子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月8日(日) 認識・認識の過程について

11月8日(日) 認識・認識の過程について

認識・認識過程について 国分一太郎

 理論研で、オンラインで行っている。そのとき、田中定幸さんが「紀要」に載せたいものがあると、報告があった。それは40年近く前に、国分さんの自宅で講義を受けていたときに、まとめたものである。当時会員だった杉浦涉さんがテープ起こしをして、今はなき関口敏雄さんが加筆したものである。
国分 一太郎 1982年 4月10日
理論研究会定例会にて  テープおこし 杉浦 渉
〈加筆 関口 敏雄〉

第一次指導段階 

 認識の第一の段階、それは何かということで題目を立てますと感覚による認識。感覚による認識、五感による認識、味覚、聴覚、視覚、あるいは触覚、嘆賞、そういう五感による認識。これはいろいろな言い方がなされますが、あんまりごちゃごちゃと、いちいち吟味をしないで並べてしまえば、感性的認識の過程、あるいは経験的
認識の過程、あるいは直観的認識の過程、こういうふうに言っていい。これについても、もとから言われてきた考え方には今も受け継がれている部分があります。
 人間の認識の最初の形態は、客観的存在をその感覚器官に反映することである。そしてその反映を直接に意識することである。人聞の知識はすべて人間の感覚における物質的なものを源泉として常に形成される。ものごとを科学的にとらえていくというその科学的探究は人間の外感(目・耳・鼻・舌・皮膚)が与えるものを分析することから始める。これは、自然科学の発達をみてもわかる通りですから、ここから人間の感覚は、客観的存在についての近似的な正しい形象(ゲシュタルト)としての子どもの意識の中に発生する。
 感覚は世界の事物をやがては動くものとか、関係しているものとか、あるいは属性を持っているものとして反映していく。ただし人間の個々の感覚は物事そのものの個々の側面を別々に反映するものであるから、事物についての全体的な知覚は、結局事物のあらゆる側面、そのものが持っている側面、関係、性質、属性、あるいは現象が事物そのものにおいて合法則的に関連しつつある統一物として、統一の結果として反映されたときに、その知覚は全体的なものになる。
 ここはみなさんが今度何か指導するときに、いろいろな側面からみなければならないとかと言うでしょう。つまり、事物が統一的な、個々の側面をたくさんもちながら全体として統一してひとつのものとしてある。
 ここらまではだれでもそういうふうに、感覚器官という問題と大事にしてきでいるんですけれども、最近になりますと、この感性についての認識あるいは感覚についての認識、経験的認識、直観的認識ということについては、感性的レベルの認識であって、素朴な形の対象の反映のしかたをしているから、直観的認識とかあるいは感性的認識そのもの、あるいは対象の重要な性質に対するあるがままの認識、今までの考え方を感性の段階では受け入れているわけで、感性的レベルでの認識感覚それは素朴な形での対象の反映である。
 これは直観的認識といってもいい。あるいは感性的認識そのものといってもいい。あるいは対象の現象的な性賞に対するあるがままの認識、こう言ってもいい。
 したがって、ここのところに注釈を加えれば、個別的・具体的・特殊的なことがらを、生きいきと生かした形の認識であって、未だ、抽象化していくとかそういう段階でない生きいきとした認識である。
 それで、この感性的認識とか直接的認識とか直感的認識とか経験的認識とかいうふうに言われるものについては、児童心理学の研究では、こういう感性的あるいは直観的経験認識の場合には、必ず子どもたちの感情・情動が伴うということ(これを波多野完治さんとか滝沢武久さんとかもその共著でいっているが)を特徴として大事にするというふうにだんだんなってきている。つまり、素朴な形の対象の反映であるとか、感性的なレベルの認識であって、たいた感覚にとどまらないで悟性・理性に対して感性的なレベルの認識という場合には、児童心理学では感情・情動を伴う認識であることが強調されるようになってきたのですが、その考え方が最近になりますと、学問をしたり、あるいは自然科学や社会科学・人文科学、もっと細かく言うと文化人類学を研究している人々の間から、未聞の人たちの様々な風俗・習慣だの社会組織だの、感情・情動だの、お祭りのしかただのの研究がずっと進んだでしょう。そういう人々の間にも学聞における感性の大切さ、つまり、学問というと今まではすぐ抽象化したり法則化したりすること、そして一定の知識に到達すること、あるいは学生であるならば既に人々が法則化したり形式化したものを受け取って暗記するという学問ばかりしていたのに対して、もっと感性を働かせて想像性を働かせて、その学問ができていくプロセスを大事にしていくというところから感性を大事にする。        それで今、感性の重要さを認めたり、それから相感・共に感じ合うというようなことを大事にする哲学的な物の考え方が多く出てきていて、感性というものに対してのとらえかた・考え方は従前のようであるけれども、最近ではとくに大切にされ始めているという傾向がある。
 ですから、これをすぐに結びつけてはいけないけれども、生活綴方は実感信仰・感性信仰であって理性に到達したり、あるいは本質的なものに到達するにはまだまだ遠いみたいな言い方をして批判した人達がいましたが、鶴見俊輔なんかもある時に批判しました。最近になりますと、そういう感性的な認識、こういうことが大事にされる。それでそれは、この間のオーラルな文化の形成、沈黙の文化を持っている人々を、もっと聞かれた文化にしていくという場合の、ああいうところにまでつながるように言っているという感性・感覚という問題についても重視というのが新しい慣向として出てきた。大体、感覚ということについてはそれぐらいです。
 そうすると、我々はすぐに結び付けないと言ったんですけれと、第一指導段階で我々がの子ども達の経験の具体的、個別的、特殊的なものを、目に見えるものだの何だのを、ひとつひとつていねいに、事実と事実の関係を書かせて、そして、それを書くことによってためさせてみて、学級集団なら学級集団の中でそれを確かめ合ったり、共鳴し合ったり、共感し合ったりしていくという仕事は、つまり子ども違の発達、認識の発達過程、そういうものに沿うているのかどうかということを考えるためのひとつの材料になるだろう。

