子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月2日(土」)祖母志満の思い出

6月2日(土」)祖母志満の思い出

1900(明治33)年生まれの祖母は、私が1945(昭和20)年生まれなので、年の差は45才になる。つまり、2才ちがいの弟宏が、寝返りもできない1才になる前に、父と別れて、与野の実家に戻ってきたことになる。祖母は、小学校2年まできり、学校へ行っていない。それは、その頃が小学校2年生で、義務教育終了なのである。何かちょっとした文章を書いてもらうと、カタカナで書くことが多かった。その頃のもじの教え方は、カタカナが先で、次にヒラガナを習ったらしい。作文のことを「綴り方」と祖母は言った。つまり、時間割が「綴り方」になって1週間に2時間確保されていたらしい。

記憶力のいい人

 その祖母は、記憶力の確かな人で、昔の出来事は、かなり正確に思い出すことができた。その祖母は、昔話をするのが大変上手で、夜一緒に寝るときに、色んな話をしてくれた。特に話がうまかったのは、祖母の子供時代の話は、いつ聞いてもおもしろかった。また、こわい話をするのも得意だった。また、狸や狐や蛇などの動物も良く出てきた。そういう動物たちが、生活の中に一緒に暮らしていたことなのだろう。祖母が小さかった頃、良く蛇が、屋根からわざと落ちる話には、今でも良く覚えている。それは、蛇が、にわ鶏の卵などを飲み込んだあとに、屋根から落ちて卵の殻を割る話だった。

祖母の実家の職業

 また、祖母の実家は、戦前は、百姓をしていたが、「馬喰」(ばくろう)を商売にしていた。つまり、その当時の馬や牛は、大事な生き物だった。物を運ぶ運送や田んぼの耕耘機の役割をした。また、戦争のときには、軍馬として、重宝がられていたと言うことだ。

曾祖母のこと

 その祖母の実家に、良く祖母と一緒に出かけることが、時々あった。まだ、馬小屋があったり、庭はたいそう広いことを良く覚えている。そこに行くと、祖母の両親がまだ元気にしていた。私から見ると、曾祖父母になる。特に曾祖母は、腰が大変曲がってしまっていたが、良く与野の家に泊まりに来たりしていた。腰が曲がっていたので、杖をついで大和田から、与野の家まで電車に乗って一人で来るのであった。祖母は、たまに泊まりに来ると、いつも同じことをよくしていた。それは、曾祖母の頭を洗ってあげて、丁寧に串を使ってとかしてあげることを、良くしていた。だいたい、1泊か2泊して、帰るのであった。そんな時は、一緒にごはんを食べるのが楽しかった。私は、曾祖母の手が、ばかにしわくちゃなので、その手を触りながら、おばあちゃんずいぶん手がしわくちゃだねと言って、つまましてもらった記憶がある。大変穏やかな人で、いつもにこにこしていたのを覚えている。祖母も、自分の親が、わざわざ会いに来てくれたので、ささやかな親孝行をしていたのであろう。

忘れられない思い出

 祖母は、3人兄弟の真ん中である。一番上の人が、男で下1人は、女であった。祖母は、自分の上の兄のことを、「あにき」と呼んでいた。その兄貴は、自分の奥さんがいるのに、外で女性を作り、大和田の家を出て、暮らしていた。あるとき、祖母と一緒に大和田の家に行く途中の電車の中で、その「あにき」と偶然に出っくわした。2人は、懐かしそうに話をしていた。祖母が、私のことを、「稲子の子ども」と紹介したのかも知れない。すると、そのあにきが、腰に巻いていた風呂敷をほどいて、中からぼた餅を私に差し出してくれた。食べなと言われたのだろう。私は、そのぼた餅を、口の中に入れて食べ始めた。まだ、砂糖などが貴重品で、ましてや小豆で作ったぼた餅などは、なかなか手に入れることはできなかった。その時のぼた餅の味は、今まで食べたどんなお菓子よりおいしかった。その後、色んな甘いものを食べてきたが、この時のぼた餅の味にはかなわない。それほどおいしかったのだ。

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