子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月27日緑の風の吹く中に緑の風の吹く中に

4月27日 *緑の風の吹く中に緑の風の吹く中に

 大事にしなければならないと、遺言のようにして、我々に訴えた文章を、我々研究会の会員仲間の小山守さんが、文章に起こしてくれたので、ここに載せておく。 

「さて、わたしたちの同志である先生たちの指導する子ともは?」と、つい考えてしまう 国分 一太郎 (新目本文学会員)

 七月四日の読売新聞「編集手帳」は、富山県大沢野町の山林で、県立技術短大の足立原貴教授らの提唱によってはじまった全国からの「草刈十字軍」の活動が、ことしで満十年になることをとりあげた。山林にはびこる下草や小灌木を刈りとる人手がなくなって、山軒が育ちにくくなっているのを救うためのものだった。ちょうど、そのころ、わたくしもそちこちの林や山の縁辺にしげるクズのつるがのびて、スギやヒノキやマツにからまるのを気にかけていた。農家や林業家には、もちろん人手がない。牛や馬を飼うこともなく
なったし、堆肥もつくらぬので、草刈りはしなくなった。市や町や村の産業課にも、ひとをやとって山に近い道路わきの草刈りをさせる経費もない。そこで、わたくしは、そのころ刊行されはじめた『自然と盆栽』という雑誌に、だれか、クズの盆栽をつくると、たいそうおもしろいということを書いて、そのブームをつくってはどうかと書いたのだった。それはクロマツの小盆栽・豆盆栽がはやり、そのために三河クロマツで有名な愛知県の山々のクロマツの小苗が、よそから「山採り」にくる人びとによって、ほとんどかっさらわれてしまったという話にヒントをえたのだった。クズが盆栽におもしろいと宣伝されたら、山や林のふもとから山中へとひろがり、針葉樹や広葉樹の幹から梢にまではいのぼるクズの根っこを掘りとるブームが現出するにちがいないと考えたのだった。ちょうどそのようなころ、前記「草刈十字軍」もはじまったのだったが、足立原氏らのその提唱のもとは、過疎のための人手不足を克服するため、国が山林に除草剤の空中散布をするとの計画に対し、これでは「生態系が乱される」というのにあった。わたくしのクズ盆栽づくり提案などよりは、もうすこしおく深い考えからのものだったといってよい。さて、みぎの紹介があった同じ日の読売新聞には、れいのノーベル賞受賞者江崎玲於奈氏の・ニューヨークからの通信「美しく考える」がのった。こんどは「北京から」と題し、アメリカから中国へいっての感想文である。その北京で江崎氏は、胡耀邦さんに対し、つぎのような話をしたという。―先進国では“考える”という知的活動が活発、高度産業社会は肉体労働より頭脳労働によって支えられ、機械化、そして近年は情報化、さらに両者の組み合わせが進んでいる。機械化に対し、情報化とはコンピューターを活用し、人間の頭脳労働力を拡張することだといえる。今やこれの進歩は、われわれの知的労働を量的拡大するだけでなく、思考作用の質的向上にも貢献しつつある。“人知無窮”といえる。ところで
、われわれ科学者が自然の真理を追究するとき「美しく考える」のはなぜか? 自然はおどろくほど論理的整合性と統一性をそなえているからである。そして“美しく考える”ということは、「アジア、世界の恒久平和をめざし、人類が直面する政治、経済、軍事あるいは環境、資源などの諸難問と対決する」ときに要求されるのである。
 美しさからこそ創造力も生まれると信ずるからである。 江崎氏のこの文章のなかの「環境」「資源など」の語には、自然やその生態系もふくまれるのであろう。たとい物理学者であるとしても、かれのいうところの「自然の論理的整合性と統一性」には、有機的自然のあいだにそなわるそれもはいっているのだろうから。そして、ことし二月、国連環境計画(NEP)は、「紀元二〇〇〇年ごろには、全地球規模の大災害に襲われるだろう」と、こんにちの自然破壊を前にして警告しているのを、とっくにご存知であるだろうから。このように、人知の進歩イコール科学技術的進歩=産業の発達=文明の発展とだけ考えることは“美しく考える”ことのなかには、ついにはいらぬ時代がきたのである。
