子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月2日(水)生い立ち・小学校時代

5月2日(水)生い立ち・小学校時代

再び教職の道へ

 天ぷら屋を辞めたきっかけは、その店の前を通りかかった小学校時代の恩師である吉沢先生に会った。その先生に、「先生になりたかったら、いつでも声をかけていいよ。」と親切に言われた。
★吉沢先生は、浦和の中学校の校長先生をしていた。その頃は、教員不足で、代用教員が多かった時代であった。やがて、北浦和小学校に就職できた。
★吉沢先生は、やがて浦和市立高校の校歌を作詞している。浦和市立高校が、甲子園に出て、大活躍した頃に、吉沢先生作詞の校歌が流れた。
★この頃のことは、私も時々北浦和小には、遊びに行ったり、プールに入れてもらったりして、懐かしい思い出になっている。なお、北浦和小で教えた子どもの何人かは、母の葬式に来てくれた。今年、75歳になっていた。
 戦後、何年か経ち我々2人の子どもたちを育てるために、再び教職の道に入った。最初は、5年生を担任した。6年生まで担任し、卒業させた。そこで、10年間いて、4回ほど卒業生を出した。戦後の大変な時期に、母は、必死に働いた。家に帰ってきてからも、ガリ版に向かって、テスト問題をカリカリと切ったり、テストの丸付けをよくやる姿を思い出す。私が5年生になったときに、母も5年生の担任になった。同じテストを時々やらされた。あまりよいできでないことが多かった。そんな時は、「何でこんな問題が出来ないんだい。私の子なのに。」と言われたりした。事実その学級の子どもたちは、特にすぐれている子どもたちであった。開成や慶応の中学に行くような子もいた。母が言うには、「この時のクラスが、最も優秀な子が多くいたね。」と言うのが、口癖だった。そんな子どもたちと比べられたりしたので、たまったものではなかった。また、母は、教えることが好きで、クラスのためならと、教育実践を大切にする人だった。じっさい、私や弟の宏は、母に見てもらうことは、ほとんどなかった。それほど忙しかったのかも知れない。

小学校入学の頃

 小学校は、与野町立本町小学校へ入学した。この学校には、政子叔母やせつ叔母や哲一郎叔父も学んだ学校である。まだ、戦争に負けて6年くらい切り経っていないので、校舎も粗末なものだった。でも、学校へ行くのが楽しみだった。となりの信ちゃんやその兄弟の重信ちゃん達と、いつも一緒に学校に向かった。冬の寒い日などは、となりのかっぱ屋の叔母さんが、石油缶の中に、燃えるごみと一緒にまきなどを燃やしてくれて、そこにしばらく暖まってから学校に向かったりした。歩いていくと、結構な距離である。子どもの足でも、30分近くかかったのではないかと思う。まだ、田んぼが結構あって、自然がたくさん残っていた。だから、帰りは、いつも道草をしながらとなりの信ちゃんと一緒に帰った。
★まだ、給食は始まっていなかったが、簡単なものがでた。脱脂粉乳といって、色は牛乳とあまり変わらないのだが、味は、ちっともおいしくなかった。少しずつ、おかずも増えていった。1週間に2回は、鯨の肉がよくでた。でも、みんなおいしく食べていた。

仲良しの信ちゃん

 ぼくの家に、仲良しの「信ちゃん」という友達がいた。そのこの家も父親がいなく、5人兄弟の末っ子だった。その子は、鼻の下がいつも黒かったが、なぜなのかがしばらく経って、すぐにわかった。それは、ちり紙がなかったので、新聞紙で鼻をかんでいたのである。したがって、鼻の下が、新聞の印刷の黒い印刷の字がつき、いつも黒かったのである。
 我が家も新聞紙をつかっていたが、ちり紙はあまり使わなかった。むしろ、トイレの髪につかった。かたかったので、手でもみほぐして、つかったのを覚えている。
 ぼくは、この信ちゃんといつも一緒に学校へ行った。学校に行く途中は、田んぼがまだたくさんあった。かえるや、ザリガニなどがたくさんいた。したがって、学校の帰りは、いつもしんちゃんと一緒になると、田んぼや川で道草を作って楽しんだ。30分くらいで家に着くのだが、1時間以上かけて、かえることは、けっこうあった。誘拐だ、交通事故だと言うことは、ほとんど心配なかったので、家の人も心配していなかった。のどかな自然の中で、楽しんでいた。家に帰れば、かばんをすぐに放り投げて、外に遊びに出かけた。空き地や広場が結構残っており、三角野球、すもう、缶けり、かくれんぼ、おにごっこ、ベイゴマ、メンコ、たこ揚げ、ビー玉と何でも楽しんで遊んだ。そういう空き地に行けば、友達がすぐに集まってきて、その場で、何をするかを決めて、夜暗くなるまで遊んでいた。

従兄弟の4人が仲良しだった

 猛ちゃんと私は、同じ年で、弟の宏の1才下が滋ちゃんだった。だから、この4人でお盆のときやお正月は、与野の家に集まるので、いつも楽しみにしていた。川越の叔母さんと一緒に滋ちゃんの2才下に恭子ちゃんがいたが、その子とは、あまり遊ばなかった。この男同士の4人が、いつも遊びの仲間だった。まわり将棋、金将棋、本将棋など必ずやった。本将棋は、猛ちゃんの方が強くて、いつも勝てなかった。その日に帰ることもあったが、叔母さんと恭子ちゃんだけ帰って、2人がとまることもよくあった。それがとても楽しくて、いつもたわいもない遊びをみんなで考えて遊んだ。猛ちゃんは、その頃ラジオの番組の江戸川乱歩の『少年探偵団』などを聞いていたので、チューニングの悪いラジオに耳を傾けて、みんなで聞いたりした。次の日になると、今度は、川越に僕ら2人の兄弟が泊まりに行ったりした。当時川越の家が、新しく建てたばかりの家で、玄関から入る廊下が、よくすべる廊下なので、靴下をはくと大変すべりやすかった。そこで、単純なすベリっこをして遊んだのも思い出す。また、川越の味噌汁は、みそが手作りみそで、与野の家の味噌汁とひと味違っておいしかった。帰りは、二人だけで帰ることもあったが母が迎えに来て一緒に帰ったりした。その頃の川越線は、ガソリンカーと言って、ディーゼルのガソリンで走る電車だった。また、時々SLの蒸気機関車が、時間帯によって乗ることが出来た。帰りは、母と3人で電車か汽車に乗るのだが、座席に座ると、母は、すぐに目をつぶり眠ることが多かった。その時の顔が、いつも淋しげな顔に見えたのだ。今考えれば、毎日必至になって生きていた母が、ほっとするのが、そんな時だったのかも知れない。私は、「お母さん、寝ているときは、淋しそうだね。」と言いたかったが、言わなかった。

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