子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

忘れえぬ思い出の詩・その9

忘れえぬ思い出の詩・その9

十二月十六日(日)
○ ○ ○ ○ 墨田区立小梅小学校 一年 女子
 せんせい、あのね。きのうね、おかあさんとすみだこうえんえいったの。たのしかったよ。おにいちゃんもいったのよ、うれしかったの。またこんどいくの、たのしみよ。あさっていくのよ。えりうれしいの。すみだこうえんいったら、つりわっかやるの。おとうさんが、せんせいにあいたいって、せんせいもみてやってね。みたがってんの。
 一九八○年 五月作 「こうめの子四号」より
 彼女は、一・二年を担任して、五・六年でも担任した子どもであった。「先生は、一・二年生の時は、とってもやさしかったのに、五年の担任になったらちょっとこわくなった。」と、彼女のお母さんに道で会ったら言われてしまったことを覚えている。卒業してから、おとうさんと一緒にお酒を飲んだ記憶がある。卒業してしばらくたって大学生になったときに、柳島小学校の夏休みのプール指導員になっていただいた。三年前に結婚しましたという幸せそうな葉書をいただいた。
 小梅小での最後の二年間は、四クラスあったので、四分の一の子供達は、四年間担任することになった。
   中国残留孤児 豊島区立小梅小学校 六年 女子
中国残留孤児の人達。
肉親に会うために、
祖国日本へ。
これも戦争の被害者なんだね。
全部当時の、
『戦争は、いいことだあ。日本は、神様の国なんだあ。』
何て言っていた人が悪いんだあ。
戦争中、日本が中国に勝って、
今の満州を全部日本にしたけど、
でも、日本が戦争に負けて、
自分の子どもを仕方なくおいて来ちゃったけど、
お母さん、お父さんが悪いんじゃなくて、
全部全部、戦争のせいで、
旧満州に、置いてかれた。
孤児の人達、
お母さん、お父さんと、
一緒に暮らしたかったろうね。
見つかるといいね。
 一九八四年 九月作 「はらっぱ67号」より

川口の小学校との交流会

 この子供達とは、色んなことに挑戦したり、他の学校の子供達と交流などもした。それというのも、ぼくの妻の弟が、埼玉県の川口市で小学校の教師になって、やはりおなじ学年を担任していた。そこで、当時本格的に教えていたバスケットボールの交流会をしようと持ちかけたら、すぐにやろうと言うことになった。休みの日に子供達と数名の親を引き連れて、川口の小学校まで行ったことがある。小梅小学校の十倍くらいの土の運動場をみて、びっくりしていたのを思い出す。やがて、この交流会が盛り上がったので、今度は小梅小学校に招いて、やはり交流会を持ったことがあった。その時は、バレーボールを楽しんだり、音楽の演奏などをした覚えがある。 

夜の山手線一周実行

 また、学級会で色んなことが子供達で話し合われて、『決めたことは実行する』と言うならわしがあった。ある時、子どもの一人が、「移動教室のハイキングが楽しかったので、今度はこの東京の中を歩きたい」と言う提案をした児童がいた。そこで、当時山手線一周というものが、西武の系列の会社でやっているのを知っていたので、その日に希望者を募って参加することになった。当時三十五人位いた中で,五人くらいの子が棄権したが、あとの残りの子がほとんど参加するということになった。親にも働きかけたら、十五人くらいの親も参加したいと申し込んできた。十月十日の体育の日がその当日であった。山手線一周は、四十二・一九五キロメートルある。しかも、高田馬場をスタートにするのであったが、出発が夜の七時ということであった。そのために、夕飯を早めに食べて、地下鉄銀座線の浅草に集合させて、高田馬場に向かって出発することになった。子供達には、夜中の十二時頃に夜のごはんを食べるので、弁当を持たせての参加であった。また、もし万が一具合が悪くなる児童が出てきたらと言うことで、親の中から車を一台出してもらい、子供と一緒に動いてもらうことにしていただいた。高田馬場を四時間くらい歩いて、上野駅の北口に着いた。そこで、子供達全員が合流して夜の食事となった。道路に腰を下ろして、ごはんを食べると、急に眠気が出てきて、そこで寝込んでしまう子が何人か出てきてしまった。あらかじめそこで、家に帰る児童も数人いた。ごはんを食べ終わった頃は、電車もすでに動いていないので、歩いて上野駅から向島まで帰ってもらった。この子たちは、次の日に最後の野球の大会があると言うことで、本当は参加したかったのであるが、あきらめて帰ってもらった。

再び出発

 眠っている児童をたたき起こして、残りの子供達二十五人くらいと十名くらいの親が歩き出した。真っ暗な道であるが、街灯もついていて道の表示もきちんとしていたので、安心して歩くことが出来た。だいたい、二時間くらい歩くと、休憩地点があり、そこでボランティアの人達がスープなどを出してくれた。しかし、だんだん東の空が少し明るくなるに連れて、さすがに眠気は最高潮に達してきた。その場所は、明治神宮の所であった。下にひかれた玉砂利の上を歩きながら、何人かの女の子は足が痛いことと眠いので、泣きながら歩き続けていた。みんなに励まされながらゴールの高田馬場に着いたのは、次の日の七時から九時頃であった。全員が一緒に歩いているわけでなく、早いこと遅い子では、二時間以上の差が開いていた。早くついた子が、おくれてゴールした子を励ましているときの場面を今でもしっかりと思い出すことが出来る。結局上野から出発した児童は、全員歩ききったことが出来た。眠い目をしながら、ゴールした全員で記念の集合写真を写したものが、アルバム帳にきちんとはられて残っている。

すごいことをやってしまった

 今考えても、すごいことをやってしまったもんだと改めて、感動してしまう。こういうことをやると、子供も親も結束力が自然にすごくなってしまう。卒業してから、クラス会をしようと言うことで、ふつうのクラス会はつまらないので『とまりがけのクラス会』をしようと言うことになった。夏休みに二泊三日の宿泊のクラス会ということになった。親の中に実行力のある人が何人かいて、バス一台を貸し切って、楽しい親子一緒のクラス会となった。移動教室なみにキャンプファイヤーや肝試しや花火大会などもやって、大いに盛り上がった。夜は、子どもは子ども、親は親と別々に責任を持たせて、グループで自由行動にした。子供達がどんな過ごし方をしたのかは、ちょっとだけのぞいたが、あとはまかせきりであった。相手は、もう卒業した中学生でもあるので、子どもの自主性を大切にしたのであった。ぼくは、親と一緒にビールで乾杯して、楽しく語り合ったのを覚えている。今から十七年前の話である。ぼくは、三十代最後の子供達であった。今こんなことをしたら、出来るだろうかと考えると、自信はない。もし、事故が起きたり、病人が出たりと思わぬ出来事を想定してしまう。おそらく、管理職の方からストップがかかるであろう。それは、今の校長先生がどうのこうのというわけでなく、どこの校長も認めてはくれないだろうということだ。世の中が、もっとゆったりと自由に考えられて、許容範囲が広かったのもこの時代の特長である。ぼく自身も、何かあったら後で考えればいいと言うような、楽観主義者でもあったからだ。
 詩を書いた渡邉由紀ちゃんは、スリッパやさんの娘さんで、下町っ子と言う名称がぴったりと当てはまる子であった。もう結婚して、子どもさんが出来たという便りが届いている。
 縄跳びや鉄棒は、高学年より低学年の方が、体も軽いので、ずっと簡単に出来る。高学年では、いくらがんばっても、こんなすごい記録は出ないのである。後にも先にも、この四年間の子供達の縄跳びへの執念はすさまじかった。

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