 新聞記事に接しこのように考えこんでいるとき、わたくしは元朝日新聞社員、千葉大教授木原啓吉氏の『ナショナル・トラスト』(三省堂刊)を読み、そのなかで、いまから十九年前に、鎌倉風致保存会設立の発起人となるに際し、大佛次郎氏が「破壊される自然」と題して朝日新聞に書いたという随筆の一節に心をうごかされた。大佛氏は、この随筆の末尾に書いておられる。「私は幼少年の教育にあたる先生と、それに工場労働者の組合の指導者に新しい運動として今からでも頭に置いて欲しいのである。日本の保守的な人たちはわが家の朝顔から離れて、健康な田園風景に思いをはせる力はもうないだろう。日本にこの善意を集める機会があり得るものとしたら、最も緑を生活から奪われている工場の人たちから、その声が起って欲しい。その時、日本の田舎の風景が今よりも大切に守られるようになるだろう。日本の田舎は美しい、と、外国から来た者がおどろくような時が来るようにしたい。実際は美しいのである。政府の『自然公園法』や『文化財保護法』の外に、市民の強い要望が生れ、日本の自然を守るように協力が行われるのを期待したい」(傍線は筆者)この前のところには、一八九五年、たった三人のひとの主唱でイギリスに発足したナショナル・トラスト運動(国民のために国民自身の手で価値ある自然と歴史的建造物を寄贈、遺贈、買取りなどで入手し、保護管理し、公開する運動)の紹介をも、大佛氏はなしたのであった。が、この自然の愛護のしごとのためには、小学校の先生たちに期待すると書いているところに、もっとも、わたくしは感銘をうける。そして、そのころ日本の教師たちは、ほとんどのひとが、自然の利用、征服、改造のことばかりを考え、また子どもに教えていたのではないかと反省してみるのである。
 また、その本につづいて、朝日新聞編集委員で、もと環境問題担当であった前記木原氏と同じく、いま、その問題担当である三島昭男氏の『危うい緑の地球』(八四年六月、新潮社刊)を読んで、そのなかにも、自然保護問題についてかいた記事に対する子どもたちの投書が引用されているのに、心をひかれたのであった。この三島氏は、いま、さかんに朝日新聞が活動をつづけている「緑の日本、緑の世界、緑の地球」のためのグリーンキャンペーンの、はじめての計画をたてたひとで、国際的な「緑の地球防衛基金」の創設にも参画したひとである。前にこの欄で、わたくしが紹介した「森林浴」のすすめも、このひとの企画により、新聞紙上にのったのだった。三島氏はまた小学校五年生の社会科教科書から「林業」がぬけてしまっていることを気にかけておられる。 
 ところで、この三島氏の発意から発した朝日新聞社のグリーンキャンペーンは、ことしも、七月十一日からのシンポジウム「緑と生活」として、同社、朝日イブ二ングニュース社、森林文化協会、緑の地球防衛基金共同主催でひらかれている。また。毎日新聞は、七月十日号の五面で、八月末、大津市でひらかれる「人と湖の共存の道をさぐる」をテーマとした一九八四年世界湖沼環境会議のことを、「記者の目」としておおきく報道した。これには当然「人間との共存を見直そう」とのキャヅチフレーズが付されていた。
 さて、前にもどって、「森と生活」シンポジウムの内容はどうか? 朝日新聞七月十二日号は二面と三面のほとんど全部をさいて、第一日午後の第二議題「緑と人と動物と」の基調報告と討論の内容を報じている。わたくしには、それらの小見出しが印象的である。たとえば「子どもたちの体力の劣化現象の背景に著しい自然疎外がある」(柴田敏隆氏基調報告のそれ、以下名前のみ)「情操を培うためにも身近な公園に野生動物がいなければならない」(阿部学)「“あの森にきれいな鳥がいる”という感覚が行動力を生む」(市田則孝)「緑の“効用”のみならず“不可欠”という国民的合意が欲しい』(北村昌美)などを見ると、まるで教育問題のシンポジウムみたいではないか。討論のなかでも、日本人と二十年間つきあってきたというファション評論家のフランソワーズ・モレシャンさんの発言がおもしろい。「人間は言葉で話すのと同時に“波”を出している。人間が動物イコール危険といった“波”を出せば、犬は怖がる。三歳のころ、犬をからかっているうち、鼻をかまれて血だらけになった。でも、母は『犬を殺せ』とはいわなかった。日本でも、娘が友だちの家に遊びにいって、足元をかまれたことがある。そのとき。『犬を殺しましょうか』といわれた。犬が悪いわけではない。私たち人間だって短い鎖につながれ、散歩もさせてもらえなければ、犬をかみたくなってしまうと思いませんか……」。
 ここで、わたくしは、また、くせになったように、われに帰る。自然と人間との関係、共生、エコロジーなどの本を、しきりによんでいると、そのよんでいるあいだにも、
「さて、わたくしたちの同志である先生たちの指導する子どもたちは?」と、つい考えてしまうのだ。