第二段階 表象の段階

 次は表象の段階。この表象というのは、こういうところがさっき前置きとして言った場合の単語、述語の使い方がまぎらわしくて困るんですね。つまり日本作文の会で、認識能力、認識諸能力というときに、観察力、表象力、思考力、想像力と並べるでしょう。そのときの表象力というのは、ぼくが心理学から学んでああいうふうにみんな言うように言いならわして、今ああなってるんですけれども、あの表象と言う場合は目の前にないものを思い浮かべるということが表象だから、心理的な働きからいうと、それはこの前、合宿研究会で田中君が学のあるようなふうにして「これは再生的想像とも言います」なんて言ってたけどね。つまり想像というのは二つあって、創造的想像と再生的想像と。再生的想像というのは、もう過ぎ去ってしまって、今、自の前にないものを脳みその中に思い浮かべるのが再生的想像で表象。それに対してクリエイティブな創造的想像という方は、自分が女房もらって二人で住むときに建てる家みたいなものを頭の中に思い浮かべる、甲中君は思い浮かべたと思うが、それをクリエイティブな想像。このとき表象というふうに心理学の言葉を使ったわけね。
 ところがここで「表象」というのは、心理学的な単語・述語として使う表象じゃない。認識の「第2段階」あるいは科学的概念とか本質的なものの認識というものの「中間項、認識の過程」として存在するのではないか。あるいは、さっきの言葉で言うと、「認識発達していく契機として」そういうものがあるんじゃないかとして「表象」という段階を入れる。  
 ですから、今度はものを書くときに少し「よく思い出して書く」とかいうときは、確かに表象なんだが、ここには(「第二段階の表象」)内容的なものが入っている。認識の内容が入っている。認識の、どういう側面を認識するのかという。「表象」の場合は。
 それから、よく思い出すという場合は、そのときの色とか、においとか、形とか、動きとか、関係とか、人が言った言葉を思い出すんでしょう。思い浮かべる。もう一度思い浮かべる。そういうことを区別したらいいでしょう。
 だから、一口にいうと「表象は、直観を概括していく認識の段階」である。「表象は、感覚が一般化された形で最初にあらわれる形式」である。感覚器官によって、現に直接に知覚されなくとも記憶に残っており、客観的な対象の個々の特徴、側面、属性を一つの形象に統一したものである。この形象というのは文学的形象とはちょっと違います。ですから、ゲシュタルト、姿・形と考えていい。
 人聞は表象において、外見上は客観的な実在から遠ざかるが、実際にはそれにいっそう接近していくことになる。具体的、個別的なものから離れるみたいだけれども、実際にはそれに接近していくことになる。別な言い方をすると、物質的な事物という直接的に与えられているものから離れるのと同時に、これらに事物の運動の全体、その存在の内容全体を本質的な、あるいは合法的な、必然的な、客観的な関連においてとらえるという方向へと進んでいく。この合法則的な、必然的な、客観的なというのは、表象の段階ではない。
 この次の段階です。本質的認識とか、科学的概念とかになっていく段階ですから。その方向へ、一歩前進する。
 もうひとつ別な側面というか言い方をすると「過去にみられた対象についての多面感覚感覚されたもののうち、共通なもの、あるいは特徴的なものを正確に反映する段階」である。別な言葉で言うと「個別的に対象の全体像をつかむ」ということである。まだ、全体として統一してつかむことはできないが、個別的にとらえていく。
