子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月7日(火) 半世紀以上前の教師達

1月7日(火) 半世紀以上前の教師達

「草根の教師達たち」ー朝日ジャーナル編ー(朝日新聞社)を読む

「あとがき」を読むと、この内容は、「朝日ジャーナル」の1965(昭和40)年5月2日号から、12月26日号まで、34回にわたって連載されたものである。取材に関わった記者は、後に有名になる記者もいる。13人の中に、宇佐美承、辰濃和男などの名前が紹介されている。小学校、中学校、高校の先生達を訪ねて連載されたものである。最後の章で、「私は戦争を、こう教えている」は、8月15日の特集のために、4人の現場教師に執筆を依頼している。その中に、東井義雄、吉村徳蔵、小沢勲などの名前は、やがてあとから色々なところで実践を読んだり、直接お目にかかってじかに話を聞いたりした方もいる。ちなみに1965年は、東京オリンピックのちょうど翌年で、私が大学に入学した年である。
 当時学生の間では、「朝日ジャーナル」を手に持って歩くことは、知性のある学生のファッションのようにもてはやされた時代である。私も時々本屋で買い求めて読んでいた記憶がある。1965年は、今でも問題を引きずっている日韓条約が締結された年である。ノンポリで、政治にあまり関心がない私でも、大学校内には立て看が並び、全学連の民青系と中核派が、いつも威勢のいい演説で張り合っていた。無関心な学生も自然に立ち止まって、話を聞く場面もあった。私は、その頃バスケットボールに夢中になり、木曜日と日曜日以外は、毎日、放課後4時すぎに雨天体育館に集まり、6時すぎまでボールを追って心も体も鍛えていた。当時学年4人くらいで、全体でも15人前後の人数であった。4年間、卒業するまで続いた。その当時の同学年メンバーが、1年に3~4回最近集まるようになった。

みんな輝いていたあの頃

 34人の人達のタイトルを読んでいくと、全国には様々の教師が、自分の信念を持って、教育実践に励んでたことがよくわかる。その当時、小中学校教師が、60万人いるが、その中の34人だから0.001%にも満たない人達であるが、その裾野のところには、たくさんの個性のある教師が、目白押しにいた時代である。事実、私がはじめて勤めた職場にも、魅力のある教師が何人かいた。つまり、この時代は、誰でも教師という職業に、誇りを持って生きていた時代である。1950年代から、1980年代は、民間教育団体が、光り輝いていた時代である。東京では、7割以上が組合に入り、日教組も総評の中心舞台の1つとして、国労・動労・全逓・自治労等と一緒になって、ストを構えて闘っていた時代である。少なくても、1974年の日教組の半日、1日のストライキは、他の単組と一緒にやり抜いたすごい闘いであった。当時豊島区の執行委員になっていた私は、1年生を担任していた。ストライキが行われた日は、4月9日(半日)と11日(1日)である。つまり、入学式が行われて、1週間経っていなかったときに行われたのである。電車も止まり、職場には行かれなかった。ストのあった日は、池袋の集会場まで行かれず、自分の住んでいた浦和のストライキ会場に母と一緒に出かけた。当時母も、日教組の組合員で、浦和の小学校勤めていた。

日教組が輝いていた頃

 やがて、日教組や都教組の幹部が逮捕されることになった。都教組の平野書記長が逮捕され、豊島区の目白警察署に捕まったことがわかり、自分の地元の警察署であったので、多くの組合員が連日警察署のまわりに集まり、シュプレッヒコールを上げ気勢を上げた。私は、図書室にあった「おまわりさんの仕事」という紙芝居を持参して、大勢の前でその紙芝居をした。最後に、「皆さん、おまわりさんの仕事は、交通安全や、泥棒の取り締まりなどと書いてあります。学校の先生を逮捕するなどとは書いてありません。子どもたちにおまわりさんの仕事を教える時に、今やっていることは、余計なことだと、子どもたちに教えなければなりません。これは、おまわりさんの仕事ではないと教えなければなりません。」こんな演説をした覚えがある。

ほとんどの教師が「つづる」ことを大切にしていた

 ここに出てくるかなりの人達が、日記指導や文章表現指導に携わっている人達である。つまり、子どもたちと、毎日のように向き合って、心を通わせながら教育実践をしていた人達である。年令は、30代後半から50代の人達である。この取材の年から55年経った。おそらくほとんどの人達は、もうこの世の人達ではない。生きていても、85以上上になる。つまり半分以上の教師が、戦争体験者である。中には、軍国主義教育にどっぷりはまり、戦後はその反省に立って反面教師として、教壇に立っていた人達もいる。東井義雄さんなどは、その典型であろう。国分さんの1才下の人である。国分さんが、励まして、『村を育てる学力』明治図書出版 1957年を出版し、その巻頭の言葉は国分さんが書いている。やがて東井さんは、あの有名な川の詩が子どもから生まれた。

