子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月6日(日)生い立ち・千香の誕生

5月6日(日)生い立ち・千香の誕生

すばらしい先輩教師がおられた

 私と一緒に、この学校へ転勤してきた先生が、松浦先生だった。私は、この先生から、たくさんのことを教えていただいた。朝は、7時過ぎには学校の職場に着いていた。そこで、その日の授業の教材研究をし、みんなが出勤する頃は、職員室で、硯の墨をすって筆で字の練習をされていた。またときには、校庭を一人で走って体を鍛えていた。子どもたちともよく遊ぶ先生だった。放課後は、我々と一緒に職員スポーツを楽しんだ。卓球の達人で、誰も勝てる人はいなかった。その他、職員スポーツは、何でもみんなと一緒に楽しんだ。バレーボール、野球、サッカー、バスケット、卓球と何でも楽しんだ。汗をながしたあとは、ときには職員室で、冷たいビールをみんなで飲みあった。飲みながら、必ず「教育談義」になる。その日のクラスの子どもの話。何でも自由に語り合った。この時に出る話が、わたしには、一番勉強になった。ときに話が長くなりそうになると、誰かが「外で飲みながら話そう。」となり、池袋の近くの飲み屋に場所が動いた。そこで色々な約束事が決まった。例えば、「明日からバスケットの早朝練習をしよう。何時に集合ね。」と提案される。提案者は、いつも年長の松浦さんだった。だから年下の鈴木さんや石谷さんや中嶋さんや私は、そのことに同調する。「プールで1万メートル泳ぎっこをしよう」夏が終わると、「校庭のトラックを毎朝授業前に、10周以上走っておこう。」「卓球を毎朝やろう。」などと言うことが決まり、みんなそれに同調して楽しんだ。私が、池三小にいた7年間は、何かの目標に向かってみんな走り続けた。正月になると、そのメンバーの家を持ち回りで「新春放談」として楽しんだ。この会は、私が墨田区へ異動してからもしばらく続いた。

酒も飲んだが、教育談義も多かった

 鈴木宏達先生からは、いつもお酒を飲みながら、組合の話、教育実践の話、何でも語り合った。1軒めでかなり飲んでいても「もう1軒行こう。」と誘われると、断らずに同行することがたびたびあった。そういうときは、鈴木さんの家までタクシーに乗って送り届けるのであった。奥さんがでてきて、「よかったら、あがって下さい。」となり、またしばらく話しに弾むのであった。奥さんも慣れた人で、「すみませんね。榎本先生。」といつも申し訳なさそうにあやまるのであった。今でも思い出す懐かしい出来事がある。それは、夏休みに、鈴木先生の提案で、東京から、九州の博多まで、新幹線でなく普通列車に乗り継いで、1週間くらい旅をした思い出がある。まさに「弥次喜多道中」だった。佐賀県の日教組の定期大会を傍聴したりした。会が始まると、天井からガスボンベが降りてきて、組合員の人が、「ああ!」と言ってその場が離れた。右翼が前の晩から天井裏に潜んでいたらしい。すぐに取り除いて、会が始まった。たしか宮之原委員長の時代だった。書記長か書記次長が、槙枝元文さんだった。日教組が、最も強くなる頃のことだった。最後は、博多の昔の職場で一緒だった人の家に泊めていただいた。大変な美人の女性だった。おそらく鈴木先生の好きだった人ではなかったのではないだろうかと、勝手に推察した。若い私が一緒だったので、何の抵抗もなく泊めていただいた。その後、鈴木先生とは、「滝の会」や国分先生の「こぶし忌」の会などには、亡くなるまでお付き合いしていただいた。
 このほかに、音楽教育に熱心だった中嶋一成先生。どんなときにもお付き合いしてくれた石谷勝治先生。この先生方以外に、組合意識の高い先生方が、たくさんおられた。

