この集まりが、ぼくにとっては、一年の始まりの会で、いつも楽しみだった。
今年の集まりは、先生が主催者で池袋の北京飯店であった。
石谷さんが体調不良で欠席だったが、いつも通り元気のある先生の話であった。
毎年いただく年賀状も、健康を大切に貫く精神が書かれていた。
病院に行かないことも、先生の自慢であった。それが今回の還らぬ人になって仕舞われた感じがする。
腸閉塞なんて、今の医学では簡単に処置できたのではと、
悔しくてたまらない。
どうぞ、松浦俊秋先生、「安らかにお眠りください。」とは、言わない。
向こうの方にいっても、また張り切って、新たな提案をして、
自分自身に叱咤激励されて、充実の日々を過ごしていただきたい。
ぼくもこれから、先生に教えられたように、
「夢に向かって突っ走れ」で歩いていきたい。
ぼくの教師生活にもっとも影響を与えてくださった松浦俊秋先生にささげる。
2004年 9月4日
松浦先生の2年後に、今度は、鈴木宏達先生が亡くなった。亡くなったという電話を奥様からいただき、弔辞を読むように頼まれた。
弔辞 鈴木宏達さんへ
今から、37年前の4月、僕は大学を卒業して初めての小学校教師になった。明るい夢や期待を持ちながら、その学校の門をくぐった。豊島区立池袋第三小学校の四年生の担任になった。担任したこどもたちの前の担任教師の中の一人が、鈴木宏達さんだった。23才の新卒教師と、43才のベテラン教師の出会いだった。僕らは、「ひろさと」さんとは呼ばず、「こうたつ」さんと言っていた。
やがてその学校の教師集団が、教育実践でもすぐれた教師がたくさんおられることに気がついていった。職員会議で生き生きと発言する中に、鈴木さんがいつもおられた。職員会議が終わると、職場会が必ず開かれた。管理職の人がいなくなり、ほとんどの教師が残り、職場の様々な問題を語り合う場であった。その話し合いの中心におられたのも鈴木さんだった。やがてこの会が組合の会議であることに気がつくのに、時間はかからなかった。
当時生活指導主任と豊島区教職員組合の副支部長をされていた。その忙しい日々の中で、僕らは、教職員のスポーツも楽しんだ。バレーボール、野球、サッカー、バスケットボール、卓球と何でも汗を流しあった。その後、職員室に戻り、おいしいお酒を飲みながら、教育談議に花が咲いた。その輪の中に入りながら、教師になった喜びを感じながら、鈴木さん達先輩教師の話に耳を傾けていた。話が盛り上がり、もう少し語り合おうと、場所を変えた。池袋西口近くの飲み屋に集まり、その延長が続いた。僕は、その話の一つ一つが、明日の教育実践のエネルギーになっていった。
夏になると、僕らはプールで一万メートル挑戦の泳ぎ比べに燃えた。二十代の若者教師グループと40代壮年グループとの争いだった。若者グループがいつも勝っていたが、最後は鈴木さん達、壮年グループに負けた。夏が終わると、校庭の十万メートルに同じように競い合った。朝早く来ると、すでに走っているのは、壮年グループであった。僕らも刺激されて、同じように毎朝走る仲間も出て、一汗流しながらその日が始まるのであった。
鈴木さんは、こよなく酒を愛した。池袋西口は、鈴木さんのなじみの酒場がいくつかあった。「一休」や「おもろ」や「豊田屋」等に良く連れて行っていただいた。そこで語り合うことは、教育実践の話であり、組合の大切さの話であった。砂川基地反対闘争に参加した話。石川達三の「人間の壁」の話。都教組が、一日振り替え闘争で、ストライキをしたときのさわやかな話。話をするときの、鈴木さんの語りや顔を今思い出している。やがてその話の中から、生活綴り方の国分一太郎さんや片岡並男さんとの出会いの話が語られた。鈴木さんの幅広い人間関係は、教師になった頃にすでに、培われたことが良くわかった。
教師3年目頃だったか、鈴木さんと二人旅を一週間ほど楽しんだ。途中で、九州の佐賀県の日教組定期大会を傍聴した。佐世保では、昔の同僚だった女性の方の家に泊めていただき、歓待していただいたのも懐かしい。
