子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第一指導段階について  本間  繁輝

第一指導段階について  本間  繁輝

一 指導段階の定式化の五つの前提

 日本作文の会が、一九六五年に公表した「生活綴り方教育=正しい作文教育の指導段階」が、昨年の3月末におこなわれた第二十六回合宿研究会=委員会において、新しく補正され、「生活綴り方教育=正しい作文教育における指導段階の定式」として公表された。
 そして、この指導段階の定式は、次のような五点にわたる前提の上にたって公表されるものであるとした。その五点を要約してみよう。

(一) この指導段階の定式は、日本のすべての子ども・青年 たちが、自らの自覚のもとに、教師に指導されながら「ひとまとまりのさまざまな文章」を書き綴る能力と方法とを、確実に身につけられるよう、その順序正しい指導のあり方 を求めて作られる。 
(二) この指導段階の定式は、日本の子ども・青年たちが、文章表現活動の中で、また、お互いの鑑賞批評活動の中で 自らの自発性・積極性、能動性を生かし、教師にみちびか れながら、自己を取り巻く世界の事物(自然や社会や人間、文化の事物・現象)と、自他の心の内部のうごきから、意味あるもの・真実なもの・美しいものを、しっかりと順序よくとらえていくまでに成長していくよう、その正しいあ り方を求めて作られる。
(三) この指導段階の定式は、日本の子ども・青年主体の認 識能力(感覚・知覚・想起・思考・想像などの能力)と、その操作・方法とが、文章表現以前において、表現活動の実 際の過程において、次々とみがかれ、着々と身につくようになることを期待して、つくられる
(四) この指導段階の定式は、日本の子ども・青年たちが、文章表現の中で使用するところの日本語が、その単語の選 び方、配置の仕方、文法規則へのしたがい方、「文」のつくりかた、また「部分の文章」「「全体としての文章」の 構築の上で、とりまく現実のとらえ方、自他の内部のとらえ方と密着し、真に自分のものになった、真実で豊かで、美しいものになるように期待して、その指導のありようを 求める。
(五) この指導段階の定式は、我が日本作文の会がのぞむような生活綴り方教育=正しい作文教育が、日本のすべての教師によって、子どもたち、青年たちの学年段階、学校段 階その他にふさわしく、理想的におこなわれることを期待して公表される。その意味では、これは、まさしく原則的・基本的・平均的な性格を持つものである。

 新しく補正された指導段階を実践していく際に、重要なことは、この五点にわたる前提をしっかり頭に入れておくことであるが、とりわけ、次の三点を忘れてはならない。
 第一、自分が受け持ったすべての子どもたちに、一斉指導として、少なくとも、小学校においては、第一指導段階及び第二指導段階ぐらいまでは、身につけさせていきたいものであるということ。
 第二は、表現活動の各過程(表現意欲喚起、取材・題材の選定とテーマの決定、構成=構想、記述・叙述、推考の仕方など)で、子どもたちが身につけるべき能力と方法とが、やさしいものから、難しいものへの順序で、確実に獲得されていくよう配慮すること。
 第三はこの指導段階の定式は、教師の頭の中に現在から未来への展望として持つことが必要で、あくまでも原則的・基本的・平均的な性格を持っている。だから、この指導段階に、そのまましたがいにくい現実の子どもを前にした場合は、当然個別指導も必要になってくるということである。

二 第一指導段階を実践するにあたって

 このたび第一指導段階は次のように補正された。
 自然や社会や人間にまつわる1回限りの過去の経験を再現するように書く文章表現のちからと方法とを、すべての子どものものにしていく指導の段階。
 あるいは、ある日、ある時、あるところで見聞きし経験したことの中で、とらえた事実、それについて考えたこと、感じたことを、「した、した」「しました、しました」「したのだった」「したのでした」と、過去形表現を主にしてつづっていく文章の書き方に十分なれさせていく指導の段階(展開的過去形表現形体の表現の指導)

