子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月5日(土)生い立ちの記その7

5月5日(土)生い立ちの記その7

充実した高校生活

 中学では実力が発揮できずに、高校は蕨高校に合格した。当時、蕨高校は創立4年目の学校であった。最初は、町立蕨高校だった。3年目か4年目の時に、県立に移行した。
 新設高校のにおいが至るところに感じた。運動場が瓦礫がたくさん埋まっていて、それを全校生徒で掘り返すような作業が学期に1回くらいあった。私が入学したときは、5クラスだったが、そのあとの学年からは、8クラスになった。先生方は、熱心な先生方が多く、生徒一人ひとりに愛情を込めて教えてくれた。学期に1回実力テストがあり、学年30番以内の生徒の名前が張り出された。私は、そこに名前が出たくて、かなり勉強に熱を入れるようになった。数学が、代数と幾何に別れていた。どちらも解けると、楽しくなってきた。国語は、関根みよ子先生が、大変熱心な先生で、補習授業などもしてくれて、学習に関心がある生徒は、随分世話になった。おかげで、成績も少しずつ伸びて、学年実力テスタなどに、上位に入るようになった。
 また、文化祭には、クラスで熱を入れて、必ず出し物を考えた。2年生の時には、「新竹取物語」を演じることになった。女役のかぐや姫は、私が演じた。その脚本は、島津嘉準君が担当した。夏休みになると、毎日のように学校に行き、脚本のことを、スタッフで考えた。スタッフのメンバーは、斉藤一夫君、島津嘉準君と私の3人だった。男子全員が、その劇の役に就き、当日を迎えた。全校の生徒がその劇を見てくれて、大好評だった。私は、かぐや姫を演じながら、観客が大笑いしてくれることが、うれしくてたまらなかった。島津君は、芸術はだの人で、絵を描くのが好きだった。文章を書くのも上手く、脚本は、彼が手がけた。芸大を目指していたが、結局大学は行かずに、一人で絵の勉強をしていた。収入がないので、色々な仕事で、家計をつないでいた。やがて、結婚し子どもができ、子どもの好きな昆虫を、木彫で彫った。それも、トンボやチョウチョを天井に届くくらいの大きさのものを作った。だんだん有名になり、20年くらい前に、久米宏さんのニュースステーションで取り上げられたりした。アメリカのニューヨークなどに行って、個展を開いたりした。1年前は、東京新聞で取り上げられ、1面を埋め尽くすくらいの記事で紹介されていた。斉藤一夫君は、ストレートで東京教育大に合格した。彼は、学生運動にエネルギーを費やし、ヘルメットをかぶり、運動に燃えていた。卒業し、小さな出版社を自分で作り、ついこの間まで、そこで働いていた。
 3年生になっても、文化祭は、さらに充実したものを作った。戦争をテーマにしたものだった。歌あり、踊りあり、戦争中の兵隊生活ありの物語だった。最後に戦争に負け、女の人が、場末で、淋しく客集めをしているところで幕になる。この時の女役も私が演じた。この時の経験が、その後の教師になってからの「学芸会」で子どもと劇を作るのに随分役立った。こういうことに熱を入れていたので、大学の受験勉強は完璧ではなかった。

東京オリンピックでピークに

 1964年、オリンピックが東京で行われた。どこの家もオリンピックを見るために、テレビを買い求めた。日本中がオリンピックで浮かれていた時に、僕はテレビなど見ずに、毎日暗い日々を過ごしていた。それは、大学受験にすべて落ち、予備校に通いながら一年後の合格を夢見ていたのであった。ラジオとテレビは、ぼくの生活といろいろな形で関わってきた。今でも、ラジオも時々聴いている。朝の満員電車の中では、ラジオを聴きながら、通勤していた。テレビは、報道番組を中心に見ている。

1年間の浪人生活

 やがて、大学は、猛ちゃんは、東京工業大学に現役で合格した。私は、希望の大学にすべて不合格になり、1年間浪人生活を送ることになった。その年は、東京オリンピックの年であった。10月10日の開会式に向けて、日本中が大騒ぎしていた。しかし、私は、浪人生活で、必至であった。1年間浪人したからと言っても、次の年に合格するとは、限らない。武蔵予備校に1年間通った。予備校で1番力がついたのは、社会科の日本史と理科の生物の暗記教科が力がついた。数学と英語は、少し力がついた程度だった。当時、国立大学の受験科目は、5教科と決まっていた。国語・数学・英語・理科・社会だった。理科は、科学・物理・生物の中から1つ選ぶ。社会は、日本史・世界史・地理の中から1教科選ぶことだった。私立は、3教科が大半だった。国語・英語は必須であり、文科系はそれに社会が加わり、理科系は、それに理科が加わった。いずれにしても、5教科を受験するので、受験勉強は大変だった。浪人生活は、あまりいい思い出はない。午前中家で勉強し、午後になったら出かける方を選んだ。合格発表を母と一緒に見に行ったのだが、自分の番号があったときは、母に飛び付いて喜んだことを覚えている。まだ自分のうちに電話がない頃で、近所の宮尾さんのうちから、祖母に連絡したのを覚えている。

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