子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

玉田勝郎・その2

玉田勝郎・その2

生活綴方の教育思想――自己表現・自己解放の根―― 玉 田 勝 郎

序 わたしの「生活綴方」経験

 今回は、〈生活綴方〉とよばれる教育と中野重治との関わりについて論じる。生活綴方、その教育は、「教育実践の財産目録の筆頭に置かれるべきもの」(福地幸造)といわれ、「日本の教師が生んだ世界遺産」とさえいわれる。むろん中野重治も文学と教育とを串ざしにして高い評価を与えてきた。そうした評価ないし位置づけが〈生活綴方〉実践のどこから引き出されてくるのか、その要所を見定め、特定し、考察したい。

 私は1950年代、戦後の生活綴方の「復興期」に、小学校時代を送り、そこでその教育を受けた世代である。『山びこ学校』(無着成恭)が出版され、次いで『学級革命』(小西健二郎)、『村を育てる学力』(東井義雄)をはじめ続々と優れた実践記録が世に出ることになった。総じていえば、一九五〇年代は「生活綴方の時代」だったといってよい。私は五〇年代前半、小学校五・六年の二年間、「綴方教師」の一人、小西健二郎先生の担任のもとで当時の生活綴方教育を文字通り体験したのである。
 はじめに、私自身の受けたこの教育の体験を語ることをとおして、生活綴方実践の諸相のいくつかに触れておきたい。そうした私の体験談から、生活綴方教育なるものの実践特質についていくらかでも肉感的に知っていただければ有り難いと思う。

「小西先生と生活綴方と私」

 以前(一九八一年)私は「小西先生と生活綴方と私」と題する文章を書いた。その冒頭部分を引用する。「私は幼少年期を兵庫県の山間部(丹波地方)の農村で送った。その当時、私の村には、保育所も幼稚園も、むろん学習塾などというものもなかったし、学校にはピアノもなかった。中野重治流にいえば、『その点では年寄りくさく』『下手に合理化され』ていなかったといえようか。一九五〇年代の前半、私の通った山の分教場ともいうべき小学校は、いまはもうなくなってしまっているが、その五、六年生の時に担任してもらった小西健二郎先生との出会い、その二年間の学校生活というものは、私の中から消え去ることはあるまい。」以下、その文章を踏襲しながら、個人的経験をつづることにする。
 小西先生に受け持たれる前、三十名たらずの私たちのクラスは、学年途中に担任が二度も入れ替わるなどの事情もあってか、まとまりと落ち着きを著しく欠いていた。私の母が「お前らのクラスは先生も投げとるらしい」ともらすのを、幾度か耳にした。担任の発表があり、「小西先生!」と告げられたとき、だれかれともなく「ヒエーッ」という悲鳴を一斉にあげたのだった。「あの先生は特別こわい」という先入観が私たちをとらえていた。
 新学期が始まって、小西先生が私たちに課した日課は、生活ノートを用意し、毎日のくらしの出来ごと・その一端を綴るというワークだった。家での出来事、親のこと、仕事のこと(農作業・牛の世話・水汲み・子守り、・・・)、友だちのこと、遊びのこと、教師への注文、等々。自分の眼・耳・心、要するに身体をとおして体験した外部と内部の事実を、「ありのまま」に、普段使っている言葉で綴ることを求められたのである。そのノート(日記帳)――私はなぜかそのノートに「入道雲」というタイトルをつけていた――は、翌朝、教室の片隅の先生の机の上に積み上げられ、ほぼその日のうちに赤ペンが入れられ、下校時に各自の手に返されるのだった。始業前や下校時に、「○○君がこんなことを書いてきた」といって、先生はそれを読みあげ(あるいは当人に読ませ)、実に穏やかな顔つきになって、「おもしろいやろ」、「よう見とるなあ」、「がんばって仕事したなあ」などという寸評をくわえられた。国語の時間の作文指導では、その場で書くこともさることながら、「文章病院」という名の、批評―推敲をとおしての表現法の指導が中心だった。「ここを詳しく」とか、「よく思い出して」とか、「原因と結果(順序)をきちんとつかんで」とか、「自分の言葉で」とかいった指導をされた。頑張って仕事をしたら、それを「頑張った」とだけ書かないで、どんな仕事をどのようにしたかの〈事実〉を丁寧に書こう。それを追いかけていけ。先生はくりかえし教え諭した。その指導によって、私は「生きた言葉」というものを、おぼろげながらも初めて自覚的に引き寄せたように思う。会話文での「方言」の大事さにも気づいた。
 とはいっても、最初のうち私たちは、「今日は何を書こうか」と悩みながら、事がらの細部、事実というものを書き込むことができなかった。別に「上品」な言葉を使おうという気はなかったにしても、「わたしの母は家の光です」と書いた者がいて、先生を驚ろかせた。(これは私自身もびっくりした。)また、「・・・僕は美しい夕日の下でわんわん泣きました」というようなことを書いた者がいて、私は驚いた。当時私(たち)は「美しい」という形容詞は普段は使わなかった。「きれいな」という言葉は日常語であったが、「美しい」はテライなしに使えなかった。――余談を記せば、中野重治は「うつくしい」という形容をいたるところで使う。彼の美意識の端的な表われであるからそれを「乱用」などといってはなるまいが、いまでも私はその使われ方にある種の違和感をもってしまうことがある。――また、当時私(たち)は、家の「貧乏」を書くことは恥ずかしいことだという思いに囚われてもいたろう。一口に言えば、「教科書言語」の世界から仕入れこんだ言葉の枠の中に、育ちざかりの身体を閉じ込めていた。腹を立てることがあっても、「頭の先」で怒っていて、体全体で怒っていない――先生はよくそんなことをいって、私たちに書き直し、「思い起し」を指示したのだった。時には「今日、帰ったら田んぼへ行って、麦の穂がどれぐらいになったか、色はどんなか、根っこはどうなっているか、しっかりと見てくるように。できたらスケッチして来い。」といった宿題が出された。「君らは麦・稲・ジャガイモ・・・の様子、なんにも知らんのか?一体どこで暮らしてるんか」と叱りつけて、農作物の生育状態の観察や描写を課した。