 生活綴り方のよさを求めて、わが会及びわが会ののまわりに集まってくる教師たちは、クラスを受け持つと、必ず次のことを重視して実践に取りかかる。これは、第一指導段階に入る前の大切な考え方だといってよい。
 第一に、生活からじかに学ばせることを大切にするということ。
 第二に、子どもたちをだいの話したがり屋、聞きたがり屋、知らせたがり屋に育てていくということ。
 第三に、何でも言い合うことのできる自由な教室にしておくこと。
 第四に、よい文学作品、よい説明的文章を教材としておこなう読み方教育をきちんとやっておくこと。
 第五に、どの子にも、「ひらがな」「カタカナ」の文字とそれに「やさしい漢字」を習得させておくこと・・・などなどである。
 このような基礎の仕事がよくなされてあればあるほど、第一指導段階に入りやすい。
 第一指導段階の指導は、とうぜん、小学校の一年生から始めていく。もちろん、第一指導段階の指導が十分になされていない学年の場合は、中学年からでも、高学年からでもそこから出発するというのが、わが会の方針である。今回、公開された文書の中では、
「この段階の指導は、とうぜん小学校低中学年の当初から大事にする。しかし小学校高学年、中学、高校になっても、子ども・青年が発達に応じてとらえる題材のいかんに即して、この段階の指導が徹底するように心がける。」とした。
 また「第二指導段階の指導を始めた後でも、第一指導段階のような文章を、絶えず書かせるように導かなければならない。」ということもつけくわえた。
 なぜなら、わが会としては、この段階で書かせるような文章が、文章表現の基礎だと考えているからなのである。
 第一指導段階の指導を始めていくさい、注意しなければならないことは、小学一年生から始めていく、文字通りの「入門記の指導」と、小学中、高学年から始めていく、いわば、「やり直し入門期」とは、その指導方法がおのずと違うということである。
 入門期の場合は、「教師による言い直し」や「教師による書きとめ」などから始めるとよい。たとえば、「きのうのできごと」などを話しことばで、
「きのうゆうがたね。おだんごたべていたの。そしたらね。このまえからね。うごいていたしたのはがね。ぽろっとぬけたの。そのはをね。おかあさんといっしょに、いいはにかわれってね。やねになげたの。」
と、話したら、これを口で、「文章ことば」で次のようにゆっくりと言い直す。
「きのうゆうがた、おだんごをたべていました。そうしたら、このまえから、うごいていたしたのはが、ぽろっとぬけました。そのはをおかあさんといっしょに、いいはにかわれ、といって、やねになげました。」(一年 なかやまかつのり)
 できれば板書して、朗読してやる。このようなことを「ひらがな」文字を獲得した段階からはじめ、二学期くらいになったら、「ややひとまとまりの文章が書けるよう」にみちびいていくと身につきかたがはやい。たとえば

 ぼくの目に、さかさまつげがはいりました。ぼくは、「いたい。」といいました。すると、ママが「どうしたの。」ときいたのでぼくは、「目にさかさまつげがはいっちゃった。」といいました。すると、ママが「なみだながせばいいんだけれど、どうやってなみだをながそうか。」といいました。
 ぼくは、いいことをかんがえました。たまねぎのにおいをかぐのです。たまねぎのにおいをかいでみたら、目からなみだがでないで、おしりからおならがでてしまいました。ママとふたりでおおわらいをしました。(一年 たかくひろやす)

 このような、「ややひとまとまりの文章」を書くことを、くり返し指導し、その後に、「ひとまとまりの文章」へと導いていきたいものである。
 中、高学年から始めていくさいは、受け持ったクラスの子どもたちの一人一人が、第一指導段階での文章をどの程度書けるのか、点検することから始めなければならない。
 それには、「前に学級の中であったこと」「最近、家や近所であったこと」「自分がいちばんこまったこと、喜んだこと」などといったもののうちから、どれでもよい自由な題目で書かせ、その作文をよく観察し、点検していくのである。主題のたてかた、構成、構想のしかた、叙述(説明と描写)のしかた、推考のしかたなどをていねいに見ていき、自分のクラスでは、どこに力を入れて指導したらよいか、その目安をしっかりとつかむことである。だから、四月になると、「四年生になって」とか「五年生になって」とかの文章を書かせがちだが、これは絶対に避けた方がよい。なぜなら、自分の決意、希望を述べるような説明的な文章になりがちだからである。このような文章からは、第一段階での文章の書きぐあいは、点検することができない。

