子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第50次日教組教育研究集会

第50次日教組教育研究集会

日教組第50次教育研究全国集会

日本語分科会

総合的学習への試み

身近な人からの戦争体験を聞き書きする

☆ ひとまとまりのきちんとした文章が書けるようにするには、日常の子どもが自主的に 書いて来る日記指導と意図的・計画的な作文指導の二つが、ことに大切になる。

☆ 1回限りの出来事を、順序通り『・・・・でした。』『・・・ました。』と過ぎ去った書き方 で書くことができるようにする。
☆ 戦後55年たち、平和の尊さが失われて来つつある中で、もう一度戦争の事を身近な ものに引き寄せて考えさせたい。
☆ 墨田区は、東京大空襲のあったところであり、掘り起こせば戦争体験者の話が聞ける。
☆ 聞き書きをさせるには、聞き手と語り手と働きかけをする教師の3者が、それぞれ大 事な役割をになっている。
☆『何を』『どう書かせていくか』という事が、指導のポイントになる。
☆『こわい東京大空襲』『母の姉は中国に』の2つの作品を中心として、記述・推敲の 大切さを述べたい。
☆ 特に『母の姉は中国に』の作品は、このような指導題目をたてなければ、決して生ま れなかった作品であり、意図的・計画的な系統的指導が大切であることを訴えたい。

総合学習をどうとらえていくか

 総合学習は、各教科での学習、教科外でのさまざまな行動、それらの中で獲得されてきた知識や能力を総合しながら、『地域や国民の現実的な諸課題』について共に学んでいくこと、その中から『主権者としての立場の自覚を深める』ことをめざしていくような学習である。「総合学習をたのしむ」長尾彰夫著 アドバンテージサーパー》より
 総合学習としての平和教育、人権(同和)教育、公害・環境教育は、これまでも実践されてきた大切な視点である。
 『教育課程審議会の最終答申の中で、『総合的な学習の時間』の創設の趣旨とねらいの4項目の中の一つに、次のような事が書かれている。
☆ 情報の調べ方、まとめ方など、学び方やものの考え方を身につける。
 これは、書くことを通して、ものの見方、考え方を深めていくということである。書くことは、いつまでも紙に固着して、消えてなくならないので、後から確かめたり、読み手に伝えていくことができるので、大切な行為になる。
◆ 国語科の文章表現指導の方でも、書くことの意義は、様々な形で論議されて来た。しかしながら、このごろの子ども達が、文章を表現することそのものが苦手になり、『ひとまとまりのきちんとした文章』が書けなくなって来ているのが、現状である。
◆ 短作文や何かの物になったつもりで書かせる《なりきり作文》などの想像作文が教育現場に広がって来ている。最初は、興味関心を持って書くが、長続きせず本当に表現力は育たない。

今なぜ、聞き書きを大切にするのか。

 平和の問題は、人権の問題と共に、『生きる力』をつけさせていくには、もっとも分かりやすく大切なテーマである。それは、平和の反対側に位置する戦争の事を考えれば、その答えはすぐに明らかになる。戦争は人間の尊厳を否定して、『生きる力』の元になっている『命』をいとも簡単に抹殺してしまうものだからである。戦争体験をしている人々が、まだ自分たちの周りには、取材をして見るといるという現実を知ることも大きな意味がある。55年前に、日本が戦争に負け、現在までずっと引きずったまま現在に来ている。今、世界で起きている大きなニュースは、色々糸をたどっていくと、戦争をしていた時代に連綿とつながって来るのである。
 朝鮮の南北統一、中国残留孤児、朝鮮の残留婦人、在日朝鮮人問題、日本に永住している外国人の選挙権、日の丸・君が代の国旗・国歌の問題、通信傍受法(盗聴法)、石原都知事の三国人発言、55年めの敗戦(終戦)記念日、森首相の神の国発言、沖縄の基地問題……。
 世の中の重大ニュースになっていることを、思い出すままに列挙して見た。全部日中・太平洋戦争が残したものを、今の私たちがどう受け止めるかという問題である。
 そこで、その当時に生きてくらしていた人達の『なま』の声を取材して書き留めることによって、今の自分たちのくらしにいかすということは、大きな意味のある仕事である。

