子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月1日(火」)生い立ちの記その2

5月1日(火」)生い立ちの記その2

幼稚園は、遠かった

 母が離婚する前の家は、与野駅から近くのところにあったが、あまり記憶にない。私が物心ついたときの家は、与野駅の西口から歩いて10分くらいのところにあった。2階建てのかなり大きな家だった。庭も程ほどにあり、大世帯の家だった。そこに祖母、母、母の弟、妹2人と私達兄弟が一緒に住む賑やかな家だった。となりは、長屋で3世帯の家族が住んでいた。裏は、愛し幼稚園が建っていた。そこの幼稚園経営者とは、祖母が仲が悪くて、私は、そこの幼稚園には通わず、与野駅から1駅目の北浦和駅と与野駅のちょうど中間にある、双恵幼稚園に通うことになった。電車には乗らず、歩いて通った。そこの幼稚園経営者の松尾先生の子どもを、母が担任していたことから、母が見つけてきた幼稚園であった。遠い幼稚園だったが、私は休まず毎日元気に通った。今でも覚えているのは、「ひかり組」と「のぞみ組」があった。私は、ひかり組に所属した。担任は、うた先生という名前だった。のぞみ組は、細川先生と言う名前だった。私は、美人の細川先生が好きだった。あとでわかったことだが、細川先生の弟さんを、母が担任していた。そこの幼稚園で心に残っていることがいくつかある。それは、キリスト教系の幼稚園なので、お弁当の時間になると、経営者の松尾先生が、「天に召します、我らの父よ・・・」とかならず唱え、最後に「アーメン」で締めくくり、「いただきます。」と言って、お弁当のふたを開けるのだった。私のお弁当は、いつも卵をスクランブルして、甘く煮てくれたものを、ごはんの上に黄色く敷き詰められていた。その弁当が1ばん好きだった。

紙芝居が楽しみ

 もう1つ印象に残っていることは、みんなが帰るときに、庭に集まって、紙芝居を見せてくれた。その紙芝居が、いつまでも心に残るお話が多かった。例えば、「泣いた赤鬼」
(濱田広介作)など、いつまでも、青鬼のことを考えていた。あらすじは、こんな内容だった。
「とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。
赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。しかし、これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。
だが、赤鬼には一つ気になることがあった。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。それは「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」という青鬼からの置手紙であった。赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流した。(ウィキペディア参照)
 大人になってから、濱田広介が、山形県出身で、広介童話館が山形にあることを知り、研究会の打ち合わせのあとに、田中定幸さんと訪れたことがある。この童話は、本当にすぐれた童話である。その他に「ジャックと豆の木」「さるかに合戦」「イソップ物語シリーズ」などを、毎日のようにしてくれた。
 この時期に、紙芝居だとか、読み聞かせなどをたくさんしておくと、じっくりものを考える子どもになると、自分の経験から感じている。
 1年間、この遠い幼稚園に通った。子どもの足で歩いたら、1時間近くかかった。行きも帰りも、いつも一人だったが、毎日雨の日も台風の日も休まず通った。
★幼稚園では、お遊戯会がよくあった。今でも覚えていることが、一つだけある。『金太郎』の歌をうたいながら、踊ることが出来た。ネットで調べるとでてきた。

金太郎のうた

まさかりかついで きんたろう
くまにまたがり おうまのけいこ
ハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウ
ハイ シィ ドウ ドウ ハイ ドウ ドウ

あしがらやまの やまおくで
けだものあつめて すもうのけいこ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
ハッケヨイヨイ ノコッタ
 私は、その歌詞を歌いながら、祖母や母の前で得意になって踊ったのを今思い出した。終わると、祖母も母も嬉しそうに、にこにこ笑いながら拍手をしてくれた。弟の宏にも一緒に踊ろうと誘ったが、のってこなかった。そこで、一人で、もう一度楽しく同じことを、やってみせたのだった。そこは、与野の家の一番広い8畳の部屋であったことも覚えている。今、あの時の母の嬉しそうな顔も、はっきりと浮かんでくる。

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