子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月6日(火)最近の子どもたちの作文

11月6日(火)最近の子どもたちの作文

 毎年東京の子どもたちが書いた作品が、1冊の本になって出版される。今年で、44冊目になる。私は、現職のときに、この本に載ることが大変な名誉なことであった。それほど権威のあるものだった。作品の質も高く、かなり推敲指導をして「ひとまとまりの文章」として完成させないと、なかなか載らなかった。ところが、私が退職する8年ほど前、応募作品が少なく集めるのに四苦八苦していた。私の所属していた豊島作文の会のメンバーにも、「ぜひ、指導した作品は、応募してほしい。」と訴えたりしていた。
 なぜ、応募する人が少なくなったかというと、作文指導をする教師が減ってきたからである。なぜ、減ってきたかというと、「教科書」から、「作文単元」がなくなってきたからである。そんな厳しい状況でも、何とか作品を集めて、編集しなくてはならない。当然作品の質は、明らかに落ちてきている。作品のほとんどが、子どもに書かせた作品を、そのままコピーして送ってくる。教師が指導した作品でなく、日記に書いてきた作品をそのまま応募してくる。当然、推敲指導はされていない。明らかに間違い字や、丁寧な表現をせず、概念的な表現で締めくくられている作品が多い。
 それは、教科書にそういう書き方を勧めているからである。私達が、「出来事のあった順に丁寧に思い出して、順序よく書く」 という日本作文の会が大事にしていた書き方の基本を教わらずに書いているから当然のことなのかも知れない。

学習指導要領では

 学習指導要領の「書くこと」に関する時間数について、次のように書かれている。
 第2の各学年の内容の「B書くこと」に関する指導については,第1学年及び第2学年では年間100単位時間程度,第3学年及び第4学年では年間85単位時間程度,第5学年及び第6学年では年間55単位時間程度を配当すること。その際,実際に文章を書く活動をなるべく多くすること。」
 これほど時間数が具体的に書かれているが、現場ではこれが保障されているのだろうか。たとえ時間数が確保されていても、問題は、その書かせ方である。
 書くことの念押しのために、次のように強調されている。
 文章を書くことについては,「文章全体の構成の効果を考えて文章に書く能力」を育成することをねらいとしている。自分の考えたことなどの中心的な内容を明確にしながら,文章全体の構成を考えて表現する能力の育成を求めている。特に,書こうとする文章の種類に応じて,効果を考えながら,読み手にもよく理解できるように構成する能力を重視している。
 後段では,「適切に書こうとする態度を育てる」ことをねらいとしている。小学校における書くことのまとめとして,書く目的や意図,相手に応じ,文章の種類を選択し,考えたことを十分反映させ,文章全体の構成を考えながら適切に書いていくことを求めている。なお,これは記述の段階だけではなく,課題設定や取材の段階なども含めてのものである。」

教科書に載る「書くこと単元」

 これを受けて、教科書会社が、「書くこと」の単元をどのように編集しているのかと言うことである。5年生の下巻の最後に、「5年生をふり返ろう」と1年間をふり返らせ、「6年生になったら」と、決意文を書かせようとしている。
「わたしには、6年生になったら、してみたいことがある。それは、図書委員になって、昼休みの読み聞かせ会の回数を、今よりもっと増やすということだ。わたしは、1年生のころ、6年生の人たちにたくさん読み聞かせをしてもらい、本が大好きになった。今度はわたしが、1年生に本のおもしろさを伝えたいと思う。自分で提案したり、計画を立てたりすることは、大変なことかもしれない。しかし、決めたことは、最後までやりとげたいと思う。」これが、5年生の最後の単元で書かせたい作品の見本である。
 6年生の最後の単元に「強く心に残っていることを」として、「1年間の生活の中で、特に思い出に残っていることは、どんなことですか。その時のできごとの中の一番伝えたい場面を中心にして、文章を書きましょう。」となっている。
 この編集のしかたは、どこの学年も同じようで、最後のところで、1年間を振り返り、心の中に残っていることを書かせようとしている。
 何年生でも、1年間をふり返らせ、その中の1つのことを思い出させて書かせるのは、無理があるのである。子どもというものは、その日の出来事か、1週間くらいの間の出来事を思い出すことの方が思い出しやすいし、感動したことも順序通り丁寧に思いだせるのである。作文にするには、1ヶ月の日記に書かれた作品を思い起こさせて、作文に仕上げると、「ひとまとまりのすぐれた作品に」仕上がるのである。

説明的文章

 1年間の出来事を思い出させながら文章にするには、「やや長い間の出来事を、説明するように書く文章」にならざろうを得ない。そうなると、最初に結論を書かせて、「そのわけは」などの接続詞を入れ、途中に経過は、概念的に書き、「最後に」という接続詞を使わせて、まとめる説明的文章になる。
 私達、豊島作文の会が担当した「東京の子」の「友だちとのかかわりの中で」の作品の書き出しを見てみよう。
●2時間目が終わりました。いつもひろととあそびます。(1年)
●ぼくは、2月15日木曜日に、大なわしゅう会がありました。(2年)
●わたしが今年の運動会で心に残ったのは騎馬戦です。(5年)
●わたしは、5年生になって初めてクラブに行きました。(5年)
●ぼくは始業式の日に思ったことを書きます。(6年)
 最後の選評を読むと、ほとんどが「敬体」文で書いている。しかも、ほとんどの人が、ほめ言葉で散りばめている。これではたして良いのだろうか。おかしな表現、物足りない表現」には、具体的に指摘していくことが、大切ではないだろうか。その時、「常体」文で書いていくと、小気味よく相手に伝わる。「敬体」文では、ぼやけた文章になる。日本作文の会の「年刊児童生徒文詩集」の70年代80年代の批評の書き方は、常体文で、小気味よく伝わる文章だった。

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