子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

母の姉は中国へ

母の姉は中国へ

 四年前の二〇〇五年夏、私たち「日本教育者友好訪中団」は、十七人の仲間と日中文化交流協会の小坂裕二さんを秘書長として、あこがれの中国に向かった。きっかけは、様々な偶然からであった。私の担任した児童の中に、「母の姉は中国に」という作文を書いた当時五年生の作品があった。きっかけは、本間繁輝氏(当時日本作文の会の「作文と教育」の編集長)からの、戦争体験の聞き書きをぜひ実践してほしいという依頼からであった。やがてその作品ができあがり、脳梗塞で倒れたばかりの本間氏にファックスした。病み上がりであったが、激励のお返事をいただいた。やがて本間氏も少しずつ元気になられ、お酒も飲めるようになった。文化大革命前に中国に渡った話を良くお聞きしていた。志半ばにして、日本に帰国せざろうえなかった無念さを思った。作文に書かれた「母親とその姉と姉妹を産んだ母親が会えたらいいな。」と言う話に発展した。同時に、本間氏の「上海外国語大学」の教え子さんたちに会えたら、どんなに素敵なことだろうと、話はトントン拍子に進んだ。
 やがて、私の所属する「豊島作文の会」や「理論研究会」に広がった。「横須賀作文の会」にも所属する田中定幸氏は、そこの仲間にも声をかけた。我が家の家族とその知り合いにも声をかけ、最後は、職場の同僚で青島(チンタオ)で生まれた岡山照彦氏なども加わった。「母の姉は中国に」は、再会できなかったが、南京では、本間氏の教えがたちが前日より泊まりがけで、中国の全国各地から参加し、盛大な「歓迎レセプション」を開いてくださった。訪れたそれぞれの街は、格別の思い出が作れた。
 なお、昨年「母の姉は中国に」の作者である教え子から、やっと実に五十八年ぶりに、母と祖母は、中国の母の姉に会えたと葉書が届いた。

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