子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月23日(土)松下義一さんへ

3月23日(土)松下義一さんへ

 この度は、たくさんの資料ありがとうございました。ことに忘れかけていた教師5年目の年に、はじめて担任した1年生の「学級通信」を望星という雑誌に送ったものを、出版社の方が編集してくれたものです。そのことをすっかり忘れかけておりました。懐かしく、読みました。この1年間は、学級通信を、B4の大きさで毎日出していました。
 教師になって、最初に教えた子どもたちが、4年生でした。3年間組み替えなしで卒業させました。今年還暦を迎えています。4年目の年に、豊島区教職員組合の執行委員になりました。いきなり2年生の担任になり、1年間でおしまいになり、つぎの年は、1年生の担任でした。その年は、1974年の年です。日教組が、4月9日半日、11日に1日ストライキをした年です。国労や動労もストライキをし、交通機関が麻痺したのを覚えております。当時浦和に住んでいたので、池袋までは出勤できませんでした。豊島の集会には出られず、母親が浦和の日教組の組合員だったので、その集会に一緒に参加した覚えがあります。当時入学式を終えて、1週間もたたないうちに、ストライキに突入したのです。わたしは、執行委員にもなっていたので、1週間職場に行かなかった気がします。それでも、組合の強い職場で仲間の人たちが、授業に支障のないようにしてくれていたのです。組合事務所と委員長の家に警察の一斉手入れがあり、そこに応援で立ち会ったりしていました。あの時に警察権力の横暴が、今考えてもくやしくてたまりません。警察が権力の手先であることを実感したときでした。
 その年の4月25日、日本共産党の新聞「赤旗」が、この総評を中心としたストライキ闘争に対する警察の一斉手入れに対して、遺憾の表明をだすのでなく、「教師聖職論」を出してきたのです。ストライキで闘うのは、危険であるという声明です。つぎの年から、日教組は、ストライキが打てない組合になってしまいました。
 さて、わたしの学級通信のきっかけは、村田榮一の「ガリバー」(飛び出せちびっ子)を読み、感動し、この形式を真似して作ったものです。当時教育雑誌がよく売れていた時期で、本屋に行けば、教育コーナーがあり、結構な本が並んでいました。望星も、その中の一つの雑誌でした。しかし、この雑誌も何年か経つと、教育面を扱わなくなった気がします。それでも、まだ結構教育雑誌が出ていました。「ひと」(遠山啓)「教育の森」(藤田恭平)「教育」(国土社)などが残っておりました。わたしは、本屋に行くと、時々、それらの本を購入した覚えがあります。あの頃は、教師も結構本を購入していた気がします。わたしは、日教組の月刊誌「教育評論」と「作文と教育」をとっていました。「教育評論」は、「教師文学賞」などと言うのを、1年に1回特集して臨時増刊号にして出しておりました。小説部門、詩部門で、最優秀作品と優秀作品が載りました。それらの本を読むと、全国には、すぐれた文学者・詩人がいるんだなあと感心して読んだ覚えがあります。小説部門の審査委員が、日本作文の会から出ておりまして、国分一太郎さんや遠藤豊吉さんなどがその仕事をされておりました。
 あの頃は、安月給だった教師も、結構本を購入して読んだものです。それに比べると、今の教師は、なかなか本を買いませんね。活字離れと言われて久しいですが、「奨学金の返済」というのもかなり大きい気がします。わたしたちが出版した「作文名人への道」という本も、結構安く割引しているのに、買おうとする人が少ないです。本をよむ暇もないくらい、現場はいそがしいのかも知れません。今回、「作文と教育」4月号に載った記述アンケートの分析は、大変な労作ですね。分析者として、松下さんの名前が載っていました。あれを読むと、今の教師の現状がよくわかりますね。なかには、忙しくて、アンケートすら回答できないくらい追い詰められている教師が、大半かも知れません。わたしの娘も、東京都の養護教師になっていますが、毎日8時9時過ぎに帰ってきます。何でこんな遅いのと聞くと、わたしは、まだ早いほうで、まだ職員室に結構残っているという答えが返ってきます。呆れるばかりです。最近やっと組合に入ったようですが、職場のほとんどの人は、非組合員のようです。組合がもっとも強かった、1960~70年代は、日教組も60万人組合員がいましたが、今やその3分の1くらいでしょう。今問題になっている、「学級崩壊」「モンスター保護者」「教師の途中退職」「教師の長期欠席」など、組合が強かったときにはなかったものです。仲間が団結して、一人の悩みを、みんなで考えてくれる職場でした。
 今回の「想画と綴り方」のテレビ放映を見ながら、上手くまとめたものだと感心しました。あそこで語ってくれた教え子さんの語りが、国分一太郎ここにありの証明になります。特に、92才の最後の教え子菊池周介さんの語りがもっとも印象的です。実は、あの反対側には、田中さんや私を含めて四人のメンバーが、インタビューしていました。あの日1日がかりで、山形まで出かけたのでした。そこに山形放送が一緒に参加させてほしいと頼み込んできたのです。午前と午後6時間くらいのインタビューの一番いいところを、まとめてくれました。さすがプロです。我々は、あの日お昼には、菊池さんの家から近くの立派な料理屋で、お昼をごちそうになり、午後再びインタビューしたのです。
 赤旗が、国分一太郎さんを「さん」付けして取り上げたのは、画期的なことでした。かっては、除名組の国分一太郎として、赤旗で取り上げていましたので、国分さんが亡くなって34年経ち、このような扱いになり、草葉の陰でどう考えているのだろうか。
 私の方からは、手に入っているかも知れませんが、「赤旗」の記事と、わたしのホームページに載せた文を送ります。読んでいただければありがたいです。
 御礼の返事が遅くなり、失礼しました。ますます元気に通信を発行なさっているのですね。団塊の世代は、みんな元気ですね。わたしは、その団塊の世代の2年前に生まれました。透析を受けていますが、今のところ、ふつうに過ごしております。元気にご活躍下さい。
2019年3月23日

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional