子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

9月9日(日)教科書から作文の文字が消えたのは

9月9日(日)教科書から作文の文字が消えたのは

☆印、自分の文章。★印、引用文章。

滝の会合宿の提案

☆教師4年目の27歳の時に、豊島区教職員組合の執行委員になった。その時の執行委員仲間に田子榮一さんという生涯の友人に出会う。その彼と、ある日日教組の定期大会の新聞を2人で読み合った。その場所が、池袋西口駅近くの「滝澤」という喫茶店だった。これから、何人かの仲間を募り、こういう学習会をしていこうと意気投合した。そこでその会の名前を付けようとなり喫茶店滝澤の名前を借り『滝の会』としたのであった。その会がどんどん大きくなり、毎週1度どこかに集まり、学習会を開いていた。やがてそこに日教組のない頃から教員だった隈部さんや鈴木宏達さんが加わってきてくれた。やがて、夏休みなどは、2泊の学習会をずっとするようになってきた。いつも温泉のある涼しいところが選ばれた。仲間の1人の今井さんが八丈島に転勤になったときは、仲間15人で八丈島まで行きやはり合宿をして楽しんだ。その時に、必ずやるのは、『1人1提案』というやり方で、自分がかかえている問題を、仲間に報告することが慣わしになって、今に至っている。今年の合宿は、今まで、田子さんと深町さんの別荘や自宅をお借りして、安い宿泊費で行ってきた。しかし、たまには場所を変えようとなり、我が家の義理の母が、持っている別荘でやることになった。箱根や軽井沢、那須など関東地方中心にあるリロバケーションという会員制の別荘である。8人くらい1週間宿泊しても、1人1000円ちょっとの宿泊代である。今回、そのくらいの人数で、軽井沢で、19日(水)から2泊の予定である。わたしは、何を提案するかずっと考えていたが、やはり作文で行こうと決め、このようなタイトルを付け、原稿を書き始めた。

小学校教科書から『作文』という文字が消え、各学年ジャンル別に配列するようになったのは、なぜなのか?

 戦前は、「綴り方」と言う言葉があり、国定教科書の時代に、それは唯一の自由への扉であった。しかしながら、きょういんせっかじけん【教員赤化事件】が弾圧への始まりだった。
 1929年から33年にかけておこった共産主義運動に関係した小・中学校教員への弾圧事件。プロレタリア文化運動や国際的教育労働者運動の影響をうけた教員によって1929年10月,関東小学校教員連盟が結成されたが,30年1月の弾圧で壊滅した。それらの教訓から,同年8月非公然に全国的組織として日本教育労働者組合(教労)準備会が結成され,11月国定教科書反対,プロレタリア教育の建設,教員の生活擁護などの方針をかかげて創立大会が非公然にもたれ,日本労働組合全国協議会(全協)支持も決められた(のち,教労は全協一般使用人組合教育労働部となる)。 (「日本大百科全書」より引用)

