子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月3日(木)生い立ちの記その5

5月3日(木)生い立ちの記その5

相撲は、ラジオで聞いた

 僕が、相撲に関心を持つようになったのは、栃若時代の少し前のテレビが少しづつお茶の間に、普及してきた頃のことである。それまでは、ラジオで相撲中継を聞いていた。前に書いた、力道山が外人レスラーを、空手チョップで倒していた頃の少し後になる。その頃、活躍していた力士は、東富士・千代の山・杤錦・鏡里・吉葉山らがいて、東富士が引退をして四横綱時代の話しである。松登・朝潮・信夫山・大内山・出羽錦・若乃花・北の洋・安念山・若羽黒・成山・鳴門海などという名前がすぐに浮かんで来る。大鵬や柏戸などが出てくるずっと前の話しである。最初は、ラジオに耳を傾けながら、熱心に聞いた。その頃いた行司で印象に残っている人でひげの伊之助と言う方は、良く覚えている。この頃は,今みたく定年制がまだない頃で、結構な年齢だったが、なかなかの貫禄であった。この行司さんが、栃錦対北の洋戦で、土俵際の際(きわ)どい勝敗を、北の洋の勝ちとした。しかし、物入りがつき行司差し違いで、横綱栃錦の勝ちとなった。今見たく、ビデオがある時代ではないので、検査役と行司の眼だけがたよりの時代である。これに納得せず、長い事土俵の上で話し合いをしていたのを良く覚えている。僕は、行司の方が正しいと見ていたが、結局差し違いで伊之助は謹慎処分(きんしんしょぶん)になって、しばらく休場してしまうのであった。この時の、理事長は、69連勝の双葉山の時津風であった。双葉山は1912年(明治45年)生れで、もう亡くなったが、いま生きていれば106才と言うことになる。連勝記録はいまだに破られていない。1年に1場所か2場所で、11日間だった気がする。そういう時代の、69連勝だから、今とは比べものにならないくらい体調管理が大事になる。その後、出てきた横綱で強いと思われるのは、大鵬・北の湖・千代の富士・白鳳位であろう。

近所の空き地が遊び場

 あの頃、家に帰ってくると、近くの空き地に行き、良く相撲を近所の友達ととった。今見たく、アスハルトにおおわれていなかったので、土俵もすぐ作り、転んでも痛みはそれほど強くはなかった。雨が降ると、屋根つきの遊び場があり、そこに子供達は、集まってきて相撲大会をした。あの時、一緒に遊んだ子供達の集団は、上は中学生から下は僕ら小学一年生までであった。遊びを、組織してくれるのはガキ大将である子が、中心になって面倒を見てくれた。あの時の楽しさは、今でもよく覚えているし、僕が一番輝いていた時かもしれない。

ラジオが娯楽で1番    

 僕らの年令の世代の人達は、テレビよりラジオからの情報が最初であった。もっとも、テレビなどと言うものは、自分達の生活の中にはなかった。いまだに、新聞の「テレビばん」を見る時、「ラジオばん」と言うことの方が、なじみ深い言葉になっている。ラジオも今のように、声がはっきり聞こえるのでなく、はっきり聞き取りにくいものであった。どこの家にも、ラジオがあり、子供も大人も楽しみな番組はいくつかあった。僕は、祖母の影響(えいきょう)もあって、落語や漫才を聞いたり、浪曲などを聞いていたりしていた。あの頃、お金を使わない娯楽(ごらく)と言ったら、夕食後家族でラジオを聞くのが一番であった。また、じょうずで個性のある落語家がけっこう出てきた。三遊亭円生、桂文楽、金馬、桂枝太郎、金原亭馬生、柳家小さん、鈴令舎馬風、志ん生などと言う名人がたくさんいてそれぞれ、良い出し物を聞くことができた。まだ、あの有名な林家三平などが出てくる前の時代である。そのほか、今かすかに覚えているのが「一丁目一番地」「お笑い三人組」「三つの歌」「話の泉」をNHKでやっていた。民放では、「素人(しろうと)寄席」を牧野周一と言う司会者がやっていた。また、「赤胴鈴之助」に吉永小百合が出てきて、それ以来ずっとあこがれていた。