 この四月二十九日、わたくしたちの日本作文の会は、毎年のように、全国文集表彰の選をした。そこで総合優秀賞になったものに、いまは退職した安保意一くんが、最後のものとしてつくった、かれの郷里田代町にある大野小学校の文集「きたぐにの子」があった。ナンバー10である。一年生から六年生までの子どもたちに、昔の村のこと、昔の子どもの遊びのこと。戦争中のこと、旧満州に移住していったひとのあること、付近の金山で金がほられたころのこと、国有林を管理する営林署のしごとに、村の多くのひとがついていたこと、たべもののこと、一軒しかなかったお店のことなどを、
年よりに聞いてかいたものが、たいそうたくみにならべられている。また、子どもたちが聞いたことのある「昔ばなし」ものせられている。「伝聞」によって、えたものを文章にさせ、村の昔のことを勉強させるしごと、その成果としては、じつにりっぱなもの
である。
 けれども、いま、ここに引用したいような作品は、やはり見あたらない。祖父毋たちも、父母たちも、生活そのものでは感じていても、そこのところへの自覚的意識はないのであろう。また、さすがの安保元教務主任にも、いまだ、ここのところへの注目は、とぼしかったのだろうと思われる。 
 ※むかし、大野には、さかなや、やさいをうるお店はありませんでした。十日ごとの市日(いちび)に、かいものにいかないと、おさかなはかえませんでした。それだけでなく、村の人の生活は。大変きびしく、どこの家も、ニボシをいれた、なっぱじると、つけものだけで、ごはんをたべ、おいわいごとや、おぼん、お正月でないと、おいしいさかななどたべないという生活でした。
 ずっとむかし、お母さんのおじいさんのところは、お米も十分たべられず、自分の家で、うすで、お米をついたりして。お米をへらさない工夫をしたという話もききました。
 大水の時は、川ヘカジカとりに行ったり、夜づきに行って、小さいじゃっこ(雑魚)をとっておいて、にぼしのようにしてたべたりしました。やさいは、大野では、あまりとれないので、ダイコン、ジャガイモは、どこの家でも作っていて、冬のだいじなたべものだったし、春からとれる山菜のおかげで、からだをまもってきたと先生から聞きました。
 ぼくのおじいさん、おばあさんは、のう業をしていましたから、お母さんに、ふじゆうさせなかったと、お母さんは言っています。(四年生下山貢くん)
 このような「山菜」をよくたべたことなどに関して、山と人びと、植物と人間などの関係のことを、もうすこしよけいに、受持ちの先生は教えていくように、これからはしたいものだ。安保くん自身は、三年生の作品のところの導入部として、つぎのような文章をかいてくれているが、これがもうすこしこまやかになるとよい。
 ☆むかし、どこのうちにも馬がいたむかし、どこの家でも、馬をそだてていました。家の中に馬屋があって、だいどころから、馬のようすが見えるようになっていました。たんぼをたがやしたり、馬そりをひいたり、大切なかぞくのひとりのような馬は、その家のじまんでした。だから、むかしの人は、そこの家にいったら、馬をほめるものだといいました。たかのりくんの文を読んでください。
※お父さんと馬  安保たかのり
 お父さんは、子どものころから、馬のせわがおしごと。おしごとのおわったうまに、なんかいもえさをやったり、ゆうがた、馬の足が悪くならないよう、川につれて行って。ひ
やしたり、せなかに水をかけてやるのです。冬は、木をひくにたのまれるので、四年生のころから、お父さんといっしょに、馬の食料を運びました。夏は、ハミカリといって、あっつい夏の日、草かりをしました。馬がいる家は、ひまさえあれば、草をかって、馬をふとらすのがしごとです。お父さんが四年生のとき、森林れっしゃで、馬のえさをはこんだのですが、ちょうどいいところに、れっしゃはとまってくれなくて、おりたところから、おとながはこぶような馬のえさを、一時間も歩いて行き、おそくなって山小屋にとまってかえったそうです。また二、三度は、くらい、こわい山道を、なんかいもころびながら、かえったこともあるそうです。
 中学になるとおやじが。すっかりお父さんをたよりにして、「のり(お父さんのこと)が、えさ(家に)馬つれていけ。」と馬をまかせて、おさけのむ(み)に行ってしまうことがありました。お父さんは、学校をはやびきさせられ、馬をつれて家へかえることになりました。
 馬はおとなしい生きものですが、村の子どもたちが、わざと小石をなげたり、また、犬がほえたりするとあばれます。びくびくしながら「おやじ。さけのまねばいいのに。」と思ってあるいたものでした。

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