三 第一指導段階における表現活動の各過程の指導

(一)表現意欲をおこさせる指導

 ここで崇表現意欲をおこさせる指導とは、「ある日、ある時、ある場所であった、あることを書きつづりたいという気持ちをさかんにさせる」指導のことである。
 最近の子どもたちをみていると、生活すべてが受動的で意欲的でないのが一つの共通的な弱さである。それには、なにかめあてをもたせて意欲的な生活をおくらせることからその出発を考えなければならない現状である。前にも書いたが、第一指導段階に入る前の第一、第二、第三のことが、それにあたるところである。たえずここを足場にしながら、こんどは、「過去にであったことがら、過去に経験したことの中から、何かを書きたくなるように、意識化させる。」指導をしなければならない。表現のきっかけ、表現せずにはいられない気持ちを、自分とものごととのぶつかり合いで、どうおこさせていくのかを指導するのである。
 それには、次のような「契機のいろいろ」が、参考になるので、それをあげておこう。
 ①事実はこうだったと、その事実をそのまま書きたくなるように。
 ②あのときはこうだったと、その事実をそのまま書きたくなるように。
 ③新しく気づいた、発見したと、それが書きたくなるように。
 ④そのことに心を動かした、喜怒哀楽した、感動したと、それが書きたくなるように。
 ⑤一つの話や本などに教えられて、初めてわかったのだと、それが書きたくなるように。
 ⑥ふかい疑問をもった、問題意識をもった、それを「なぜ?」と考えたり、調べたり、研究したり、追求してみたくなったと、それが書きたくなるように。
 ⑦今までよりも、いっそう深く考えて(思索して)見たくなったし、考えても見たのだと、それが書きたくなるように。
 ⑧ある願いや要求が強くもったということを書きたくなるように。
 ⑨自分の考えを、強く主張したくなったと、それが書きたくなるように。
 ⑩何かうったえごと、さけびごとをしたくなったというように、それが書きたくなるように。
 ⑪こういうことをしたくなった、実際にそれをやったのだ(行動したのだ)と、それを書きたくなるように。
 ⑫さまざまな空想をした、想像をした、幻想をいだいたと、それを書きたくなるように。
 ⑬批評・批判(共鳴・反対)をしたくなったと、それを書きたくなるように
 ⑭実際にやってみて、失敗した、挫折した、成功したと、それが書きたくなるように
 (みんなの綴り方教室 国分一太郎より)

 右にあげた、③や④や⑤などは、入門期や低学年の指導で、ぜひとも取り上げて指導したい題目である。
 このような「指導のいろいろ」を、どこで指導していくのか。これについても次のような指摘が参考になるのでかいてみる。
(イ)クラス内の子どもが書いた作品鑑賞の時。作者にたずねることもまじえて、どうしてそれを書きたかったのかよく吟味する。
(ロ)ほかのクラスの子どもが書いた作品を鑑賞するとき。教師がその作品が生まれることになった契機について解説してやる。また、みんなでそれを吟味しあう。文学作品の読み方指導では、たいていの場合、作者の意図を探らせるようなことをしないが、子どもの綴り方作品の場合は、書きたくなった契機、書きたくなった意図・気持ちをさぐらせてもよい。
(ハ)教師が、さきにあげた①から⑭までのことを、おりにふれて呼びかけ、さまざまな表現の契機をつかむように示唆していく。
(ニ)文集をつくるようだったら、それの見出しや導入部、余白などに、「この作品はこうして生まれた」「この詩は、こうして作られたといった、モチーフに関しての記事を入れてやる。
(ホ)教師自身が、最近感動したこと、昔のことで強く印象に残っていることなどを、子どもに話してやって、皆さんにもこういうことはなかったか、これと似たことはな かったか、少し違うことはなかったかと話しかけたりする。 (みんなの綴り方教室)

その二

(二)取材・題材指導

 取材・題材指導について、このたび補筆された点は、次の三つである。
 第一 一九六五年に公表されたときは、ただ「取材指導」とあったが、今回は「取材・題材指導」となって、あらたに題材指導がつけくわえられたこと。
 第二 取材指導の時に配慮する指導内容の要点が、一九六五年の時は、「過去のことから表現したいことを選び出させる指導をする。(多面化)」と、きわめて簡潔であったが、今回は、ひとつは「過去」の内容をこまかくした上で、題材を選ばせ、主題を決めさせるようにしたこと。もう一つは、書き手主体が題材の選択、主題の決定をするときに配慮すべきことがらが付け加えられて、次のような指導内容になった。
 遠い過去、中くらいの過去、近い過去、長く続く過去の期間、1日のうちであったこと、一日のあるときのことなどから、自由な題材を選ばせ、主題を決めさせる。
 また、広い題材を決めて、過ぎ去った1回限りの経験の中から題材を選ばせ、主題を決めさせる。
 この題材の選択、主題の決定は、書き手主体が、事物に働きかけられたり、自ら積極性、能動性を発揮して事物に関わっていくことによってえた、事物の確認、発見、感情の揺れ動き、疑問・問題意識、願望と要求、深い思索、行動への前進その他をもととしておこなわせるようにする。