テレビの思い出

 やがて、テレビのことが少しずつ話題になったりしてきた。でも、どこの家にもテレビはなかった。それは、街頭テレビと言って、駅の近くの人が一番に集まる広場に、一台だけそなえつけられていて、それを、大勢の人達が見ていた。おそらく、千人から二千人の人々が、一台のテレビに向かって、夜暗くなってから、見にいっていたのである。それは、日本国中の人々が、そんなふうにして見ていたのである。僕も、大勢の人々の中に入って、そのテレビの画面を吸いつくようにしていて見ていた一人であった。

あこがれの人「力道山(りきどうざん)」

 夜の街頭テレビで一番印象に残っているのは、プロレスである。太平洋戦争に敗れ、日本中の人々が、心も体もズタズタにされていた時に、力道山が「空手チョップ」で外国人レスラーを徹底(てってい)的にやっつけてくれるのである。シャープ兄弟、ダラシン、オルテガ、キングコング、プリモカルネラなどと言うレスラーを次々に倒していくのである。その頃活躍した日本人レスラーとしては、遠藤幸吉、豊登、東富士などが出てくる。かなり前に亡くなった馬場や、まだ現役のアントニオ猪木が有名になるずっと前のことである。やがて、金持ちの家にテレビが一台入るようになってくる。そうすると、僕たち小学生は、何人かの友達を誘(さそ)って、夕方になると、「テレビ見せてください。」と言って、一時間くらいおじゃまするようになった。土曜の夜9時頃から、TBSで「ひまな氏飛び出す」と言う30分番組をやっていて、ちょっとした推理番組なので当時人気番組であった。それは、2週間で解決する「前編・後編」番組なので、毎週かかさないで見ないと、すじが分からなくなってしまうのである。その家の人も、親切に僕ら子供達を、家に上がらせて見せてくれたのである。矢野さんという家だった。そこには、娘さんが2人とあっちゃんという男の子がいた。

自分のうちにもテレビが

 やがて、どこの家にもテレビが入るようになり、自分の家でゆっくり見られるのが、「豊かさ」の一つであった。小学生の頃は、買えずに確か、中学二年生頃に、買ってもらった記憶がある。その頃は、テレビにふたがついていて、かんのんびらきと言って、左右に開くのであった。また、映画を見るみたく電気を消して回りを暗くして、全員がテレビに向かって姿勢を正して見るのであった。相撲(すもう)の方も、テレビ中継されるようになって、人気もさらに出てきた。千代の山・鏡里・吉場山・栃錦の4横綱がいた頃である。栃若時代の前である。あの頃の番組では、「私の秘密」と「ジェスチャー」と言うのが視聴率三十パーセト前後をしめる超(ちょう)人気番組であった。「私の秘密」は司会の高橋恵三アナウンサーの語りがうまかったことと、ゲストで出てくる人が最後に「思い出の人」と、久し振りに会う所が劇的な幕切れで終わるのであった。今、1つ印象に残っているご対面は、金田一京助さんの対面シーンであった。たしか、若いころ、アイヌ語の研究で、北海道に行っていたときのアイヌの子どもとの対面だった気がする。60年以上前のことである。「ジェスチャー」の方は、水の江滝子と柳家金五楼のキャップテンが中心になり、ゲスト4人ずつ招いての争いになる。ことに、柳家金吾楼は、抜群(ばつぐん)の演技でみんな大笑いして見ていたのである。3人組と言えば「お笑い3人組」という番組も、NHKテレビで毎週放送された。落語家の三遊亭小金馬(現、金馬)、講談の一竜斎貞鳳、物真似の江戸屋猫八の3人組が登場する。最初は、ラジオ番組だったが、テレビに切り替わった。トニー谷と言う人もソロバン芸で人気があった。「あなたのお名前なんて言うの?」というトニー谷さんの呼びかけに、2人の恋人同士がでてきて自分たちの名前を最初に紹介して始まる。「雲の上の段五郎一座」の舞台は、祖母と見ながら大笑いした覚えがある。八波むと志さんと三木のり平さんの掛け合いは、おなかが痛くなるほど笑って見ていた。八波さんは、のちに交通事故で亡くなってしまった。元気なときに由利徹、南利明、八波むと志の3人で「脱線トリオ」というお笑いも楽しかった。

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