子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

たわしのみそ汁・国分一太郎著

たわしのみそ汁・国分一太郎著

いまは昔になってしまった話である。
 私の祖母の名は、お石といった。その名まえのように、 がんじようなたちであったが、昭和七年の春、八十三歳でなくなった。死ぬ前の一週間は、はげしいゼンソクのような症状になって、たい へんくるしんだ。私たちきょうだいが、かわるがわるせなかをさすってあげた。
「くるしいか、ばっちゃあ?」
「うん」
「すぐよくなるからなあ、ばっちゃあ!」
「うーん」
 そのころ、私は、小学校の先生になって三年めであった。
 四月から新しい学年をうけもったので、よい勉強をさせるのにいっしょうけんめいだった。生徒のノートや、つづりかたなどを、家にもち帰ってしらべていた。夜おそくまでかかって、トウシャパンの原紙を切った。
 夜、私がせなかをさすってやっていると、
「一か? おまえはいい」
「うん」
「学校の仕事があるからいい」
「うーん」
 くるしいいきをつきながら、祖母はいうのだった。学校の仕事がいそがしいだろうから、せなかさすりはしなくていいというのだった。
 私は、この祖母から、カメノコタワシのみそ汁をたべさせられたことがあった。
 カメノコタワシ?そうだ。あの台所でつかうタワシである。
 それは、まだ、私が学校の先生になるために、山形市にある師範学校にかよっているころであった。
 ふつうなら、師範学校というところは、ぜんぶの生徒を寄宿舎にいれて、キチンとした教育をするのだったが、二、三年前に火事をだして、寄宿舎がたりなかったので、私たちは、自宅からの通学をゆるされていた。
 私の町の東根から、山形市までは、たんぼの中を、鉄道線で二十五キロぐらい、毎日の勉強に間にあうためには、朝一番の汽車に乗らなければならなかった。
 私は、五年間、休みの日のほかは、毎日その一番の汽車に乗って、学校にかよったのだった。そして、私の祖母もまた、おなじ五年のあいだ、私を一番の汽車に乗せるために、朝はやくから起きて、ごはんをたいてくれたのだった。
 私の家は、小さな床屋だったので、毎晩、夜がおそかった。お客が、たいてい百姓たちだったので、夜おそくなってからやってくるし、また、ショウギをさしたり、お茶のみ話をしていて、
「おや!あしたになったなあ、こりゃ」
あわてて帰って行くというありさまだった。
 それで、店ではたらく父と母が、ねむりにつく時間は、いつもいつも十二時をすぎていた。そのため、自然に、朝はやく起きて、私にごはんをつくってくれる役目は、年とった祖母にまわっていたのだ。
「たいへんだなあ、お石さん」 
ひとにこういわれると、祖母は、歯のない口をゆがめて、
「一が先生さまになるんだから……」
いかにもたのしそうにこたえるのだった。わかい時から、びんぼうと苦労のなめとおしで生きてきた祖母にとっては、孫が学校の先生になるということは、どんなにうれしいことであったろう。
 それは、ばかにひえのひどい冬の朝のことであった。六時四十五分の一番汽車に乗るために家を出るころは、あたりが、まだ、うすぐらい季節であった。
「できたぞ」
 祖母の声にうながされて、私は、そまつなちゃぶ台の前にすわった。となりのへやでは、父母や、弟妹たちが、しずかにねむっている。祖母が、茶わんにむぎめしをつけてくれた。それで、私は、いつものように、ちゃぶ台の上のなべのふたをとって、汁わんに、みそ汁をもろうとした。その時、
「なにもないから、またカラ汁だ」
 祖母がポツンとつぶやいた。
「うん」
 私は、あたたかいむぎめしの上に、それをぶっかけてくうのがすきなので、へいきでこうこたえて、しゃくしをうごかした。カラ汁というのはなんにもみのはいっていないみそ汁のことである。
と、しゃくしのへこみに、ゴツンとひっかかったものがある。みそ汁といっしょにすくってみると、なんとそれは、カメノコタワシだったのだ。