やがて僕らは、豊島区に作文の会や組合を強くする滝の会を作っていった。鈴木さんに後押ししていただいた作文の会も、この4月で407回目の例会を終えた。36年間続いている。滝の会は、豊島区の二十代の若者教師が、十数人集まって作った会だった。やがて僕らは、そこに鈴木さんや隈部さんという組合にくわしいお二人を招き、リーダーになっていただいた。この会は、月に何回か開かれ、夏や冬は合宿が開かれた。その会でも、いつも豪快に酒を飲むのも壮年のお二人であった。この会は、異動でバラバラになったが、最近は、年に一回は開くようにしていた。昨年の11月18日、鈴木さんが何冊目かの俳句の本を出版した。「今度の本が、最後になります。」と添え書きがしてあったので、本の出版のお祝いをしようと、七人のメンバーが集まった。しかし、今から考えてみれば、あの会が最後の会になろうとは、この会に出席したものは、誰も思わなかっただろう。
国分一太郎さんが亡くなった後に、毎年4月に山形県の東根で「こぶし忌」と言うしのぶ会が開かれていた。その会でも、鈴木さんに毎年お会いできるので、楽しみにしていた。今年は、さくらんぼの実の熟す七月に開くので、連絡しようとする矢先でもあった。
池袋第三小学校の気の合う仲間が、年に一回正月に集まって語り合う「新春放談」と言う会が、今年の一月も行われた。酒の量は減ったが、元気に語り合い別れたのが、最後の場になってしまった。
鈴木さんは、現役の時もいつも元気であったが、退職してからも、エネルギッシュに活躍されていた。現役の頃から、児童文化にくわしく、東京都小学校児童文化の理事、全国小学校児童文化研究会の事務局長、全国教職員文芸協会の会長を長らく勤め、最近は小品集の選者をお一人でされていた。
また、現役時代は、東京都教職員組合の本部の役員をされたり、板橋区や豊島区では、書記長や副支部長をされた縁もあって、東京都退職組合の会長を長らく勤められた。最後は日教組退職組合の会長を4年間も勤められて、全国を回っているんだと嬉しそうに話す顔を思い出す。
大学を卒業して以来37年間、文字通り僕の教育実践の背骨になるところを作ってくださったのが、鈴木宏達先生だった。この三月で、六十才になり、僕は定年退職を迎えた。これからたくさんのことを学ぼうとしたのに、それが出来ないことが、悔しい。
この4月、東京都教育委員会は、「職員会議では採決するな」という民主主義に対決する乱暴な指示文書を現場におろした。鈴木さん達がこよなく大事にされてきた「教育基本法」の改悪が国会に上程されようとしている。「国を愛すること」を強制しようとしている。このような波乱の時代に、先生が去ってしまうことが、残念の極みだ。
だから、「鈴木宏達先生安らかにねむってください。」とは、言わない。天国から、「何やっているんだ。」と叱咤激励していただきたい。
「こうたつ先生」さようなら。
2006年 4月19日(水) 告別式の日に
*5月10日(木)生い立ち・思い出の作文その1
思い出の作文
早く帰って来いよ お父ちゃん
豊島区立池袋第三小学校
6年 山 本 学(仮名)
夜中の三時頃トイレに起きた。
おしっこをしていたら、何かが聞こえた。
足音だ。
トコトコトコ
「あっ、お父ちゃんだ。」
げんかんあけてやろう。
ガチャン。
あけといたまま寝た。
ふとんの中で、
「お父ちゃん もっと早く帰って来て、四人でごはん食べよう。」
1972年 3月作「太陽の子」146号より
この詩を書いた山本君は、今回の卒業以来27年ぶりに開いた同窓会の司会をしてくれた。もちろん幹事として、大いにふんとうもしてくれた。一週間前の11月24日(日)の日に、当時3クラスあった学年の同窓会を開いてくれた。。学年で120人くらいいたが、30数名の子どもたちが集まってくれた。半分以上の子供達は住所が変わってしまい連絡が取れないと言うことであった。ぼくにとっては、大学卒業して初めての子供達であった。その子供達を4年から3年間、続けて担任することが出来た。その子供達も、今年四十二才になる。卒業以来初めてあう子供達もいた。自分のクラスは、十年に一度は必ずやってくれていたので、すべてのこどもの名前と顔は一致できた。ところが、となりのクラスの子供達は、卒業以来初めての子どもと言うことで、ほとんどの子供達の名前と顔がなかなかつながらなかった。しかし、色々話をしているうちに、「あの子はサッカーが得意だった。」「あの子は、一番前にいて、髪の毛が少し茶色っぽい子であった。」「あの子は、水泳の得意な子であった。」などと断面だけが、少しずつ浮かんできて思い出すまでにずいぶん時間がかかった。しかし、向こうはわたしに対して、色々と思い出を話してくれるのだが、とうとうはっきりと思い出せないこともあって、大変申し訳ないことであった。となりのクラスであると、よっぽど印象に残っている子でないと、なかなか思い出せなかった。