何を、どう書かせていくか。

◆ 何を(題材)、どう書いていくか(記述)ということを具体的に考え、題材を自由に『選ばせる』ことの大事さを分からせ、生き生きとした作品にしていく。
◆ 書くことは、めんどうな作業であるが、書き終えると大事なものが見えて来るとい    うことを分からせる。
◆ 書いたものを、みんなで確かめていくことの楽しさ、大切さを学んでいく。
◆ 『・・・・・だそうです。』という伝聞推定の表現にせず、『・・・・・・だったのです。』という歴史的過去形表現にする。

推敲指導の大切さ

N・Rの作品から
 N・Rの作品『こわい東京大空しゅう』をクラスで読み合う。その過程の中で出された疑問・感想などを本人に直接指摘してあげ、もう一度書き膨らまし、思いおこしをして記述させる。『はじける芽』の文章の中で、《・・・・・・・。》の文章は、後から追加された文章である。
E・Aの作品から
 祖父から聞いた戦争体験の文章の中に、『ぼくの母には、中国に姉がいます。』という文があった。そこのところは、さらにじっくり聞いて深めてほしいところである。遠藤君には、クラスの全員で読み合った後に、次のような課題を出しておいた。
☆ お母さんのお姉さんが、なぜ中国にいるのか。
☆ どんなことがきっかけで、文通が始まったのか。
☆ おばあちゃんの存在がここでは大きいが、このあたりの事実を母親に確かめさせる。
☆ おばあちゃんが、中国に行っていたいきさつを聞いておく。ここで、遠藤君も知らされていなかった、事実が分かって来る。母親が学校に話しに来た時、この文の中に書かれているような事が、母親の口から初めて担任の私に明らかにされた。これは、遠藤君の真剣な取り組みが、母親をして初めて告白する気になっていった。この事実については、上の2人の兄も聞いていないので、3人の息子を前にして、語りたいと言うことであった。

これからの学習をどう展開していくか

☆ この学習の中で、日本と中国との不幸な関係も少し分かったのではないだろうか。
☆ 1972年の日中友好条約の締結までは、正式な関係が結ばれなかった事実をこれからの学習で、深く学んでいくに違いない。
☆ 中国国民党と中国共産党との関係や、満州国の建設に日本の当時の政府が関わっていた事実も、これから学んでいく。
☆ 自分の知らされていなかった事実を、自分の努力によって明らかにして行ったことは、大きな力になった。
☆ クラスには、中国の両親を持つ児童やフィリピンの母親を持ち、父親のいなくなった児童もいる。そのような児童が、やがては自分の生い立ちなりを引き寄せて考えられるように仕向けたい。これこそが国際理解教育であろうと考えられる。

日記指導の大事さを改めて訴える

『子どものあるがままによりそい、表現し生きる力に』で、はたして良いのであろうか?
 生活綴り方教育(正しい作文教育)における『指導段階の定式』を1982年3月(日本作文の会委員会)が発表している。
 第1次指導段階・・・過ぎ去ったことを『・・・でした。』『・・・ました。』と、出来事の順に書く。
取材・題材指導→構成・構想指導→記述・叙述の指導→推敲(考)の指導→鑑賞・批評という流れを、小学校の段階では、最も大事に指導する。第1次指導段階は、中学校・高校になっても、書けない児童がいれば、威力を発揮するのである。
 第2次指導段階・・・長い間とかやや長い間にわたり、何度もくりかえし見聞きし経験していることを、まとめて説明風に書いていくような文章を書く。
 この指導は、第一次指導段階をきちんと指導した後に、行われるべ きである。
 表現各過程の指導によらず、子どものあるがままの指導を大切にで良いのだろうか。
 「『子どもたちの表現活動は、あくまでも自由で主体的なものであり、その活動の中に子もの発達の原動力がある。』とし、教師からだけの働きかけや願いだけで、本当に子どもは書き始めるだろうか……。」と、日本作文の会は従来の指導法を見直す事を強調している。なぜ従来の指導法がいけないのであろうか。現場では、子どもに即して、様々な働きかけをしている。かって作文の会が提案した指導過程をふんで実践しているものは、少数派かも知れない。そこへ持って来て、改めてこんなことを提起すれば、ますます現場は、何の働きかけもせず、書かせっぱなしの指導のみの教師が増えて行くであろう。教育というのは、子どもの可能性を引き出し励まし自信をつけて、それこそ『生きる力』をつけさせて来たのではないだろうか。