 客観的な実在を表象するとき。人聞ははじめて人間の脳髄が本来の意昧において創造力としてあらわれはじめる。さっきの感覚のときことわったように、あれば受動的認識と能動的認識とあったでしょう。その受動的認識でしょう、感覚の段階は。ところが意識的に表象としてとらえるようになると、客観的な実在を表象するときはじめて人間の脳髄が本来の意味において創造力としてあらわれはじめる。ただし、これが完成していくのが、思考の段階であることは言うまでもない。そしてまた、この表象の段階では、実際生活の要求と直接かかわること、つまり実践とも次第に結びつきを強くしはじめる。
 ここのところの説明は、ぼくは今までは「一般的表象を形成する」のだとか、あるいは「現象のうちの本質のあらわれである顕著な現象を各側面でつかむ」ことだと何回か本に書いてきた。具体的な説明としては、「いとこ」なんでいうのは一番よく、親戚の家のみよ子とか、川崎にいる親戚の三郎がいとこだということについては、個別的にとらえていくね。だけど、「ぼくには、いとこが何人おります」という作文を書いたりするときには一般的表象としてとらえるでしょう。「わたしには、いとこが何人おります」というと、こんどはそのいとこはどういうのかというと、自分の父親とか母親と兄弟である男や女だから、おじとか、おばとか、そういう者が別な人と結婚して、生んだ子どもをいとこというのだと。あるいは親戚なら親戚、私の家の親戚はというふうに言うと、だけどまだそれは親戚とは何かというのは、法学的とか民法的とか、何親等の何だとかいうふうに、全体としてとらえることではなく、一般的表象としてとらえる。
 ですから、この表象の段階をもう少し最近のとらえ方でいうと、これは超感性的な認識になり切っていない。しかし、直観的認識とか、経験的認識とかいわれていて、今言った感性とは違って対象を全体的につかみとろうとする特徴を持っている。別な言葉で言うと「感性的なレベルで、他との外的比較で対象の全体像を作りあげようする特殊な認識の過程・段階である。
 ここまでくると考えたくなってきたんじゃないですか。第二段階というのは、私の父だの、私の母だの、私の家の仕事というようなものは、こういうふうに・・・・。
 それから、そこら辺歩いていて、商店いっぱい並んでいると、ああここでミカン・リンゴ売ってる、果物うってる。ああここでは酒や何か売ってる。ここは布団、枕売ってる。ああみんな売り物売ってると。だから商いをする、物を売る店だというようなことをとらえる段階です。だけど「商品とは何か」というようなこと位、まだわからないでしょう、
 その段階では、商品とは使用価値と交換価値で、交換価値は一定の労働がそこにどのように費やされたかということを単位として・・とか何かというふうにして、「商品とは何ぞや」というマルクスの資本論みたいにとらえるところへはいかないという。だから「超感性的な認識」になり切っていないという。しかし、直観とは違って、対象を全体においてつかみとろうとする。
 感性的な特殊性、個別性、具体性をある限定のもとに保ったままでの一般的認識、感性的なレベルで、他との外的比較で対象の全体像を作り出そうとする特殊な段階の認識であり、過程である。
 ★外的比較というのは、似ているところと違うところをわきまえること。だから分類も必要になる。同一性と差異性「ここは似ているけど、ここは違う」というふうに、だんだんまとめていく。そういう手続きを経て対象の全体像を作りだそうとする。