先生の赤ペンの言葉が読みたくて

 それでも、日記や詩(分かち書き)のうしろや行間に書き込まれた、先生の赤ペンの言葉が読みたくて、私は「きょうは何を書こうか」と鉛筆をにぎり、そのノートを提出した。六月の農繁期休暇が明けてまもなく、私たちの作品を集めた最初の学級文集が、『たけのこの兄』と題されて発行された。(それは二年間に十二冊出された。)その文集は、国分一太郎、太田堯(教育学者)、丸岡秀子、巽聖歌をはじめ、県下の綴方教師(小西先生の友人)や雑誌『きりん』誌、等へ送られてもいた。(『たけのこの兄』は全日本文集コンクールに入選した。先生からそのことを知らされたのは六年生になってからであろうが、皆が歓声をあげたのを覚えている。)
 雨の日の体育の時間は、作文や詩の授業に切り替えられることがよくあった。その都度、私たちは不満と抗議の声をあげて反抗を試みたのだが、先生は眼鏡の奥に笑いをかみ殺しながら、藁半紙にマス目を刷り込んだ手製の原稿用紙を一人ひとりの机の上に置いてまわり、室内の騒ぎが収まるのを待って、作文や詩を朗読し始めるのだった。時には一字一字
書き取らせた。中野重治(「歌」)や大関松三郎(「虫けら」「馬」)や『山びこ学校』の生徒の詩や文章、クラスの誰かの作品がとり出され、読み上げられた。背面黒板にはクラスの誰かの詩が入れ替わり書かれてあったように思う。ちなみに、このとき、私は中野重治の名を知り、覚えたのだった。(「歌」を知ったのは六年生の時だったかもしれない。)それらの作品は、もの心のつきはじめた、つまり自分と社会との関わりの認識、〈現実〉に対して距離をとって見る批評精神の芽ばえはじめた五(六)年生の私の心に、強烈な感化をおよぼし、生活意識の核をゆさぶった。私は、「お前は○○や○○を歌うな」とか、「お前は○○といわれ、おれは○○といわれ・・・」とかの言葉をおぼえ、唱えた。そして、何かしら自分がひとまわり大きく、強くなったように感じたものだった。――「歌」について、私の余談を差し挟めば、「赤ままの花」や「とんぼの羽根」や「風のささやき」をこの詩人が「かつて歌われなかった仕方で歌っているのだ」ということを、当時の私は理解できなかったであろうが、ただ感じとしては、それらの「言葉」が好きだった。―― 
 田植え時に、苗を植えながら、また土手に腰をおろしてとりとめのない話に興ずる母や村の女(早乙女さん)たちの会話を綴ったり、神社の境内の一郭で商いをしているセンベイ焼きのおっさんの話を書いたりしたとき、その私の作文には「傑作の卵」を示す三重丸が書き込まれていた。私は、そのことがつまらぬことだとは思わぬまでも、そんなに価値のあるものだとは思ってもみなかった。
 勤労感謝の日の夜なべに、遅くまで縄ないをし、膝の藁くずを払いながら父母が交わす
会話を詩に書きとめたことがある。誰が誰に「感謝」するのか、ラジオのアナウンサーの言う「感謝のことば」などいらぬ、といった反発を私は行間にこめていたろう。「農家の皆さん、ごくろうさま」というような言葉が、軽々と自分の親に向けられるのを不快に思う少年に、私はなっていたように思う。小西先生は、社会科や国語の教科書に顔を出してくる、農村やその暮らしについての脚色された嘘を私たちやその親の生活実感の側からあれこれ指摘し、考えさせ、「教科書でもウソを書くのだ。君らどう思うか」と「挑発」し――「挑発」という言い方は誤解されかねぬがそのまま使う――おんば日傘の、土のにおいをもたぬ生活の虚像、そのひ弱さを、私たちに気づかせようとされた。「よそまで、そんな話はもってくるな、生意気な」(『梨の花』)といった感情を、率直にぶつけてこられたように思う。先生自身が怒っていた。それは、私を強く刺激した。
 先生は「親孝行」などという言葉(呼びかけ)は、そのものとしては私たちにむかって口にされなかったが、私たちが父母のことを綴ったとき、その文はほとんど例外なく大切にされ、しばしば詳しく書き直してくるよう指示された。一学期に二冊は出された文集には、「親と子」という章が設けられ、そこに載せられもした。クラスの忠利君の、「おかあちゃん」という詩が、少し大きめの字で文集に載せられたことがあった。それは、「ぼくは小さい時あまえん坊で/五つまで乳を飲んでいた」で始まる、死別した母親のことを書いた詩だった。彼はその後半部をつぎのように書いていた。

タクシーにのって、病院へいった。/おかあちゃんは/しん台の上にねて死んでいた。/ねえちゃんは鼻をすするような声をだして/泣いた。/おかあちゃんの顔をさわったら、/つめたかった。
いま、おかあちゃんがおられたら、/どんなに楽だろうと思うときがある。/おかあちゃんはおられないが、/ぼくは泣くとき、/「おかあちゃん。」といって泣く。 (五年)
 私は最後の二行を読んだとき、忠利君をけんかで泣かせたときのことをまざまざと思い出し、何かとりかえしのつかない罪を犯したような気持ちになった。むろんそれは同情心のようなものではなく、子ども心にもっと痛切な、自己嫌悪に近い感情だったろう。彼は、「うれしい時、/力いっぱい仕事して/ようしたのうと/ほめてもらった時。/かなしい時、/おとうさんが えらい(しんどい)いうてや時。/お金がないというてや時。」という詩も書いていて、私はそれを文集で読んでいた。彼が父と姉との三人家族だったこと、よく仕事(家の手伝い)をしたこと、等を、私は知ってはいたが、母のいない忠利君の寂しさや母への思いに気づいてはいなかった。そのことに気づかされたのである。