新学習指導要領先取り実施の中では、いつの時代でもあった。

 日本作文の会も所属していた民間教育団体が大きな力をもち、それなりに影響力を持っていた頃の70年代・80年代の頃も、コンクール作文に代表される官製作文は盛んであった。それは、『税金の使い方』『郵便貯金への意見』『住み良い東京へ』などに象徴されるようなあらかじめテーマの決まった作文へ、子どもたちがかりだされていることである。だいたいこの種類のものには、3つの問題点があると昔から指摘していた。
☆ あらかじめテーマが決められていて、価値観の強制があること。
☆ 何枚以内に書けと、字数の制限がある。
☆ 書き手が、このようなことを書けば喜ぶであろうと、テーマの向こうに見える物や人を意識する。
 これらのことは、子どもたちに何に感動して書くのか(『選ばせること』)を奪っているのである。(『現代つづりかたの伝統と創造』(国分一太郎著・百合出版)「えらばせる」参照。)
 今年卒業した子どもたちの、中学校での夏休みの作文の宿題を見て、予想はしていたが、がっかりした。中学校の現場は、ほとんどこの程度であることが予想される。小学校の段階で、書くことの指導をされずに、書かせっぱなしのあるがままの子どもに寄り添っていたならば、結論は見えているのである。むしろ官製作文教育をはびこらせ、子どもたちに書くことの本当の意味や喜びを教えず、書くことから次第に遠ざけて行くことを助長しているに過ぎない。今現場が欲している事は、『何を、どのように書かせるか』『誰でも、書きたがりやにしたい』『書けない子へ、どのような指導法があるのか』『一時間の作文の授業はどのようにするのか』という事なのである。あるがままというのは、こどもにちっとも寄り添ってはいない。『寄り添う』とは、子どもがどんな願いを持ち日々暮らしているのかということに耳を傾け、子どもの内面に持っていること事を引き出し、それをすなおに表現するように、仕向けて行くことなのである。  

私の子どもへの寄り添い方、それは日記指導から

◇ まず、書くことへの関心を仕向ける……それは保護者会でも強調する。
 子どもたちは、一斉指導から……『何を、どう書いていけば良いのか』を学ぶ。

何をは、題材指導であり、どうは、記述指導である。

◇ 日記指導は、きわめて具体的に教えていく。
・ 高学年は、最初は150字マス程度の作文帳を一斉に買わせる。
・ 日付や曜日は、必ず書いたその日に書く。
・ 題名は、場面を切り取らせる意味でも、書かせる。(読みたくなる題名を!)上から3マスあけて、4マス目から書く。
・ 書き出しは、1マスあけ2マス目から書く。
・ その日にあったこと、2・3日間での間に起きた出来事の中で心の中に残った事を選ぶ。                  
・ 最初は、一斉に同じテーマで書かせたりする。 
 このような指導は、作文を書かせる基本的なことである。こういうことさえ指導されずに、進級して来る子どもたち、クラス集団がある。
◇ 文章を生き生きと書く6つの大事な事を、具体的に教える。
① いつ、どこで、誰と何をしたかがはっきりわかるように書く。
② その時、話した言葉は、会話の形にして「・・・・・・。」 を使って文にする。
③ その時、思ったり、考えたりした事は、(・・・・・・。)を使って文にする。
④ その時の動きや、まわりの様子にも気がついたら書くようにする。
⑤ 良くわからない所(自分はわかっていても、読み手がわかるように)は、説明も    入れる。
⑥ 必要な時は、ものの形や色や大きさ、手ざわり、においなども入れて書く。
◇ まず担任発表があった始業式の日の出来事を書かせる。
○年生になった日の出来事を書かせる。・・・思いおこしをさせる。何に感動したかを確かめる。
○年生になってと言う決意文は決して書かせない。・・・最初は、思い起こしの文が大切である。
◇ 「木へんに秋は、なんて読むの」(深沢良信)の作品の分析。(日書・教科書5年上)
題材・取材のしかた。・・・人間・自然・世の中のこと(社会)
生活のしぶり・書きぶりの違いをこの文章から考え合う。・・・1時間の授業。
同じように、家に帰ってみんなもさっそくやって、その事を日記に書いて見よう。
◇ 詩の指導も大切にしていく。
 リズムのある詩を読み合い、鑑賞する。全員で音読する。一人ひとり気に入った詩を、みんなの前で暗唱させる。その後、1日ひとつの詩を視写させて、自分の感想を書き提出。(日付・曜日忘れず)
詩の鑑賞のしかた…音読→何に感動しているのか?→表現の工夫の吟味(題名・現在  形・倒置法など)
◇ 日記の題材の広がり…家族の人と関わる。(家事労働の勧め。お手伝いの勧め。)
◇ 教科教育との関わり
ニュースを見る。農業(米問題)を考える。自分の足を使って調べる。
◇ 一人ひとりを認め、励ますことの大事さ・・・子どもたちが、自主的にとららえてきたことは、寄り添い励ます.