生活綴方の誕生

★生活綴方は、大正初期に芦田恵之助(あしだえのすけ)らが提唱し実践した「綴方科」における自由選題主義(子供たちに自由な題材で文を綴らせる考え方)、1918年(大正7)に鈴木三重吉(みえきち)が創刊した児童雑誌『赤い鳥』によって推進された「ありのまま綴方」の文章表現指導運動、自然主義文学系統の綴方やプロレタリア綴方の運動などを伏線として、29年(昭和4)に小砂丘忠義(ささおかただよし)(1897―1937)らによって創刊された雑誌『綴方生活』によって成立していった。小砂丘らは、30年10月号に「『綴方生活』第二次同人宣言」を発表し、「生活教育」を目的とし、「綴方」を内容、方法と位置づける考え方を示した。これは生活綴方の概念の最初の公的な表現であり、『綴方生活』の終刊までの編集方針でもあった。
 こうした動きのなかから、1934年前後に、東北地方の青年教師らによって「北方性教育運動」が開始された。これに刺激されて地方的な運動や中央的な運動(たとえば、35年に『工程』を創刊した百田宗治(ももたそうじ)らを中心とする運動や、『綴方生活』などの運動)もしだいに質的な転換をみせていくようになり、生活綴方運動の本格的な展開が始まった。これらの運動は、やがて日中戦争の拡大を迎え、40年国民学校制度が確立されるとともに、直接的な弾圧および間接的な圧迫によって中断されるに至った(40~42年にかけての、いわゆる「生活綴方事件」による検挙者は約300人に及んだ)。第二次世界大戦後、生活綴方運動は復活し、50年(昭和25)「日本綴方の会」が誕生(翌年「日本作文の会」と改称)し、この会を中心に活発な活動を展開しながら今日に及んでいる。
★生活綴方運動は、その成立、展開の過程で深化と分化も進行した。たとえば、「綴方」という一教科にすぎなかったものが生活指導のための綴方指導に拡大されていった反面、それに対する批判も生まれた。また、東北地方の綴方教師たちの北方系または東北型と、北方性論批判派の、鳥取県の伯西(ほうせい)教育を中心とした南方系または西南型との分化も生じた。今日においても、生活指導と生活綴方との関係、生活綴方と教科指導との関係は、生活綴方によって子供たちの実感や欲求を引き出しながら、それをどのようにしてどこまで認識の世界へと踏み込ませていくことができるのかという実践と、教科指導において道徳や科学を子供たちの実感や欲求の世界へと踏み込ませていく実践との、両側からの接近が必要になってくるのである。(「日本大百科全書」・大槻和夫より引用)
☆1963年国語科文章表現指導に位置づける。(日本作文の会活動方針を明確に)

綴方教育事件 (つづりかたきょういくじけん)

★北海道綴方教育連盟事件 (ほっかいどうつづりかたきょういくれんめいじけん)
生活綴方=子供たちに生活の事実を綴らせて(書かせて)、ものの見かた・考え方・感じ方・生き方を育て、文章力を高める教育方法。戦後は、作文教育とも言っている。
 1940年(昭和15)東北から始まった生活綴方運動に対する弾圧は、「綴方の教育にことよせて、貧困と矛盾に目覚めさせ、子供たちを革命戦士に育てるための教育・・・」とデッチ上げの治安維持法違反によって、全国で約300名の現職の公立小学校の教師が検挙された。北海道では1935年(昭和10)に北海道綴方教育連盟が結成されて、道内に生活綴方が広まったが、1940年(昭和15)11月から翌年までに55名が検挙された。これを綴方教育事件・北海道綴方教育連盟事件と呼ぶ。
(「北海道綴り方教育事件」より引用)
☆作文教育が罪にされた時代
『獄中メモは問う』(佐竹直子著・北海道新聞社)を読み終えた。サブタイトルとして、ー作文教育がつみにされた時代ーとなっている。この本の著者佐竹直子さんの講演を昨年の6月に埼玉県の浦和で聞く機会に恵まれた。そのきっかけは、理論研究会の貝田久さんからの紹介の案内状を頂いたのがきっかけであった。その時のタイトルは、『生活綴り方弾圧事件を追って』~戦時下の北海道綴方事件~その実像と今日的意味~と興味をそそるものであった。豊島作文の会の例会にして、他の人達も一緒に参加した。会場に50人以上の人達が参加していた。その時に配られた資料に圧倒された。それは、北海道新聞の夕刊に2013年11月から連載された記事を全部の資料だった。最初の解説で、2つの説明が書かれている。

北海道綴方教育連盟事件とは

 1940(昭和15)年11月から翌年の4月に、日常生活をありのままに書く綴方教育に取り組んでいた道内の教員らが、「貧困などの課題を与えて児童に資本主義社会の矛盾を自覚させ、逮捕者は旧内務省『特高月報』による56人、旧文部省『思想情報』では75人。12人が起訴され、11人が執行猶予着き懲役刑が確定(1人は公判前に死亡)。のちに初代の民選札幌市長となる故高田富与弁護士が弁護人の努めた。旭川出身の作家、故三浦綾子さんの長編小説『銃口』の題材になった。

治安維持法 

「国体」の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社や行動を処罰するために1925年(大正14)年に制定。当初は共産党や革命的労働・農民運動の取り締まりを目的としたが、適用範囲は拡大され、思想・信条や言論の自由を弾圧し、国民生活の監視に猛威を振るった。45年10月に廃止。旧司法省のまとめでは逮捕者は計7万5千人だが実際にはこの数倍から数十倍に上ると指摘されている、