第三 前回は取材指導の指導の方向を多面化だけしかあげていなかったが、今回は、「はじめは、できるだけ多面的な取材をさせ、やがて題材の深化、個性化へとみちびく」と書きあらためられたこと。すなわち、取材題材指導における多面化、深化、個性化の三つの指導面が取り上げられたことである。

(1) 取材の指導

 「取材指導」とは、どんなところから、書くことがらをつかみ取ってくるか、その目のつけどころの指導のことである。小学校の低学年では、近い過去、やや近い過去に経験したことの中から、表現意欲をおこさせながら「書く題材」を見つけていくことを徹底的に指導する。つまり、実際に見聞きしたこと、であったこと、自分がしたことから、書く題材を見つけさせるのである。
 これを指導しているあいだには、「ぼくのおとうさん」「わたしのおかあさん」「ぼくのおとうと」「わたしのいもうと」などという題材が出てきてもとがめたりはしない。しぜんに生まれてきたものは、あくまで大事にすることで、作者個人に対しては、いいものは認めてやる。しかし、一斉指導としては「ある日、ある時、あるところであったできごと」を題材化する指導であるから、やや長い間にわたる見聞や経験の題材化になる「ぼくのお父さん」などのたぐいは、一斉指導としては、取り上げない。

 ①取材の多面化
  私たちは、子どもたちに作文を書かせるとき、自分の家で飼っている小鳥や犬などのペットのことしか書けないことか、よそへ出かけないと書くことがないという子どもによくであうことがある。これは、取材の範囲がきわめて狭かったり、偏りがあるからである。だから、「自然のこと、社会のこと、人間のこと、その広い範囲の所から、書くことがらをさまざま見つけることにしよう」と指導するのである。
 個人の場合でも、学級集団の場合でもまず、はじめは題 材の多面化、多角化へとみちびいていくのである。 
 ②多面化の実際指導
 (ア) ひとりひとりの子どもに、「取材表」を渡して、書き込ませていくとよい。「題探し」が、いくつかできたら、自分がいちばん書きたい題材を選ばせてつづらせる。
 (イ) 教室に「取材表」を掲示するのもよい。クラスの子どもが、実際に書いたことがらを書き込んでいくやり方である。その表には、自然、社会、人間、文化の四つぐらいに分け、その下になお小分類をした欄を作っておき、子どもが作品を出すたびに書き込んでいくの である。クラス、個人の取材の偏りを防ぐのに有効である。 
 (ウ) 子どもたちに生活ノートや日記帳を持たせ、おりあるごとに書かせておいて、その中から取材させるやり方である。
 (エ) 取材ごよみの掲示もある。昔は、この方法がよくおこなわれたと聞いている。先輩たちがよくやったという「取材ごよみ」の新しい工夫については、一考を要する。

 ③広い範囲の課題取材
 私たちは、今でも生活綴り方の遺産を引き継いで、なるべく多方面の範囲から、さまざまな「書きたいこと」を、自由に見つけてくる、いわゆる自由取材を原則的に採用し実践している。しかし子どもたちの自由意志にまかせておいては、その取材に、せまさやかたよりが生ずるという場合は、課題取材の方法も、時には、とりたいと思う。昔は、「正直」とか「忍耐」とか「私の覚悟」といった「題名」をあたえて書かせたそうであるが、そうはさせない。たとえば「近頃家であったかわったこと、めずらしいこと」とか「六、七月の学級生活の中で、いやでいやでたまらなかったこと」とかと課題をして、その中身のことは、ひとりひとりの子ども自身に選び出させるのである。この方法を新しい意味、つまり取材の多面化をはからせる一つの方法として「広い範囲の課題取材」というわけである。

