子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第55次日教組教育研究集会

第55次日教組教育研究集会

日教組第55次教育研究全国集会報告書

第1分科会 日本語教育

平和教育を大切にしていこう!

「年配の人に、戦争中の体験を聞き書きする」を終えて
(1)戦争体験の聞き書き 2004年 7月から10月までの五年生の実践
(2)全校平和集会で戦争体験を聞き書き  2004年 3月の5年生の実践
(3)原爆体験の聞き書き         2005年 7月の6年生の実践
(4)「在満少国民」吉岡数子さんとの出会い 2005年 10月の6年生の実践

文章を生き生きと書くための、 六つの大事なこと

作文がうまくなるキーワード

① いつ、どこで、誰(だれ)がなにをしたかが、はっきりわかる文にする。
② その時はなした自分や相手(あいて)の言葉は、会話として「・・。」を使 って文にする。
③ その時、思ったり、考(かんが)えたりしたことは、(・・。)を使って文にする。
④ その時の動きや、周(まわ)りの様子(ようす)にも気がついたら書くようにする。
⑤ 自分はわかっていても、読み手がわかるように、説明(せつめい)も入れる。
⑥ 必要(ひつよう)なところは、ものの形や色や大きさ、手触(てざわ)り、においなど、五感(官)を 働(はたら)かせたことを、よく思い出して書く。

教科書から、表現力を高める単元が減少

 情報・伝達に役立つ作文、絵や写真を見て想像する作文などが、わずかにあり、子どもの表現力を真に高める単元が、皆無と言っていいほどなくなりつつある。

戦争体験の聞き書き

 日本が戦争に負けて、今年で60年の歳月が流れ去った。私が、この墨田区に転勤してきたのは、今から30年前であった。保護者の中にも、戦争体験者の方が何人かおられ、戦争体験は、自分の親から直接聞けるこどもたちが半分近くいた。父親が兵隊で、外国にまで行き、戦って帰ってこられた方が数人おられた。祖父母の年令も、60代前後で、記憶も鮮明に覚えておられ、貴重な体験が語られ、当時のこどもたちは、割合苦労せずに聞き書きができた。

祖父母や曾祖父母(そうそふぼ) からの聞き書き

 夏休みは、父母ののふるさとに帰られ、祖父母や曾祖父母(そうそふぼ)の方に、一緒になって聞き書きをすることを勧めた。60年以上前の戦争中の貴重な生活を語っていただき、「平和の大切さ」や「戦争のむごさ」を身をもって感じ取ることができる文が完成し、みんなで読み合った。

聞き書きは、ワンランク上の書き方

「書き手」「語り手」「励まし手(教師や親)」の3人が、うまくいかないと、この仕事は、なかなか「ひとまとまりのきちんとした文章」にはならない。今回の取り組みをして、こどもたちの表現力が、一回りも二回りも向上してきた。「鑑賞」することによって、平和の意味をもう一度考え合い、「ものの見方」「考え方」が深まり合うことが出来た。

戦争の聞き書きを進めるために

保護者の方へ

 こどもたちに戦争体験の聞き書きを休み中の課題にしました。身近なところにいらっしゃったら、こどもたちに情報を提供していただければ、ありがたいです。田舎にご両親や祖父母の方がご健在であったら、事前に連絡をしておいていただくと、こどもたちが取材するのに、大変助かりますので、よろしくお願いいたします。子供さんと、一緒になって、お話を取材されてもかまいません。

みなさんに

 最初に、自分の身近なところにいる方で、戦争体験をされた方がいらっしゃる方をさがす。家の人や近所の人に聞く。祖父母が近くにいたり、いなかにいたら、電話などで確かめておく。あらかじめ、取材に行く前に、事前に訪ねて、お聞きする内容をお手紙やメモの形にして、お渡ししておく。このようなお話のできる方は、現在70才(戦争に負けた年、10才)以上の方です。東京大空襲や兵隊の体験者の話が聞けたら、すごいことです。
 どんな内容をたずねるか(「原博おじさんの戦争体験」「母の姉は中国に」など参照)
 一つの例(この通りでなくて良い。自分で質問することを、メモして、相手に手渡しておく。)
①いつどこで、お生まれになったのか?
②その時のご家族は、何人おられたのか?
③その後、ご兄弟は何人になられたのか?
④ご家族のお仕事は、どんなことをされていたのか?
⑤小学校に入学される前の心に強く残る思い出があれば、いくつかお話ください。幸せだった家族として、時代のことを、たくさんあると思われますが、今なつかしく鮮やかに残っておられることがあれば、お話ください。
⑥何年になんという小学校に入学されたのか?
⑦その時代は、戦争前で、どんな暮らしを人々はしていたのか?
⑧学校で行われていた教育は、どんな教育が行われていたのか?ご自分が受けられた教育を、具体的に思い出してお話ください。
⑨1941年12月8日太平洋戦争開始のときは、何才であったか。また、そのニュースをどのように受けとめておられたか。  
⑩今、一番こどもたちに語りたいことはなんでしょうか。