粗野な雰囲気から抜け出す

 生活綴方をとおしての、生活認識とこうした交流が学級の中にうみだされ、私たちは当初のガサガサした、粗野な雰囲気から抜け出していったように思う。こんにちでは信じられぬことであろうが、全員が二年間ほぼ毎日〈生活〉をつづったのである。小西先生が私たちを指導したその実践の記録を『学級革命』として出版したのは、1955年のことであった。「子どもに学ぶ教師の記録」という副題が付されていた。(註1)
 この「綴方教師」は、子ども一般を語ることを嫌った。したり顔で概念的に評論する語り口を嫌った。禁欲してもいたにちがいない。それは徹底していたと思う。徹底することで、この「田舎者」教師は教育のひろい(普遍的な)大海の水をくむことができたのではなかろうか。「ひろい解放運動」の地下水にとどき得たのではなかろうか。

Ⅰ 生活綴方――「ひろい解放運動の地下水」

 昭和期に入って、鈴木三重吉主宰「赤い鳥」誌上の綴り方作品――それは「文芸主義」、「童心主義」と批評される特質を強く持つものだった――を批判的にくぐり抜けることで、社会的な存在としての子どもの生活現実に立脚し、子どもの「ありのまま」の生活事実・実感を表現させる「リアリズム重視」の立場に立つ〈生活綴方〉教育運動が、主として農村部の尋常小学校の教師たちによって展開された。こんにちでは国語科における「書くこと」の指導(「作文指導」)として教科内的に、限定的に解される場合が多いが、生活綴方教育という実践は、もともと子どもがその〈生活〉を綴ることをとおして、彼/彼女らの(多面的な)〈生活意欲〉――それは好奇心、生活事象への働きかけ、「微小なもの」の発見、喜びや悲しみの情感、不当なものへの抵抗感覚、あるいは切実な訴え、等々となって表れる――を引き出し、生活に対する認識とその表現力を高め、そうした固有の営み(指導)によって〈生活に根ざした知性〉(思想・感情=「ものの見方・考え方・感じ方・行動の仕方」)を育んでいく、という特質を共通にもった教育であった。要約的にいえば、その教育は、子どもの〈生活〉そのものの吟味・ふり返り(反省)という面と、生活の〈認識―表現〉の指導という面との、二つの(相互媒介的な)構成契機を含むものとして実践されてきたのである。
 中野重治は、この生活綴方に依拠した教育の実践とその「綴方作品」に対して、文学者の立場から持続的な関心を示し、彼独自の教育観や子ども観、日本語教育、文章表現指導の視点からそれを高く評価した。子どもの側につかみ取られる〈生活の理法〉に注目し、そこに子どもをたくましく成長させる学びと教育との〈根〉を見てとり、生活綴方教育運動を「ひろい解放運動」の「地下水」と見たてたのである。ここにいう「生活の理法」とは、自然の摂理、社会の矛盾を含むが、主として「対象に働きかける」際の合理、行動や技法の順序、不当なものへの抗議や反発の根拠、さらには理(ことわり)を追いかける「ねばり強さ」、等を指す。実践知のもつ必然性(生きた論理)といってもよかろう。中野は、「現実の事象から本質的なものと付随的なものとをふるいわける力」とも述べている。(註2)
 同時に中野は、生活綴方の指導に当たった教師たちの指導法に散見される一面的な偏り、とりわけ綴方作品に表われてくる、教師の側のセンチメンタリズム――「生活に即してというモットーが、じめじめしたことや米味噌のことを歌うことだというふうに理解されてる傾き」や「社会階級の問題を教えこもうとする精神」(「子供の芸術と大人の指導」)――に対して、手厳しい、同時に温もりのある批判を行なうことを忘れなかった。子どもの内側から生きた〈言葉〉が生成し拓かれていく契機・可能性を、綴方諸作品の中に発見し、生活事象への子ども自身の能動的な〈働きかけ〉を洞察・重視し、「言葉づかい」の指導法に関わる具体的で鋭敏な提言を数多く残している。「子供の芸術と大人の指導」という文章に書き込まれた、彼の美しい子ども像、その詩的な表現は、かのセンチメンタリズムへの批判であると同時に、〈綴方教師〉たちへの彼の大きな(「大きすぎる」といわねばならぬほどの)期待の表明でもあったろう。(註3)
〈盤根錯節は鼻たらしを待っている。それはおやじと世界との経験に照らしてあきらかだ。要はそれを打ちやぶるに足る強い肉体と弾力ある精神との養成だ。もし子供における空想の奔放、汎神論者かのような万物に対する無差別、冒険心、美醜の原始的な識別と、美を愛して醜をにくむ心、算術的な英雄主義・・・場合によっては頑固ものでありおどけものであることの尊敬、利(き)かぬ気――特に理性的なものに執念ぶかくかじりつく精神、こういうものが思いきり養われないで、そのかわりに、ひねくれた解釈ずき、センチメンタルな同情心などが養われるとすれば、そういう子供の未来は知るべきである。〉(「子供の芸術と大人の指導」、『教育・国語教育』・一九三六年)
くりかえすが、中野は、「生活綴方の運動というものは、ひろい解放運動の内部部分として、ひろい文学運動の内部部分として、地下水のような歴史をたどってきた」(「『母の歴史』の背景」・一九五五、全集二十五巻)と述べて、高く評価した。生活綴方への、彼のそうした評価、位置づけは動かない。
これと同類・同質の評価は、戦前・戦後をとおして生活綴方教育の実践者、理論的指導者として持続的な活動を積み重ねてきた国分一太郎はむろんのこと、多くの実践者・研究者によってなされてきた。たとえば、同和教育を「解放教育」へと引き上げた福地幸造は、生活綴方を「いつも(教育実践の)財産目録の筆頭に置いてきた」と繰り返し語っていたし、蔵本穂積は柳田國男を引きながら「千年にわたってなお保たるべきもの」(一九九一)と呼び、教育学者の太田堯は、「文を書くことで、その子その子の設計図を引き出して行く。そういう教育の原型、・・・自己表現を助けるアート。教育における世界遺産だと思っている。」と語っている。(二〇一〇)(註4)
生活綴方(教育)への、こうした評価・位置づけというものは、どこから引き出されてきたものだろうか。中野重治は、どのような教育の論理・理法によって、この生活綴方をとらえ、かくも高い評価を与えたのだろうか?生活綴方教育の固有の実践、その指導・営みの本質をどこに求めるか?こうした問いに答える前に、こんにちでは、生活綴方、それを基軸とする教育についていくらかの説明・解説が必要だろう。(本学の教職課程を履修している学生でさえその大部分が「何も知らない」という現状を想起されたい。)