第三段階概念の段階

概念の段階。概念的なもののとらえ方。

「概念くだき」と綴方でいうと、昔、悪い概念、偏見、独断、先入観みたいなものを与えたので「概念くだき」と言って、この人は具体的なことを言わないで概念的なことばかり言ってる、公式的、教条的、あるいは、たてまえばかり言って、道徳主義で言っているのは、あれば概念で、それに向かって「概念くだき」と言ったのだ。しかし、本当は、概念を、「本質的概念」「普遍的・科学的概念」を形成させることが教育の目標でしょう。ですから、概念あるいは思考の段階。
 思考という言葉がここから出てくるわけですが、思考とは「与えるれた対象の具体的な個別的な存在形式を抽象し、最も深刻な、最も一般的な知性を与えて行く段階」これは対象の、本質的認識・経験的認識というふうに感性的認識のところで言い、その経験的認識を、もう少し抽象化したものが一般的表象だとすると、こんどはこれは「本質的認識」という。
 それで、毛沢東の言う「理性的認識」というのが一時言われてね。「感性的認識」と「理性的認識」というのを対立させたでしょう。あれば間違いなんですね、本当は。唯物論の立場からいうとね。つまり、経験的、感性的な認識に対して、普遍的、本質的な認識のことで、そのとき毛沢東は中間項を、おかなかったわけ。その表象の段階というのをおかないで、経験的認識、感覚的認識をしながら実践さえすれば、実践を積み重ねていくと質的変化をとげて、爆発的に本質的な認識に到達するというふうに強調し過ぎたために、その感性的認識と理性的認識を対立させていたから分かりにくくなっていたわけです。だからここに中間項をおいてやると、こんどはいよいよ与えられた対象の具体的な、個別的な存在形式を抽象化し、最も深刻な最も一般的な規定を与えていくようなであって、それが本質的認識、あるいは普遍的な認識、あるいは必然的な認識と言ったらいい。
 ですからレーニンが言った有名な言葉として「生きた直観から抽象的思考へ、そしてそれから実践へ」これは合言葉ですが、これは「経験批判論」に書いてある。こう言ってきたのに対して、生き生きした直観から抽象へと、この間のところに表象的段階を入れて、そしてここのところで一番先の序というところで言いました、受動的認識としての感性的認識と、能動的認識としての対象に対してこちらから働きかけること、これとの統一をはかっていかなければならないということになる。
 ですから、ここでぼくは、わざと今日はその話をしないんですけれど、「上昇作用」と『下降作用」の両方がなければならないということになる。その「思考の段階」では、上昇作用というのは、具体的、個別的経験的なものからだんだん上昇的なものに上がっていって一般的、普遍的、必然的、そういうものへと進んでいく過程でしょ。
 と同時に、さっき言った通りにそういう認識をしつつ、今度は対象に対して受動的に働きかけられ反映するだけでなく、こっちから働きかけなければいけないというのがある。それが下降作用。
 ある一定の物のとらえ方、知識、そういうものが原則的なものとか原理的なものとして自分のものになったら、今度はそれを活用して、具体的なものに働きかけなければならない。そこのところに弁証法的統一というのか、そういうふうにここのところは考えなければならない。「生きた直観から抽象的思考へ、そして、それから実践へ」という。この実践というのは、そういう上昇作用と下降作用と、あくまでも操り返し繰り返し行いつつ、そして統一的にみていく。
 ですから、「思考の段階」あるいは「概念として把握」していく段階」従って、推理、判断ということを、その精神的作業、心理的作業としてやっていくときには、具体的な現実についての認識において、感表象表象から抽象へいく運動を分析というふうに名付けるなら、この抽象から具体的な全体の思考へといく逆の運動は総合である。さっき上昇作用、下降作用とわざと言わないと言ったのはそのことだが・・・・。
 個別的なものを分析して外的比較をして、一般的なところまでつかもうとするのは表象の段階、こんどそれをなお一層、感覚や表象から抽象へと進んでいく運動を、関連あるいは運動そういうものを分析していくときに、それを分析と名づけるならば、こんどは概念構成の段階、本質的認識の段階、一般的普遍的認識の段階というのは、具体的なものから逆に総合していく段階。内容の方から言えば、対象に関してそれを運動と関連の中において、それに抽象的思惟、思考を進めるという認識方法。今までは個別の属性とか動きとか、個別的にとらえたのですが、今度は全体的な運動と関連の中に受け入れて、それについて抽象的な思惟を行い、思考を行っていく認識の方法である。そこに得られるのは科学的概念という超感性的な認識である。従って個々の事物の持っている共通した側面、属性、普遍性が反映していることになる。さっき実例を出したので言うと、商品とは何かということがわかっていく段階。あるいは、使用価値と交換価値とか、それと貨幣との関係はどうなっているか、というふうになるわけです。