 ④取材の深化、個性化
 小学校の低学年では、近い過去に経験したことの中から「書く題材」を見つけさせること、その多面化を目指す取材指導を徹底させると前に述べたが、小学校中、高学年から始めていく「やり直し入門期」においても同じである。その多面化をめざす取材指導でえた「題材」で、展開的過去形表現の文章をどんどん書かせていく。その指導の過程で、取材の深化のための指導をする。
 たとえば、「百円玉をどこかに落としたから、それを書くのだ」というところから「百円玉を落として、どう思い、どう感じたので、それを書くのだ」というところまで深めていく。それには、過去に経験したこと、見聞したことに関し、気持ちまで含めて、こまかくふかく思い出してみるような指導をしっかりやらなければならない。
 取材の個性化では、
 ◎ 自分でなければ経験しなかったに違いないと思うことから、書くことを見つけるようにしよう。
 ◎ めずらしいことから、書くことを見つけよう。
 ◎ あのことがらについて、自分としては、こう考え、こう感じないではいられなかったんだと思うことを書こう。
とよびかけて、「個性化」を意識させてやる。

(2)題材の指導

① 「題材指導」とは、一つのことがらを選んで、それを本 気になって書くようにさせるための指導のことである。題材化のための指導といってよい。
「題材化」したというからには、
  ◎あるひとつのことを
  ◎そのことがらに取り組む自分の態度を込めて
  ◎ほんとに、これを書くんだとの意欲を込めて
  ◎ときには、はっきりしたテーマ(主題)をきめて
 書くことを決定する。その決定にいたらせる指導のことである。
 だから、題材となったという場合は、ある事実、現実、現実のある断面、ことがらと書き手主体との関わり合いがふかくなったということである。書き手主体の積極的関心がそなわり、書き手主体とのはたらきかけの態度ができているということである。
 このたび公表するにあたって、「題材の選択、主題の決定は、書き手主体が、事物に働きかけられたり、自ら積極性・能動性を発揮して事物にかかわっていくことによってえた事実の確認・・・(中略)その他をもととしておこなわせるようにする」としたのはこの題材指導のさい、配慮することを強調したかったからである。

② 題材指導の具体的方法
 (ア)「どうしても書きたいことを、いつも三つぐらいは、心の中にためておくようにしよう」と、子どもたちに指導しておく。一つのことを書いたら、もう一つ、またためておこうと呼びかけておく。
 (イ)「書きたくてたまらないことを見つけておこう」と呼びかける。どうしても友達に知らせたり、訴えたり、考えてもらったりしたいようなことを用意しておこうという指導語である。自然や社会や人間のことにふれて、書き手本人の心が動き、このことを表現せずにはいられないと思ったことが「題材」になっていくのだと、しだいしだいに教えていく。
 (ウ) 題材の紹介
 教師が、クラスの子どもが書いた散文や詩をよく読んでいて、ひとりひとりの子どもの作品について、その題材を学級全員に紹介してやる仕事である。このとき、単なる素材程度のものと、題材になりきったものとの違いをしだいにわかるようにしてやることが必要である。
 (エ) その他
 「作品の鑑賞批評」や「比較法による指導」などがあるが、いずれも、「よく題材化」されている作品と、まだ「題材化というところまでいたっていないことを、作品を通してわからせていくのである。
 (三) 構成=構想の指導
 この項は、前に公表されたときとほとんど同じであるが、しいていえば、次の傍点のところが、補筆されたところである。
「時間の推移と事件の進行の順序に、ことがらの配列をした文章の組み立てを工夫できるという利点を十分に生かして、この指導をする。」

(1)構想指導

 構想指導とは、書きたいと思う題材で、ひとまとまりの文章を作るとき、その内容をどんな「組み立て」にするか、すなわち、はじめにどんなことがらをおき、なかにはどんなことがらをおき、終わりにはどんなことがらをおいて終わらせるかの指導である。
 構成指導で大事なことは、形式的な段落指導におちいらぬことである。文章の構成(構想・組み立て)は、書く「なかみ」と密接に関係しているということを忘れてはならない。

   ひゃくえんだま     一年  かない はるこ
 おじいさんがみちでこまっていたから、
 「どこへいくんですか。」
 といいました。
 「まちだにいきます。」
 といったので、
 「あそこのバスにのっていったらいいですよ。」
 とおしえました。そしたらおじいさんが、ひゃくえんくれ ました。わたしは、
 「いりません。」といったけど、おれいだからといって、 とりませんでした。うちにかえっておかあさんにそのこと をはなしたら、
 「かえしてきなさい。」
 といいました。
 ていりゅうじょにはしっていきました。
 おじいさんはいませんでした。

