子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

その4 祖母の戦争体験の聞き書き

  • その4祖母の戦争体験の聞き書き
    週刊墨教組 No.1459・1460 2004.11.34~12.6
    十一月の指導題目
    年配の人から、戦争体験を取材して、それをひとまとまりの文章にまとめてみよう。  聞き書き(取材・記述・推敲)

祖母の戦争体験

  小学校 五年
 ぼくの祖母は一九三七(昭和十二)年生まれです。祖母の家はヤスリ屋でした。明治時代に、今住んでいる町の家に引っ越して、ヤスリ屋を開いていました。ヤスリ屋の商売とは、鋼の表面に細かいみぞを刻み、焼き入れをした工具を作っていました。ヤスリの役目は、工作物の面を平らにけずったり、角を落としたりするのに用います。板状の鋼をヤスリにしていました。祖母は、この緑町に生まれ育ちました。祖母の両親も町に生まれ、この学校を卒業しました。僕を入れると、学校は四代目になります。

祖母の家族

  太平洋戦争が始まった一九四一年(昭和十六)年のころ、祖母は四才でした。
 祖母はまだ小さかったので、戦争の意味が分かりませんでした。毎年夏になると千葉県の、岩井という海岸に、家族で出かけました。海水浴に行き、家族でよく遊びました。またお正月になると、着物とげたを、新調してもらい、とてもうれしかったことを覚えています。戦争が終わってからは、妹がもう一人生まれ七人家族になりました。祖母は、四人姉妹の長女です。
小学校入学
 祖母が小学校に入学したのは、一九四三(昭和十八)年でした。そのころ小学校は国民学校と呼ばれていました。算数や国語のような教科もありました。しかし、修身(道徳)の科目では、戦争の話ばかりで、日本は、とても強い国だと教えられていました。
「国のために、天皇陛下につくしましょう。」
と毎日のように教えられ、又、アメリカ人の悪口も教えられました。例えばアメリカ人の鼻は高いとか、アメリカの木は、とがっているけど日本の木は、広々としていてかっこいいとか、アメリカ人は、くつのままで家に入っても、平気な人たちだと教えられました。
 祖母が、学校に入学して一年生のころに、戦争の色がこくなってきました。いつ飛行機がせめてくるかわからなくなってきました。当時の学校は、今の校舎を作る前の校舎でした。学校の中には、防空ごうがあり、敵の飛行機がせめてくると、その防空ごうの中に、逃げるようにしていました。現在の位置でいうと、幼稚園の下が防空ごうでした。そのころは、防空ずきんをかぶり、何度もそこへ、ひなん訓練をしました。

静岡のそ開先へ

 祖母は、二回そかいをしました。初めて行ったところは、静岡の大淵と言うところです。一九四四(昭和十九)年から一九四五(昭和二十)年の頃のことです。その頃、戦争はますますはげしくなって、学校では、三年生以上は、千葉県のお寺に集団そかいをさせられました。そぼは、二年生だったので、田舎がなくてとても困っていました。それからまもなく、東京の神田の上空にたくさんのしょういだんを落としました。空が真っ赤に燃え上がった光景を、祖母は今でも良く覚えています。祖母の父は、東京はあぶないと思い、次の日リュックを背負い東京から知り合いのいる静岡に、家族をそかいさせることにしたのです。(途中略)

そ開先の生活

 そかい先の家では、祖母の母と祖母と妹二人で住まわせてもらいました。その家は、おじさんとおばさんの二人暮らしで、食堂をしていました。兵隊が、良く食事をしに来ました。その頃の食事は、麦飯やみそ汁でした。食堂だったので、たまに少しの肉や魚が食べられましたが、いつもこれが最後の食事になるかもしれないと思い、取っておかないで手に入ると家族で分け合って大切に食べました。
 ある日敵の飛行機が打ち落とされて、米国のへいたいがパラシュートで、降りてきました。大淵のむらの人たちは、竹やりを持ち、米国兵の所へいき、縄でしばり、つついたり、けとばしたりしていました。祖母はそれをみて、敵でもかわいそうだと思いました。
 借りた家の後ろには、小学校があり、兵隊さんたちがたくさん寝泊まりしていました。ますます戦争が激しくなり、アメリカは、機じゅうそうしゃを打ちまくりました。それはそれは、こわくてたいへんなことでした。祖母の母は、
「これだったら東京の家にいた方が、よかったんじゃないかしら。」
といつも言っていました。その事がいまでも、祖母の胸の中にうかんできます。

祖母の父の東京大空襲の体験

一九四五(昭和二十)年三月十日に、東京大空しゅうがありました。家族を静岡の大淵というところに所にそ開させ、祖母の父が、町の家を一人で守っていました。空襲にあい、家から祖母の父も、立川ににげました。しかし配給のタバコを忘れたことに気付き、祖母の父は、配給のたばこを取りに、家へもどり、また立川に行こうとすると、もうそこは火の海でした。近所の人は、ほとんど亡くなっていました。となりの家の五年生と六年生の娘さん二人は、千葉県の集団そかいからぐう然に帰ってきて、空襲でなくなりました。町も、焼け野原になり、祖母の父は、もう少しで、命を、落とす所でした。次の日、川の中は、なくなった人であふれていました。日本兵がきて亡くなった人のポケットから、サイフや時計などを取っている事を目にして、人間のみにくい行為を語っていたことを、今も思いだします。
 祖母は戦争は、残こくだと思いました。その大空襲で、近所の人親せきの人もたくさん亡くなりましました。小学校は、校舎のとなりにあった講堂の鉄の大きな扉が、空襲攻撃を防ぎ、校舎は燃えませんでした。それからしばらくして、アメリカは、一九四五(昭和二十)年八月六日に広島に原子爆弾を落としました。ラジオでは、いつも、
「日本が勝っている。」
と言っているのに、この様なばくだんが何個も落とされたら、日本中の大変なことになると、両親が、小声で話しているのを聞き、こわくてふるえました。今の時代通信が発達してない時代、広島から静岡まで、うわさがすぐ広がっていくのが不思議に思いました。

日本の敗戦

 それからまもなく天皇陛下の玉音放送があり、日本が降参し戦争が終わりました。戦争は親と子が引きはなされたり、殺されたり今まで普通に付き合っていた人たちが、憎みあったりするようになります。
 食べるものがなく、栄養失調でなくなってしまう人もいました。今日本は平和ですが、心が平和でない人もいます。アメリカは、いまだに戦争をやっています。アメリカも、日本国憲法九条のようなものを作ってほしいです。

埼玉のそかい先で

 二回目のそかい先は、戦争が終わってからです。一九四五年、戦争が終わっても、東京の下町は、大空しゅうに出会い、町の家がなくなってしまいました。住むところがないので、また知り合いのいる埼玉の「新田」というところに、行きました。そこは。おじいさんとおばさんとおばさんのだんなさんは、兵隊に取られてしまったので、まだ戦地から帰ってきませんでした、子供二人と、おばさんのむすこをいれて五人が住んでいました。そこへ、祖母の家族のひいおじいちゃんをのぞいて、五人がお世話になりました。そこで通った学校は、修身の授業がもうなくなっていました。先生方は、戦争に行っていて、代用教員(先生の資格がないけれど、教師がいなかったので、代わりになってやっていた人)の先生に祖母は教えられました。先生は、東京出身だったので、祖母のことをかわいがってくれました。そかい先の埼玉の新田という村は、貧しく村の人たちは、はき物がなくみんなはだしでした。東京から来た子は靴や下駄をはいていました。学校には足洗の場所があり、はだしの子はそこで足を洗ってから、校舎に入っていました。
 月日が過ぎると東京の子たちは村の子に、
「そかいっ子、そかいっ子、やーいやーい。」
とはやし立てられ、帰り道でまちぶせされて追いかけられたり、いじめられたりしました。やっと東京に帰れたのは、一九四六(昭和二十一)年の終わり、小学校四年のころでした。