書くとき(記述)

①小見出しを書き、分けて書く
②「・・・だそうです。」という(伝聞推定)書き方はせず、「・・です。」「・・ました。」と「歴史的過去形表現」する。
③できるだけ、心に残る言葉は、会話の形にする。
④会話の後に、「・・・と言いました。」と言うだけでなく、そのしゃべっている、相手の顔の表情や声の調子などをじっくり観察して、そのことを思い出して、書き込めるとすばらしい。
⑤その話を聞いていて、そのとき感じたことや思ったことは、文章の中にはさみこんで書く。
⑥難しい言葉は、説明をいれて書くようにする。
⑦インタビユーの時につっこみ質問をして、語り手の思い起こしを手伝い、深めたことを書く。
(1)戦争体験の聞き書き 2004年 7月から10月までの五年生の実践

祖父の戦争体験  墨田区立緑小学校 5年  B・T

 ぼくの父方の祖父は、徳島に住んでいて、10人兄弟の七番目でした。現在は、静岡県に住んでいて、1929(昭和4)年生まれで、今年75才になります。戦争が始まった時、祖父は小学6年生でした。ハワイの真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)には、国民全てが拍手を送り、太平洋戦争へと突き進んでいきました。5人の兄は、皆徴兵検査(ちょうへいけんさ)を受け、3番目の兄は甲種合格し、そのほかの4人の兄は乙種で、全員兵隊に行ってしまいました。祖父は1942年の4月、旧制中学にあがると、人手不足を補うため、米と麦の収穫期には、一般農家で、それぞれ10日くらいずつ、収穫の手伝いをしました。ぼくは、真珠湾攻撃に拍手を送るなんて、今では考えられなく、おどろきました。当時、祖父の父は、大蔵省専売局(おおくらしょうせんばいきょく)に勤めていました。

軍需工場(ぐんじゅこうじょう)での仕事

 中学3年生の12月からは、学徒動員で軍需工場に行き、祖父は旋盤工(せんばんこう)という仕事をしました。旋盤工というのは、ベルトで金属などをけずって、毎朝渡される図面に書いてあるものを作る仕事です。軍需工場では160人くらい仕事をしていましたが、そのうち旋盤工のように機械を使った仕事をする人は10人くらいで、あとの150人は運搬などの仕事をしていました。機械を使う10人は工場が決めていたので、祖父はなぜ旋盤工になったかはわかりませんでした。

陣地の構築

 中学4年生の4月からは、戦況が悪化して、本土決戦のために山の中腹に陣地を構築することになり、祖父は軍需工場から配属替えになりました。1回にむしろにスコップ6杯分の砂を入れて山を登って運んでいき、午前午後3回ずつで合計1日に6回も運びました。しかも、往復にだいたい一時間くらいかかりました。ぼくは、大変だと思い、みんなこれをやっていたのだからすごいと思いました。しかし、どんな陣地を作るかは知らされていなく、学生はただ砂や材木などを運ぶだけでした。途中で山の反対側が、空襲にあうこともありました。しかし、結局その陣地は使われずに敗戦してしまいました。

徳島の空襲

 1945年7月3日の晩から7月4日の朝にかけて、徳島は空襲にあいました。祖父は、陣地構築から帰ってきて、へとへとになって熟睡していました。一時くらいに一度空襲警報が鳴りましたが、解除されました。しかし、また空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴り、みんなは防空ごうににげこみました。焼夷弾(しょういだん)を投下されたときは、防空ごうの中でも騒音が聞こえ、外に出てみると、家に焼夷弾が落ちていたので、すぐに消火し、もうここは危険だと判断して逃げました。焼夷弾とは、中に油が入っていて、落ちるとばく発して火がつくばくだんです。畑の真ん中で様子を見ることにして、面積を小さくし、当たる確率を低くするために、直立不動でいました。 畑には祖父1人しかいなく、祖父はものすごく圧力を感じていました。ぼくがもしこんな状況になったら、すごく心細いと思い、
(よくたえられたな。)
と、思いました。祖父は、
「空襲にあったときに集まる場所も決めておいたんだけど、全然役に立たなかったんだよ。」
と、言っていました。焼夷弾には、油脂焼夷弾と黄燐(おうりん)焼夷弾という2つの種類があり、徳島の空しゅうでは、油脂焼夷弾が落とされました。また、焼夷弾は火事にする目的で落とされますが、爆弾は、建物などをこわす目的で落とされます。明るくなってくると、空襲が終わりました。しかし、家族はばらばらでした。家に帰ってみると、家族も無事で、家もなんとか焼け残っていました。しかし、向かいの家や裏の家は焼けてしまっていました。ぼくは、
(とても運が良かったんだな。だれも亡くならなかったし、家も焼け残っていたなんて。)
と、思いました。繁華街(はんかがい)に住んでいた祖父の親せきが焼け出されて、2~3ヶ月祖父の家で暮らしていました。
(繁華街の方が、人がたくさんいるからたくさんの焼夷弾が落とされたのかな。)
と、ぼくは考えました。この空襲でなくなった人の中には、赤ちゃんを背負って逃げていて、赤ちゃんとその女の人の間にちょうど焼夷弾が落ちて、亡くなってしまった人もいました。ぼくは、かわいそうだと思い、
(戦争をしなければ、この2人は生きていられたのに。)
と、思いました。

