子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

つづり方の今日的たたかい

つづり方の今日的たたかい

(1)文部省とそのとりまきは、「学習作文」の奨励を言い出し、さまざまな理由づけをする。はじめは、表現と理解の関連、理解は表現のためといい、国語教科書などでも、読ませるさまざまな文章・文学作品のあとには、その要約文、続き、感想などを書けなどとの表現活動を課するよう要求した。国語科学習のなかでさせる表現活動ということであった。また新指導要領の解説者たちには、国語科作文では、他教科中心の表現活動をもさせるのだと強調をさせた。ここから「学習作文を」との声はとみに上がり、やがてここから、めちゃくちゃな理由づけが横行しはじめた。

(イ)生活を書かせる作文では、感情・情緒を表現させることはできるが、思考力を伸ばすことはできない。生活表現の作文は、作品主義的であって、いわば文芸的表現から抜け出ることはできず、したがって論理的思考力をねるのには役立たない。
(ロ)生活表現の作文では、「よく思い出させる」ということを、子どもたちの前に要求するが、今の子どもたちは、過ぎ去ったことについて、いちいち思い出すようなことをしたがらない。ところで、この「思い出すこと」をしないでも書けるのが「学習作文」である。これは、今習ったばかりのこと、昨日あるいは一昨日習ったことを書くのだから、よく思い出すというようなことをしなくてもよい。ここにある「物語」の続きを書く、感想を書くというのであれば、今考えることを書くのであって、思い出すのではないから、楽に書くことがで きる。
(ハ)生活表現の作文では、「何を書いたらよいか」ということで題材探しの苦労をしなければならぬ。過ぎ去ったことに関して、やはり、これも思い出して、題材を選び出すことをしなければならぬ。ひとりひとりの子どもについて、その指導をしなければならぬ。けれども子どもたちは「何を書いたらよいか」ということで悩んでしまう。「書くことがない」ということで、しょげ込んでしまったりする。しかし学習作文の場合は、今習ったこと、習っていることを素材として書くのだから、何を書いたらよいかということに苦労する必要はない。学級の全員が、一斉に同じ題材で書くのだから、ひとりひとりの子が、何を書いたらよいかと苦労する必要はちっともない。

(2)今日の子どもたちに迎合し、それを安易に甘やかすものたちは、新指導要領にいう「想像したことを書く」にもあやかりながら、想像作文・フィクション作文を書かせた方がよいとし、理由づけをつぎのようにする。  
①今日の子どもたちは、家庭生活のことであれ、近隣での生活のことであれ、また自分のなかのことであれ、本当のことをありのままに書くというようなことは好まない。そのようなことを書いてもどうにもならない、役に立たない。自分のためにもならないと考えている。そういうことを、先生や級友にも、書いて知らせようなどとは考えたがらない。だから本当のことを書けというよりは、勝手なことを書け、思いついたことを自由自在に書けといった方がよい。「あったことを書け」というより「ないこと、なかったことを書け」といった方がよい。つまり虚構(フィクション)を用いて書くことを奨励した方がよい。その方が、子どもたちの想像力を大きくさせ、創造力をも伸ばしていくのである。
②今日の子どもたちは、揺れ動く社会のなかで、さまざまな問題意識をもち、またテレビやラジオやマンガなどにふれるなかで、実際から飛躍したところで、創造力をたかぶらせている。だからその創造力を発揮してフィクションを書かせた方が、ありのままのことを書けというよりはずっとよい。創造作文は、今日の子どもの可能性をのばしていくのに適切である。(ここには、私たちのつづり方教育の立場を認めつつ、その上で新しい開拓分野として、文学的=創作的表現をさせたいという人の主張を含めない。これについての批判も私にはあるが、ここではふれないこととする。)
③フィクションを書かせると、子どもたちは、たいそうおもしろいものを書くからこれを重視したい。子どものファン他事補も大事にしなければならぬ。
 私たちのつづり方教育は、今、右のような動きと直面して、これと、強力でちみつなたたかいを展開しなければならない。そしてこのたたかいは、たんに「学習作文反対」「でたらめ虚構作文反対」と、スローガン風に叫ぶだけではだめであろう。このたたかいが、実は底深い教育思想上のたたかいであること、子ども・人間が発達し、ひとりひとりが自立していくことを助ける大事な教育活動の問題であることを、しっかりと頭においてかからなければならない。
 そして、もしもその焦点というものをあげるとすれば、子どもたちを育てていく上で、「易きにつくか」「苦労はあっても、まともな道を行くか」ということとなるのであろう。