 道に迷ってこまっていたおじいさんに、行きかたを教え、お礼に百円玉をもらう。いらないといってかえすがうけとらない。家にかえっておかあさんに報告すると、かえしてきなさいといわれる。停留所に走っていくが、おじいさんはもういない・・・という順序で書くこの「くみたて」は、内容と関係している。内容に順序があるから、組み立てにも順序がつけられるのである。ごく自然に「想のかたち」が「文のかたち」になっているのである。
「時間の推移と事件の進行の順序に、ことがらの配列をした文章の組み立てを工夫できるという利点を十分に生かして、・・・」とあるのは、そのことをさしているのである。
 はじめのうちは、このように内容とはなれない、自然なかたちでできる構想の指導に力を注いでいきたい。

(2)構想指導の具体的方法

 ①作品から学ばせる方法
 構想・構成のよくできている実際の作品を鑑賞させることである。実際にそくした組み立てのしかたを学ばせことである。
 ②学習作業としてやらせる方法
 構想・構成のよくととのっている作品を印刷し、印刷し終わったら切れ目のいいところで切断して、それをひとりひとりの子どもに渡し、ていねいに読ませて、どういう順序につないだらよいか考えさせ、つないでいかせるやり方である。
 ③構想計画を立てさせる方法
 ①や②のこともやらず、あまりつづらないうちに「構想計画表」をたてさせることは、ぜったいにさけた方がよい。
 ある日、ある時、ある所であった、あることを何回も綴らせ、また作品鑑賞で何回となく「はじめ」「はじめ」「なか」「終わり」の構想指導をやった後で、「構想・構成計画表をつくらせるよわうにするとよい。」しかし、これとてすべての子どもがうまくたてられるものではない。大きな期待はしない方がよい。
 このほかに忘れてならないのは、読み方教育で、説明文や文学作品を扱うとき、段落の指導の指導を通して構想・構成の指導をしていくことである。

(四) 記述=叙述の指導

 記述=叙述の指導の項は、次のように加筆させた。

 そのときのものやことの姿とうごき、事実と事実関係、そのときのものやことの様子、他人のうごきやことば、自分の心理の内面のことをふりかえり、よく思い出しながら、これを「した、した」「しました、しました」「したのだった」「したのでした」と言い終わる日本語の単語(述語)を選び、配列しながら「文」をつくっていく、その「文」を重ねて部分の文章を作り、さらにすじの通った全体の文章を作っていく指導をする。
 ただし、文章の部分部分のところで、「ことわり」としてのみじかい説明を、そのつどそのつど、入れる必要があるときは、「です、ます、のです」「だ、である、なのである」といった「現在・未来形」を用いた「文」で書くことについての記述指導も、この段階ではしていく。

 前段の部分は、前回とほとんど同じであるが、表現をより厳密にした。たとえば、「そのときのようす、ものやことのうごき」とあったのを「そのときのものやことの姿とうごき、事実と事実関係、そのときのものやことのようす・・・」のように書きあらためた。
 加筆された点は、「ただし・・・」以下の後段の部分である。この部分は、子どもたちの書く文章の中の説明部分についての位置づけをめぐって、わが会内部で若干の意見の食い違いが見られたところである。
 しかしそれは、「ただし・・・」以下のように位置づけられた。すなわち、第一指導段階で書かせる文章、一回限りの経験を再現するように書く文章においても、子どもたちは、説明せずにはいられなくなって、文章の部分部分に、みじかい説明、「ことわり」をさしはさむことがあるので、その指導も、この段階ではしておくということである。(このことについては、あとで子どもの文章を例に出して触れてみる)

(1)記述の指導

 なんのことを書くのか、(取材・題材)、どんな組み立て(構想・構成)でで書くのかを頭においたうえで、ある一文から書き始め、そのあと、次々と「文」を書きつづけ、それを積みかさねていき、文章のむすびまでもっていくのを記述という。叙述ともいう。その仕事に対する指導を、記述=叙述の指導という。
 記述の指導で一番大事なことは、「よく思い出しながら書く」ということである。
 ①よく思い出させる
 ある日、ある時、あるところで、見聞きしたり、実際にやったり、考えたり、感じたりしたことを、ことがらの進行した順序、時間の推移にそくして、「しました」「した」「したのだった」と書いていくには、よく思い出さないと書けない。過ぎ去ってしまったことを、もう一度頭の中に思い浮かべることができないと書けない。
 だから、私たちは、子どもたちに、「よく思い出して書きなさい」というのである。

