子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月5日(土)生い立ち・大学時代

5月5日(土)生い立ち・大学時代

大学はバスケットボールに青春をかける

 私は、埼玉県の浦和に長い事住んでいた。中学校も家から歩いて十分位の所に通っていた。クラブ活動は、バスケットクラブに入った。途中でバレークラブに入ったりしたが、高校になってふたたびバスケに入った。二年生の途中まで心も体も、ボールを追って過ごした。やがて、一年間の浪人生活の後、大学に何とか合格できた、4年間なにか一生懸命になれるものはないかと考え、結局バスケットに入ることに決めた。大学が我が家のすぐそばにあったりしたので、通うのは、いつも歩きか自転車のどちらかであった。休講(きゅうこう)と言って、授業がお休みの時は、家に帰って一休みをしにいく事もあった。1965年入学であるから、今から63年前の話になる。クラブは、授業の終わった後、午後4時過ぎから、7時くらいまでの3時間近く、毎日練習した。練習内容は、準備体操から入り、パス・ドリブル・シュートの三つの内容を組み合わせた物を色々織(お)り混ぜてやった。コーチは特にいなく、時々卒業した、先輩が見にきてくれた。部員は、15人位いた。運動部は、上下の関係がやかましいところで、言葉使いやあいさつをうるさく言われた。練習が一番厳しかったのは、夏の合宿であった。暑い夏にやるので、涼しい群馬県や栃木県の方へ出掛けた。合宿代は結構お金がかかるので、アルバイトでかせいだ。デパートの中元の配達は、大変だったが結構なお金になった。合宿は、一週間くらいだったが、朝から夕方までボールをおい続ける。3日か4日くらいたつと、足が棒のようになって、筋肉がつかれてきて、体を動かすのも気力でやる。練習中は、いつも声を出してやるので、一日の練習が終わるとのどもからからになる。最近の運動は、途中で適当な水分をとるというのが当たり前であったが、この当時は、途中の水分は禁止であった。夜は、ミーテイングと言ってその日の反省をする。
 とにかく練習もきつく、練習前と後では、体重が3~4キロくらい減る。汗が相当出ると言うことだ。この練習を、4年間毎日やったお陰で、体力的には、大きな自信になった。どんなに厳しい練習も、このときのことを思い出すと、いつも乗り越えられる。練習後の水が、本当においしかったのも忘れられない思い出である。
 私が大学1年生の時の3年生は4人いて、シュートドリブル、パスがみんな上手かった。私が2年生の時に、関東甲信越大会が行われた。そこで、見事に優勝できた。4人とも教育学部の体育科に所属していた。私が3年生になると、教育学部以外に、経済学部、理学部、と他の学部の生徒が入部してきた。結構上手かったのだが、理学部の人たちは、実験が多くなり、途中でやめていく学生も何人かいた。私は、4年間そんな気持になることはなく、卒業するまで続けることが出来た。
 あれから、体重もずいぶん増え、筋肉もふやけておなかも出て、ちょっと悲しい体になってしまった。学生の時の体重より、ちょうど十キロ増えたことになる。

卒論で苦労したこと             

 私の担当は、石水照男教授だった。もう亡くなってしまったが、統計地理の専門家であった。男子4人女子4人が、先生の指導を受けることになった。しかし、私は、バスケットの方にエネルギーをつかっていた関係で、教授の所に相談にも行かず、自分の自力で研究テーマを決めて、それをまとめることにしていた。「埼玉県における、平地林の分布とその利用状況」というテーマだった。県庁の都市計画課に行って、平地林の分布面積の統計を見せてもらったり、それをどのように利用するのかを伺い、問題点などを考えて、自己流でまとめてみた。枚数的には、50枚程度にまとめたのだが、誰の指導も受けてなかったので、最後に教授に提出したときに、かなりの書き直しを言われて、これでは受け取れないようなことを言われてしまった。何とか書き直しなどをして、ギリギリ認めてもらった。だから、卒論には、あまりいい思い出はない。

心を奪われてしまった女性

 最後に卒論仲間と、一緒に軽井沢にスケートに行ったりして楽しんだ。石水教授も含めて、卒業旅行を企画した。伊豆下田の「えりか荘」に1泊の旅だった。その旅が、本当に楽しかった。女子の中でS・Aさんという素敵な人がいた。私は、その人に完全に心を奪われてしまった。男子の何人かも、同じ気持ちだったに違いない。そのくらい素敵な子だった。一度、そのメンバーが、我が家に遊びに来たこともあった。また、彼女は岩槻に住んでいたので、S君と一緒に彼女の家に強引に遊びに行ったことも思い出す。そこで、鮒又のウナギをごちそうしてくれた。
 岩槻の鮒又と言えば、当時有名であった。なぜ、知っていたかというと、この鮒又の家とは、祖母の旦那が親戚だったのである。だから、祖母が亡くなったときには、この鮒又から叔母さんが見えていた。
 その後卒業し、それぞれ就職した。K君は、江戸川区へ。H君は、板橋区へ。S・Aさんは、北区の小学校へ決まった。学校が決まってから、S・Aさんに連絡して、池袋で会いたいと話をもちかけたら、OKしてくれた。お寿司屋に行った記憶がある。初めての担任になり、お互いに色んなことをおしゃべりして、別れた気がする。その後何回か、池袋で会った気がする。何回目かのデイトの時に、「今、職場で、警備員をしている方に声をかけられているの。とても気が合うの」というような趣旨の話をしてくれた。私は、その時に「良いんじゃないの。」というような返事をしてしまった。多分、一応私と付き合っているから、私の気持ちを確かめたのに、そんな対応をしてしまったのである。「それって、私と、お付き合いやめると言うこと。ことわってよ。」といえば、彼女は、私と付き合うことを続けたはずなのだ。それを、そんな返事をしてしまったために、彼女の心は、私から離れて行ってしまった。その年の12月に私が、豊島区のバスケットの大会で、ひざをひねって大けがをしてしまった。その時に久しぶりに、彼女に電話し、今三楽病院に入院していると連絡したら、すぐにお見舞いに来てくれた。2ヶ月の退院生活から解放されて、家に戻った。すぐにお礼をしたいので、会いたいと連絡したら、「もう会えません。」という返事だった。でも、どうしても会いたいからとお願いして、やはり池袋で会ってもらうことにした。それは、お別れの会になってしまった。あの時、私の鈍感な返事の結末だった。

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