子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月1日(火」)生い立ち・母からの聞き書き

5月1日(火」)生い立ち・母からの聞き書き

 古希を過ぎ、自分の生きてきた道の一端をふり返ることは、大切であると考えた。私がこの世を去ってしまったら、私の子供時代のことは、誰も知ることは出来ない。そこで、娘千香に、お父さんは、こうやって生きてきたんだよと、伝えるためにここに記す。

生い立ちの記

 私は、1945年10月22日に、埼玉県与野町(旧与野市で、現在さいたま市)に誕生した。2才下に、弟宏が同じところで誕生している。私の生まれた年は、日本が戦争に負けてから2ヶ月の10月に誕生している。この年に生まれた人は、弟たち団塊の世代と違って、人口も最も少ない世代になる。それは、父親の世代が、兵隊にとられて、本来なら海外に兵隊に行っているので、結婚できない女性が、日本に残っていたのである。あまりそのあたりのことは、母は、語りたがらなかった。祖母が、時々こちらが聞くと、教えてくれた。父は、軍需工場に勤めていたとのことであった。それは、弟の宏がまだ寝返りもできない頃に、離婚していたので、母は、そのことはあまり話したがらなかった。だから、正式にいつ離婚したのかは、かなりたって、自分が大学受験に合格し、戸籍謄本を役所に取りに行って、初めて、「離婚」という2字を自分の目で確かめてからであった。
☆このあたりのことは、母が88歳になってから、聞き書きをしてまとめたものをその通りに書いてみる。 [#a510e194]

88才になった母に聞き書きをする

結婚してから

 戦争中に、お見合い結婚で結ばれた。私が23歳の時だった。結婚して、2人の子供に恵まれた。長男豊は、1945年10月22日、次男宏は2年後の1947年9月20日に誕生した。その頃、2人の子どもを育てるために教師を退職した。今みたいに、保育園があるわけでなく、子どもを育てながらでは、勤めることは無理だった。
 終戦後、与野駅前の闇市に「天ぷら屋」を開いた。そのころは、油が手に入らなかった。そのため、天ぷらは、飛ぶように売れた。材料は、私の母の大和田の家に行って、安くもらってきた。天ぷら屋は、2年間くらい続いた。
☆この闇市時代のことは、うっすらと記憶に残っている。店の前で、三輪車に乗って 遊んでいたのも記憶にある。

離婚してから

 1948年1月に離婚した。今野幸正という人だった。榎本家の親戚の人にお金を借り、それが原因だった。1度目は、すべて返して、やり直そうと話し合ったが、2度目も反省なく、同じように借りてしまったようなのだ。私は、もう少し、続けようとも思っていたが、私の母(榎本志満)が許さなかった。祖母にとっては、我慢できなかったのだろう。
★祖母志満が、私の父のことを憎んでいたことが1つ、心に残っている。それは、結婚式に母と父がならんでいた記念写真を、私の目の前で、はさみで切ってしまったのである。そのくらい、父のことを憎んでいたのである。したがって、その貴重な記念写真は、もう手元にはない。父の存在を、消し去ろうとしたかった祖母の行動だろう。
★この頃のことを、母と11歳年下の政子叔母が、つい最近話してくれた。まだ正式に離婚してない頃に、祖母は、おこって色々な家財道具を、自分が住んでいた自宅の方へ持ってきてしまったようなのだ。まだ、いっしょに旦那と暮らしていたので、母が政子叔母に頼んで、どうしても必要の物を、また運んだと言うことだった。しかし、正式に離婚すると、母は家に戻ってきて、2階の部屋で、いつも泣いていたと言うことを、最近聞いて、母は、焦心だったんだなあと改めて、知ることになった。  
★政子叔母は、1931年生まれなので、今年87才になる。私と、14才ちがいなので、3才で、榎本家に戻ってきたときは、政子叔母は、まだ17才せつ叔母は、1才ちがいなので、16才になる。哲一郎叔父は、1926年生まれであるから、私と19才離れているので、23才になる。その頃、志満祖母は、1946年5月12日に52才で、自分の旦那である喜重さんを亡くしている。一家の働き手を失い、家は貧乏暮らしであったということを、政子叔母に聞いた。

ずっと心にしまっていた話

 離婚をして、実家に戻ってきたある日のことだ。これからどう生きていこうかと悩んでいたときに、とんでもないことを考えていた。しかし、そのことは、豊さんのひとことで、我に返ってやめた。つまり、まだ寝返りも出来ない弟の宏をおぶって、3才にもなっていない豊さんの手を引いて、暗い夜道を歩いていた。今はなくなったかも知れない大宮と与野駅の間にある「欄干橋」(らんかんばし)の近くを歩いていた。その下は、鉄道が通っている。そのとき、「お母ちゃん、お星様がきれいだね。」という豊さんの言葉で、我に返ったんだ。「あの時の豊さんの言葉がなかったら・・・」。
★そんなことがあったのかと、その話をしみじみと聞いた。その後、2度とその話はしなかった。母は、私が聞き書きを始めたのをきっかけに、今まで心の中にしまっていたことを、88才になって、初めて心を開き語ってくれた。ずっと胸の奥にしまっておきたかったのかも知れない。