 きのう、学校から帰って、「ただいま」といって、家に入っていきました。

 このように書き出したなら、「それから、どんなことになったんだっけなあ」「そのとき、どんなことがあったんだっけなあ」とよく思い出させるようにする。そうすると、
  
 でも、だれのこえもしなくて、家の中はがらんとしていました。わたしは、心ぼそくなって、ひとりでへやのすみっこにすわっていました。
 しばらくすると、リリリン、リリリン、と電話の音がしました。わたとは、じゅわきをガチャと、とって
「はい、もしもし、森田ですけど。」
と、ちいさいこえでいいました。

 と、書きつづけていく。「ただいま」といってかえると、いつもなら「おかえり」という母の声がしない。家の中はがらんとしていて、心ぼそくなる。そして、へやのすみっこにひとりですわっていると電話のなる音・・
 これは、三年生の豊田さんが「おばあちゃんがしんだこと」という作文を書いたときの書き出しのところである。「よく思い出しながら書く文章」というのは、ある現象や事件や行動が、どう移り変わっていったのか、そのようすはどうであったのかを、よくわかるように叙述していかなければならない。それには、ものごとの存在・形・状態・性質・うごき・関係などを、いちいち「はじめはどうだったのか「「それからどうなったのだったか」「そのときどんなようすだったのか」「そこでどうしたのだったか」「どう考えたのだったか」「どう感じたのだったか」と、部分部分をよく思い起こさせて叙述させていくのである。想起、表象・再生的想像の心のはたらきを、活発にさせて叙述させていくのである。
 このように記述された作文は、読む人にもよくわかる作文になるのである。
 ② 書き出しは「時間」から
 はじめの一文をどこから書き始めるかはかなり大事な指導である。はじめのうちは「時間」から始めるのが、たやすい。たとえば、
 ○ きのうのゆうがた、あそびからかえってきました。おふろばへいったら・・・。
 ○ 学校からかえるとちゅう、ケーキか、クッキーを食べたいなあと思いました。家にかえってお母さんに・・・  
のように。書き慣れてきたら、「場所」や「動作・行動」からの書き出しを指導していく。   
 「書き出し」をどうするかということは、ある事実や事件のどこらあたりからを、文章の中に中に入れるかということで、文章を書くときの事実・事件の「切りとりかた」の指導ということにもなる。実際の指導のときは、クラスの子どもが書いた文章や、他校の子どもの作品を読んで聞かせたり、鑑賞したりするときに、「こういう書き出しをしているね」と知らせてやるとよい。
 ③ 順序よく書く
「書き出し」の一文を書いたら、よく思い出させ、「それから、どうなったののだったかな」「そのときどんなようすだったのな・・・」と一つ一つのことがらを、そのおこった順、あった順、した順、見た順、聞いた順、考え感じた順に書きつけさせていく。とくに低、中学年などの場合には、一文一文の叙述、文、文とのつづけぐあい、そのつみかさね方、部分部分の文章のつくりあげかた、部分部分の文章と、その次の部分部分との間のつながりのつけかたなどに「順序性」がそなわるような叙述をさせていかなければならない。これが記述指導の基本である。
 このように小さい部分部分の順序のよい叙述が、文章の構成を作っていくのである。だから「一つ一つのことがらを、順序よく書いていきなさい」という指導語をいつの場合でも発していかなければならないのである。
 そして、だんだんと「くわしく書け」「こまかく書け」と指導を進めていく。それを進めていくために「ようすを書け」「表情を書け」「動作を書け」「まわりのようすも書け」「しゃべったことをその通りに書け」と呼びかけて指導していくのである。
 ④「ことわり」としてのみじかい説明
 次の作品は、「あんずとうめの実とり」と題して、二年生の田辺さんが書いた作品である。

(前略)うめのみは、はっぱの色とよくにているので、みつけにくかった。でもあんずの木よりもひくいので、わたしは、木にのぼって、うめのみをとりました。
 高いところは、おかあさんが、竹のぼうでたたいておとしました。いもうとたちはバケツをもって、おっこったみをひろっていれました。
 こまったことがおこりました。おかあさんがたたいておとしたうめのみがコロコロがけからおっこって下のトムちゃんのまんまえでとまりました。トムちゃんというのは、下の家の大きな番犬です。いつもくさりでつながれていて、知らない人がくると、大きな声でほえます。けれども、おかあさんや、わたしたちのことは、知っているせいかほえません。 
 おかあさんが、はしごと、れいぞうこからハム一まい、もってきました。わたしは、おかあさんがもってきたハムをちぎってトムちゃんにやりました。トムちゃんがハムを食べているあいだに、おかあさんが、はしごをおりていって、うめのみをさっとひろいました。(後略)