学期に一回は、指導題目を立てて意図的・計画的指導を!
◇ 祖父母の戦争体験を聞き書きできたら書いてみよう。
 全員の名前と題名を乗せる。題材指導やこれからの表現意欲喚起につながる。

こわい東京大空しゅう 墨田区立立花小学校 5年 N・S

 今、北区に住んでいる祖母に、8月の末頃、電話で聞いた話です。
 当時12才で、浅草に住んでいた祖母は、戦争が始まると、妹と2人で宮城県へ学童疎開(そかい)へ行ったそうです。学童疎開先に、親が会いに来て、1晩とまってくれる事もあったみたいです。父親が会いに来てくれた日、祖母と妹は山の上の畑に2人で出かけていたのです。畑仕事の用事の後、宿舎に帰る途中、妹が手ぬぐいを落としたのです。昔の人は、手ぬぐいがすごく大切だったのです。その手ぬぐいを1人で取りに行くのは危(あぶ)ないので、先生が、
「お姉ちゃんも、いっしょに行ってあげて。」
と言ったのです。
 坂を下って行くと、ちょうど面会に来ていた父親(私から見て曾祖父)が、タクシーに乗りこむ所だったのです。11月頃になると、雪が降る寒い日が来て、夏の洋服はいらないと思って、父親が持っていってくれたのでした。次の夏は、着るものがなかったそうです。祖母が言うには、それが最後の曾祖父のすがたになったのです。私は、
(そんな……。父親の姿がそれっきりだったらやだなあ。)
と思いました。
《戦争がはげしくなり、東京にもばくだんが落ちるようになりました。》
 祖母の母親と(祖母)の弟と赤ちゃんの3人で、浅草から向島へにげたのです。向島へにげるには、橋をわたるのですが、その橋の上で、母と1年生になる弟の手が離(はな)れてしまったのです。その後、母親がいくらさがしても、弟は見つからなかったのです。(祖母)の弟は、今でも生きているのか、死んでしまったのか、わからないままです。
「祖父と祖母の兄は、2人でにげた。」
と言っていました。曾祖父は、病気だったので、にげている間に倒(倒)れて死んだのです。
 祖母の兄は、熱くて隅田川に飛び込みました。他の人も熱くて川に飛び込むから、祖母の兄は、深い方へと流されてしまいました。もうだめかと思った時、舟に乗った友達が、引き上げてくれました。私の大おじにあたる人で、元気に暮らしています。
 それから、曾祖父の妹は、弟と一緒に隅田川の橋の方へ逃げて行きました。当時その橋の上は、ゴチャゴチャで動けませんでした。兵隊さんが橋の下にいて、毛布を広げて、
「毛布の上へ飛び降りなさい。」
と言ってくれたので、曾祖父の妹は、弟を毛布の上に落としました。自分も飛び降りて、2人とも助かりました。 祖母と妹が、列車で浅草まで帰ると、そこは焼きつくされて、何もなかったのです。自分の家までも……。私は、
(何もない、家族もいないだれにも会えないなんてかわいそうだな。私は、今生まれてきて、良かったな。)と思いました。
 その頃、祖母の母親《曾祖母》は背中の赤ちゃんと、向島の隅田公園の方にいました。赤ちゃんを見ると、その背中の赤ちゃんまで死んでしまいました。私は、
(何で背中の赤ちゃんまで死んでしまったのかな。)
と思いました。けむりをすってなくなったのです。
 祖母のおばさんの家はやけてしまい、祖母たち生きている人は、寺島のおばの家に集まりました。祖母は私に、
「里奈ちゃんね、戦争なんてするものじゃないんだよ。おばあちゃんこの50年以上たっても、 誰にも話したくないこともあるんだよ。けどね、1番いやなのは、3月だね。3月に入ると、 すごくいやな気持ちがするんだよ。だから3月はきらいなの。」
と言いました。私は、
(あっ、おばあちゃんなんか悲しい声だな。けどそんなに話したくない事、私に話してく  れてありがとう。)
 私は、電話を切る前に、
「おばあちゃん、ありがとう。話、聞けて良かった。」
と言いました。祖母は、
「いいよ、ばあちゃんも話せて良かった。」
と言いました。私は、祖母がこんなことを知っていたなんて知りませんでした。