日常の生活

 日常生活に必要な米、麦、塩などの食料品のほとんどは配給制で、1人1日にほんのわずかな量しかもらえませんでした。配給とは、家族の人数につき、一軒当たり決まった量だけ配られる制度です。各家庭で簡単に自給できるさつまいも、かぼちゃ、じゃがいもなどをご飯に混ぜて食べました。しかし、それでも食べられるものは少なく、我慢の生活でした。ぼくは、
(今では毎日満足に食べられるから、昔の人から見ればすごくぜいたくなんだな。でも、みん な毎日つかれるのに、そんなちょっとしか食べられないなんてかわいそう。)
と、思いました。また、学校でも、太平洋戦争はいいことだと教えていたので。祖父は日本の戦いに何の不安も全く感じていませんでした。しかし、1944年ごろから不利になってきていた日本の敗戦は、広島、長崎への原爆投下によって、決定的になりました。戦況が悪化してくると、昼には艦載機(かんさいき)というグアム島からきたと言われていた1人乗りの戦闘機が飛んできました。人が歩いていると、操縦士の顔が見えるくらい低空飛行で飛んできました。艦載機が来ると、みんな防空ごうににげこみましたが、見つかってしまうと大人も子供も容赦なく機関銃で徹底的にやられました。弾がある間は攻撃していて、なくなると帰っていきました。防空ごうの中で「ピューン」と、言うような音が聞こえると、その艦載機はもう遠くに行ってしまったという、飛んでいく空気の音でした。また、「ポツッ」というような音が聞こえると、その艦載機はまだ近くにいて、球を撃っているという、弾が落ちる音でした。地域の人の中には、防空ごうに逃げ込もうとして、太ももを撃たれてしまった人もいました。
 そのころは、昼は艦載機の心配、夜は空襲の心配で、一日中気の休まるときはほとんどありませんでした。ぼくは、
(だんだん戦況が悪化してくると、大変になってきたな。でも、一度も艦載機に見つからなくてよかった。ぼくがそんな 状況になったらすごくこわい。)
と、思いました。

敗戦と兄の戦死

 1945年8月15日、祖父は正午に全国民に向けて天皇陛下からの放送があると、陣地構築の朝の配置決めの時に知らされていました。敗戦のニュースは、陣地構築に動員されていた町の町役場前で聞きました。当時は、国民全員でこの戦争に勝つために、勉強を後回しにして本土での決戦に備えていました。なので、祖父は言葉にならないような衝撃を受け、放心状態でした。特に兵隊の人たちは、敗戦を信じられない様子でした。ラジオや新聞での報道では、ほとんど戦況が悪化していることなど放送されていなかったので、とてもショックを受けました。ぼくは、
(政府の都合のいいような情報ばかり流していると、おかしいことになるからだめだ。現在も そういうことにならないよ うに注意しないといけない。)
と、思いました。
 敗戦から数日後、市役所から、四番目の兄が戦死した知らせが届きました。箱の中には、『××の霊』と書いた紙しか入っていなく、遺骨などは入っていませんでした。また、なぜ戦死したかも全く分かりませんでした。その後、兄たちが帰ってきて、ビルマ派遣軍の本部にいた二番目の兄から、4番目の兄のことを聞きました。4番目の兄は、ビルマ派遣軍の前線にいて、シッタン川という川で斥候(せっこう)という2~3人で様子を見てくる役目になり、シッタン川を渡っていったが、帰ってこなかったということでした。ぼくが、そのときどんな気持ちだったか聞くと、祖父は、
「あんまり悲しくはなかったなあ。親はすごく悲しんでたみたいだけど。」
と、言っていました。ぼくは、
(今だったら兄弟が亡くなったりしたらすごく悲しいのに、戦争になると自分が生き長らえる のだけで精一杯で、兄弟とかが亡くなっても悲しくなくなるから、戦争はこわい。ぼくは平 和な世界に生まれてよかったな。)
と、思いました。

