子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月6日(日)生い立ち・社会人へ

5月6日(日)生い立ち・社会人へ

豊島区立池袋第三小学校

 大学を卒業し、初めての職場が、決まった。背広にネクタイを締めて、希望に燃えて、学校の門をくぐった。4年生の担任になった。そこの職場は、9割以上の人たちが組合員だった。週に1回職員会議が開かれた。会の終わりごろになると、井上憲治先生が、黒板に「職場会を開きます」と書いていた。職員会議が終わると、席を立つ人は、校長、教頭と幾人かの人が、出ていった。やがて、その会が、組合の会議であることが自然にわかった。職員会議で、堂々と発言をする先生方が、ほとんど組合員の方だったのだ。
 私は、この学校で、教育実践の様々なやり方を学んだ。同学年に日本作文の会の会員だった大須賀敬子さんがいたことも、その後の人生に大きな影響を受けた。その先生から、作文教育の大切さを教えていただいた。一枚文集の作り方、日記の書かせ方、班日記のやり方、赤ペンの入れ方、お誕生日特集、詩のノートすべて教わった。

何度かの巡り会いのあとで

 それは、豊島区の互助会のスキーを楽しむ2泊の旅での出来事であった。同じ池袋第三小学校の中嶋一成さんの誘いで、初めてスキーに参加することになった。何しろ初めてのことであったので、スキーウエヤ-から板、ストック、手袋を、お茶の水までまで中嶋さんに付き合ってもらい、購入した。
 何しろ初めてのスキーだったので、スキー靴を家から履いて、池袋の集合場所まで出かけた。我が家から、浦和の駅まで歩いて行くのに、大変な時間がかかった。その時、スキーというのは、大変なんだなあと感じた。リュックに入れていくことは知らなかったのだ。バスの1番前の方に席をとったことは、今でも覚えている。おそらく、私の姿を見て、こんな場所から、スキー靴を履き、スキーの服装で、バスの乗り込んでいたのだから、目立ったに違いない。

2度目の出会い

 その時、以前組合の作文講座に参加してくれた、巣鴨小の女性が、同じツアーの参加者であった。初めて会ったときは、おかっぱのイルカさんみたいな女性で、何とも思わなかったのだが、2度目のその時には、髪の形もちがいあか抜けて見えたのである。スキー教室に入ったときには、偶然同じ教室であった。何しろ、向こうは、初心者でなく、何度か経験していたので、滑り方もかっこうよくて、すぐにその女性に魅了されてしまった。1日目にスキーを終えると、偶然その彼女は、職場の人と2人で来ていて、隣の部屋だった。私は、中嶋さんに頼んで、その部屋に行き、トランプか何かをしようと誘った。部屋をノックしてその旨を伝えると、何の抵抗もなく、部屋に入れてくれた。多分楽しく、トランプをしたに違いない。2日目は、彼女とだけしゃべりたかったので、それとなく伝えて、2人だけで、スナックのような所に行き、おしゃべりをした。当時、豊島区教職員組合に加入していたので、組合の話もした。その時に住所を聞くと、蕨に住んでいると言うことで、浦和に住んでいた私と割合近いことがわかり、電話番号などを聞いてその時は、別れた。

スキー教室を終えて

 家に帰ってから、彼女と連絡を取りたくて、電話をした。それで、今度は、池袋の喫茶店で会うことにした。どんな話をしたのかは、もう忘れてしまった。その時に、彼女の方から、組合加入のために誘われたのかも知れないと思ってきてくれたのだ。まだ、彼女は、1年目で、非組合員であった。次にあう日を決めて、別れた。だんだん慣れてくると、週に、2~3回は、会うようになっていった。そして、いつの間にか結婚をしようという関係になって、5年間お付き合いが続いた。すぐに、結婚できなかったのは、同居するかどうかで、母親と揉めていたからである。最初に会ったときは、私は、29歳で、彼女は22歳だったと思う。5年も待たしてしまったので、遂に、同居は無理だと考えて川口に安いマンションを購入し、そこに住むことに決めた。それにしても、5年間も待たしてしまい、それまで待っていてくれたことは、本当にありがたいことであった。普通なら、自分から離れていってもおかしくない長さだった。