Ⅱ 生活綴方の定義

 ここでは、中野重治が再三紹介し、引用しもしている(たとえば「愛と研究」・一九六三、『全集』二十二巻)、国分一太郎の『生活綴方読本』(百合出版、昭和三二年)から、国分が行なった「生活綴方の定義」を抜き出しておきたい。本書は、生活綴方の時代と総称された一九五〇年代において、「生活綴方的教育方法」という用語の下で陰に陽に醸成された「綴方万能論」的発想への「反省」を「しっかりと頭において」著わされたものである。(本書の第五章は、「生活綴方の限界」と題されている。)
 若干の私事を記しておけば、私はこの書を著者のサイン入りで頂いた。恩師・小西健二郎先生に書いていただいた紹介状を持って、国分先生のご自宅を訪問した時のことである。二人のわらしの絵、署名とともに「1961、3、18」という日付が記されている。序で述べたとおり、私たちの文集・『たけのこの兄』は国分先生の手元に毎号送られていたし、その最終号には国分先生からの葉書の言葉が全文載せられている。

〈A 今日ノ生活綴方トハ、(1)社会ノナカニ生キル生活者トシテノ子ドモタチガ、(2)自分ヲトリマク外界(自然オヨビ社会・人間)ノ事物カラ働キカケラレタリ、マタ、自分カラソレニ働キカケル過程デ、(3)ソノ心身ノ発達ト環境ノチガイニ応ジテ、(4)考エタコトヤ感ジタコトヲ、(5)ソノ考エヤ感ジガデテキタモトデアル外界ノ事物ノ具体的ナ姿ヤ動キトイッショニ、(6)自分ノモノニナッタコトバ、体験ト思考ト感動ニウラヅケラレタ生活ノコトバデ、(7)日本語ノ文法上ノ約束ニモ合ッタコトバデ、(8)日本ノ文字デコトバヲ表記スル上ノサマザマナ約束ニモ、ホボシタガイナガラ、(9)ダレニモワカルヨウニ、ハッキリト表現サセタ文章デアル。コウシテウマレタ文章ヲ生活綴方トイッタリ、生活綴方ノ作品トイッタリスル。〉
〈B コノヨウナ文章ヲカカセルスベテノ過程デ、マタ、ソノ作品ヲ集団ノナカデ研究シ吟味シ、ソレニツイテ話シアイヲサセル過程で、子ドモタチニ、(1)事物ノ姿ヤウゴキヤソノ相互ノ関係カラ意味・ネウチヲ見イダシ、事実ニモトヅイタ思想・感情ヲ形ヅクル態度ヲシダイニツクリアゲ、(2)自然ヤ社会ノ事物ニツイテノ正シクユタカナ見方、考エ方、感ジ方ヲシダイニ養イ、(3)書キ手自身ノ観察力・想像力・思考力ヲノバシ、頭脳ノ能動性・創造性ヲシダイニ発達サセ、(4)コノコトニヨッテ、子ドモタチニ、自由ナ個性的ナ自我ヲ確立サセルトトモニ、(5)人間的ナ社会的ナ連帯感ヲ、シダイニ育テテイクヲ目ザスノデアル。(6)日本語ヤ日本ノ文字ニツイテノ意識的ナ自覚ヲウナガシテイク。〉
〈C コノヨウナ目アテヲモッテスル仕事ヲ生活綴方ノシゴトトイイ、コノシゴトニハ、マタ(1)子ドモノ生キタ生活・心理ヲツブサニ、キメコマカク知ルコトガデキルトイウ便利ガアリ、(2)子ドモノ内部ニヒソム可能性ヲヒキダシツツ彼ラノタメニ将来ノ生活ノ準備ヲハカッテヤル効果ガアルノデアル。〉

 こうした「定義」に示されている生活綴方の「仕事」・実践というものは、こんにちにおいて(も)、国語科における作文(文章表現)指導をはじめ、子どもの日記や生活記録、「児童詩」等の指導、学級づくりにおける協同的学び(「学級文集」・「学級通信」の活用)、「人権作文」等における訴え、さらには成人の識字学級や在日外国人の「日本語教室」における自己表現、等々の学びの場面において継承されて、実践されている。さらには南 悟『生きていくための短歌』(岩波ジュニア新書)に示された、定時制高校生の、定型を媒介にした生活の表現をも、そこに加えてもよかろう。共通して、そこでは〈生活事実ニモトヅイタ思想・感情の形成〉がめざされているのである。私は、南 悟の実践、そして生徒たちの歌に強い感銘を受けた。そこには中野重治のいう「素朴・野暮」、ぬくもりと痛み、そしてそれを通しての、はがねのような〈訴え〉がある。厳しい生活の理法にかじりつくことで、生活が言葉を引き寄せ、言葉が生活を拓いていく力が表現されているといっても過言でない。(註5)
 要約していえば、生活綴方の固有の仕事、その教育の核心部は、〈生活を綴る営み(文
章表現)による、主体(生活者・学習者)の内側からの、思想と感情の形成(創造)〉と
いうところに求められる。それは、教科教育でなされるところの、「所産・所与」(文化遺
産)としての知識・思想・感情の教授や伝達(受容)ではない。自己の生活を綴らせるこ
とで、「自然や社会や、自己を含む人間の生活について、その意味と美をつかみとらせ、自
分の感情や意見・意志・行動を、現実生活のなかで位置づけさせる。同時に子どもたちの
観察力・思考力・想像力・感応力を、文章表現の活動とむすびつけてのばしていく。」(国分一太郎、「作文と教育」・一九七六・4月号)
 生活綴方のなかにこのような特質をみることによって、中野重治はそれを「ひろい解放
運動、文学運動の地下水」と呼び、太田堯は「自己表現を助けるアート」と名づけたので
ある。