推理小説まがいの展開

 釧路市内の元小学教員で、同連盟の中心メンバーとして逮捕された坂本亮さん(2007年に99才で死亡)が戦後住んでいた札幌市内の家の書類の書庫から31ページにわたり記されているメモが発見された。そのメモの中に「叩く。ける。座らせる。おどかす」などという文章が書かれている部分があった。いったい何のための文章なのかを色々調べていくと、拘留中刑務所内で、後半が始まるまでの1942年(昭和17)年6~12月ごろ、弁護人宛に書いたものであることが分かってきた。看守らの協力で検閲されずに外部へ持ち出されたようだ。
話の切り口は
 佐竹さんの話の中に、山形で最初に逮捕された村山俊太郞の話が出てきた。その後国分一太郎が捕まり、山形では2名の逮捕者が出ている。その時に逮捕されてから、取り調べを受ける過程は、「小学教師の有罪」(みすず書房1984年)に詳しい。国分さんが亡くなる前の年に出版されている。その本を、国分さんにサインをして、頂いた覚えがある。この2人を取り調べたのが、砂田周藏という特高である。若い頃は、山形で農民運動などを中心となって指揮していた者が、ある日突然変身して、今度は体制側の権力の手先となって2人を苦しめたのである。そのあたりのいきさつについては、『小学教師の有罪』の最初に「あのひとの死」に詳しく述べられている。この取り調べのしかたが、大変巧妙であったので、そのやり方が、全国に広がったという話の仕方であった。

2度目の講演を聴く

 昨年日本作文の会の全国大会が、北海道で開かれた。最初は、ちょっと遠いので、今年はやめようかと躊躇していたのだが、田中定幸さんに背中を押されて参加することにした。行き帰りの航空券と宿は、彼が取ってくれた。最終的には、横須賀作文の会のすてきな女性と日色さんも加えた4人で、行動をともにした。その時に、生活綴り方の歴史分科会で、佐竹さんが話されるというので、この分科会に参加することにした。同じ内容でも、もう一度聞きたかったのである。しかし、2ヶ月前に埼玉で聞いた話を、さらにバージョンアップして、また新しい話の展開で話をして下さった。その話の中で、さらに詳しく本にまとめているところですので、出来上がったらぜひ読んでいただきたいと強調されていた。

山形出身とは

 会が終わってから、山形で行われた国分一太郎「教育」と「文学」研究会の資料をお渡しした。その話の中で、どちらの出身ですかと尋ねると、山形の上山田に祖父母の墓があるとのことで驚いた。来年も研究会があるので、うまく日にちが取れそうでしたら、ぜひ研究会にいらっしゃってくださいとお願いしておいた。そんなこともあってか、今回私宛てに本が出来上がりましたので、ぜひ広めてほしいと言うことで、パンフレットが、10枚ほど入っていた。すぐに本屋に行き、5冊ほど注文してきた。北海道なので、少し時間がかかりますと、本屋に言われた。その本が、1週間ほど前に、手元に届いたので、一気に読み終えた。

さっそく広めた

 東京作文協議会の例会があり、若い人がたくさん集まるので、そこにそのパンフを持参して参加した。福島から、藤田美智子さんが中学生の実践報告をして下さった。25人のメンバーの人に、この本のことも含めて、藤田さんの紹介をした。当日本を3冊ほど持参していった。1冊は、福島から見えた藤田さんに差し上げた。残りの2冊は、すぐに売れてしまった。そこで、再び本屋に行き、8冊ほど再注文してきた。
2015年 1月15日(木) 『えのさんの綴方日記』より