母の姉は中国に 墨田区立立花小  5年  N・S

中国での生活

 僕の母には、中国に姉がいます。僕にとっては、おばさんにあたります。名前は、陳景華(チェンケイカ)と言います。僕は、
(なんで中国に姉がいるんだろう。)
と不思議に思いました。母は、
「おばあちゃんが、21才の時、昭和19年、その当時、おばあちゃんは同盟通信社に勤めて いたのね。上司が中国(満州)の支社にいくことになったので、おばあちゃんも一緒に行 ったの。」
と言いました。母が祖母に、
(よく親は許したねえ。)
と聞いたら、
(当時、日本は戦争による食料不足、満州は食料豊富だったので行った方がいいと親は思 った。それに満州は、日本領土ということになっていたので、外国という感覚じゃなく、東 京から北海道に行く位の感覚だった。)
と話してくれたそうです。祖母は新潟から船に乗り、3日ほどで朝鮮半島に着き、汽車で中国に入りました。満州は、お米やお肉、お魚など何でもあったので、豊かな生活でした。中国語は話せなかったけど、日本人が多かったので、困らなかったらしいです。そのうち、太平洋戦争がはげしくなって、1945年(昭和20年)8月15日、日本軍はアメリカ・イギリスを中心とする連合国軍に敗れました。そのため、日本人は、日本に引きあげなくてはいけませんでした。ところが、1945(昭和20)年3月10日の東京大空しゅうで台東区にあった家はすべて焼けてしまい、親兄弟と連絡が取れなくなってしまいました。帰れなく困っていた祖母を助けてくれたのは、中国で知り合った友人達でした。その中の一人が陳康初(チェンガンツ)という軍人でした。その人は、中国の国民党軍の人で、台湾にずっと行っていて、中国に帰って来た人でした。祖母は、陳康初と言う人と結婚することになりました。その頃、日本の家族と連絡が取れ、日本の両親も結婚を許可してくれました。日本に帰国しても、満足に食べるものがない時代だったので、中国にいた方がいいと思ったらしいです。戦争が終わった後、日本人はソ連軍の捕りょになったり、引きあげの途中で財産をうばわれたり、病気になって日本に帰れなくなった人も大勢います。その中で祖母が無事でいられたのは、
「陳康初さんが軍人であり、裕福な生活ができる人だったから。」
と母は言いました。1950(昭和25)年7月に陳景華さんが生まれ、1953(昭和28)年1月ぼくの母が生まれました。その当時は、中国の紹興(しょうこう)に住んでいたそうです。ぼくは、母の話がよく理解出来ませんでした。戦争の後、中国では内戦が起こり、共産軍と国民党軍が争いました。
 紹興は、田舎(いなか)で内戦の影きょうはあまりありませんでした。陳康初さんも軍人をやめかんぶつ屋の商売をやっていたため、割合おだやかな生活でした。しかし、国民党軍が負け。国民党軍の総統だった蒋介石が台湾に行ってしまうと、中国の政治が共産主義となって、外国人は全員国外へ出なくてはならなくなりました。祖母の子どもは、父親が中国人ということで、2人ともおいて日本にいくように命令されました。祖母は生まれたばかりのぼくの母を、ぜったい置いて行かれないと思い、
「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」
と強く言いました。ぼくは、
(この時代は、反抗すると、殺されたりなぐられたりするのに、おばあちゃんってすごいなあ。)
と思いました。とうとう願いを聞いてもらって、生後2カ月の僕の母を一緒に連れて帰ることが許されました。しかし、2才半離れた姉は、父親のところでくらすことになりました。ぼくは、母に、
「おばあちゃん、そん時お姉さんに何か言ったの。」
と聞くと、母は、
「お母さんが思うには、中国てあんまり遠くないし、実のお父さんのもとに置いて行くのだか ら、生きていればいつか会えるって、絶望的にはならなかったと思う。別れるときは、な んて言ったかわからないけど。」
と言いました。
 1953(昭和28)年3月、祖母は母をだいて、日本に帰ることになりました。母は帰って来られるからいいけど、中国に残される景華さんがかわいそうに思いました。