 このように、一回限りの経験を再現する過去形の文章の中にも、子どもたちは、説明せずにはいられなくなると、文章の部分に、「ことわり」としてのみじかい説明(太字の部分)を挿入する。このようなことは、一年生でもみられる。いちじるしくなるのは三年生の頃からである。
 このような指導をするのは、三年生の後半か、四年生になってからでよい。
 実際の指導のときは、クラスの子どもが書いた参考作品の鑑賞によってわからせ、必要なときには、自分もこういう書き方をしなければとさとらせていくのである。また、読み方・文学教育の中で、文学作品とか、記録文を読ませるとき、そのある部分に挿入された「説明的表現」によく注目させ、そこの適切な表現の意義づけをしっかり指導することも大切である。

(五) 推考の指導

 前回公表されたときは、

 書いたものを読みながら、もう一度、今書いている過去のことを思い出して文章を直していくことの指導をする。

とあったのを、今回は次のように書きあらためた。

 書き手本人が、書いたものを、自ら読み直しながら、誤 字・脱字・不適切な単語と文・文脈の乱れなどについて訂 正し、また書いたことについての「思い出し直し」をして、 とらえた事実と密着した正確で豊かな文章にしていく努力 をさせる。学年が進んだ後は、自ら進んで削ったり、書き たしたりするような指導もくわえていく。

 推考の指導とは、自分が書いた文章を読みなおし、自分で文章のよくないところをなおし、よくねりあげていくことへの指導である。
 推考の指導をする場合には、その内容として、次のようなものがあげられる。
  ① 誤字・脱字の指導
 自分の書いた文章をゆっくり読みなおさせて、文字のまちがいを訂正させ、ぬけている字を入れさせる。
  ② マルとテンとカギ
 とくに、マルとカギについてはていねいに推考させる。マルとテンとカギも一字文とすることも指導する。
  ③ 段落のはじめと行かえ
 この推考は、かなりむずかしいので学年が進んでからにしたい。よい文章を、ひと区切りずつ、教師が範読して聞かせ、板書などもして、段落のはじめを一字さげること、段落のおわりの時に行をとめることなどを視覚にうったえて指導する。このような練習をさせて推考させると効果がある。
  ④ 文章の前後のくいちがい
 前に書いたことと、あとに書いたことが、くいちがうような場合は、赤ペンその他による教師の指摘によって推考させる。
 これらのほか、小学校も高学年になったら文章のいらないところを削ったり、書き足らないところを書きたしたりすることも指導していきたい。

(六) 鑑賞批評の指導

 前回公表されたときは、
    
 クラスの中に生まれた文章、ほかのクラス、他校で生まれた作品を、この指導の段階の観点から鑑賞させたり、批評させたりする。

とあったのを今回は次のように書きあらためた。

 クラスや集団の中に生まれた文章の読みあい、批評のしあいをしながら、この指導の段階での質のよい文章について自覚させていく。そしてこの「質のよい文章」についての共同吟味と、子ども・青年たちの文章観の確立のための仕事では、文章中に込められた内容と、その表現の形式の両面にわたる指導をするとともに、表現以前の「生活のしぶり」(生き方)や認識のための操作・方法のあり方にまで及ぶようにつとめる。

 子どもたちに、質のよい文章を鑑賞させることは、とても大切なことである。
 表現意欲の喚起をうながすためにも、取材、題材化のためにも、構想指導でも、記述指導でも、そして推考指導の時でも、子どもたちには、そのつど質のよい作品や、指導していくのに適切な作品を、鑑賞させると大きな効果がある。
 生活綴り方は、ものごとや生活の現象、自然や社会の現象のとらえ方と一緒に題材化・構想構成・叙述記述・推考などのいっさいをふくむ表現活動を指導し、もののとらえ方と表現方法とが一体化したところで、文章表現の能力をのばそうとする。だから、内容と形式がともにすぐれた子どもの作品をできるだけ多く鑑賞させることを大事にする。

 それには、まず教師が「年間文詩集」などに目を通し、常に質のよい作品を用意しておき、それぞれの表現活動の各過程の指導のさい、鑑賞させることである。
 また 書き綴ったあとの鑑賞批評も大事にする。そして、表現のしぶりと生活のしぶりを区別して鑑賞批評させると効果があがる。

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