子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月14日(土) 「想画と綴り方」の反響

11月14日(土) 「想画と綴り方」の反響

NHKBS3チャンネルで11月12日(木)放映。その反響が、少しずつ届いている。次の文章は、長崎の永山さんからいただいた。

遺言としての真実の記録

生活綴方教育運動の推進者で児童文学者でもあった国分一太郎氏。

 1985年2月12日、がん性消化管出血のため死去。73歳。国分氏が最初の胃がん切除を受けたのは、1980年11月。医師も家族も本人にがんの告知をしなかった。しかし、国分氏は入院してから手術の4日前までの10日間、毎日のように手帖を1枚ずつ切り取っては、その紙に小さな字でびっしりと、自分に万一のことがあった場合に備えて、妻の久枝さん宛てに家のローン返済のことや書き残していること、交友関係のことなどを、気づくままに遺書の書き方でメモ書きしていて、その中で、
「医師がつぶやくのをきくと、どうもガンだろうと思う」
と書くなど、真実を察知していた。ただ、そのメモは封筒に入れて家族には見せず、気づいていることをおくびにも出さなかった。
 書き上げておかなければと思っていた最も重要な作品は、『小学校教師たちの有罪 回想・生活綴方運事件』と題する回想記だった。
 これは戦前の1930年代に山形県内の小学校教師だった国分氏を中心に全国各地の教師たちが取り組んでいた生活綴方教育の活動が、1940年代になって治安維持法違反の容疑で摘発され、裁判で有罪判決を受けた事件の全容を書き残しておこうとしたものだった。国分氏がとくに重視したのは、特高警察がどのようにして生活綴方教育を,プロレタリア革命を目指す運動としてでっちあげ、摘発を全国に広めていったかという点だった。そこには当時の国家権力による思想弾圧のからくりがまざまざと浮かび上がってくる。
 最初の手術は胃の5分の4を切除することでうまくいった。
国分氏は退院するとすぐに仕事を再開したが、最優先したのは『小学校教師たちの有罪』の完成だった。この回想記がみすず書房から刊行されたのは、4年後の84年9月だった。国分氏は、この回想記の中で、自らの道と弱さゆえにでっちあげに屈したことを自己批判するとともに、あとがきの中で、こう記した。
〈もと左翼運動参加者であったところのひとりの特高係警部補が、どのような取調べかたで、「生活主義教育」の運動というものをでっちあげ、それを全国的に(特高警察)の統一した見解とさせ、やがてちからよわい多くの小学教師たちを犯罪者としたのか(中略)。わたくしは、このような手記を、死ぬ前に、かならずのこしておきたいとおもい、断続的に書き留めていた〉
 将来へのメッセージとして真実を書き遺したいという執念がにじみ出ている。
 この本が出版された84年暮れから、国分氏は胃に強い痛みを感じるようになり、明けて85年1月11日、出張先の札幌のトイレで下血したため、急いで帰京し、慈恵会大学附属病院に最後となる入院をした。それから最後を迎えるまでの一ヶ月は吐血や下血を伴う辛いものだった。
 長女・ミチコさんと長男・真一氏によると、国分氏はかなりはやい段階で、よく「俺はもう死ぬ。かあちゃんを頼んだぞ」
と妻を気遣う思いをすでに社会人になっていた2人に託していた。
ミチコさんによると、国分氏は北国の花コブシが好きで、自宅庭に1本植えていた。[北にむかいし枝なりき  花咲くことはおそかりき]と書いていた。
「これは父の生涯の想いだったのでしょう」と、ミチコさんは言う。「新・がん」50人の勇気:柳田邦男文春文庫1981

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