仲人は、国分一太郎さん

 「榎本君。結婚するなら、仲人をしてあげるよ。」と約束していた。結婚式場もきまり、2人で、国分さんの家にあいさつに行った。田舎のうまいものを準備して待っていてくださった。「仲人をするのに、お二人のことを紹介するので、簡単な文章を書いて、私に送ってください。」とその時に自分達の簡単な「生い立ちの文章」を書いてくる宿題を課された。それぞれが、原稿用紙4枚程度にまとめて、何日か後に手紙で送った。
 あとからわかったことだが、国分さんは、結婚式前に兵庫県の教研集会に記念講演で出かけていた。運悪く、帰る日に台風が西日本を直撃すると言うニュースが伝わり、新幹線などは、とまってしまった。講演が終わった前の日に、駅のホームのベンチに座り、電車が動くのを待っていたそうだ。そのことを、結婚式当日、私達を紹介する前に、感動的に話してくれた。「やっと1番列車が動き出し、新幹線の窓から、富士さんがはっきり見えたとき、何とか結婚式に間に合う、よかったなあと思いながら、今ここに立っております。」と言う趣旨のあいさつから始まった。そばで聞きながら、上手い話をされるなあと思いながら聞いていた。スピーチの最後の方で、国分さんは、当時日教組の「教育課程審議会」の委員であった。各教科の役員から、その教科の特徴などを調査し、何を大切に育てるかのことを調べていた。そこで、「榎本君のお母さんからは、教育課程の時には、たくさんのことを教えていただきました。」という趣旨のことまで入れて話をしてくれたのである。
 最後に、この忙しい中で、私達のために色紙を書いてそれを結びの言葉にして下さった。

「いくはるあきを ふたりいくただにはるけきそのみちに まぶしきほどに ひかりあれ 国分 一太郎。」

 その文の下には、国分先生得意の絵が描かれていた。若い夫婦が、すわって仲良く食事をしている絵であった。
 母が最後にお礼のあいさつをしたときに、そのことに触れて、感謝の言葉で締めくくっていたことを思い出す。司会は、豊島時代からお世話になった深町さんがしてくれた。出席者の中には、滝の会のメンバーや大学時代のバスケット仲間、池袋第三小時代の先輩教師のみなさん方、他に中学時代の友人、小学校時代の恩師など多数参加してくれた。乾杯は、鈴木宏達さんが、やってくれた。小学校時代の恩師の柴崎和夫先生が、小学校時代の私の作文を読んでくれた。その中で印象的なあいさつをしてくれたのは、松浦俊昭先生だ。池三小時代の私との7年間の思い出を、感動的な文章で、読み上げてくれた。あまりにも素敵な文章だったので、それを、ずっと残せるように、プロに頼んで、経師屋に頼んだ。その時の文章を、ここに載せておく。

足あと 

駒中とのバスケの試合。
執念のジャンプシュートそして捻挫
練習の厳しかったバレーボール
泳ぎっくらをした夏のプール
子どもたちや親の目を輝かせ、みはらせた
運動会での職員のかけっこ
最初で最後のサッカーの準優勝
あなたの腕は太く、ももの筋肉は盛り上がりふんまえた足は大きかった
楽器なしでやったリズム指導の研究授業
わらべ歌の劇
毎朝ならした輪転機の音。
あなたの文集作りは 夜中に始まって 朝に終わった
水道方式でやった算数指導
それらの実践を広く紹介した友社(雑誌「婦人の友」)での座談会
初めから最後の最後まで子どもの心をとらえ
子どもの真の理解者としての児童会活動での活躍
休み時間よく子どもたちと遊んだ先生
あなたの手は分厚く暖かだった
そして瞳も。
初めの頃は嵯峨と蒔田ずし終始一貫は一休そして今は黒潮で。
ほろ酔いに歌うあのわびしい歌声・・・
あの声は授業で子どもに語る声と同じだった
ときに「ヨシ!」とのかけ声、力強い本音の響き
その若々しさみずみずしさ
力・若さ・かしこさ・誠実・やさしさそしてわびしさのかげり。
わたしは去っていく貴男への想いでいっぱいです
1976年10月20日 榎本 豊先生へ 松浦 俊秋
 結婚式が終わると、普段の日だったが、一週間職場を休み、ハワイへ新婚旅行へ出かけた。あの頃は、学校を休んで、堂々と出かけることが出来た。

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