祖父の言いたいこと

最後に祖父は、
「戦争の経験者が少なくなって言い伝えできる人も減った。世の中は戦争の方向に向かってい る気がするから、ちゃんと伝えなくちゃいけない。戦争を経験している人はもう戦争しよう とは思わない。戦争はどのような理由があっても人と人との殺し合いであり絶対に起こして はならない。何事もおたがいに話し合い、ゆずり合いながら時間がかかっても解決の道を求 める努力をしなければならない。」
と、言いました。
 おわりに《ここの部分からは、6年生になってから追加し、読売コンクールに応募した。》
 最近、アメリカの貿易センタービルが破かいされたり、イラク戦争がおこったりと、世界では、まだまだ戦争は続いています。日本は、せっかく9条があるのだから、それをほこりに思って守っていかなければなりません。ぼくも、戦争の話を聞いて、改めて悲さんさを思い知り、やはり戦争をしてはいけないと思いました。
 もし、祖父が戦争でなくなっていたら、ぼくの父もぼくも生まれていなかったので、祖父がなくならなくてよかったです。戦争は、絶対にしてはいけません。

(2)全校平和集会で戦争体験を聞き 2004年3月の5年生の実践

 全校で、平和集会を行いました。毎年3月10日の東京大空襲が起きた日を忘れさせないように、墨田区内の学校は、3分の2以上の学校が取り組んでいます。こどもたちには、次のてんを強調して聞くように話しました。
 「じっくり相手の顔の表情を観察すること」「声の大きさなどの聞き取る」「語ってくれたことが、あとから思い出せるように、しっかり聞き逃さないこと」このようなことを、事前に話しておき、当日を迎えた。語り手の福田稔さんは、戦災孤児として、戦後上野や浅草の地下道で寝泊まりしていました。その当時15才の年令でした。たばこのもく拾いや靴磨きをしながら、たくましく生きながらえてこられた方です。何年かの生活の過程で、何人かの浮浪児仲間と知り合い、集団で力強く浮浪児生活を送っていく話を、語ってくださった。

福田稔さんへ 墨田区立緑小学校 5年 S・K

 木曜日に、平和集会がありました。そのとき福田さんという方が語り部をしてくれました。福田さんは、当時16才でした。親も親せきもなく、ひとりぼっちで生きていかなくては、ならなかったのです。ぼくは、まずビックリしたのは、食べ物がなく、食べ物を買うお金をかせぐためにタバコのもくひろいをやって、お金に変えてもらうということでした。しかし、1日中働いても、いも一本しか食べられないほどでした。寝るところが、上野の地下道だなんて、かわいそうでした。でも、ある日、たくさんの人が寝る場所を求めて、上野の地下道に来たので、福田さんは浅草方面に歩いていき、お寺の中で寝ました。夜中におなかの上が重く感じて目が覚めました。見てみるとそれは2本の足でした。小学1年生の足でした。起こすとかわいそうだから、そのままにしておきました。朝になって起きてみると、男の子も起きていました。その子の名前は信ちゃんといい、空襲で、お父さんとお母さんとはぐれてしまったということがわかりました。信ちゃんは、福田さんに
「いっしょにつれてって。」
といい、福田さんの服を引っ張っていました。それが信ちゃんとの出会いでした。信ちゃんと歩いていると、四人の男の子が、
「仲間に入れてください。」
といい、その子たちも仲間になりました。たばこ拾いだけだと生活していけないから、くつみがきをすることにしました。でも、道具がありません。そのとき知り合いのアメリカ人の人が一週間後にハワイへ帰ることになりました。日本のおみやげがほしいということで、福田さんは、一生けん命さがしたすえぞうりを見つけました。福田さんは、くつみがきの道具がほしいとお願いしたら、アメリカ製のたばこ二十箱くれました。それを売ってくつみがきの道具を買いました。
 入梅になり雨が降るとくつみがきも、たばこ拾いもできなくなりました。おなかをぺこぺこにして、上野の西郷さんの銅像の近くにきました。上野の山のところでおじいさんとおばあさんが、おにぎりを食べていました。信ちゃんはうらやましそうにそれをながめていました。福田さんは、
「おにぎりを半分だけでも分けていただけないでしょうか。」
とたのみ、おにぎりを8つもらいました。信ちゃんは、それを1人で食べないで、8つに分けました。ぼくは、
(おじいさんとおばあさんは、自分だって大変なのに、人に大事な食料を分けてあげるなんてえらいな。)
と、思いました。福田さんは何かお礼をと、おじいさんの足をみて、
「お礼にくつをみがかせてください。」
とたのみました。信ちゃんがやりました。6人の中で信ちゃんが一番上手でした。だんだん生活も落ち着いてきて、上野の駅のところの電車のまくら木をつかって小さな家をつくりました。6人で寝れるくらいの広さでした。しかし、ある日、児童相談所の人が来て、
「信ちゃんの両親は亡くなった。」(*品川方面の空襲で、なくなっていることが判明)
と知らされました。
「一番下の子だけ施設へ引き取りたい。」
といわれ、福田さんは信ちゃんを幸せにしたいから施設に行った方がいいと考えました。福田さんは、両親が亡くなったことを言えませんでした。
 信ちゃんはこの日本中のどこかで生きていると、思います。福田さんは、会いたい気持ちでいっぱいだけど、会わない方がいいのかもしれないと、言っています。戦争は家族をはなればなれにして、死者もたくさん出て、でも出会いもあります。戦争で出会うというのも、何かいやな感じです。でも、信ちゃんの二本の足が乗っていたから、福田さんもがんばれたのです。戦争は残こくで、絶対してはいけないと、改めて思いました。