Ⅲ 生活綴方における表現――「桶を桶という」

 この連載の第一回(「素朴・ぬくもり・肉感性」)において、私は、中野の「文学的(創造的)なものと真実」と題する、生活綴方およびその教育に関する文章を引用した。その一部を再度引用することを許されたい。
〈文学的、創造的、芸術的といったことを、「生活綴方運動」ということに結びつけて眺めた場合、それは何を指しているか。何を指すものと心得ていいのか。私はそれを、ひどく簡単に、「物に即して」、「感覚をとおして」というところで考えたいと思う。そしてこのことを、人間の教育のため、人間が真実にたどりついて行くために根本的に大切なことに考える。人間が、ことに幼年・少年期に、こういう傾向を精一ぱい伸ばすか伸ばさぬかはその人の生涯に関係する。めいめいの生涯に関係するだけでなく、はたのもの、まわりのものにも深く関係する。〉
 〈ところで、科学的な行き方、正しい概括ということが尊重されている。それはそうあるべきことであって、論理的な行き方、科学的な行き方というものなしには人間はそもそも生活することができない。まして進歩することはできない。しかし私は、それと全く同じほど、具体的、感覚的、経験的な生き方が尊重されなければならぬと思っている。特に今の日本でその必要が大きい。〉
〈いずれにしろ、私たちはものをあるがままに見て行く力をやしなわなければならない。砂糖は甘い。しかしこれは砂糖だから甘いというのでなくて、なめてみてあまいと知る。・・・何ものかを、何ごとかを、手でさわって知って行く。眼で見て知って行く。舌でなめて知って行く。できあがった知識、手足そろった学問を尊重しないのではない。それはあくまで尊重する。しかし知識だけで万事完了とはしない。またどういう知識も、つまるところ脚で歩いたもの、手でさわったもの、眼で見たもの、舌で味わったもの、耳で聞いたものの集積の上にあることを知って、さらにそれを自分でたしかめようとする。これが「文学的」の具体的な中身である。〉(日本作文の会編『講座・生活綴方 5』所収、一九六三。なお、この文章は、『中野重治全集』にはなぜか収録されていない。)

