子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月13日(土)貝田さんのメールへの返事

10月13日(土)貝田さんのメールへの返事

 さすが貝田先生、読み過ごしてしまうところを、きちんとおさえてますね。私には、次のように考えます。
 当時から、国分先生は、子どもたちを大切にして接しておりました。しかし、現実の子どもたちは、毎日の生活を生きるのに必死で、学校へ来ることもままならない子どもたちも何人かおりました。そんな子どもたちがいるとすぐに家庭訪問をし、その子の生活現実を知り、色々声をかけその子に勇気を与えたりして帰るのでした。また、かけ算九九が習い終わったのに、きちんと全部言えない子が何人かおりました。そんな子どもたちにも、「お米で言えば、早生でなく、あとから実る米なんだ。」と言って、辛抱強く一人ひとりを相手に教えたりしたのでした。また、方言でしゃべるので、教科書の文章の発音や意味がわからない子が結構いたと言うことです。そんな子どもたちにも、発音からしっかり教えたと言うことです。あまりに熱心に教えていて、授業中あごが外れてしまったという話をしてくれたこともありました。しかし、子どもたちの綴方の会話は、生活の言葉、しゃべった言葉を、その通り書いても良いことを教えたりしました。あるとき、子どもたちがなかなか理解してくれないので、授業中教卓にすわり、顔に手を当てて、「なして、俺の教え方がへたなんだろう。」と言って、泣き伏してしまったこともあったようです。決して、子どもたちを叱らず、誉めて、一人一人を大事に育てていたと言うことです。今年の春、田中さん達と、国分さんの最後の教え子さんで、菊池周介さん(93才)のお宅におじゃまして、その当時の先生の思い出を語ってもらいました。その時も、国分先生を、心から尊敬していることが、言葉の端々に出ておりました。その菊池さんが、国分先生と戦後初めてクラス会をしたときの思い出を、次のように書いております。

先生と涙の握手 もんぺの弟 菊池周介

 私は昭和17年の春から20年の春まで、東根駅の駅員として努めました。
 私の記憶も定かではありませんから、はっきり言えませんが、たぶん18年の夏の日だったと思います。
 駅ホーム待合室を清掃しておりますと、偶然にも国分先生とばったり会いました。
「あれ先生。国分先生でねえがず(ないですか)」
「んだんだ(そうです)、ちょっと家の方に来たもんだから、おまえ駅員になったのか、よがったな」
「それで先生、今どこさえんの(どこに居るの)」
「赤煉瓦で(刑務所)で囚人たちに勉強を教えている」
「先生ほだなざあ~あんまえべちゃな~(そんなことでどうする)」
「んだて(だって)今のところ、そうするしかないんだ」
「あだなどこさ(あんなところには)、ろぐな警官いないがら、さっさと帰ってきたらよがんベな~、困ったもんだ」」
「それによ先生、私達は毎日のように出征兵士の見送りだ。男の駅員も兵隊に取られ駅長も参っている」
「そうかそれは大変だ、おまえの話もわかるが頑張れや」
「んだて(だって)先生」
「わかった。わかった、こんなところでうろうろしてると、駅長に悪い、早く駅舎に行って仕事すろ」
「んだてすばらくぶりで(だって暫くぶりで)あったんだから」
「わかった、わかった」と言って肩を押されました。

 私はどうも腑に落ちませんでしたが、仕方がないので駅舎に戻りました。そして20年8月15日世の中が一変し、先生も青天白日の身となりました。
 その年の秋、もんぺの弟の集まりがありました。もちろん国分先生もお見えになりました。先生は1人1人の手を取り顔を見つめました。あの優しい眼差しで私の番です。 私は手を出しません。「どうした周介」「おれはいい」「何をごしゃいでいる(怒っている)」
「んだて(だって)駅で会ったとき、先生は俺を避けた」
「あ、あれか。んだて、俺の脇に1人いたろ、あの人は俺の附人で、俺がどこで誰とどんな話をしたか記録しているんだ、あれ以上おまえにしゃべらせたら、次の日駅長は警察に呼び出されていたはずだ」
と言ってにこっと笑われた。
あ、そうだったのか、そうだったのか。私は両手を出して先生の手を握った。温かかった。私の涙は口まで入っていた。
菊池周介さんは、5年ほど前までは、研究会に顔を出してくださっていたが、ここのところお会いできていない。お元気ならば、93歳になっているはずだ。
「えのさんの綴方日記」の「えのさん日記」2018年 6/3(日)より
 93才になった今でも、情熱を持って語って下さいました。従って、国分先生にとっては、やはり「子どもたち」なんだろうと考えます。お答えになっているかどうかわかりませんが。参考までに。
 なお、あの文章は、豊島作文の会の片桐弘子さんが墓前で読み上げたものです。片桐さんは、中学二年生の時に、作文コンクールで文部大臣優秀賞をいただいた方です。
 その時の審査委員の一人が国分先生でした。長野県の山奥から、東京の表彰式会場で、お母さんと一緒に国分先生と対面し、「あなたの作文は、すばらしかったです。将来は、小学校の先生になりたいんですね。きっと良い先生になりますよ。」といって、頭をなでてもらったことを懐かしく話してくれました。教師になってからも、国分先生の追っかけをしていたそうです。「北に向かいし枝なりき」に書かれています。

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