(3)被爆体験の聞き書き 2005年7月の6年生の実践

 今年で、その原爆が落とされて方ら、60年目の暑い夏を迎えます。1945年8月6日の午前8時15分のことでした。その頃、日本は、アメリカ、イギリスを中心とした連合国を相手に、太平洋戦争をしておりました。日本は、1941年12月8日に真珠湾を攻撃して、戦争が始まりました。不意の攻撃で、最初は、どんどん勝ち戦(いくさ)でした。しかし、その翌年のガダルカナルの戦いで敗北し、それ以後は負けの連続でした。当時の日本の新聞やラジオは、その事実を正確に伝えませんでした。したがって、その後は、尊い命がたくさん奪われていきました。なかなか敗北を認めない当時の日本政府に、連合国は、世界で初めての新型爆弾を製造しました。それが、広島・長崎に落とされた原子爆弾でした。あまりにひどい被害があったので、その後は、戦争があってもそれは使われずに今に至っています。福地義直さんは、その犠牲者のお一人でした。この原子爆弾の落とされた瞬間に、24万にの人々が犠牲になっています。その後放射能を浴びた人々は、何年か元気にしていても、突然具合が悪くなり、病気になり亡くなっていく人々がたくさんおられます。2005年の現在でも、その死の恐怖を背負いながら生活されている方が、たくさんおられます。福地さんもそのお一人です。現在も、月に何回か必ず病院に通っています。放射能におかされた内蔵の健康診断を受けておられます。現在は、広島で被爆された方には、誰でも被爆者と認める運動をされています。

福地さんの目からあふれるなみだ  墨田区立緑小学校 6年 T・T

 6月25日に福地さんの戦争体験を聞きました。福地さんの出身地は、広島で、そのころは中学3年でした。福地さんが寝ている時に、悪魔が音もなく空から降ってきて、地に着いた瞬間に爆発しました。ものすごい風圧でとばされました。でも奇跡的に、家の下じきになって、助かりました。このころ、広島に落とされた爆弾の名前は、ピカっと光ってドーンて言うのから、ピカドンと言うのになったそうです。ピカドンの温度は、8000度~10000度だったので、広島市の人は、かなり即死でした。福地さんは、お母さんを、無我夢中で探しました。そしたらお母さんが家の下じきになっていたので助けたら、母の顔が、お化けみたいで肉が、丸見えでした。でも、母には代わりはないので、なんとか応急処置をしようと、はだしで脱脂綿を探しに行きました。でもこのころの道路はアスファルトだったので、熱が伝わってあつかったので、とても歩ける状態ではありませんでした。偶然にあった電車にかけこんで、そこで、休んでいると、偶然に、座席に脱脂綿がありました。それを母のところに、持っていって、母に応急処置をしました。
 話のとちゅうに、福地さんの、目からこぼれるような涙が出てきました。その涙をみて心がきゅっとしめ付けられました。きゅっとしめ付けられる心は、前回にも体験している痛みでした。前回とは、5年生のころに聞いた、戦争体験、福田稔さんの話の時と、夏休みの宿題のとき祖母に聞いた戦争体験でした。ぼくは福地さんの戦争体験を通して、今までの戦争体験談で共通なことが、うかび上がってきました。それは、祖母も稔さんも福地さんもみんな同じ苦しみを、味わっているんだなということが・・・・・
 ぼくはこれから、戦争体験談を聞いていきたいです。それで、戦争被爆者の心が和らげるなら、うれしいです。今日本は戦争をする方向に向かっていると、福地さんは言ってくれました。また戦争を起こしたら、戦争被爆者に、2度の苦しみをあたえることになります。戦争被爆者に、2度の苦痛をあたえないためにも、ぼくは戦争に反対です。でも今の人は、戦争の話を聞いていないので、ふざけ半分でやっているのかもしれません。でも、ふざけ半分でも、やっぱり戦争反対の側についてほしいと思っています。なので、僕は、戦争には反対の人が、増えてほしいと願っています。