卒業してから強いつながり
この詩を書いた山本君は、わたしにとって忘れることの出来ない教え子の一人である。高校に入学してから、何かの理由で退学処分になった友人をかばって、何とか学校へ呼び戻そうとして、学校側と対立するようになって、自分も処分されそうになって、この子の母親から相談をされたことがあった。「学校だけは、絶対にやめてはいけないぞ。」と言うぼくとの約束を守って、何とか卒業してくれた。その後国鉄に入社して、あこがれの電車の運転手を目指して一生懸命働くが、国鉄の民営化路線で国鉄を辞めるか、鉄道公安員になるかの選択に迫られていた。そのつど、我が家に来てぼくの意見を聞きたいとたずねてくるのであった。彼は当時の国鉄の労働組合に入っていたので、そのまま残ることは厳しいという選択をしなければならなかったのである。やがて、鉄道公安員として残り十年間くらいそこで心と体を大いに使い、仕事をしていた。
柳島小に勤めていた頃、秋葉原の駅で降りるときに電車の網棚にカバンを載せたままおりてしまい、大変困ったことがあった。カバンの中には、子どもたちから集めた剣玉などの集金が、5万円くらい入っていたのである。朝のラッシュアワーと言うこともあって、カバンを探すのは無理という駅員の忠告にあきらめきれずに、学校へ急いだ。さっそく彼の所に電話をして、何とか見つからないかと頼んだのである。 次の日の夕方、「先生終点の鶴見の駅で預かっているから、すぐに取りに行くと良い。」と言う電話をくれた。彼は、駅に色々問い合わせをしてくれたおかげで、あきらめていたカバンが無事に戻ってきたのである。教え子とは、ありがたいものであると、その時も感じたのである。
この詩にたくされた本当の願い
実は、最初にのせた詩のことであるが、心にジーンと来る詩であったのでさっそくのせてみんなで読み合った。卒業して、二十才くらいになったときのクラス会を開いてくれたおりに、「先生あの詩の意味わかる?」と、ぼくに問いかけてきた。お酒も少しはいっていたので、彼はどうしてもあの詩のことがぼくに言いたかったのであるという。「でも、先生はあの詩のことを、うんとみんなの前でほめてくれて、生きる自信になったんだ。」とつけ加えてくれた。生き生きと働いているようだ。我が家に十年ぶりに娘が生まれたときも、その時の同級生を十人近く連れて、お祝いに来てくれたのも彼であった。今回の同窓会の名簿を我が家に仕事が終わってから夜遅く取りに来て、ひとしきり楽しい話をしていった。妻も彼のことは良く知っているので、娘を交えて、生まれたばかりの娘を抱いている彼の写真を見ながら、教え子って良いものだと、お酒がふだん以上においしく感じられた。
来年は還暦
あれからまた月日が過ぎ去った。もう彼等も、来年は、還暦を迎える。先ほどの詩であるが、この詩の本当の意味は、もう一つある。それは、彼の父親は離婚をして、家からでていったのである。だから、詩の本当の意味は、また戻ってきて、一緒に暮らそうという意味があったのだ。そんなことは、まったくわからず、クラスのみんなで読み合っていたのだ。この子達が卒業したときに、子どもたちと卒業旅行を計画した。その時、彼の父親が付き添いで、一緒に参加してくれた。気さくな父親で、1日を色々子どもたちのめんどうを見ていただいた。おそらく父親は、罪滅ぼしで、この日に来てくれたのだろう。彼も久しぶりの父親と一緒に、1日を楽しみ、心に残った日になったに違いない。
なお、彼は、国鉄の職員になり、組合員で仕事に精を出していた。しかし、国鉄の民営化路線にぶつかり、どうするかを悩んでいた。結局鉄道公安員として残り、そこで10年間くらい勤めた。そのあと、警察官に転勤し、交番のおまわりさんになった。そこでも、何年か勤め、今は、刑事になり、山口組の暴力団の対策で日夜奮闘している。
今回、久しぶりに、同窓会を開いてくれた。その時も、生き生きとした司会をして、みんなを盛り上げてくれた。
この詩にたくされた本当の願い