帰  国

 帰国するとき、陳康初さんは、紹興駅まで一緒について来ました。祖母は狼(おおかみ)の毛皮のコートを着て、あかちゃんのおしめを持って、身の回りの物など大きな荷物を持ち、母をだいていました。紹興駅から上海(シャンハイ)まで行き、上海港から船で日本へ帰ることになっていました。祖母は、陳康初さんから、紫色の宝石のついた金の指輪と、水晶の印かんをもらいました。ぼくは、
「その時、おばあちゃん、どういうこと話した。」
と聞くと、
「『1つだけ、3年間たって中国に帰れなかったら、それぞれ別々の人生を生きていきましょう。 景華のことは、よろしくお願いします。』と言ったそうよ。もっとくわしく聞きたいけど、お  ばあちゃんは、『昔のことは忘れた。』と言うばかりで、あまり話したくないと思うよ。」
と、母は言いました。ぼくは、
(ぼくもおばあちゃんだったら、そういうことはあまり話したくないなあ。)
と深く思いました。上海から船でたって3日間で京都舞鶴(まいづる)港につきました。日本が見えてきたとき、緑一色の日本列島を見て、
(ああ。日本の国は、なんてきれいなんだろう。)
と、祖母は思いました。舞鶴港には、祖母の父親と弟が迎えに来てくれました。それから、
汽車に乗り、9年ぶりに東京に帰りました。

実家での生活

 祖母の父親は、戦前鉄工所をやっていた技術を生かして、戦後荒川区南千住で風呂釜を作っていました。大きな旅館などが得意先でした。銅でできた風呂釜は、数年でこわれるため、けっこうもうかっていました。祖母は、母が保育園に入る年まで実家にいました。母は、
「実家がかなり経済力があったから助かった。おじいちゃん(ぼくにとってひいおじいちゃん) おばあちゃんにすごくかわいがってもらったよ。だから、お父さんとか別にいなくても、寂 しくなかったんだよ。」
と、言いました。母と祖母が帰ってきてから、すぐ国交断絶が行われました。もう中国に行けないし、手紙も出せません。ぼくは、
(おばあちゃん悲しんだかなあー。)
と、思いました。もう景華さんとは会えなくなってしまったのです。その後、祖母は古着屋の店をやりながら母を育てました。母は、
「お父さんのことを聞くと、『あんたが大人になったら話してあげる』と言って、一言も話して くれなかった。そのうち父親のことは、聞いてはいけないことだと思うようになった。」
と、言いました。
昭和40年(1965年)祖母は再婚しました。その人が、今団地に住んでいる僕のおじいちゃんです。

中国からの手紙

 昭和61年(1986年)11月18日、突然、荒川区南千住の祖父母の家に、母宛の手紙が届きました。中国の景華さんからの手紙でした。前の年、僕の兄が4才で肺炎で亡くなった時、母は初めて、中国に姉がいること、父親が中国人だったことを祖母から教えてもらったそうです。母は、
「子どもを亡くして悲しかったけれど、この地球上に、血のつながった姉がいることは、とて もうれしかった。」
と、言っていました。突然届いた手紙だったので、父の会社の人に翻訳(ほんやく)してもらいました。母は、手紙を開くとき、すごくドキドキしたそうです。母は、
(きれいな字だなあ。)
と、思ったそうです。内容は、「中国のお父さんが9年前になくなりました。」とか、「お父さんの遺品(いひん)から住所が分かった。」とか、「母親が日本人ということで、いじめられ、恨(うら)んだこともあったが、今は、結婚して幸せに暮らしている。」ことなどが書いてあったそうです。その時、祖母にも景華さんから手紙が来ていました。母が言うには、
「ほとんど、同じことが書いてあったらしいよ。」
と、言いました。ぼくは、
(おばあちゃんは、手紙を読んでどう思ったのかなあ。)
と思いました。母と祖母は、景華さんに手紙を送ったそうです。手紙と一緒にいろいろなおかし、例えば「煎餅(せんべい)・チョコレート・クッキー」などなど送りました。後から腕時計3人分(景華さん、ご主人、子ども)を送りました。母と祖母は、中国語が書けなかったので、日本語で書きました。年をとった中国の人は、日本語が分かる人が多いので、必ず誰か読んでくれると、思ったそうです。ぼくは、
(榎本先生も、年をとった中国の人は日本語を読める人が多いとか、教えてくれたなあ。)
と、思い出しました。それから、数ヶ月して、景華さんから返事がきました。
「うで時計をお母さんだと思って大事にします。」
と、手紙には書いてありました。それから文通が始まりました。文通が始まった頃、中国は国内も自由に旅行出来ませんでした。今はだいぶ変わり、一部では海外に自由に行けるようになりました。
 それは日中平和条約が1972年に結ばれ、日本と中国が仲良くなり、国交を回復したことが大きな理由です。