伝えていくことは大事 墨田区立緑小学校 6年  S・H

 6月25日(土)の3,4時間目に、七十四歳になる福地義直さんに、広島の原爆のことについての話を聞きました。最初、福地さんはすわっていたのに、話をするときは立ちました。
「すわって話してもいいですよ。」
 榎本先生はそう言ったのに、福地さんは、
「ああいいです。立っていた方が話しやすいので。」
と言っていました。私は、
(元気な人だなぁ。)
と思いました。広島原爆の話を始めました。
「爆心地から1200メートル先の所の自分の家にいて、その時の圧力で家がくずれました。 私と母が家の 下じきになってしまいました。私の足には、くぎと木がささっていて、それ をぬいたけど痛くありませんでした。それで必死になって『おかあさーん!』っていって呼んで探して見つけたら、お母さんがおばけみたいだったのです。額が溶けて骨が見えて、手 や足がどろどろに溶けて・・・。私のお母さんは、とてもきれいだったんですけど、おばけ みたいでしたよ。」
と話していました。私は、福地さんの足にくぎと木がささったり、福地さんのお母さんの額の骨が見えていたり、想像しただけでもゾッとしました。そのほかにも残こくな話がたくさんありました。でも、そういう、福地さんのお母さんみたいに、すごい大けがをしているのに、気絶したりしなかったなんて、今では考えられません。だから、
(昔は心まで、まひしてしまっていたんだな。)         と思いました。それで、しばらく話を聞いていると、福地さんが泣いて、ハンカチで目をふいていました。私は、
(やっぱり、こんな残こくなことは思い出したくないよなぁ・・・。)
少し悪い気がしてきました。
 最後に『福地さんのお父さんはどうしたか?』の話を聞くと、
「私のお父さんは行方不明で、全く会っていません。」
と言っていました。
 最後に 授業参観で見に来てくれていた、大関さんのお母さん、大泉さんのお母さん、春日さんのお母さん、板東さんのお母さん、お父さん、石澤さんのお母さんにそれぞれ感想をもらいました。とくに心に残ったのが、大関さんのおばあちゃんの話でした。大関さんのおばあちゃんも三才のころ、戦争を体験したということが、とても驚きました。
 次に榎本先生の話を聞きました。そのとき、ふと気がつくと、榎本先生も泣いていて、ハンカチで目をふいていました。榎本先生も福地さんの話を聞いてとても悲しかったんだと思いました。今、少しずつ日本の国は、戦争をやりそうな感じになっています。だから、この戦争の話を伝えて、残していくことも大切だと思いました。 
 福地さん、今日はどうもありがとうございました。

(4)「在満少国民」吉岡数子さんとの出会い 2005年 10月の6年生の実践

 大阪の堺市より、教研集会の講師として講演していただいた折りに、我がクラスにも来ていただき吉岡さんの思いをこどもたちに語っていただきました。
 「私のしていることの原点は、敗戦後、学校にいってまずさせられた墨塗りでした。国民学校で教え込まれ、丸暗記させられた国定教科書。国語と国史、地理、修身この四冊の墨塗りをしました。国定教科書は、明治の末から一期から五期とあります。全部、軍国主義教育、国家主義教育への路線を教育の場をつかって見事に教科書の中に織り込んでいっています。敗戦後、墨塗りをした時点でわたしは、朝鮮や、かいらい「満州国」で子どもの目から見てもおかしいなと感じたことは、やはり間違ってたのだとと思いました。私は朝鮮で生まれました。父は朝鮮総督府の官吏で、朝鮮侵略植民地支配の加担者として農地を取り上げる仕事をするために、朝鮮に渡りました。その当時、朝鮮総督府の発行した、朝鮮の子どもたちに強制的に使わせた教科書には、国史、地理、国語、修身もありました。そしてできるだけたくさんの資料を教材にして、学校の教師として教育現場で教科書にかかれていない真実を、伝えたいと思ってきました。」    「在満少国民」の20世紀「解放出版社」 吉岡数子著より抜粋

吉岡 数子さんの話          6年   N・T

 今日の3、4時間目に「吉岡数子」さんの話を聞きました。
「この教科書を丸暗記しなくちゃ、女学校の受験を受ける資格もとれないんだよ。」
と、聞いて
(大変だな。)
と思いました。更に、吉岡さんに教科書を見せてもらい、その大変さがとても強く伝わってきました。自分がもし吉岡さんと同じことをやれと言われても、とてもできないと思います。そういう意味では、吉岡さんはとても根気強いと思います。
 学校が小さな軍隊になったことを聞いて、僕はとってもショックを受けました。与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」のように、人を殺して死ねと教えられていたのだろうかと疑問に思いました。
 教科書に墨をぬるところで、吉岡さんは今まで正しいと教えられていたのに、何故急に間違っていると思ったと聞いたときに、
(それは混乱するな。今でもそんなことされたら、冷静にはいられないよ。)
と思いました。
(でも、これで少しは平和になったんだな。傷跡は大きいけど。)
と、思い、ホッとしました。音楽も戦争のことばかりでした。
(本当に戦争一色だな。)
と呆れました。今も、君が代や、緑小の校歌も、戦争に関係あるものだと聞きました。
 満州国で暮らしていたとき、友だちに
「君(あなた)が住んでいる家は、僕(私)が住んでいたところなんだよ。」
と聞かされた時は、とてもショックだったと思います。今日、吉岡さんの話を聞いて、とても勉強になりました。昔の勉強は今より難しいと聞きましたが、そんなに生易しいものじゃないことがわかりました。吉岡さん、ありがとうございました。

吉岡 数子さんの話を聞いて        6年  K・T

 20日の木曜日に満州で戦争体験をした、吉岡数子さんの戦争体験を聞きました。日本で戦争体験をした福田さんや、福地さんや、海外で戦争をしたぼくの祖父の戦争体験は聞いたことがあったけど、満州でのことは聞いたことがなかったので、少し興味がありました。
 一番おどろいたことは、満州と日本とでは使っている教科書がちがっていたということでした。吉岡さんは、6年生のときにお父さんが亡くなって、日本へ来ました。満州では、5年生のときに、「皇国の姿」という国史と地理の合科の本を使っていました。しかし、日本に来ると、国史、地理、修身に分かれていて、内容も違いました。吉岡さんは、
「先生に、『大化のまつりごとを言いなさい。』
と、言われたので、
『それって大化の改新のことですか?』
と、聞いてしまいました。」
と言いました。
(この時代に先生に質問をしたりすると、『非国民』って言われるけど、教科書がちがっていた のなら仕方ないよなあ。でも、なんで教科書がちがうことに、みんな気づかないんだろう。)
と思いました。
 休み時間に、二つの教科書の大化の改新の部分の写真があったので、両方読んでみました。すると、最初の部分から聖徳太子が死んだ後のことが書かれているものと、産業のことが書かれているものに、いきなり分かれてしまいました。
(すごい違いだな。)
と、おどろきました。
 他には、戦争中の教科書の年代がすごいことになっていることにおどろきました。1467年の応仁の乱が2000年代になっていました。Bさんは、
「きっと神武天皇のときから数えてるんだよ。」
と言っていました。
(たしかに、こういう時代だったから、天皇をしたわせたり、日本をヨイ国、キヨイ国、神ノ 国、強イ国、エライ国だと思わせるために、神武天皇からの数え年だったんだな。)
と、納得しました。
 戦後、全国で教科書に墨をぬらされました。吉岡さんは、なんで墨をぬるのかを疑問に思っていました。
(ぜったいよごさず、きずも一切つけてはいけないと言われてきた教科書に、墨をぬるなんて、 だれでも疑問に思うよな。)
と、思いました。
 他にも、モモタロウの戦争の絵や、毎朝登校の時に「勝ち抜く僕ら少国民」を歌っていたことも分かりました。学校では、なにかをすると非国民と言われました。満州での
「ここは私の家だった。」
と、吉岡さんが言われたことも印象に残りました。とても悲しかったと思いました。
 満州国設立や、差別などで、中国の人たちも苦しみました。世界の全ての人のためにも、戦争はしてはいけません。