 もしも「学習作文」を主張するものがいうように「やすきにつく」ならば、日本の子どもたちはどうなるであろうか。 
 子どもたちは、かれらのゆくてはるかな人生を送っていくなかで、
・そのつどそのつど、遠い過去、中くらいな過去、近い過去の経験と照らし合わせながら、毎日毎日の生活についてふりかえってみる人間には育たぬであろう。
・自分とかかわるところで、自然の事物や社会の事物や人間の事物のなかから、ある意味を見いだしたり、美を感じたりするためしを、しかと確かめるものには育たぬだろう。
・その逆のことがらに目と心をとめるものには育たぬだろう。
・過ぎ去った経験のなかで、日々の生活のなかでそれをふりかえり、そこで喜怒哀楽したこと(感情を揺り動かしたこと)を、それがどう事実から出てきたものであるかを、ひとつひとつ位置づけ、確かめてみる人間には育たぬだろう。
 つまり、日常生活のなかで、おくられた生活を流れ、流されるままとし、その日暮らしに落とし込まれる人間となってしまうにちがいない。こうなれば、
・自分とかかわりながら、自然や社会や人間の事物に対して生きた経験的知識・具体的・個別的な知識を身につけていくことの、認識発達の上での重大な意義を、自分のものとすることはできなくなるであろう。
・彼らの感性・感覚はみがかれないし、具体的には観察力や表象力も、文章表現活動を通してはのびなくなるだろう。
 よりつきつめていえば、自然や社会や人間の具体的事実・現象をもとにし、それを出発点として、物事の一般的表象、本質を追究していくべき思考活動・認識的活動も育たぬことになるだろう・
 ついで、「学習作文」を書かせるということで、わたくしたちのいう「長い間、やや長い間にわたる、いくたびもの生活経験を、頭の中で分析し総合した上で、まとめて書く説明的文章」を書かせることをしないならば、どういうことになるのであろうか。
 一般に、最近の発展した哲学、認識論の上で、さまざまな具体的事物にもとづいて「一般的表象」をつくる段階での精神的活動の意義を、子どもたちのものにすることはできないだろう。従来人々は「本質的認識」に到達させることを大事にし、「現象の認識から本質への認識」ということを、よく口にしたのであるが、このいい方の後者の本質的認識にまで至る過程には、その中間の所に、「一般的表象の形成」というのがあるのである。だから子どもたちの教育の場合には、やはりそれを重視しなければならない。実は、わたくしたちのつづり方教育では、、実践上の経験で、無意識的にか、なかば意識的にか、このことを考えて、さきにのべた「長い間、やや長い間わたる経験、くりかえして経験すること」のなかから、やや一般化したこと、頭の中でまとめて説明的に文章表現することを、大切にしてきたのであった。
 それゆえ、もしも「学習作文」が大事だということで、このようなことを書くことも軽視するならば、日本の子どもたちはどういうことになるのであろうか。
 かれは、三ヶ月とか、半年とか、一年とか二年とか、それ以上にわたって経験し体験したことを、つぶさにふりかえり、そこでかかわった自然や社会や人間の事物・現象について「分析」し「総合」することによって、「これはこういうことだ」と、やや一般化していくような精神的活動をしたがらぬものに育っていくであろう。つまり自分では、そういうことはせず、上からの広報やマスコミによって「他人指向的」な一般化に引きずられていきやすい性質を身につけていくことになるであろう。
 これをまとめていえば「学習作文」をすばらしいものとするような「作文教育」におちいるなら、子どもたちが、過去と現在の生活体験に基づいて、他教科での勉強をしながら、自然観・社会観・人生観、ひいては世界観の基礎を、みずから築いていくための辛抱強い道を、今日の教育者として、みずから選ばぬことになるであろう。

 つぎに第二の「やすきにつく道」「子どもたちの現象的なすがたに迎合し、それを甘やかす道」としてのフィクション作文=創造作文を推し進めるならば、日本の子どもたちは、どういうことになるのであろうか。
 経験する事実、子どもたちをとりまく自然や社会や人間の事物を、ひとつひとつを、ふりかえり、見つめるような子どもではなく、安易な見方・考え方・感じ方をする浮薄な「文学少年的」「文学青年的」人間に育っていくだろう。真の文学は、リアリスチックな文学であれ、ロマンチックな文学であれ、ファンタジックな文学であれ、そのそこでは現実的なものをふまえているはずなのに、そういうことには気づかぬ、フワフワ人間に育っていくだろう。
 こう考えるとき、わたくしたちのつづり方教育は、
① やすきにつくよりは苦労をいとわない
② 子どもたちを甘やかすよりは、彼の将来のことを思い、彼の内部にひそむ可能性を信じて、彼らに強く要求するような仕事。
として、今までの指導ぶりの持続と、困難があるだろう今日以後での工夫をこらして進められなければならない。子どもたちにとっても「苦役的労作」といわれる文章表現指導のしごと、教師にとっても苦労の多いとされる文章表現指導の仕事を、今日における、やりがいのある仕事として推し進めなければならない。
 もしも、わたくしたちが、この現実を忘れ、ただ観念的に、一九三0ねん代における「生活綴り方の仕事」の遺産への賞揚と盛名などに、もしも乗っかっているにとどまるならば、いわゆる「八十年代」のつづり方教育などの実績を真に上げていくことは、決してできないであろう。
 長く続けて書いてきたこの連載をひとまず終えるにあたって、私は、このことを心を込めて書き添えておく。

1985年「つづり方教育について」国分一太郎がなくなった後に発行された。

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