子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2月9日(火) 片桐弘子さんへ

2月9日(火) 片桐弘子さんへ

「はづき」という随筆集が、2ヶ月に1度、私の手元に届く。きっかけは、7年ほど前に朝日新聞の「声」の欄に、「生活記録」の灯を燈して、20年という文章が載った。その文章の中に、無着成恭の「山びこ学校」ということばが書かれていた。しかも、書かれた関根道豊と言うかたが、大宮市(現在さいたま市)に住んでいる方だった。興味があったので、朝日新聞社に連絡を取り、この方の住所を聞いて、手紙を書いたのであった。すると、丁寧な返事と「はづき」という随筆集が送られてきた。それ以来、会員でもないのに、毎回「随筆」集が送られてきた。必ず送られてきた文章には、目を通した。ときどき郵送代という名目で、少々のお金をカンパしてきた。やがて、豊島作文の会の片桐弘子さんが、その会に加入したと言うことを伺った。以来、送られてきたら、まず片桐さんの文章を最初に読むことから始めている。毎回圧巻の文章を書いているのだが、今回は、どうしても感想を書かなくてはいけないと考え、下記のような文章を、送られてきたはがきにパソコンで小さな字でびっしり感想文を書いて、郵送した。

国分一太郎「童謡集」と私を読んで 片桐弘子

 読み終わったあと、この文章には、感動的な物語を読んでいるようだった。作者の片桐弘子さんが、小学生の頃から作文の大好きな少女であった。中学生になり、出会った教師が作文教育をこよなく大事にする教師だった。「文章はきれいだけれど心に止まらない」 と、指摘される。そこでめげずに、『綴り方教室』や『山びこ学校』を読んだり、国分一太郎の作文や詩の本を読んで、事実をきちんと書くことを学んでいく。日記は、毎日書き、作文や詩を書いて提出した。そのようなときに、全国作文コンクールに入選した。長野から東京の表彰式の会場に母親と一緒に参加する。先生になった夢を見る作文であったので、審査員の一人の国分先生に声をかけられ、「先生になりたいんですってね。いい先生になってくださいよ。」と声をかけてもらう。
 やがて、夢かない教師の道を歩み始める。作文研究会や講演会で、国分さんの追っかけをするほど、熱心な作文教師になる。教師を退職した今、国分一太郎の「童謡習作ノート」に出会う。直筆の原稿を書き写す作業を友人の田中定幸さんに頼まれる。そこに書かれた童謡は、鈴木三重吉「赤い鳥」に書かれていた童謡とは、違っていた。どの歌にも、国分のふるさと山形の自然や風景、生活が見えた。国分一太郎が亡くなってから、今年で36年経つ。私もこの本を読みながら、40代の頃の国分一太郎の写真を眺めながら、立派な本が出来上がったなあと、別の感動を持って、感謝している。

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