吉岡数子さんの話 墨田区立緑小 6年 B・T

 吉岡数子さんは、1932年に満州で生まれ育ち、戦争の時代を生き、今は大阪府堺市に住んでいます。吉岡さんが、10月20日、僕達のクラスに戦争体験を話しに来てくれました。最初に、吉岡さんは、
「みなさんは、6年生なので、私が同じくらいの年代だった頃のことを中心に話します。」
と言いました。吉岡さんが六年生の時、吉岡さんの父親が急死しました。吉岡さんは、
「はじめは事故死だと思っていたんだけど、戦後アジアを回って調べてみると、そうではない らしいとわかったんです。」
と言っていました。父が死んだことで、吉岡さん達は、日本(内地)へ帰りました。ここで、吉岡さんは、小豆島と言うところに行き、毎日「勝ち抜くぼくら少国民」という歌をうたって登校していました。吉岡さんが1年生や2年生の頃は、まだアジア・太平洋戦争も始まっておらず、小学校も楽しい生活でした。『サイタサイタサクラガサイタ」と言う文がのっている内地の教科書は、桜が咲かない満州では、適切ではないと思った山下先生という先生が、『満州補充副読本』という教科書を使った総合学習をしてくれたからです。しかし、学校には、朝鮮・中国のこどもたちは来ておらず、町でも日本人は優先されており、吉岡さんはなぜ朝鮮や中国の子は、学校に行かないのか、なぜ日本人だけえらそうにするのか疑問に思ったそうです。また、それを実際の聞いてしまったこともあり、
「今となっては、とても失礼な質問をしたと思っています。」
と言っていました。3年生になると、「小学校」が「国民学校」という名になり、「ミニ軍隊」になりました。この頃には「五族協和」や「大東亜共栄圏」という戦争を賛美する言葉があらわれ、吉岡さんもこの戦争は正しいんだ、日本人がえらそうにしているのは、当たり前なんだと思いこんでいました。ちなみに、「五族協和」は日本の周りにすむ五つの民族が互いに助け合うのを目指すことで、「大東亜共栄圏」とは東南アジアで助け合って共栄していこうという意味です。しかし、これは口実で、実際にはアジアを侵略することが戦争の目的でした。ぼくは、
(国民はみんな、政府にだまされてきたんだな。)
と思いました。また、内地から満州にたくさんの人が移り住んできて、「沖縄は長男、台湾は次男、朝鮮は三男、満州は四男」と言われました。教科書も、それまでは「桃太郎」の鬼の絵が中国の蒋介石だったのが、アメリカ大統領のフランクリン=ルーズベルトの顔に変わりました。ぼくは、
(どんどん戦争色が濃くなったな。)
と思いました。四年生では、『内地の家族』や『斥候(せっこう)』と言う絵を模写しました。『内地の家族』は、非国民と叱られないようとてもていねいに描いたのに、先生から、
「こんな絵は、誰が見ても非国民だ!」
と叱られてしまいました。吉岡さんは、
「なぜ叱られたのかわからなくて、それ以来ずっとトラウマになってしまいました。」
と言っていました。トラウマとは、昔、経験した嫌なことが後になってからも心の傷として残ることです。ぼくは、
(ショックがとても大きかったんだな。)
と驚きました。戦後しばらくさがして、やっとの事でその絵の原版を見つけました。そこで、その理由がわかりました。当日、吉岡さんは実物を持ってきて並べました。僕は、見本と吉岡さんの絵を見比べてみましたが、色遣いや場所などが少し違うだけで特におかしいことはありません。実は、その理由とは、しょうじの開ける×印の位置がちがっていたというものでした。ぼくは、
(それくらいのことで、非国民といわれるなんてひどい。)
と思いました。
 内地へ帰ったあと、内地の小学校に入るとき、先生から、
「教科書を暗記していますか。大化のまつりごとを言ってください。」
と言われました。吉岡さんは、満州では大化の改新と習っていたので、
「大化の改新ですか。」
と聞きました。先生は肯定し、吉岡さんはスラスラと言いました。言い終わると、先生は、
「違いますよ。」
と言いました。満州と内地では、教科書がちがったのでした。吉岡さんは、
「このことを知っている人は、ほとんどいないんですよ。」
と言っていました。ぼくは、
(へえ、いわゆるトリビアっていうやつかな。)
と思いました。その当時、義務教育は小学校6年間だけで、それ以上にはすべて試験がありました。しかも、その試験は教科書の暗記で、今のように内容があっていればオーケーというのでなく、一言半句でもちがっていたら不合格でした。吉岡さんは何とか合格しました。しかし、1945年8月15日、敗戦すると、教科書の墨ぬりが行われました。今まで、教科書をよごしてはいけないと言われ、修身などは開ける前に、一度礼をしてから開けるなどと言われていたので、それを墨でぬるなんて相当なショックを受けたそうです。2,3日ずっと墨ぬりをし、国史、地理、修身はすべて、国語もかなりが墨ぬりになりました。それと、吉岡さんは、僕達に昔の教科書を見せてくれました。春日さんが、二千何年かに応仁の乱が起こると国史に書いてあるのを見つけ、前後の記述から、神武天皇が生まれたとされる年を一年としていることがわかりました。吉岡さんは、
「戦争と差別は、必ずセットになると言われています。」
と言っていました。こんなひどい戦争を、二度とやってはいけません。

 戦後60年たち、世の中、再びきな臭いにおいがしてきています。平和教育の大切さを実感しております。1969年に教師になり、37年間「つづり方・作文教育」を、教育の根底にすえて歩んできました。70年代から80年代は、民間教育が大きく花開いた時代でした。90年代は、組合が分裂して、権利が奪われ、教研が衰退した時代でした。官制教育が幅をきかせ、身動きが出来ないくらいに、管理統制教育がはびこっています。また、原点に立ち戻るべきです。

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