今でも覚えている父の顔

 父親の思い出が1つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、小さい頃は、「お父ちゃんは、なくなった。」と、志満おばあちゃんから何度も言われていた。ところが、私の目の前に、現れたのであった。「ごめんください。」と言う声で、よちよち歩きの私が、玄関に歩いていくと、懐かしい父が立っていたのである。私は、うれしくて、「お父ちゃんだ。」と言って跳び跳ねた。こたつのあった部屋に戻り、母に伝えに行った。母が私をだっこして、父にだっこさせたのを覚えている。父は、私を抱っこすることによって、我が子を最後抱いて、そのぬくもりを感じておきたかったのだろう。 3歳前のことであるが、この時はうれしくて、ずっと今でも覚えている。そのことを、家にいなかった志満おばあちゃんに話すと、「それは幽霊だよ。」と言って、相手にしてくれなかった。 
 ずいぶん経った頃に、このときの話を母にすると、父は、離婚が決まってしまったので、最後の別れに私の顔を見に来たのだということを、教えてもらった。なお、父親は、私が、高校3年の頃、なくなった言うことを、父の兄の子どもの輝彦さんが、夜、伝えに来たのを覚えている。生きているときに、1度会ってみたかった気もする。その父の墓は、仙台の方にあると、その叔父から、間接的に聞いた。

父の遺骨

 このことは、最後まで母から直接聞かないままになってしまった。ただ、祖母から、間接的にしばらくたってから聞いたことがある。祖母の話によると、父は、再婚もせず、独身で一生を終えたと言うことだ。元気だった頃は、「私には、2人の男の子がいる。」と親しい人に話をしていたらしい。「自分が亡くなったら、お骨を、私の兄の元に届けてほしい。」と言い、当時いくらかのお金を残して、亡くなっている。知らせを聞いて、その晩に母は、そのお骨が届けられた与野の家に出かけた。母は、そのお金は受け取らず、「これから仙台にあるお墓に埋葬するのだし、今までお世話になったこのお骨を届けてくれた人に、全部差し上げて下さい。」と言って帰ってきたらしい。「らしい。」と書いたのは、祖母からの又聞きだったからである。

本当に嬉しかった

★この時は、私は、まだ3歳になっていない頃のことであるが、鮮明におぼえている。この時のことを、最近政子叔母に聞いたのだが、「豊が、本当に嬉しそうにして、こたつのある部屋に知らせに来たんだ。」と、私が、本当に嬉しそうだったんだよと、教えてくれた。やはり、あの時のことは、やはり本当のことだったんだと言うことを、改めて認識できた。それにしても、志満おばあちゃんがいない時を狙って訪れた父のことを、今になって想像すると、ずっと、家の近くで祖母が出かけたことを確かめてから、私に最後の別れで、会いに来たのかも知れないと、今になって考えている。
★父の兄にあたる叔父は、離婚したのだが、私達家族とは、交流を続けていた。小さな株屋の社長をしていて、羽振りもよかった。何かちょっとした祝い事があると、私達家族を招き、ごちそうを振る舞ってくれた。お正月などに行くと、桁違いのお年玉をくれた。私と2歳ちがいの輝彦さんとは、交流があり遊ぶことがよくあった。私が、浪人して、大学に合格したときに、あいさつに行くと、大変喜んでくれた。当時鮨を食べるのは贅沢なことだったのだが、寿司屋のカウンターに行き、そこで叔父と一緒に色んな話をした。その店を出ると、靴屋に行き、革靴を買ってくれた。あの頃、この叔父と、もっと交流して、父のことを聞いておけばよかったと、今になって後悔している。何か、父のことを聞くことは、やめた方が良いと、自己規制していた。
★なお、自分のうちには、父親がいないと言うことはわかっていたが、それで寂しい思いをしたことは一度もなかった。母を含めて、賑やかな7人家族であり、狭いながらも楽しい我が家だった。母の帰りが遅いときは、政子叔母とせつ子叔母の間に入って、寝ることも何度かあった。哲一郎叔父さんには、時々釣りに行ったり、野球をしたり色々遊び相手をしてくれた。36年前(1982年)9月に、55歳の若さでなくなってしまった。
★あの頃、どこの家もそうだったかも知れないが、夜になると、天井裏で、ネズミが運動会をすることがたびたびあった。また、大きな家だったが、結構年月も経っていたので、大雨が降ると、雨漏りが、色んなところでおき、洗面器などをその下に置いた。また、よくあの頃は、停電が起きた。今みたいに、安全器があるわけでないので、ヒューズがとんで、停電になったのだ。また、自分の家だけでなく、近所全体が、停電になることもよくあった。

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