 そうすると、ここのところの段階のことについて、哲学とか認識論の立場から考えていくと、論理とか、あるいは推理とか判断というような心理的活動、思考活動、今までなら論理学の方で言ったものがどういうふうにとらたらよいかとかうことがでてくる。これについた、あんまりうまく説明することができませんので、そこは省略します。
 そしてこれを、むりやりに結びつける必要はないけれども、わが日本作文の会の第四段階というような指導段階というのは、実はこういう普遍的認識とか、本質的認識とか、一般的認識というのを経たところで題材をとらえ、テーマを立てて、抽象化された概括的な文章を書かせるということになるのだろうけれども、ここで日本作文の会として、第四段階というのは実践が未だ進んでいないから、論を立てるのにも自信がないということを言っているわけは、謙虚なかたちで言っているという点もひとつあるけれども、もうひとつ忘れてはならないことを実は言っているのだと思う。
 それは何かというと、他の教科の教育が本当に立派なものとして進むことがなければ、さっき言った上昇作用と下降作用の二つ、あるいは受動的認識と能動的認識というのを本当に統一して、子どもたちを発展していくように働きかけることはできないのではないか。
 自然科学や社会科学や技術や芸術その他についての、きちんとした教科の教育がなければできないでしょう。ですからね、われわれは、そこのところは学年が進んで他の教科の教育が進まなければならないということを、実は頭の中で考えている。だからいつも強調しているように、他教科の教育で得た学習の成果を生かして、現実の事物を見直させるようにさせるとか、あるいは教科外の集団的自治活動の中で得た生き生きした物のとらえ方とか行動の仕方みたいなものを生かして、新しい題材をとらえるようにしなけれ.ばならないと言っている、ということになるだろうと思う。
 大体そこまでで本質的認識に至るまでの、感覚的認識から本質的認識に至るまでの認識の諸過程のあらましだけお話した。
 ただ、ここのところでもうひとつ問題になるのは、前おきのところで言ったんですけれども、受動的認識と能動的認識が統一されなければならないということと同時に、人間の認識活動というのは、社会的な人間が生きていくための生活的な社会的な実践を伴わなければいけないので、感情・情動はさっき言ったが、人間の「意志」というのは一体どういうときに働くのかということについて、きちんと位置づけないと、今はやりの「生きる力」とか「生き方」とか「行動」ということについて説明することができない。われわれは、そこのところ少し知識を獲得し、認識がきちんとしていれば、事物にたいする個々人の態度のあらわれを感情というので、感情がみがかれ豊かになると同時に、見方、考え方感じ方、生き方などと簡単に言ってきたけれど、ここに意志の問題というものをどういうふうにするか、受動的と能動的という、これについては今日は省略します。これからまた勉強して、もう少し自信を持ってお話ができるようになったら意志の問題を話ます。
 これは道徳教育の問題にもなる。今はやりの、簡単に「生き方」なんて言っているのをこっぱみじんに粉砕する根拠を作っておかなければならない。「行動する」という場合、別な講座を作ってきたときから、私達はこういうふうに言ってきた。「物の見方、考え方、感じ方、そしてそれからカッコして『見解・信念・感情・意志、世界観の基礎の形成』をめざす。」というふうに言ってきた。教育の目標として。そういうふうに言ってしまえば、あとはいらないではないですか。行動とか行動力とか生活力というのはいらないでしょう。
 小学校の先生が、生き方なんでいうのをそんなに簡単に教育できない。そのとき、そのときの、その個々の生活のしぶりの指導ぐらいはできるだろうけれども、君たちはどういうふうに生きていかなければいかないかなんでいうのは・・。やっぱり「見解・信念・感情・意志」そういうものの積み重ねで育てていって、やがてそれが自分の「世界観」、もう少し細かくそれを言うと「自然観」とか「人間観」とか「社会観」とか「人生観」みたいなものを確立する。ここのところから、「意志」というのが非常に能動実践実践的なものと結びついて出てくるのである。しかし、勉強が足りないので、意志論については今日はそういうふうに、ただ暗示するにとどめて、みんなの研究に期待する。

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