ぜったい中国に行こう

 最近母から20センチメートル四方の古い布に薄くなってよく読めない、茶色の文字で
「路進神不阻、心連別何妨、○○存証,康哥1953.3」と書いてありました。
『何、これ。』
と、母に聞くと、
「中国のお父さんが別れるとき、おばあちゃんにくれたものよ。この字はね、中国のお父さ んの血で書かれているのよ。」
と、母は小さな声で言いました。ぼくは、
「えっ。」
と、すごくびっくりしました。母は、布をふうとうに入れ、しょっきだなの引き出しにしまいました。ぼくは、
(こわかった。)
と、思いました。ぼくは、
「何で血で書いたの。」
と、母に言いました。母は、
「それはたぶんおとうさんの強い愛情を表しているの。」
と、言いました。ぼくは、
(何で血で書いたんだろう。)
と、不思議に思いました。母は、
「ぼくの体にも中国人の血が4分の1流れている。」
と言っています。ぼくは、
(戦争がなければ景華さんと別れなくてすんだのに、前から思っていたけれど、戦争は恐  ろしい。)
と、強く思いました。でも、母は、
「戦争がなかったら、中国に住んでいたと思うよ。」
と、言っています。そうすると母は父とは出会わないことになります。ぼく達3人の兄弟は、この世に生まれなかったことになります。戦争がなかったら、ぼくは母とも会えなかったし、この世にいませんでした。ぼくは、
(戦争のおかげで母や父やいろんな人に会えたんだなあ。)
と、正直ちょっとふくざつな気持ちでした。でも、戦争はよくないものです。おそろしいものです。
母も言っているけど、
「いつか絶対中国に行こうね。」
ぼくも、
(中国に行ったら景華さんにも会ってみたいし、いとこにも会ってみたいなあ。)
と、思ったこともあります。
(お母さん、家族で絶対中国に行こうね。)
と、僕は思っています。

 昭城には、理解できないことも多く、この文章を書くのに何日かかかりました。ご苦労様!私にとってもいろいろ整理するよい機会となりました。変色した古い布の切れ端は、大人になったら娘に見せてほしいと中国の父から託されたそうです。
一部読めない字もありますが、
路進神不阻
心連別何妨
○○存証
康哥1953.3 と書かれています。
 この文字を書くためにどれだけ血を流したのか。この文字を目にするたび、父の深い愛情と励まし、同時に無念さを思い胸が痛みます。戦争ほど残酷なものはありません。これからも子供たちとは、機会あるたびに語り合いたいと思います。世界中から戦争をなくすにはどうしたらいいのかを。         N・Sの母より
※ 康哥は書家としての号で、陳康初さんのことです。
 こんなドラマチックな話、読んでいるだけで胸にこみ上げる場面がたくさんありました。いろんな事情があるんでしょうが、おばあちゃんが元気なうちに陳景華さんを日本にお呼びして、親子3人が対面できるといいのになあと勝手に思ってしまいます。

 まだまだ戦後は終わってないなあと、みんなが書いてくれた文を読みながら感じました。中国残留孤児のみなさんが日本にやってくるたんびに、遠藤君のおばあちゃんやお母さんは、テレビに向かってもしかしたら陳景華さんではないかと思いながら、見ているのではないかと、勝手に想像しています。語らずにいた秘密の話を、お母さんは思いきり語ってくれました。それをこんなに遠藤君は、心をこめて書いてくれました。中国の陳景華さんに、この作文の願いが届くことを願っています。ぼくも心より応援しています。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional