子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月10日(土)小梅小学校の同窓会

11月10日(土)小梅小学校の同窓会

 小梅小学校の最後の教え子の同窓会が開かれた。教師になって、豊島区から隅田川を渡って、初めて勤めた区が墨田区立小梅小学校であった。そこで、10年間勤務した。その最後の卒業生を送り、柳島小学校へ転勤した。30才から、40才になる10年間、この学校でお世話になった。卒業してから、30年たち、同窓会が持たれた。 当時4クラスあり、ぼくは1組の担任であった。1組は、結構クラス会を開いており、ちょうど1年前に、クラス会を開いていた。その時に誰からともなく、今度は、同窓会を開きたいねと、話しがあった。それが今回の4クラス合同のクラス会に繋がった。
 2組田上先生、3組有福先生、4組植村先生の4人が、あの時以来集まった。ぼくは、この子達は、1,2年担任し、5、6年再び巡り会う学年であった。今回、どのクラスも10人以上が集まっていた。1組は、2年に一度クラス会をしていたので、だいたい同じようなメンバーが集まってくれた。
 田上さんは、少し遅れて5時半近くに来られた。久しぶりにお会いでき、握手でお迎えした。その後、各クラスごとに席に座り、しばし談笑になるかと思っていたら、いきなり、「1組の榎本先生、ご挨拶お願いしますと。」 幹事からマイクを向けられた。ぼくは、「小梅小で10年間いて、最後の卒業生が、この学年です。1,2年生の時に担任し、再び5年生で巡り会い、この中には、4年間担任した人もおります。この学年は、好きなことを自由に出来た学年でした。それも3人の先生方のおかげです。」話し終えて、亡くなった箱崎恵理さんの話をしておけばよかったと後悔した。
 その3人の担任の先生方のあいさつの後、各クラスごとの席に座り、交流が持たれた。1組は、いつも会っている感じて、しばし和やかに話が進んだ。隣に座っておられた田上先生と、話をする機会に恵まれた。お年を聞いて驚いた。84才とのことだった。ぼくは、30年前の話を思い出すいくつかを話した。「この学年が、何でも自由にでき、私にとって楽しい学年だった。」と話すと、田上さんも懐かしそうに昔の話をして下さった。
 終わり頃になって、1,2年の時に担任した何人かの子どもたちがあいさつに来てくれた。三枝祐子さんが、終わり頃にあいさつに来て、「小学生の子どもが、作文が苦手で、困ってます。」と言われたので、我が家か持ってきた「作文名人への道3・4年」を手渡した。三枝さんは、妹の三枝子さんも担任して、姉妹そろって作文が熱心だったことを思い出した。本当は、私が担任した子どもたちには、全員プレゼントしたかったのだが、他のクラスの子どもたちには、失礼になると思い家から6冊ほど持参した。3人の先生方と、今回幹事をしてくれた荒井優子さんと渡辺和宏君に渡すつもりであったが、1冊足りなくなってしまった。渡辺さんには、前の日まで念押しの電話などいただいて、大変お世話になった。荒井優子さんには、丁寧なお手紙をいただき、ともに世話になった。
 最後は、各学年ごとに写真を撮り、全員で撮り、おしまいになった。最後の所で、長島さんがマイクを握り、2年後に会いましょうと締めくくりの挨拶をしていた。ぼくは、長島さんの姿を見て、どうしてもしゃべりたくなり、勝手にマイクを握り、挨拶をした。「今、挨拶をした長島さんは、上総屋さんのお嬢さんです。小梅小時代は、このお店で、大変お世話になりました。忘年会や、新年会などには、よく使わせていただきました。あの頃、良く通った山口先生も石毛先生もなくなりました。」このような挨拶をした。挨拶を終えた後、上総屋さんのおばあちゃんのことを話しておくべきだった。私が、小梅に勤めだしたころ、まだおばあちゃんがお元気だった。いつも店番のようのことをされており、我々何人かが行くと、楽しく相手をしてくれたのだった。小梅小は、私にとって、忘れられない素敵の子どもたちや保護者との出会いがあった。
 どこのクラスも、連絡が取れない子どもたちが出てくる。連絡が取れても、なかなか来られない事情の人もいるだろう。1組は、比較的連絡が取れている方だろうが、来てくれるメンバーは、いつも同じ人たちが多い。それも大事なことなのだが、なかなか顔を出さない人にも連絡し、次回は会いたい。4クラスの幹事さん本当にありがとうございました。

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