子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

6月9日(土)日高六郎さんが亡くなる

6月9日(土)日高六郎さんが亡くなる

 新聞の記事などによると、次のように書かれている。
 日高六郎さん、101歳で死去 ベトナム反戦の社会学者
 ベトナム反戦運動や安保闘争をはじめ、平和や人権、公害問題などの幅広い分野で論陣を張り、戦後の市民運動をリードしてきた社会学者の日高六郎(ひだか・ろくろう)さんが7日午前、老衰のため、京都市左京区の施設で死去した。101歳だった。葬儀は故人の遺志で行わない。
 中国・青島生まれ。東京帝国大学文学部卒。米国の社会学研究の傍ら、戦後すぐ論壇に登場した。東大助教授を経て1960年に教授。戦後民主主義と憲法擁護の立場から60年安保改定の問題点を論じたほか、ベトナム反戦の国民行動を呼びかけ、革新市民運動を実践してきた。ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を訳したことでも知られる。
 ベトナム戦争では米軍の北爆停止を米国務長官に訴える文書を評論家の加藤周一さんと提出したほか、戦争加担を拒否して脱走した米兵を援助する活動も、作家の小田実(まこと)さんや評論家の鶴見俊輔さんらと進めた。
 69年に東大紛争での機動隊導入に抗議し、「無力さを自ら罰する」と教授を辞職した。それ以降は、主に評論家として反戦、教育、公害、人権問題などに取り組んできた。81年、日本赤軍との関係を疑われて豪州政府から入国を拒否された時には、日豪文化人らが抗議行動を起こし、後に豪政府の方針を改めさせるなど、話題を呼んだ。

私にとっての日高六郎さん

 私にとっては、墨田教組に記念講演をお願いして、はるばるフランスのパリに電話連絡をし、承諾していただいたときのことである。時差の関係で、日本の夕方の午後5時過ぎが、フランスの朝の午前10時ごろであると聞いて、墨田教組の事務所から電話をしたときのことである。事前に聞いた連絡先に電話をし、待っていた。すると、まもなく日高さんの声が聞こえた。すぐに、墨田教組の記念講演のお願いをした。先生は、快く承諾して下さった。それは、日高さんが、事前に日本の水俣問題で、日本に来られると話を聞いていたので、もしかしたらという期待で連絡を取ったのである。やがて、講演の1週間前になって、突然日高さんから電話がかかってきた。「突然電話で失礼します。こんな質問してごめんなさい。当日jの講師料で、いくらいただけるのでしょうか。」と言う電話であった。私は、「記念講演は、5万円と決まっております。」と返答すると、「もうしわけずらいのですが、もう少し何とかしてほしい。」という電話であった。私は、すぐに委員長の小山さんにお願いし、「何とかしてほしい。」とお願いした。結局、倍の10万円にしていただいた。そんないきさつがあった。考えてみれば、国際電話で、フランスのパリから来ていただくのに、5万円とは安すぎる。
 その記念講演が決まり、日高さんと交流のあった内田元委員長に連絡もして、当日来ていただくことも承諾していただいた。
 日高さんの話を執行委員会で決めていただく前に、山形の国分一太郎研究会での日高さんの話を、紹介し、みなさんに承諾していただいたことを思い出す。決まったあとに、内田元委員長に手紙を出した。

内田 宜人様
前 略
「絶家の譜」送っていただきながら、お礼の返事もせず失礼いたしました。三月に退職してから、様々な仕事に追われて日々過ごしております。特に七月に控えている、国分一太郎生誕百年記念研究会の準備で、日々追われています。
「北に向く枝より夢は墜ちしとよ国分一太郎逝きて十年」 内田 宜人
  この歌は、山形で、日高六郎さんが記念講演をされたときに、ご案内を差し上げたときに私に託してくださった歌です。今、紀要を作っております。ぜひとも、内田さんに何か思い出を託する文章か歌を一筆書いていただくと、ありがたいのですが、よろしくお願いします。締め切りは、六月二十五日(土)までです。大変急なお願いで、恐縮です。お体の方いかがでしょうか。この間、長谷川政國さんと会ったときに、ご様子をお聞きしました。どうぞ、お元気で、ご活躍下さい。
 一つお願い
 私にとっては、この文章が、大変印象に残っております。この文章を、生誕百年記念のホームページと「えのさんの綴方日記」に載せてよろしいでしょうか。

