子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月8日(火)生い立ちの記その13

5月8日(火)生い立ちの記その13

松浦俊秋先生の訃報

 いつも一番お元気で、電話をすると元気な声で「お体大事にしてますか。」と丁寧なあいさつから始まり、一番長生きするのではないかと考えていたが、年には勝てずに80才でなくなった。連絡は、鈴木宏達さんからであった。私は弔辞のつもりで、文章を書き、のちほど奥様へ手紙にして送った。

松浦俊秋先生 あれから35年経ったのですね
1969年4月、希望に胸膨らませて、はじめての学校に向かった。
その時に校長室で、先生とお会いしたのが、最初であった。
学校現場は教育実習ではあったが、何でも初めての体験だった。
朝の打ち合わせから始まり、放課後の自由な時間まで、緊張の連続だった。
「榎本先生、いつでも私の授業を見にいらっしゃい。」
松浦さんの優しい眼差しを今でも覚えている。
突然おじゃました授業は、いつも新鮮だったし、プロの授業だった。
こどもたちの真剣な授業への取り組みを見て、いつも圧倒された。
朝の打ち合わせや職員会議の議論の中心に、いつも先生がおられた。
その一言ずつの発言を聞きながら、いつもうなずくぼくだった。
職員会議の終わったあとは、いつも職場会が開かれた。
組合の先生方が集まり、そこで何でも語り合う会であった。
ほとんどの先生方が、組合員であることも驚きだった。
その輪の中心にやはり先生の姿があった。
ぼくらはやがて職員スポーツに燃えた。
バレーボール、野球、サッカー、卓球、バスケットボールと何でもこなした。
終われば職員室で、おいしい酒を飲みながら、教育談議であった。
話が盛り上がると、時には居酒屋へ行って、その延長戦が続いた。
このときの話は、今のぼくの教師生活の背骨のようなものになっている。
先生は、いつもアイディアマンだった。
夏のプールが始まると、こどもたちが帰ったあとで、「教師の泳ぎ比べ」を提案した。
当時四十代組と二・三十代組が三人ずつに分かれ楽しんだ。
夏が終わると、おかでのマラソン長距離競走の提案があった。

ぼくらは、その提案にすぐにのり、毎朝一時間くらい早く登校して、校庭を走った。
そんな身も心も充実して、突っ走った。
そんなある時、職員会議があった。
疲れからか、ぼくはちょっとばかり、睡魔に襲われた。
右の太ももをつねられて、目がさめた。
となりを見たら、松浦さんがにやりと笑っていた。
あれから七年間、ぼくは先生の影響をたくさん吸収して、転勤した。
その後、ぼくらは一年に一回正月に集まり、「新春放談」を開いた。
この集まりが、ぼくにとっては、一年の始まりの会で、いつも楽しみだった。
今年の集まりは、先生が主催者で池袋の北京飯店であった。
石谷さんが体調不良で欠席だったが、いつも通り元気のある先生の話であった。
毎年いただく年賀状も、健康を大切に貫く精神が書かれていた。
病院に行かないことも、先生の自慢であった。
それが今回の還らぬ人になって仕舞われた感じがする。
腸閉塞なんて、今の医学では簡単に処置できたのではと、
悔しくてたまらない。
どうぞ、松浦俊秋先生、「安らかにお眠りください。」とは、言わない。
向こうの方にいっても、また張り切って、新たな提案をして、
自分自身に叱咤激励されて、充実の日々を過ごしていただきたい。
ぼくもこれから、先生に教えられたように、
「夢に向かって突っ走れ」で歩いていきたい。
ぼくの教師生活にもっとも影響を与えてくださった松浦俊秋先生にささげる。
2004年 9月4日
 松浦先生の2年後に、今度は、鈴木宏達先生が亡くなった。亡くなったという電話を奥様からいただき、弔辞を読むように頼まれた。

