子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月2日(月)画文集の出版を祝う会

4月2日(月)画文集の出版を祝う会

 山形に出版を祝う会に出かけた。理論研究会では、5人が参加した。70人くらいの人たちが集まっていた。一番印象に残っているのは、国分さんの最後の教え子さんが、まだ8人健在だと言うことです。その中で、お一人参加し、みなさんの前で挨拶をして下さった。声もしっかりしていて、元気に挨拶して下さった。菊池周介さんという方で、国鉄の職員をされていた方だ。この方の短いが、感動的な文章を、以前にこの日記に載せたが、もう一度載せておく。

 国分先生の最後の教え子さんは、文集「もんぺの弟」の子どもたちであった。この子どもたちを担任している途中に、治安維持法で逮捕されたのであった。その辺の事情を知らされないまま、別の担任に変えられた。やがて、国分さんが亡くなってから、何年か経ったときに、菊池周介さんに直接話をしていただき、胸をジーンとして聞いたものだった。

先生と涙の握手 もんぺの弟 菊池周介

 私は昭和17年の春から20年の春まで、東根駅の駅員として努めました。
 私の記憶も定かではありませんから、はっきり言えませんが、たぶん18年の夏の日だったと思います。
 駅ホーム待合室を清掃しておりますと、偶然にも国分先生とばったり会いました。
「あれ先生。国分先生でねえがず(ないですか)」
「んだんだ(そうです)、ちょっと家の方に来たもんだから、おまえ駅員になったのか、よがったな」
「それで先生、今どこさえんの(どこに居るの)」
「赤煉瓦で(刑務所)で囚人たちに勉強を教えている」
「先生ほだなざあ~あんまえべちゃな~(そんなことでどうする)」
「んだて(だって)今のところ、そうするしかないんだ」
「あだなどこさ(あんなところには)、ろぐな警官いないがら、さっさと帰ってきたらよがんベな~、困ったもんだ」」
「それによ先生、私達は毎日のように出征兵士の見送りだ。男の駅員も兵隊に取られ駅長も参っている」
「そうかそれは大変だ、おまえの話もわかるが頑張れや」
「んだて(だって)先生」
「わかった。わかった、こんなところでうろうろしてると、駅長に悪い、早く駅舎に行って仕事すろ」
「んだてすばらくぶりで(だって暫くぶりで)あったんだから」
「わかった、わかった」と言って肩を押されました。

 私はどうも腑に落ちませんでしたが、仕方がないので駅舎に戻りました。
そして20年8月15日世の中が一変し、先生も青天白日の身となりました。
その年の秋、もんぺの弟の集まりがありました。
もちろん国分先生もお見えになりました。
先生は1人1人の手を取り顔を見つめました。
あの優しい眼差しで私の番です。
私は手を出しません。
「どうした周介」「おれはいい」「何をごしゃいでいる(怒っている)」
「んだて(だって)駅で会ったとき、先生は俺を避けた」
「あ、あれか。んだて、俺の脇に1人いたろ、あの人は俺の附人で、俺がどこで誰とどんな話をしたか記録しているんだ、あれ以上おまえにしゃべらせたら、次の日駅長は警察に呼び出されていたはずだ」
と言ってにこっと笑われた。
あ、そうだったのか、そうだったのか。私は両手を出して先生の手を握った。温かかった。私の涙は口まで入っていた。

菊池周介さんは、5年ほど前までは、研究会に顔を出してくださっていたが、ここのところお会いできていない。お元気ならば、93歳になっているはずだ。

あれから2年たち、菊池周介さんも95歳になられた。

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