東京に帰って

 今の町の家には、どうしても帰りたかったのです。その気持ちは、祖母の家族も同じでした。家族でいっしょに過ごした町の家は思い出がたくさんあり、戦争前のころと同じように家族で過ごしたかったからです。やっぱり自分の住んでいたところに、早く帰りたかったのです。。そして田舎に住んでいるときは、子供心にいつも遠りょしていました。いつもご飯を炊くのもそかい先の家の台所を借りていたので
「すいません、すいません」
といいながら、食事のしたくをお母さんがしていたのを見て、早く帰りたいなあといつも思っていました。ほかの家族が戦争が終わると、東京に帰って行くのがとてもさびしく、お父さんとお母さんが、
「雨つゆがしのげればどんなせまくてもいいから早く帰ろう。」
と、言っていたのを聞いて、とてもうれしかったのです。それからしばらくして東京へ帰ってきました。埼玉県の新田から、トラックに乗って帰ってきたとき、家がぽつぽつとしか建っていなかったので、びっくりしました。でも、とてもうれしかったものです。
 配給はたまにしかなく、食べる物が足りないので祖母の両親と祖母と三人でリュックを背負い、前にそかいをしていた埼玉の新田に買い出しに行きました。お金がないので、祖母の母の着物をリュックに入れ、お米と取りかえているところを見てとても悲しい思いをしました。

戦争に負けふたたび学校へ

 小学校では、校庭で体育ができるようになりました。また、修身の授業がなくなりました。音楽では楽しい歌が歌えるようになりました(春の小川やメダカの学校)。遠足にも行けるようになりました。運動会、学芸会もできるようになりました。教科書のことはよく覚えていません、国語の教科書は、戦争中一年の時、「コマイヌサン、コマイヌサン」と勉強したことを覚えています。
 部屋にお弁当を持ってきている子もいない子も、同じ部屋でお昼の時間を過ごしていました。持ってきていない子供の方が多かったので、別にはずかしくはありませんでした。祖母は持っていかないときもありました。
 そのときに食べたかったものは、白い食パンで、進駐軍から配給があって食パンを食べたとき、
「なんておいしいものだろう。」
と思いました。進駐軍(アメリカ軍)が日本を管理していました。ほかに白米やおもちをたくさん食べてみたいと思いました。そのころ小学生は、ほとんどシラミがかみの毛についていました。シラミは頭のかみの毛につき、血を吸います。激しいかゆみを感じます。

家の商売(省略)

給食の始まり

 給食は、すぐには始まらなく、各自がお弁当を持ってきていました。お弁当といってもさつまいもを新聞紙にくるんで一本しか持ってこない子もたくさんいました。給食はまずいミルクがかんのコップに一杯くらいでした。ミルクのでないときは菜っ葉の入った澄まし汁みたいなお汁が一杯くらいでした。 今はみんなあれがきらいこれがきらいと言っているけれど、祖母は、
「昔の人を思うとぜいたくだな。」
と言いました。
「食べるものを大切にしなくちゃいけない。」
と言いました。

その他の記憶

 戦後は、おふろにも入れないような小屋に住んでいた人たちがほとんどでした。子供の頭にはシラミがたくさんいました。学校の校庭に全員が並べられ、DDTを頭からかけられ、みな粉ぶくろからでてきたような顔をしていたことを何回か記憶しています。食べるものがなくて、いなかにリュックを背負い買い出しに時々つれていかれました。

ぼくの思うこと

 ぼくは、まず戦争をやって幸せになることなど絶対にないと思います。戦争に関係ない子供やお年寄りまでがなくなったり、家族もはなればなれになったり、殺し合いを平気でしたりしてとても残こくな世界です。
 戦争が終わって平和になっても、何年も何十年もずっと悲しみを引きずって歩かなければなりません。だから戦争をしては絶対にいけないと思います。この戦争で日本の国は、三百十万人の日本人が亡くなりました。このことを絶対忘れないでほしいと祖母は話してくれました。

掘り起こそう貴重な体験

 この子は、この学校に通う四世代目になる。この地域は、古くから住んでいる家族が多い。したがって、学童疎開者や、東京大空襲の体験者が何人かいらっしゃる。
子どもらが聞き書きを終えて
 戦後五十九年経ち、戦争体験者がどんどん少なくなってきている。しかしながら、今回もこのような指導題目を立てたが、まだまだ証言者のいらっしゃることが、わかった。東京大空襲で、火の中をくぐり抜けた方や兵隊として戦地に行かされ、「九死に一生を得て」方などがおられ、大変貴重な聞き書きが出来上がった。

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