 この文章での、中野の考察は、人間(子ども)の〈想像力〉(空想力)の働き、その大切さの指摘へと移っていくのであるが、上記引用文において、中野重治は、「感覚的なもの/経験的な行き方」と「論理的・科学的な行き方」との、双方の「尊重」について言及しつつも、その眼目は、両者(両極)の〈間〉(あいだ)、ないしその〈根底〉に置かれていることを見逃してはならないだろう。中野のまなざしは、「真実にたどりついて行くために根本的に大切なこと」に注がれている。とりわけ両者・両極の〈間〉に介在する、自己省察や吟味をはじめとする厳しい緊張関係を見落としてはならない。自分自身(その生活)との生きた〈関わり〉を棚あげしてはならぬ、蒸発させてはならぬ、ということが示唆されている。
このことを(子どもの)〈生活と表現〉の問題に即して言い換えれば、つぎのように言いうる。子どもの主体的(主観的)な生活実感が〈表現〉へと対象化・客観化されるとき、あるいは〈生活/経験〉から〈表現〉へと移行ないし転位するとき、その表現・追求過程において、生活者たる書き手自身の棚上げ(ないし消去・脱落)をどこまでも許さないという視点、すなわち「自分でたしかめようとする」こと、「言葉を生活に近づける方向で使うこと」、「生きることの表現として言葉を使うという実践的立場」(「美しい日本語とただの日本語」)が、「十分頑固に」守られねばならぬ根本態度として、そこには力説されているのである。「あの社会科、あの何々テストというのにうまくはまるような構造の文章は、文章として首尾一貫したときにしばしば生きた人間からはなれて行った。・・・人間の行動は、結局は論理的であるだろう。しかしそれは、紆余曲折を経てそうなって行く。その道行きは、わるい意味での教科書言葉のようなものではない。言葉は飛び、飛びこし、反対方向へ逆もどりし、つまってしまうこともある。その総体をふくめての論理的である。」(「子供のための、少年少女のための文学について」、一九五七)
中野の、こうした視点は、「今の日本」(近・現代日本の公教育)における〈教化〉(インドクトリネーション)――たとえば、中野が繰り返し指摘しつづけた「不当に抽象化された言葉」としての、「客観的」知識なるものの脱状況(脱文脈)的な伝達・注入・憶えこみ――の学習構造を想起するならば、くりかえし強調され、省察されてしかるべき問題であるだろう。
〈綴方教師〉の多くは、目の前の子どもたちが「学校向け」の貌と「生活者」の貌とをもち、その両者の亀裂と断絶のもとで、後者(「小さな百姓・労働者」)の内部に芽生えてくる感性と理法が前者によって絶えず抑止(封印)されていくという、学校教育の制度的特質に敏感であった。教室の中では、その小さな生活者たちは、〈育ちざかり〉の身体をかがめ、公認の「よそ行き言葉」を口真似し、腹が立っても「体全体で怒る」ことから遠ざけられ、「ものの言えない」・「学習意欲のない」存在へと押しやられていた。綴方教師を絶えず悩まし続けた、そうした〈学校学習〉の現実――「生活綴方の父」ともいわれる小砂丘忠義はそれを「教育の煙幕的効果」(註6)と呼んだ――の真っ只中から、いわばそれへの対抗的実践として、綴方教師たちはその子どもたちに「自分の言葉」を取りもどさせ、〈理性的なものに感性的にかじりつく〉(中野)「粘り強さ」を求めたのである。
 生活綴方(教育)は、後に述べるように、子どもに「ありのまま」の〈生活〉を「ありのままに」綴らせるという〈文章表現〉指導をとおして、書き手自身の、生活と表現との〈間〉に生起してくる(引き出されていく)様々な緊張関係に鍬をうちこみ、そこから〈生活知性〉を耕して行くという教育思想・方法であった。子どもの学びと成長の〈根〉を、そこに見いだし、そこを耕そうとしたのである。(註7)
 ところで、作品『村の家』の、転向作家・勉次は、ひとたび筆を折って「百姓せえ」とせまる父・孫蔵の説諭に対して、「何の自信もなかった」が、「やはり書いて行きたいと思います。」とのみ答えた。この〈書く〉という千金の重みを持つ勉次の言葉は、〈書くこと〉すなわち文章表現に全身をかけようとする文学者・中野重治の決意の表明にほかならなかった。彼は、その後、晩年の大作『甲乙丙丁』にいたるまで、まさしく「日本革命運動の伝統の革命的批判」に挑み続けることになるのだが、一九三五年以降、戦時体制下においては「なだれかかる」、「出来あいの言葉」たる国家・国民の公用語や、時流に迎合・屈服していく文学者、転向作家たちの言説に対峙して、それらに顕現してくる「痙攣的なセンチメンタリズム」や「一般的なものにたいする呪い」(非合理主義)、そして「不当に抽象化」された公式(「党組織」の言語)、その虚偽意識をしぶとく痛撃する文学的実践―抵抗を強いられたのだった。彼はまさしく包囲された、「でき合い」の公用語の網の目の中で、しかも〈伏字と発禁〉の検閲システムに縛られながら、〈書く〉ことの営為を追求せねばならなかった。
このとき、彼が肝に銘じ、虚偽意識に対抗していく表現方法の原基として採用し押し出した言葉が、〈私は田舎者であり、桶を桶といふ。〉との格率・公理であった。「すべて文学は、文学自身の言葉によって正確に研究せられねばならぬ。研究者は、『私は田舎者であり、桶を桶といふ。』という気組みを持ち保たねばならぬ。」「われわれ自身には、一つの出来あいの言葉も与えられてはいぬことを合点せねばならぬ。桶を桶と言い、桶にたいして桶という言葉を見だすためには、われわれは往きつ戻りつをいやがらずにねちねちと行かねばならぬのである。」(「ねちねちした進み方の必要」・1939)。
 中野重治が『村の家』の主人公・勉次に「書いて行きたい」と答えさせた時期より四(五)年前、1929、30年に、生活綴方の成立史の道標ともいうべき二つの教育実践・研究誌――『綴方生活』と『北方教育』――が相次いで創刊された。この時期、日本の教育界・学校教育において、〈綴方〉(科)という国語科の一指導分野の「すき間」――綴方には〈国定教科書〉がなかった――に食い入って、子どもたちに自らの生活経験、そこでの事実と感情を「ありのまま」に綴らせようとする実践にとつおいつしながら取り組む一群の教師たちがいた。その多くは尋常小学校の青年教師(訓導)だった。彼(彼女)らは、限定されたその綴方科を活用し、国定教科書が押し付けてくる不当な(観念的な)「概念語」――たとえば忠孝イデオロギーを核とする出来合いの国家語――に対峙して、〈書く〉ことの指導をとおしてそれを砕いていく実践とその理法を追求した。それは〈概念くだき〉とよばれた。とりわけ『綴方生活』や『北方教育』、両者の交流をとおしての実践研究に結集した教師たちは、それ以前の綴方実践史上における「自由選題」綴方や鈴木三重吉主宰『赤い鳥』綴方(文芸主義・「童心」主義的傾向)を批判的にくぐる中で、そこから脱皮し、なによりも生活の現実・事実を〈書くこと〉の意義・意味――子ども自身による内発的な思想・感情の形成、すなわち自己表現――における、自分の〈言葉〉のとり戻し・創造と、それにともなう〈社会性〉の再発見と伸長をめざしたのである。
 「自分の言葉」の奪還・創造とは、「言葉に生活台の真実から出発した意味をはらませること」であり、「言葉を生活に密着させること」を意味した。(国分一太郎「国語実力への北方的工作」、『北方教育』・一九三五)。それは、中野重治が主張した「桶を桶という」行き方、進み方と重なる表現法=教育方法だったといってよい。そこから、彼らは子どもの〈生活意欲〉を引き出し、そこに根ざした〈生活知性〉のたがやし、高まりを模索し追求した。追求しようと苦心をかさねたのだった。
 「北方性とその指導理論」(北日本国語教育連盟)に語りだされている以下の文言は、生活綴方運動が到達した教育思想とそこでの実践課題とを明確に示すものである。そして、〈ねちねちと〉という用語に示唆されている粘り強さと「意欲性」(元気)は、まさしく中野重治自身の志向性でもあった。
 〈私たちは、北方の子どもたちに、はっきりと、この生活台(「子どもたちの肉体の現場」)の事実をわからせる。暗さに押し込めるためではなく、暗さを克服させるために、暗いじめじめした恵まれない生活台をはっきりわからせる。わかったために出てくる元気はほんとうのものであると考える。「生活性」を握ることが正しければ必ず「意欲性」に突きあたる。そして「生活の認識」によって「意欲性」に前進の鞭を与える。・・・ねちねちと生き抜いていく苦難の中にほのぼのとした自分たちの文化を、私たちは私たちの子どもに握らせたいのである。〉(『綴方生活』、一九三五・7月号)
〈農村の現実は恐ろしく暗い。暗い暗いとばかりいっていては駄目だという文学者などもあるが、しかし実際には動かしがたく暗い。そういう暗黒に子供たちが正面からぶつかるのはいいし正しい。しかし子供のぶつかる調子そのものが暗くなってはいけない。飯米がなくなっても税金が納められなくても、子供たちの気持ちは根本的に元気に保たれねばならない。私は子供たちにだけ何か特別な童話風な世界が残されるべきだといおうとするのでは決してない。その反対であって、この子供たちにこそ闇を見透かす強い視力が養われねばならぬと考えるものだ。〉(中野重治「農村児童の綴方について」、『実践教育講座』、一九三七・四、『全集』第十一巻所収)
 しかしながら、こうした綴方教師の実践課題と志向性は、一九四〇年に入るや、治安維持法体制下の検閲と弾圧によって、許容されざるものとなり、圧殺され、子どもの綴方は「国策作文」という「口真似」と概念文によって制圧されていったのだった。中野重治についていえば、「書いて行きたい」というぎりぎりの選択と決意、そして〈桶を桶といふ〉「ねちねちと進む」「野暮な」進み方それ自体が、綴方教師とその指導の下で〈書く〉子ども同様に、もはや許されぬものとなっていたのである。