実は、最初にのせた詩のことであるが、心にジーンと来る詩であったのでさっそくのせてみんなで読み合った。卒業して、二十才くらいになったときのクラス会を開いてくれたおりに、「先生あの詩の意味わかる?」と、ぼくに問いかけてきた。お酒も少しはいっていたので、彼はどうしてもあの詩のことがぼくに言いたかったのであるという。「でも、先生はあの詩のことを、うんとみんなの前でほめてくれて、生きる自信になったんだ。」とつけ加えてくれた。生き生きと働いているようだ。我が家に十年ぶりに娘が生まれたときも、その時の同級生を十人近く連れて、お祝いに来てくれたのも彼であった。今回の同窓会の名簿を我が家に仕事が終わってから夜遅く取りに来て、ひとしきり楽しい話をしていった。妻も彼のことは良く知っているので、娘を交えて、生まれたばかりの娘を抱いている彼の写真を見ながら、教え子って良いものだと、お酒がふだん以上においしく感じられた。
さらに月日が経って
あれからまた月日が過ぎ去った。もう彼等も、来年は、還暦を迎える。先ほどの詩であるが、この詩の本当の意味は、もう一つある。それは、彼の父親は離婚をして、家からでていったのである。だから、詩の本当の意味は、また戻ってきて、一緒に暮らそうという意味があったのだ。そんなことは、まったくわからず、クラスのみんなで読み合っていたのだ。この子達が卒業したときに、子どもたちと卒業旅行を計画した。その時、彼の父親が付き添いで、一緒に参加してくれた。気さくな父親で、1日を色々子どもたちのめんどうを見ていただいた。おそらく父親は、罪滅ぼしで、この日に来てくれたのだろう。彼も久しぶりの父親と一緒に、1日を楽しみ、心に残った日になったに違いない。
なお、彼は、国鉄の職員になり、組合員で仕事に精を出していた。しかし、国鉄の民営化路線にぶつかり、どうするかを悩んでいた。結局鉄道公安員として残り、そこで10年間くらい勤めた。そのあと、警察官に転勤し、交番のおまわりさんになった。そこでも、何年か勤め、今は、刑事になり、山口組の暴力団の対策で日夜奮闘している。
今回、久しぶりに、同窓会を開いてくれた。その時も、生き生きとした司会をして、みんなを盛り上げてくれた。
11月24日(火)老人ホームへの感謝の手紙
まどか中浦和の皆様へ
この度は、母の思い出の写真を送って下さり、ありがとうございました。1枚1枚の写真を見ながら、その時々の元気だった頃の母の姿が、蘇ってきます。母の所に訪れた方が、私の知らないところで、ずいぶんお見えになっていたんだなあと、その写真を見ながら、思い出します。まどかの方々とのスナップも、たくさんの方々にお世話になったんだなあと改めて、感謝の気持ちになります。8年前の2008年3月より、2015年の7月21日まで、7年間5ヶ月の間、母は、幸せでした。住んでいた自宅の近くにあったことでもあり、最初は、よく家に帰って必要な荷物を持ち帰ったり、だんだん荷物が増えていき、皆様には、ずいぶんご迷惑をおかけしました。まだ元気だった頃は、浦和の駅まで歩いて出かけたりして楽しんだりしておりました。
1年間の年間計画を思い出すと、様々な催し物をして下さり、あの忙しさの中で、いつ練習するんだろうと、感心すことばかりでした。クリスマス会の時に、楽器の演奏を職員の皆様がやっている姿を拝見し、ただただ、頭が下がりました。あの時の、母達の笑顔を今、思い出しております。
大腿部を骨折して、もう寝たきりかなあと考えていましたが、リハビリの訓練を手術の次の日から初めて、母の努力もあり、寝たきりにならずに、奇跡的に回復していきました。さすがに、車椅子に頼るようになりましたが、又、普通に会話を楽しみました。
なくなるまでの1年間は、次第に母の衰えを感じてきました。それは、普通の食事が食べられなくなり、次第に流動食に切り替わってきたときに、食事の風景を拝見させていただき、ただ頭が下がりました。
おかげさまで、下の世話などほとんどしないで、皆様にずっとめんどう見ていただきました。
その後、何度か、入院したりしましたが、そのたびに所長さんはじめ皆様方に大変お世話になりました。
この度は、母の昔の同僚の正木欽七さんを、まどかにご紹介して、入居できたと、ご本人から電話連絡がありました。本当に良かったです。機会があったら、正木さんにお目にかかりに行きます。
返事が遅れ、失礼しました。皆様方のご健勝を、心よりお祈りします。
2015年11月25日 故榎本稲子の長男、榎本豊より