子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

29号

はじける芽29号

こわそうなおじさん 3年 男子

お父さんと、せんとうに行ったら、
こわそうないれずみのおじさんが
体をあらっていた。
こわそうなので、そばに行かないようにしよう。
でも、水ぶろに入りたかったので、
はんたいまわりをしてはいった。
それでも、けっきょくおじさんの近くになってしまった。
どうしよう。
こまったなあ。
出ちやおうかな。
とおくでお父さんがわらっていた。
おじさんが、
「ぼく、プールの水よりあったかいでしょう。」
とうとう話しかけられちゃった。
ドキドキして、
「うん。」
としか言えなかった。
いれずみは、どくろのマークだった。

入れ墨をしているおじさんのそばから、離れようとするができずに話しかけられる。いがいとやさしい言葉だが、緊張はかくせない。遠くでお父さんが、笑っているのもほほえましい。なお、このお父さんは、警察官である。

祖母の古いミシン 3年 女子

祖母のミシンは、
四十年も前に買った。
古いミシンだ。
ところどころがさびている。
でも、まだカタカタ動く。
祖母は大事に使っている。

祖母の古いミシンを通して、祖母のものを大事にすることを具体的に教えてもらう。40年前のミシンに気がつくのもよい。

お母さんの仕事 3年 男子

学校から帰るとき
かいだんの所で
トントントン
と聞こえる。
母の音だ。
ボタンの作る音がする。

母親の内職の仕事の音であろうか。家に昼前に、その音が聞こえることで、母のいることを知り、ほっとするのだろう。終わりの2行が、うまくしめくくっている。

母はずるい 3年 女子

ごはん中 私や妹がごはんをこぼすと、
「何やってるの。ぼけっとしてるから。早くふきなさい。」
と、まゆを少し上に上げて、
大きな声で言う。
けど、母がこぼすと、
「ちょっとティシュとって。」
とすましていう。
なんでかなあ。
母がこぼして
おこられないなら、
私たちにも、
おこらないでほしい。

母親からいつも注意を受けているのだろう。ところが、同じような失敗に、母親はすましていることへの不満だ。

父のごまかし 3年 男子

うちの父は、さいしょに、
「お母さん、ビールちょうだい。」
と言う。
でも、ぼくが、
「牛乳持ってきて。」
と言うと、
「だめ、自分で取ってきなさい。」
と言う。
「おかずを全部ちょっとずつ食べなさい。」
と父が言う。
「おみそ汁をさきに飲んで、牛乳をあとに飲みなさい。」
と言う。
「なんで。」
と聞くと、
「あたりまえでしょ。」
しか言ってくれない。
なんで。

同じふるまいでも、子どもには、自分でしなさいと言う父親への不満だ。

お母さんの長電話   3年 男子

「もしもし、あ~あ。」
「のんでるわよ。いつも。」
「あのこね…。」
「あと一人、たんないのよね。」
「あ~しげみちゃん。」
「あの子、うまいのよねえ。」
「うちのえんでは、3人いるんだけど。」
「え~だれよ。だれよ。」
「え~バレー部の子じゃないわよねえ。」
「え~だれよ 思い出してよう。」
「ふなぼりい。」
「ところが みんなあつめてきてねえ。」
「はっはっはっ、小川さんね、知ってる。」
「う~ん。したしい。」
「うん ふなぼり」
「うん 61ページで でてるのよ。」
「わたしこまつ川だいち。」
「はい じゃあね。」
と言って、長電話が終わった。

母親の長電話を、じっくり聞き、これだけうまくならべる。最後のしめくくりがなかなかよい。

榎本先生のようふくやぶれている 3年 女子

水色のようふくをきてきた榎本先生。
じゅぎょう中、お話をした。
その時、右手をあげた。
わたしは、水色のようふくが
やぶけていることがわかった。
だれかがわらって、
「あっ、榎本先生のようふくやぶれてる。」
と言った。
わきの所がやぶけていた。
榎本先生は、はずかしそうに、
左手で右のわきをおさえた。
右手でチョークを持って、
黒板に字を書き始めた。
おくさんいるんでしょう…。
ちゃんとぬってもらいなね。

担任教師のことをじっくり見て、観察している。会話もよい。終わりの2行もよい。

 今年の夏、大阪で日本作文の会の全国大会が開かれた。今年で40回目の記念大会でもあった。2400名あまりの全国の仲間が集まり、3日間を全体会、分科会に分かれ討議した。作文教育で大切なことは、事実をしっかりとらえ、それを生き生きと表現できることだと痛感した。
 散文でも詩でも、表現する対象は人間・自然・社会の3つに大別される。低・中学年では、この中の人間と自然のことをたくさん綴らせることだ。人間とは、自分と関わりのあった人のことで、心の中に強く残ったことを、出来事の順にしっかり綴らせることだ。
 今の子ども達の人と人との関わりが、うすく弱くなり遊びのつながりもだめになっている。1番身近な家庭や友達や先生とのことで、強く心に残ったことから綴らせたらどうだろうか。散文も詩も、題名をきちんと綴らせる。それは日記についても同じだ。書きたい内容をしっかりつかむ主題(題材)意識が深まるからだ。
 たとえば、先生とのことで詩に書いてもらうという指導題目を決める。その時に、どんな場面の先生のことが心に残っているのかを聞く。題にするときは、「給食を食べている」「長縄遊びをしている」「日記を読んでいるときの顔」などと、具体的に場面を切り取り、一番心に残ったことを広げて書こうという。
 書く以前に何を書くかが決まっていなければ、表現できない。そこで綴る前に、いくつかの詩を紹介して、詩の持つリズム・感動などをじっくり読み味わう必要がある。
 一学期の途中より、「詩のノート」というものを始めた。最初は、すぐれた詩をプリントして視写して声に出して読み、気に入った詩は暗唱させている。1年間に30~50くらいの詩が視写できれば、自分の詩もその過程の中で表現できるようになる。
 上に出ている詩は、3年生の子ども達に綴らせた中の、「人間への注目」したものを拾い集めてみた。身近な人間との関わりをしっかり切り取って綴れることは、世の中全体の人間へも関わりを広げていける。
 こういう詩を1週間に1回、全員「詩のノート」に綴って提出させている。
1991年10月3日

詩と散文の割合

 散文7割、詩は3割というのが力を入れる割合である。散文だけ書いていると、感動したことを凝縮して表現する言葉選びが弱くなる。詩だけを書いていると、じっくり丁寧にみつめ、それを順序だてて思い出して書く方法が身につかなくなる。詩の場合は、感動した瞬間をその時の場面になって、心の中に感じたとおりに広げて表現する。会話などを使たり、現在形で表現すると、臨場感が出てくる。
2012.3.7(水)

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