Ⅳ 「ありのまま」表現の生活綴方的意味

 生活綴方の表現法は、一般に「リアリズム重視」といわれ、子どもの生活事実やそこでの子ども自身の「対象へのはたらきかけ」、率直な実感・情感を「ありにまま」に綴ることを求めた。むろんのこと「ありのままに綴る」といっても、それは、子ども主体・表現主体の、生活事象(対象)との生きた関わりによって構成・再構成されたものであり、いわば「純客観」のごとき静的な「映写」ではありえない。「北方教育」の綴方教師・佐々木昂の表現を借りれば、「一つの事象と個人意識との関渉(関わり)によって構成されたものだ。」
 これを中野重治流にいえば、つぎのように言うことができる。
〈さきざきでは抽象の領域にもはいって行くが、そもそもの出発のときには肉体的〔肉感的〕、物質的なところで言葉が生きて働く。それが文学の言葉である。むろんこれは、「文学の」とことわる以前の、およそ言葉というものの最初の姿でもある。・・・結論があってそこからこっちへ来るのではなくて、手ぶらで出かけてこつこつと研究コースを進む。それをそのままに追う。結論は、それがどう出るにしろ、書く方、読む方がわれとつける。自分でそれを引きだす。・・・そこへ行く道行きが、すべて目で見ること、耳でさわること、鼻でかぐこと、舌でなめて味わうことなどをとおして進む。〉(「文学と言葉」、一九六六年)
 ここに中野の言う、「こつこつと研究コースを進む」その肉感的な道行き、「後先き矛盾したりしながら本体に次第に近づいて行く姿」、そこでの表現(言葉)上の「混線」と「舌足らず」、要するに「対象をそれに即して追って行く野暮な精神」(「日本語の問題」・一九三九)――まさしく、これが生活綴方のいう〈ありのまま〉表現の要点・内実であったという点を見逃してはならぬだろう。〈「アメバ、アメナテ/カゼバ、カゼナテ/ダレ、ツケタンダベナ/イツバンハヤク、ダレツケタンダベナ」、「こんち(昆虫)とは、中がやこくて、外がかたいむしです。」、「私の顔はまっ赤になり、私の心はおこりました」〉と書く子どもの、「文章として客観化しようとする初歩のふるまい。これをたえまなくみることなくして、認識の発達、意志や感情のねりなおし、ひいては世界観の形成に助けをあたえる教師の役割」が「はたされるであろうか」(国分一太郎『新しい綴方教室』・一九五二)。 そしてその道行きは〈科学〉のそれでもある。素朴・原始的ではあっても科学の精神と撞着しない。それゆえその「道行き」の指導は、手間ひまかけた認識―表現指導の工夫、当の子どもを知ること、中野の言葉でいえば子どもと言葉(日本語)への〈愛〉を必要不可欠とする。生活綴方的リアリズムは、つまるところそこに行き着く。それが、いわゆる〈綴方教師〉の実践の作風となる。戦後の「生活綴方復興」を担った無着成恭にしろ、東井義雄(『村を育てる学力』)にしろ、小西健二郎にしろ、そうした作風の体現者にほかならなかった。
 先述したように中野重治は、恐慌・冷害・凶作に苦しむ東北農村の子どもの綴方作品に深い関心を示し、それを指導する教師たちの実践に、文学者として厳しくも温かい助言・提言を送り続けた。彼は岩手県下の凶作地の、一人の小学校児童が書いた綴方(それは「徳永直が見つけた」作品だったが)を繰り返しとりあげ(註8)、子どもの表現指導に関して、ひかえめながら、つぎのような要望を記している。まずその綴方を紹介する。