川 兵庫県 五年 保田 朗

さら さるる
ぴる
ぽる
どぶる
ぽん ぽちゃん
川は
いろんなことおしゃべりしながら
流れていく
なんだか
音が
流れるようだ
顔を横むきにすれば
どぶん
どぶぶ
荒い音
前を向けば
小さい音だ。
さら さるる
ぴる
ぽる
大きな石をのりこえたり
ぴる
ぽる
横ぎったり
ぴる
ぽる
どぶるぽん ぼちゃん
音は
どこまで流れていくんだろう。
 今からから40年近く前に、川の流れているようすを、このようにみごとに切り取った子どもがいた。
 指導した方は、東井義雄先生。この詩を読みながらら、鈍感な耳をはじると共に、見る目をもち、聞く耳を持つものには、驚きや喜びを感じ得るのだと、東井先生は反省をする。この詩がきっかけになったかどうかはわからないけれど、貧しい村に育つ子らに「村を育てる学力」をつけようと、情操教育の音楽や図画にも大いに力を入れる必要があると考えた。村のおとなたちにも、どしどしわけあっていく運動を展開すべきだとも考えた。
 この詩のどこがすばらしいかは、読んですぐわかるように、何気ない川の流れに、こんなにも感動している。その感動の表現を、自分の言葉で、感じた通りに、した通りに、現在形で訴えている。
 リズムがあるため、2~3回声に出して読むと、暗誦できる位、覚えやすい詩でもある。しかも、くり返しのフレーズがこきみ良く挿入されている。終わりを疑問形でおさえている所も、読み手がひきずりこまれる所だ。
 作者が、自分のした体験の通りに、その驚きを表現している所も大切にしたい。つまり、顔を横むきにして、耳を川の流れの音の方に向けた時が荒い音であり、前を向けると、小さくなるという発見。ここには、文章を綴る原点がある。あった通り、した通りの中から、本当のことを表現したのである。
文部省はこの詩をどう評価したか
 15年以上前になってしまったが、家永三郎元教育大教授の教科書裁判の判決があった。一審の東京地方裁判所の杉本裁判長は、文部省の教科書検定のあやまりを指摘し、原告側勝利という判決を下した。我々現場教師に勇気を与えたすてきな判決であった。その裁判過程の中で、現場からの教師が、この詩を例にして、検定のあやまりを指摘した。つまり、この詩を小学校検定国語教科書にのせたら、検定の過程で、この詩はのせられないという指導があったというのだ。なぜかという問いに、「川の音は、さら さら」が、基本の形なので、この詩をすべてそのように直せば、合格にするというのだ。何か笑い話にもならない、本当にあった悲しいお話である。
 文部省のえらいお投入さん達は、この詩の命でもある子どもの心からの感動の意味や、この詩のリズム感など、全然理解しようとなさらない。
1987年 4月17日発行 「はじける芽」第1号 「えのさんの綴方日記」より

小沢勲さんとの出会い

「私は戦争を、こう教えている」1人、小沢勲さんは神奈川県の綴り方教師である。国分一太郎さんを崇拝し、理論研をやっていた国分さんの自宅に、田中定幸さんを初めて連れて行った。ずいぶん経ってから、田中さんにその話を直接聞いた。もう1つ思い出がある。 私が、新卒3年目の日本作文の会全国大会で、偶然に分科会に入った場所に小沢さんが世話人でいらっしゃった。報告者は、京都の岡本博文さんであった。中学年の「詩」の分科会であった。岡本さんの実践が特にすばらしく、初めて聞く私などにも、その感動が伝わってきた。午前中に提案が終わり、午後から会がまた始まった。そのときに、世話人の小沢さんが、午前中の岡本さんの実践について、感想を読み始めた。それは、岡本さんの実践が、心を揺さぶれる崇高なものであるということを、感動的に読み上げた。私は、そのときの小沢さんの感想の文にも度肝を抜かれた。昼休み短い時間に、このような文章を書き上げた小沢さんという人は、どんな人なんだろうと、すごい魅力に襲われた。その後全国大会に行くと、野球帽をかぶって、連れの人とよく会場で姿を見た。あとから聞いた話だが、躁鬱病が出て、晩年はだんだん姿を見ること出来なくなった。このあたりのことは、田中さんが詳しくご存じだろう。

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