ここでちょっと休憩

国分一太郎は、なぜ日本共産党を除名されたのか

(1964年当時は中ソ論争・対立が全面化し、その影響もあり、共産党と、社会党・総評は原水禁運動や労働運動で対立が激しくなっていた)
「1964年10月、中華人民共和国が初の原子爆弾実験に成功」このことに対する評価も、分かれた。国分らはいかなる国の核実験も反対。当時中国寄りの日本共産党は、中国の核実験を評価した。
・党の方針に異を唱えた12人の党員文化人による決起
「文化人12人の要請にもある通り、党は正常な姿勢をゆがめて、労働者、勤労者の実生活からはなれ、人民から孤立化しつつあります。この危険から党と統一戦線を守り、労働組合の統一をまもる一つの道は、この際、組合内共産党員が率先して自己批判を行うことにあると信じます。また、この道を通ってこそ、党と組合との関係はいかにあるべきかの新しい道も開けてくるでしょう。党と組合の関係は、それ自身のもつ法則性の上にたちながらも、生きた媒介としての人間関係、すなわち組合員である党員たちの、人間活動を通じて具体的にうちたてられるものであります」。
 12人の文化人とは、渡部義通を中心に出隆(哲学)、国分一太郎(文学)、佐多稲子(文学)、野間宏(文学)、佐藤忠良(彫刻)、丸木位里(画家)、丸木俊(画家)、山田勝次郎(経済学)、宮島義勇(映画)、浅倉摂(舞踊)、本郷新(彫刻)であった。
 今になって、日本共産党を除名された理由を考がえてみると、どちらの考えが正しいか、誰が読んでもあきらかである。
(「哲学者出隆が日本共産党を除名になった理由」より引用)

さて、作文の話に戻す

 今、現場は、忙しくて、子どもの顔を見るのでなく、まず最初にパソコンとにらめっこ。勤務時間も関係なく、時間のオーバーで、毎日のように、8時、9時まで残って仕事をする教師が増えている。昔は、担任になれば、誰しも、日記帳を読み、こどもの生活を知り、赤ペンを入れながら、文章表現指導もした。しかし、教科書から、『作文』という文字が消え、ジャンル別に配列されている。昔は、5月と10月は、教科書に作文単元が載せられており、必ず10時間から20時間くらいは子どもと向き合って、取り組んだ。20年近く前までは、『学習指導要領』でも文章表現指導を、大事に扱っていた。
1 目標 5年
(1)主題や要旨のはっきりした表現をするため、意図や根拠を明らかにして話したり、全体の構成を考えて文章を書いたりすることができるようにするとともに、相手や場面の状況を考えて表現しようとする態度を育てる。(1992年学習指導要領)
1 目標 5~6年
(1)目的や意図に応じ、考えた事や伝えたい事などを的確に話すことや相手の意図をつかみながら聞くことができるようにするとともに、計画的に話し合おうとする態度を育てる。
B 書くこと
(1)書くことの能力を育てるため、次の事項について指導する。
ア 目的や意図に応じて、自分の考えを効果的に書くこと。
イ 全体を見通して、書く必要のある事柄を整理すること。
ウ 自分の考えを明確に表現するため、文章全体の組立ての効果を 考えること。
エ 事象と感想、意見などとを区別するとともに、目的や意図に応 じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること。
オ 表現の効果などについて確かめたり工夫したりすること。
 内容の取り扱い
「B書くこと」
 礼状や依頼状などの手紙を書くこと、自分の課題について調べてまとまった文章に表すこと、経験した事をまとまった記録や報告にすることなど (1998年学習指導要領)
B 書くこと
(1)書くことの能力を育てるため,次の事項について指導する。
ア 経験したことや想像したことなどから書くことを決め,書こう とする題材に必要な 事柄を集めること。
イ 自分の考えが明確になるように,事柄の順序に沿って簡単な構 成を考えること。
ウ 語と語や文と文との続き方に注意しながら,つながりのある文 や文章を書くこと。
エ 文章を読み返す習慣を付けるとともに,間違いなどに気付き, 正すこと。
オ 書いたものを読み合い,よいところを見付けて感想を伝え合うこと。
(2)(1)に示す事項については,例えば,次のような言語活動 を通して指導するものと する。
ア 想像したことなどを文章に書くこと。
イ 経験したことを報告する文章や観察したことを記録する文章な どを書くこと。
ウ 身近な事物を簡単に説明する文章などを書くこと。
エ 紹介したいことをメモにまとめたり,文章に書いたりするこ  と。
オ 伝えたいことを簡単な手紙に書くこと。
〔伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項〕
(1)「A話すこと・聞くこと」,「B書くこと」及び「C読むこ  と」の指導を通して,次の事項について指導する。 ア 伝統的 な言語文化に関する事項 (ア) 昔話や神話・伝承などの本や 文章の読み聞かせを聞いたり,発表し合ったりすること。(2008年学習指導要領)

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