「……………」
 私はびっくりした。なんとなく気持ちがわるくなった。
でも、こうして、せっかく早起きしてごはんをつくってくれる祖母のことを思うと、私には、もんくがいいだせなかった。
 うすくらがりの中で、カメノコタワシをつかっているうちに、たぶん、なべの底におきわすれてしまったのだろう。そして、そのまま水をいれて、火にかけたのであろう。家のすみのいろりにもえるたきぎの光で、みそをいれたので、もちろん、なべの底にタワシがすわりこんでいることには、気づかなかったのであろう。
 私は、だまって左手のおわんをかたむけ、はしの先でタワシをおさえながら、いいにおいのするみそ汁をごはんの上にかけた。
「いただきます」
いきをふきふき、あたたかいごはんをたベはじめた。すると、いろりの火を見て、こちらにきた祖母が、左の手のひらでひたいをおさえ、両方のまぶたをつりあげるようにして、ちゃぶ台の上を見つめている。目がくぼみ、まぶたがつりさがりだしてから、祖母が、ものを見る時にするくせであった。
「そいつ、どうした?」
祖母は、汁わんを、あごの先でさすのだった。
「うん」
「なにかはいってるなあ」
「うん、タワシだ」
「タワシ?」
祖母は大きな声をあげた。
「うん」
私は、もじもじしながら、はしをうごかしていた。
「ほっほっほほほ」
祖母はにわかに、かたちをくずしてわらいだした。
「うふふふ……」
私もわらいつづけた。
「タワシ汁か ? 」
「うん、うまれてはじめてだ」
「うまいかや?」
「うまい!」
また、ふたりはわらいつづけた。
「タワシ汁か、タワシ汁……」
祖母は、なにか記憶をたどるようにして、頭をひねった。やがて、
「もうろくしたな」
と、しずかにつぶやいた。
「わすれたんだな。くらいから」
 私は、こうこたえて、二はいめのごはんにしゃくしですくったみそ汁をかけながら、柱時計に目をやった。
 そのあと、
「お石ばあさん、朝はやくてたいへんだなあ」
よくよその人からいわれるたびに、
「なあに、このごろもうろくして。一太郎にタワシ汁たべさしてしまったも」
祖母は、わらいながら、そのことをいいだすようになった。
わらいながらのことばだったけれども、私には、なんだかさびしい思いがした。
祖母がなくなって、その骨を、山の墓におさめる時も、私は、タワシのみそ汁のことを、しきりにおもいだしていた。
 四十歳をこした今も、時どき、朝のみそ汁の中に祖母のすがたをおもいうかべでは、あの祖母にうまいものひとつたべさせてやれなかったことをくやしく思う。
 今もびんぼうにかわりはないが、祖母は、ほんとうにびんぼうな時に死んだのだった。                                        (1951年)
『国分一太郎文集』第10巻「子どもたちへ」より

お石ばあさんのこと

 国分さんが亡くなる2~3年前の頃、私達に自分の生い立ちのことを話してくれるようになった。それは、我々から頼み込んで、お願いしたのだった。最初は、照れていてあまり積極的でなかったが、何回かお願いしているうちに、話をしてくれるようになった。そのことをテープに記録してくれたのが、我々の会員の杉浦渉さんであった。やがてその仕事は、国分一太郎の履歴を作るのに大いに役立った。なくなる前に発行しだした国分一太郎文集全10巻の中にも、その記録が役立ったのである。その時にお石ばあさんのことをよく語って下さった。その杉浦さんも、しばらくお休みしている。そろそろ顔を出して欲しい大切な会員の一人である。「私は、国分一太郎の小説を書きたい。」と、2人で飲んだとき彼が語ったのを覚えている。もう20年以上前の話である。
2012.4.1エイプリルフールの日だが、本当の話である。

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