国分さんとの別れ   内田 宜人

 知らせは、朝、小梅小の榎本さんから届いた。夜、国分さんの死去を報ずる夕刊を見ながら酒場にいた。57年、墨田教組の初めての教研集会の記念講演が国分さんで、もう一度、72年の教研集会にもお願いした。墨田教組との公式の関わりはこれだけと言うことだが、国分さんの影響とか人脈的な面で言えば、全国各地の教組の場合と同様に、墨田でも広く、かつ深い。そうした業績や人柄については、弟子であった榎本さんたちに語ってもらうのがふさわしい。私はただ、いくつかの断片を綴って別れの言葉に替える。
 国分さんの50年代半ばに出された「教師」(岩波新書)や「教員組合の闘争力と言うこと」(雑誌「教師の友」)などの影響力は、当時、実に大きかったが、勤評闘争の経験を通じて、私は国分さんの教師論、就中(なかんずく)、教員組合運動論にたいして批判的な立場をとるようになった。当然、それはいろいろな機会を経て国分さんに聞こえていた。60年ごろのある日、新宿駅から偶然同じ電車に乗り合わせたとき、「教育学者ががんばってほしい。自分は教育学者でもないのに代表みたいに言われるのは困った状況だ」と言われた。私の批判が念頭にあっての言葉だったと思う。ここでの教育学者云々とは、一般的な意味でなく、特定の政治的限度の上での指摘である。
 私の「国分理論」批判は、だいぶ後にまとめた本(「ある勤評闘争史」)の中でかなりの程度展開したつもりだが、そのことと、国分さんへの私の畏敬の気持ちとはかかわりない。行間にそれを読み取ったらしいある読者は、私への匿名のはがきの中で、そうした私の「配慮」を理解しつつもどかしく思う旨を書いていた。
 75年、都同教が結成されたとき、会長に国分さんを推して固持され、結局私が会長を引き受ける羽目になって今日に至っている。その後も、国分さんの励ましはいろいろな形で私に届いた。
 何年前になるか。部落解放運動の大きなレセプションがあった席で、日教組の槇枝委員長と話していてふと気がつくと、国分さんが私のすぐ横に来てニコニコしておられた。無沙汰を詫びると、胃を切ってから元気になったと言われた。それが、お目にかかった最後になった。
 昨年の全国教研集会で国分さんが記念講演をされたとき、都教組などがボイコット運動を行なった。そうした党派的私情からする非礼のふるまいは、かえってその人々自身をはずかしめたにすぎないにしても、国分さんが健在で仕事を持って理非曲直を明らかにしていくことがもはやないという事態が、かくも早く来ようとは思わなかった。数々の無念が胸におさめられたままであったろうことを思えば、眠り安かれとは、必ずしも後輩の私は祈らない。一九八五年三月一日 「北に向かいし枝なりき」所収
 次のような文章を、退職の挨拶として、心ある人に送りました。

四十二年間の職場からさらば  

 この三月で、教育現場から、完全に解放されました。三十七年間の現職を終え、五年間ほど再任用三年間と嘱託二年間をして、合計四十二年間の教職経験でした。その間、豊島区で7年間、墨田区で三十五年間勤めました。
 教師になって初めての職場は、様々な個性のある先輩に恵まれました。特に同学年のお二人の先輩教師には、いつも学年会をして、新米の私を叱咤激励して育ててくれました。特に作文教育を大切にしておられる教師と同学年を組んだことが、今考えてみれば運命的な出会いでした。