弔辞 鈴木宏達さんへ

 今から、37年前の4月、僕は大学を卒業して初めての小学校教師になった。明るい夢や期待を持ちながら、その学校の門をくぐった。豊島区立池袋第三小学校の四年生の担任になった。担任したこどもたちの前の担任教師の中の一人が、鈴木宏達さんだった。23才の新卒教師と、43才のベテラン教師の出会いだった。僕らは、「ひろさと」さんとは呼ばず、「こうたつ」さんと言っていた。
 やがてその学校の教師集団が、教育実践でもすぐれた教師がたくさんおられることに気がついていった。職員会議で生き生きと発言する中に、鈴木さんがいつもおられた。職員会議が終わると、職場会が必ず開かれた。管理職の人がいなくなり、ほとんどの教師が残り、職場の様々な問題を語り合う場であった。その話し合いの中心におられたのも鈴木さんだった。やがてこの会が組合の会議であることに気がつくのに、時間はかからなかった。
 当時生活指導主任と豊島区教職員組合の副支部長をされていた。その忙しい日々の中で、僕らは、教職員のスポーツも楽しんだ。バレーボール、野球、サッカー、バスケットボール、卓球と何でも汗を流しあった。その後、職員室に戻り、おいしいお酒を飲みながら、教育談議に花が咲いた。その輪の中に入りながら、教師になった喜びを感じながら、鈴木さん達先輩教師の話に耳を傾けていた。話が盛り上がり、もう少し語り合おうと、場所を変えた。池袋西口近くの飲み屋に集まり、その延長が続いた。僕は、その話の一つ一つが、明日の教育実践のエネルギーになっていった。
 夏になると、僕らはプールで一万メートル挑戦の泳ぎ比べに燃えた。二十代の若者教師グループと40代壮年グループとの争いだった。若者グループがいつも勝っていたが、最後は鈴木さん達、壮年グループに負けた。夏が終わると、校庭の十万メートルに同じように競い合った。朝早く来ると、すでに走っているのは、壮年グループであった。僕らも刺激されて、同じように毎朝走る仲間も出て、一汗流しながらその日が始まるのであった。
 鈴木さんは、こよなく酒を愛した。池袋西口は、鈴木さんのなじみの酒場がいくつかあった。「一休」や「おもろ」や「豊田屋」等に良く連れて行っていただいた。そこで語り合うことは、教育実践の話であり、組合の大切さの話であった。砂川基地反対闘争に参加した話。石川達三の「人間の壁」の話。都教組が、一日振り替え闘争で、ストライキをしたときのさわやかな話。話をするときの、鈴木さんの語りや顔を今思い出している。やがてその話の中から、生活綴り方の国分一太郎さんや片岡並男さんとの出会いの話が語られた。鈴木さんの幅広い人間関係は、教師になった頃にすでに、培われたことが良くわかった。
 教師3年目頃だったか、鈴木さんと二人旅を一週間ほど楽しんだ。途中で、九州の佐賀県の日教組定期大会を傍聴した。佐世保では、昔の同僚だった女性の方の家に泊めていただき、歓待していただいたのも懐かしい。
 やがて僕らは、豊島区に作文の会や組合を強くする滝の会を作っていった。鈴木さんに後押ししていただいた作文の会も、この4月で407回目の例会を終えた。36年間続いている。滝の会は、豊島区の二十代の若者教師が、十数人集まって作った会だった。やがて僕らは、そこに鈴木さんや隈部さんという組合にくわしいお二人を招き、リーダーになっていただいた。この会は、月に何回か開かれ、夏や冬は合宿が開かれた。その会でも、いつも豪快に酒を飲むのも壮年のお二人であった。この会は、異動でバラバラになったが、最近は、年に一回は開くようにしていた。昨年の11月18日、鈴木さんが何冊目かの俳句の本を出版した。「今度の本が、最後になります。」と添え書きがしてあったので、本の出版のお祝いをしようと、七人のメンバーが集まった。しかし、今から考えてみれば、あの会が最後の会になろうとは、この会に出席したものは、誰も思わなかっただろう。
 国分一太郎さんが亡くなった後に、毎年4月に山形県の東根で「こぶし忌」と言うしのぶ会が開かれていた。その会でも、鈴木さんに毎年お会いできるので、楽しみにしていた。今年は、さくらんぼの実の熟す七月に開くので、連絡しようとする矢先でもあった。
 池袋第三小学校の気の合う仲間が、年に一回正月に集まって語り合う「新春放談」と言う会が、今年の一月も行われた。酒の量は減ったが、元気に語り合い別れたのが、最後の場になってしまった。
 鈴木さんは、現役の時もいつも元気であったが、退職してからも、エネルギッシュに活躍されていた。現役の頃から、児童文化にくわしく、東京都小学校児童文化の理事、全国小学校児童文化研究会の事務局長、全国教職員文芸協会の会長を長らく勤め、最近は小品集の選者をお一人でされていた。
 また、現役時代は、東京都教職員組合の本部の役員をされたり、板橋区や豊島区では、書記長や副支部長をされた縁もあって、東京都退職組合の会長を長らく勤められた。最後は日教組退職組合の会長を4年間も勤められて、全国を回っているんだと嬉しそうに話す顔を思い出す。
 大学を卒業して以来37年間、文字通り僕の教育実践の背骨になるところを作ってくださったのが、鈴木宏達先生だった。この三月で、六十才になり、僕は定年退職を迎えた。これからたくさんのことを学ぼうとしたのに、それが出来ないことが、悔しい。
 この4月、東京都教育委員会は、「職員会議では採決するな」という民主主義に対決する乱暴な指示文書を現場におろした。鈴木さん達がこよなく大事にされてきた「教育基本法」の改悪が国会に上程されようとしている。「国を愛すること」を強制しようとしている。このような波乱の時代に、先生が去ってしまうことが、残念の極みだ。
 だから、「鈴木宏達先生安らかにねむってください。」とは、言わない。天国から、「何やっているんだ。」と叱咤激励していただきたい。
「こうたつ先生」さようなら。
2006年 4月19日(水) 告別式の日に

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