千香の誕生

 結婚して、子どもがなかなかできなかった。10年間も、出来なかった。もう、我々夫婦には、子どもが出来ないんだろうと、あきらめて、2人だけの人生設計を考え始めていた。ところが、ハレー彗星のように、我々夫婦に子どもが出来た。それが初めてわかったのは、柳島小学校で、授業をしているときに、「家から電話です。」教室に連絡が入った。職員室に降りていくと、「何だか、はっきりしてないんだけど、赤ちゃんが出来たみたい。ごみかも知れないけど。」と言う典子さんの声だった。その日は、深町さんと飲む約束をしていたので、たしか曳舟かどこかで飲むことになっていた。飲みながら、「まだごみかも知れないけど、子どもができたと連絡があった。」と伝えると、深町さんは、「それは良かった。」と言って、一緒に乾杯した覚えがある。
 それから1年、板橋の病院で生まれたので、次の日に、蕨のおばあちゃんを車に乗せて、2人で見に行った。初めての対面の時に、千香の片目は、まだ完全に開いていなかった。それを見て、「片目のジャックだ。」とおばあちゃんが声を出して、笑った。病院から退院すると、しばらくは、蕨の家で、寝起きしていた。私は、毎日のように、蕨によって千香の様子を見に行った。夜泣きが激しくて、典子さんは、寝不足だった。千香が生まれて、蕨のひいばあちゃんが寝たきりだったのに、元気になったことには驚いた。私だけ、一人住まいであった。1ヶ月くらい過ごして、川口の家に戻ってきた。
 典子さんは、1年間育休をとったので、毎日家で育児に関わっていた。今でも思い出すのは、千香を背中におぶいながら、台所に立っていたときの姿が、本当に幸せそうに見えた。蕨のおばあちゃんは、千香に会いたくて、蕨から自転車に乗って、よく会いに来ていた。土曜日や日曜日になると、こちらから蕨に出かけた。玄関を開けて、我々を迎える、おばあちゃんの笑顔が忘れられない。1才の誕生日の時に、浦和の叔母さんなどがお祝いに来てくれた。せなかに1升のお餅をしょって、歩かせたら、フラフラして歩いてみんなで大笑いしたのも懐かしい。その千香も、今年で29才になる。早く結婚してほしい。

日本作文の会への参加

 教師になって二年目の夏、大須賀先生に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。全体会の開会式は、2000人以上の人々が、手弁当で集まってきた。高学年の詩の分科会に参加した。世話人は、江口季好さんと小沢勲さん。提案者は、京都の岡本博文さん。感動的な詩をいっぱい紹介して下さった。昼休みの休憩があり、午後の会が再開された。そのときに、世話人の小沢勲さんが、岡本さんの実践への感動を、詩に仕上げて、読み上げてくれた。昼休みの短い時間に詩を書いてきて読み上げた小沢さんにビックリしてしまった。岡本さんから、教師も感動するような本を読んだら、すぐ読み聞かせを勧められた。
 野球帽をかぶって、参加していた小沢さんの姿が懐かしい。江口さんも、小沢さんも、岡本さんも、もうこの世の人ではない。
 その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、一気に読み終えた。原爆投下後に書かれた子どもの作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。その中の一人の石田弘子さんは、小さいときに交通事故に遭われ、大変大きな傷を受けた。戸お母さんから、家庭訪問のときに説明を受けた。詩の表現がすぐれていた。
忘れられない詩を書いた子供達

原 爆   豊島区立池袋第三小学校  五年 石田 弘子

原爆のけむりは、
人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
「本当に、悪かった。」
と言っているんだ。
でも、広島の人のくやしさは、
今でも消えない。
きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
一人残された子どもは、
きっと、戦争をとめるだろう。
その時の気持ちがわかるなあ。
きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
1970年 10月31日発行 一枚文集 「太陽の子23号」より
 詩の書き方など、たいして教えなかったのだが、「人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。」といきなりの書き出しが気にいった。読み聞かせをした作文の事実に、石田さんは、感動してくれたのだ。作文や詩を表現するのが人一倍優れた子であった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて一枚文集にして、クラスで読み合った。。
 子供達に詩や日記や作文を印刷して、それをみんなで読み合うと、次の機会になると、文章表現力がどんどん伸びていくことがわかった。
 わたしが、子どもと取り組み始めた最初の文集が、「太陽の子」と言う文集である。今でも、時々懐かしくなると、開いてながめる。閉じたわら半紙の色も、だいぶ色あせ、鉄筆で書いた字も薄くなって読みずらくなってしまったページもある。私にとっては、他の文集とともに宝物の一つになっている。この文集が、私の作文教育のスタートであった。

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