楽しい競争  

 同じ職場に、仲間を大切にする教師がたくさんおられました。毎日のようにスポーツをやって、その後は、アルコール入りの教育談義でした。大学まで続けていたバスケットボールは、教育実践には大いに役立ちました。教師のスポーツは、何でも楽しみました。バレーボール、野球、サッカー、卓球、水泳と、練習に明け暮れました。夏のプールで、先輩教師5人と一緒に、一万メートルをめざして、泳ぎ比べもしました。秋になると、10万メートルをめざして、校庭のトラックを毎日のように、早朝に走ったりしました。20代の7年間でした。

作文教育の出発  

 教師二年目の年から、作文の全国大会に参加して、大いに刺激を受けて帰ってきました。それ以後、子どもの日記を読むことがとても楽しくなりました。いつも子どもに赤ペンを入れながら、保護者の方とも対話を広げることができました。プライバシーと言うことがやかましく言われなかった頃の、古き良き時代の実践でした。

いき過ぎたプライバシー  

 「個人保護法」という名で、教育の世界にも行きすぎたプライバシーが広がっている気がします。「子どもの日記や作文を読む」と言うことは、教育の一環で行っているものです。その子の可能性を引き出し、応援して、ときには自信を持たせるために赤ペンを入れているのです。「家庭の中がわかってしまう。」などと言って、はじめっから疑問を持つ親も出てきました。そんな親に限って、教師のことをよく言わず、プライバシーを強調し過ぎて、親子の間や教師の間もうまくいかなくなった関係を何度か味わいました。「あのときの親のふるまい」が、子どもと私の関係をよくしなくなってしまったと、あとから悔やむことがいくつかありました。

作文教育と向き合う  

 本当に「作文教育」がやりづらい時代になりました。でも、ほとんどの保護者は、好意的に理解してくれました。退職して、五年間の間も、「作文教育」から離れずに、子どもたちと最後まで向き合うことができたことは、本当にありがたいと、感謝しています。
 最後の学校では、「人権作文集会」を学校ぐるみで取り組んでくださいました。また、六年生の「卒業文集」は、4年間連続で関わって、担任と一緒に取り組むことができたことは、本当にありがたいことでした。最後の二年間は、二年生から六年生まで、作文の授業を一週間に一時間持たせてくれました。このことも、あらためて職場のみなさんに感謝します。

国分一太郎生誕百年  

 これからは、まったく自由になりました。ちょうど、今年が、わが恩師、国分一太郎先生の生誕百年です。七月二十三日(土)~二十四日(日)の2日間、地元山形県東根市で研究会を開く予定です。今、その準備に昨年からはじめています。

忘れられない日  

 三月十一日の東日本大震災は、大きな爪痕を残し現在に至っています。やはり、福島原発事故の問題は、我々を恐怖の世界に巻き込みました。故郷を強制的に追い出された人のことを思うと、何を我々がすればいいのかと、自分に問い正してしまいます。
 外国のメディアから入るニュースと、国内のニュースの違いに驚きます。日常のメディアでなく、違ったところからメールが飛び込んできます。「広瀬隆・福島原発」や「広河隆二・原発事故」などを検索すると、「安全・安心」と政府や東京電力の社員が流しているのと、まったく違う事実が語られています。ときには、それが生々しく動画で見られます。それを見ていると、テレビの画像に出てくる学者が、ほとんど「御用学者」に見えてきます。

真実のことを見抜く力  

 作文教育で、子どもたちに大切に教えてきた、「事実をありのまま」に伝えるのでなく、どこかで操作された事実が語られている気がしてなりません。私達の暮らしから、水や空気が汚染されたら、尋常には暮らしていけないのですから。

これからのこと  

 色々脱線しました。これからは、今まで子どもと向き合って書かれた作品を整理し、分類してみようと考えています。とりあえず、十九年間、組合の新聞に書いてきた「はじける芽」をまとめてみました。これを、少しずつ、分類してみようと考えています。その分類したものは、私のホームページにも載せていく予定です。「えのさんの綴方日記」と、あわせて「国分一太郎生誕百年」も検索してみてください。
2011年.6月吉日 榎本  豊

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