子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

9月

9月

12日(月)

国分一太郎生誕100年記念集会に参加して

 国分一太郎さんの研究会を終えて、一週間後は、日本作文の会主催の作文教育全国大会があった。この大会も、国分さんが大事にしてきた研究会であった。東京が開催県であったので、東京の仲間と一緒に全国から参加した人たちを歓迎するのに忙しく準備していた。大会一日目の全体会の朝、乙部武志さんから早朝にメールをいただいた。開いてみると、その日の朝日新聞の「天声人語」に国分さんのことが記事になっているという連絡だった。
 「近所の図書館へと続く道、ブロック塀に据えたプランターに小ぶりのナスが実って  いた。艶やかな紫紺の肌は、夏空を映して涼しげだ。見た目ばかりか、多くの夏野  菜には体を内側から冷やす力が宿るという。変化に富んだ国土はありがたく、津津 浦々、夏には夏の郷土料理がある。山形の『だし』もその一つだ。キュウリにナス、ミョウガ、大葉、昆布あたりを細かく刻み、しょうゆなどで和えて飯や豆腐にかける。料理というより生ふりかけか。もともとは農業期の簡便なおかずで、家庭ごと味が違うらしい。山形県出身の児童文学者、国分一太郎は『食べると、とんとん刻んでいる祖母や母を思い、故郷にへその緒がつながっている思いになる』と書いている。自分で作ろうかと思ったが、銀座の『おいしい山形プラザ』で出来合を求め、夕食のご飯にまぶした。やや濃いめの味付けながら、かむほどに夏の香が弾け、食欲がわく。おなかもひんやりした。〈水桶にうなづきあふや瓜茄子〉蕪村。初会での意気投合を、戯れる野菜に例えた句だという。由来はともかく、涼感あふれる暑中の一景が目に浮かぶ。井戸水だろうか、放り込まれた冷水の中、ぷかぷかと挨拶を  交わす緑と紫が鮮やかだ。節電が季語の格をまとうこの夏、私たちに求められるのは、野菜ひとつに涼しさを覚える感性かもしれない。何代か前までの日本人に、あまねく備わっていた枝である。網戸、泉、打ち水。さがせば、五十音のそれぞれに涼が潜む。」 2011.7.29(金)朝日新聞『天声人語』
 まだ朝日新聞の記者の中に、国分一太郎さんを取り上げる記者がいるのかと思いながら、うれしく記事を読んだ。この記事があと一週間早く載っていれば、地元山形は、もっと盛り上がったのかもしれないと一人悔やんだ。その記事の出ている新聞を持って、コンビニに行き、拡大コピーにしてきた。もちろんその日の会場の書籍売り場の目立つところに貼る予定であった。国分さんが書かれた「日本の児童詩」と「現代つづり方の伝統と創造」の二冊の本のそばにその記事を添えておいた。そのおかげもあって、国分さんの本を手にとって読んでくださる方が何人もおられた。実際に買ってくださる方もおられた。その日に帰り、メールを読んでみると、高校時代の同級生の女性から、「国分一太郎さんのことが記事に載っていました。」とていねいに書かれていた。私のホームページを読んでくださっていたので、わざわざ伝えてくれたのだ。ありがたいことだ。
 この記事のことは、理論研究会の者もすぐ気がついた人もいたが、私がメールしてわかった者もいた。うれしいことは、二重になっても構わない。

あれから26年経ってしまった

 1985年2月12日に国分さんは、この世を去った。ふるさと山形県東根では、国分さんの教え子さんたちが中心となり、「こぶし忌」というしのぶ会を開いてきた。それは、4月の第2日曜日に行われてきた。その中心の仕事をされた方に、東根市役所に勤めておられた山本源太郎さんという方がおられた。いつも実務の仕事をされて、案内状は、源太郎さんから毎年届いた。私は、第1回の富田博之さん(演劇教育連盟)の講演だけ欠席した。その後、毎年国分さんに関わりの深かった方が、その日に集まった。印象に残っている方が、何人もおられる。今回来ていただいた林光さん、無着成恭さん、日高六郎さん、山住正己さん、鶴見和子さん、田宮輝夫さん、野呂重雄さん、佐高信さんと次々に浮かんでくる。会の前日は、前夜祭として、国分さんの墓前に集まり、国分さんの作品の一部を誰かが読むのが習わしであった。その場所で、みんなはお酒を献杯した。つまみは、その墓の近くに咲いていた「のびる」という野草を、試食した。宿舎に戻り、夜の交流会が楽しみだった。その中心は、弟さんの国分正三郎さんや教え子の鈴木千里さんたちが元気に活躍しておられた。宴の最後の方は、毎年歌われている「もんペの子」をみんなで合唱した。
 次の日の本番の「こぶし忌」には、国分さんの勤めていた長瀞小学校の同僚の東海林隆さん(国分さんの先輩)もお元気で、毎年来て様々な形で国分さんのことを紹介してくださった。2人が、女性のおしろいの箱にチョークの粉をいたずらして入れた話など、おもしろおかしく話された。また、教え子さんたちが60歳の定年を迎えた年齢だったので、まだ皆さんお元気であった。だから毎年教え子を代表して、当時の国分先生の思い出を語ってくれた。その教え子さんたちの国分先生を語る話は、まさに生活つづり方であった。どの方の話にも、国分先生の優しい人柄が語られ、胸にジーンと迫ってくる話であった。その企画や実務の仕事をされた山本源太郎さんが、「こぶし忌」を19回しきりながら、会から離れていってしまわれた。どんなことがあったのかは、私にはわからないが、本当に残念で仕方がない。最後のこぶし忌では、国分さんの思い出を語るときに、情熱を込めて話してくださった。今でも、私の胸に、そのときのお気持ちが伝わってくる。

国分思想は永遠に

 もうその最後の「もんぺの子」の教え子さんたちが、86歳になられた。今回の研究会にも、何人かの姿が見られた。小学校時代に教えられ、その後、戦後65年も経っても、国分先生を慕ってこのような会に来てくださることが驚きである。しかし、月日は過客である。あと何十年かが過ぎれば、国分先生を直接知る人たちもいなくなるだろう。しかし、国分先生が私たちに残してくれた多くの宝物は、消えてなくならないであろう。また、なくしてはいけない。亡くなって、26年経ち、朝日新聞のコラムに載る人だ。我々は、国分一太郎の思想をこれからも大切に受け継ぎ、実践していかなければならない。「こぶし忌」を引き継いだ形で、国分一太郎「教育」と「文学」研究会は、第7回を山形の東根市迎えた。生誕100年の記念集会と重なった。毎年山形だけではもったいないので、東京でも研究会を持とうとなり、豊島区の池袋小学校で5回目の会を準備中である。こんかいは、11月19日(土)に決定している。3人の報告者も決まり、あとは若い現場の教師に働きかけをしていこうと考えている。詳しくは、私のホームページ「えのさんの綴方日記」を開いていただきたい。
 

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