子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月22日(火)生い立ち・平和教育その1

5月22日(火)生い立ち・平和教育その1

私を支えた平和教育

 教師になって7年間勤めた豊島区から、墨田区へ転勤した。隅田川の言問橋を渡るのは、生まれて初めてであった。橋の上の所々に、くろいシミがあった。それが東京大空襲の時に、橋の上で亡くなった人々の死体の油であると教えられたのは、それからかなり経ってからであった。やがて墨田区と江東区の2つの区が、東京大空襲の一番被害のあった地域と言うことを初めて知らされた。現在の言問橋は、建て替えて、新しい橋に変わった。その黒いシミのついたかけらを残そうと、今でも区内のいくつかの小学校に保存されているはずである。言問橋のたもとにあった小梅小学校の隅田川側は、奇跡的に火災を免れて、古い木造の建物が残っていた。戦前の建物が残っているということで、写真を取りに来るような人がいた。今は、改築などして、その頃のものは、ほとんどなくなってしまった。
 転勤して最初に担任したのは、五年生であった。まだ父母の中には、戦争体験者が何人かいた。文章表現力を高める指導を継続して進めた。6年の最後に、「年配の人から戦争体験を聞き書きする」ことに初めて挑戦した。

墨田区立小梅小 六年 男子

 母から、東京大空襲の話を聞きました。一九四五年三月十日は、亡くなった祖父の四十二回目の誕生日でした。そのため、いも、米、豆などを集めて、赤飯をたきました。その夜赤飯を食べて祝っていると、母のいやな空しゅう警報が鳴りました。しかたなく母達は、今の吾妻橋三丁目から業平の東武ガーデンに逃げました。祖父は、赤飯を持ち、母は、幼い妹をおぶって逃げました。途中の橋の所で背中の妹が、
「お家に帰りたいよ。早くお家に帰ろう。」
と泣きながら母に言ったそうです。今でもその言葉が、母の耳に焼き付いて離れないそうです。やっと東武ガード下にたどりつくと、今度は祖父とはぐれてしまいました。そうすると、また妹が、
「お父さんは、お父さんは。」
と言ったそうです。その先は、どうなったか、母の記憶にはありません。昔住んでいた四つ木に行くと、祖父と会えたそうです。母の戦時中の記憶は、これぐらいです。(大切なところ抜粋。)
一九七七年一月作
 東京大空襲の体験者が保護者の中に、何人かいると言うことも初めて知ることになる。

墨田区立小梅小  六年    男子

 ばあちゃん(母の母)は、朝鮮へキリスト教の教えを広めるために行っていた。母は、昭和20年には、六才でした。(略)昭和二十年八月十五日終戦。朝鮮の釜山から船で下関へ、それから九州の博多に帰ってきた。(略)母は、四人兄弟のうち、ただひとりの女の子であった。母は、男のかっこうをして歩いていた。それは日本はアメリカに負けた。それで日本にいるアメリカ兵が、ツッパラかって、日本の女をいじめるので、女は頭の髪の毛をかって、クリクリにして男のかっこうをしてごまかしていた。母も、例にもれず、そうしていたのだ。だから母は、どうにか助かった。 一九七七年一月作
 アメリカ軍の上陸に備えて、母親が小学校低学年の時に、頭を丸坊主にして男のかっこうをしていた事実は、衝撃的であった。。

母から聞いたおじいちゃんの話 墨田区立小梅小六年 女子

 私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、
「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、二年前の十一月十八日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和十八年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校二年生。おじいちゃんは、三十三才。母七才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が四年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和二十年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、一ヶ月後、戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、一ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、二百年も三百年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの三分の一くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、三日三晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学二年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。六年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って三年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、四十三才で死んだ。母が、高校二年で、母のお姉さんが、二十一才の時だった。おじいちゃんは、それから六十七才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
 「ノート二冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。 一九七七年一月作
 母親からの伝聞の聞き書きだが、祖父のシベリア抑留体験を、ていねいにまとめている。まだこのような実践が、子どもたちにできた時代である。体験者である祖父が生きていれば、103才になっている。兵隊生活で生死の中を彷徨った、体験の聞き書きは不可能に近い。昨年話題になったガダルカナル体験者の漫画家水木しげるさんも、今年89才になっている。 この子どもたちを卒業させたあと、何年かは低学年の担任になった。

先生から東京大くうしゅうの話を聞いたこと

墨田区立小梅小学校 一年 女子
 三月十日のことでした。三時間目の社会の時、えの本先生が、
「きょうは、何の日かしってる人。」
と、みんなに聞こえるような大きな声で言いました。わたしは、
(何の日かなあ。)
とおもったけど、お母さんにも聞いてなかったのでわかりませんでした。あらいさんと大つかさんが、手をあげました。えの本先生が、
「あらいさん。」
といって、あらいさんのところを、ひとさしゆびでさしました。あらいさんは、立ちあがって、
「はい、東京大くうしゅうの日です。」
と言いました。わたしは、
(きょうが東京大くうしゅうの日か。)
とおもいました。わたしは、東京大くうしゅうの本をよんだことをおもい出しました。えの本先生が、
「これから、東京大空しゅうのしゃしんを見せます。」
と言って、げんこうようしぐらいの大きさの白黒しゃしんを見せてくれました。
 上の方から見たすみ田くは、田んぼみたいで、草がチョコチョコとはえているみたいでした。コンクリートのほかの木のいえは、やけてぜんめつしていました。マツヤデパートのほうは、まるでむしやきみたいでした。どうろは、人げんのしたいでゴロゴロでした。えの本先生が、
「人げんのしたいが、いっぱいでも、この人たちは、へいきだったんですねえ。」
と、しゃしんにうつっているあるいていた人を見ながら言いました。
 土手のほうのすみ田川には、くうしゅうの時にとびこんだ人たちが、したいになってながれていました。赤ちゃんをおんぶしたおかあさんがにげていると中、ばくだんにあたって、赤ちゃんをおぶっていたところだけ白くなっていて、ほかはぜんぶ、まっくろになっていました。赤ちゃんもまっくろでした。きゅうにしたいのしゃしんが、アップになりました。そのとき、わたしは、むねがドキッとして、きもちわるくなって、すぐ下を向いてしまいました。みんなは、
「やだあ、きもちわるうい。」
と、ワイワイガヤガヤがうるさくなりました。えの本先生のかおは、とてもかなしそうなかおをしていました。わたしは、
(もう、せんそうなんておこるな。)
と心の中で言いました。そして、
(せんそうは、こわくておそろしいなあ。)
とおもいました。わたしが大きくなっても、せんそうは、ぜったいにおこってほしくないとおもいます。
 三じかんめがおわった十分休みに、一年一組の男の子たち十人ぐらいが、
「せんそうはんたい。ぼうりょくはんたい。せんそうはんたい。ぼうりょくはんたい。」
と大きなこえで、かた手をあげながら、一年一組のきょうしつをぐるぐるあるきまわっていました。 一九八三年 三月作
83年版日本児童生徒文詩集(百合出版)より
 戦争体験者がほとんどいなくなってきたら、このように紙芝居・写真・ビデオなどの映像から考えさせるのも、有効な方法である。同時に文学作品からの接近もある。各学年2~3作品は、図書館などにそろえて紹介することも大切である。

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