「冬がつかぞいてきた。今から大そう雪がふってくるので、けかつのやうなものに、こんなにけかつなものではないか。/どこのうちでもこまっていますのでこめがとれないので、どこのうちでもいねをこかないうちはゆきのしたになっているので、大そうきもちがわるいが、まだこめをついてこないのでいるうちでは、どうしてくらしているだらう。/がうちでもまだこめがたりないのでまことにぞんじます。××とまうす神様ををがんでをりますが・・・・」
 これを読んだ中野は、「この綴方は、『その子は頭が悪いので』と『傍から女の先生がしきりに』いったにもかかわらず、生活の理法を喘ぐばかり追っているために、文学の域、むしろ詩の域に近づいている」(「日本語の問題」、1939)と批評し、つまりこの子どもの心理・情感に内在しつつ、世に横行する、生活の月並みな摑み方の代表たる「随筆的」「茶話的」文章に(この綴方を)対置している。そして、その綴方を指導した女教師に対して、彼女の労苦を認めた上で、次のように要望を述べている。
〈「けかつ」は飢渇であろう。飢饉である。子供がそれを怖れているのである。それも概念としてのそれを怖れているのではない。今年の、目の前の、頭からかぶさってくる、足もとへ這いあがってきているその飢饉への恐れである。今年は雪が早く来たのである。「うちでもまだこめがたりないのでまことにぞんじます。」――問題はここで高潮点の一つへ来ている。「まことにぞんじます」のひとことは、人間以外のものにさえすがりつきかねないところへこの子供たちの恐れが来ていることを語っているのだろう。「××とまうす神様をおがんでをりますが」――ほとんど正視するに忍びぬような状態である。〉〈(飢渇が)暗鬱な、人間の力で払いのけられそうにない重量で圧服的にのしかかってくる、その下に一人の子供がいて、それをちゃんと感じとって、それを彼なりに書きとめている。教師が、もう少しその子の身になって、問いつ問われつして、これにもう少し適当な表現をあたえるようにみちびくべきではなかったか。私は、この女の先生を非難しようとするものではない。彼女に、愛が足りなかったなどというつもりはない。ただ私は、彼女の愛がほんのもう少し大きかったことを望む。・・・彼女の愛がほんのもう少しねばり強いものであったことを望むというのにとどまる。〉(「愛と研究」・1963)
 ここで中野は、文学者の立場・視点から、少なくとも二つのことを「要望」している。それらはこの教師への、外部からの「非難」といったものでは決してない。その一つは、子どもの綴方(「混線と舌足らず」の表現)の中に表わされている、飢渇に対する恐怖感、その肉声・肉感、「あえぐばかりの」訴えを、あたう限りの想像力を働かせて、「その子の身になって」読み取る(聴き取る)ことの必要性である。そこから子どもへの共感や励ましも出てくる。教師としての働きかけの課題も具体化されよう。(註9)そして、もう一つは、この子のなまり、方言、表記法、等を含めて、混線した、舌足らずの〈言葉〉を、とつおいつして「粘り強く」、適当・適切な表現へと高めていく日本語指導の必要性である。むろん二つのことは不可分に結びついている。子どもへの愛と日本語への愛。子どもの生活(学び)と表現指導の研究。中野は「愛と研究」と呼んで両者を結びつけたが、それはつまるところ一人ひとりの子どもの生活と学びのなかから内発してくるものに寄り添いながら、その成長を気づかい、対話をかさね、日本語の基礎と表現方法を「個のリアリティ」(佐々木昂)に即して高めていく実践の要請にほかならなかった。
 いうまでもなくこうした指導は、文字通り手間ひまのかかる、中野の使った言葉で言えば、「なんとも面倒な、なんとも厄介な、一心にやってもなかなか利き目のあらわれない」〈いぶせい仕事〉であるだろう。彼は教師の仕事に対して、くりかえし述べている。「それだけに、私は、教育の仕事、教師の仕事、この全く割に合わぬ、世にもいぶせい仕事にあたってくれている人たちに大きく感謝している。こうした仕事に当たってくれている人たちにたいする感謝に嘘はない」と。(「文学と言葉」・一九六六)
教育という仕事、教師の仕事を、「世にもいぶせい仕事」と認識していた中野重治は、それだから「愛と研究とこそが事の土台である」と言い切ったのであった。こうした中野の教育認識というものは、教育という営みが不可避的にもつ〈いぶせい特質〉――その複雑さ(複合性)、不確実性、状況性、さらには価値葛藤性――を踏まえていたろう。それゆえ、それらの特質を消去すること(つまりは事務的、機械的に単純化・標準化すること)でマニュアルやプログラムにしたがって実践され進行していくものであるかのようにみなす教育(あるいは教師)モデルと鋭く対峙・対立する位相に立つ。綴方教師たちは、総じてそうした後者のモデルを信用しなかったといってよい。(註10)
 文学者中野は自身の教育体験をふりかえりながら、自身の教育観、ないし教師論といいうる問題にふれて、つぎのようにのべている。
〈学校の教室で、また学校へ行けない少年、青年がその人生の教室で受ける教育というものは、それは常に知識ということに結びついてはいるが、その知識が、どういう因縁で、どういう人から、どんなふうにしてあたえられるか、あたえられたかということに同時に結びついているということを言いたい。「三角形ノ内角ノ和ハ二直角デアル」ということの教育は、自然と人生とに人がどんな態度で立ちむかって行くかということのなかでなされるとき、人間にとっての教育となる。そしてそこに、教育と芸術との内面的にふかい血縁関係があるとわたしは思う。〉〈教育とは人間に知識をあたえることであるけれども、それは人間についての知識を、人間が人間として生きるには、というコースの上であたえることである。〔「生きるための表現として言葉をつかう」を想起されたい。〕そしてそこまで問題を持って行けば、それはそのまま芸術の、また特に文学の問題となってしまうという性質のものである。生活綴方、作文教育の運動が本質的に大きな成績を見せてきた近年の日本の実際も、つまるところここから来ているものとわたしは考える。〉(「藝術の心」・一九五三年)
 先に私は、南 悟の『生きていくための短歌』に示された定時制高校生徒の「生活表現」と、それを永年にわたって指導してきた南の実践を、〈生活綴方〉の系譜を引くもの、むしろ生活綴方教育の実践特質そのものととらえ、本書が私たちに呼び起こす感銘と理法との出所を示唆しておいた。誤解を怖れずに言い切れば、それは、定時制高校生徒の、歌の定型――日本語・日本文学の遺産――を借りた、生活綴方である。中野の凝縮された言葉でいえば、まさしく「生きるための表現として言葉をつかう」言語的実践の所産―創造である。
 本稿では、生活綴方、その教育実践に向けられてきた、誤解や認識不足にもとづく、いわば故なき批判・非難――たとえば「状況主義」(鶴見俊輔)、「経験主義」(数学教育研究協議会)、さらには「自由主義」(「虚構でもなんでも自由に書かせろ」派)からの「批判」、等々への吟味、反批判については論及できなかった。また、日本作文の会の一部や、「人権教育」運動の中に見られる根強い〈概念主義〉の傾向に対しても、具体的な考察を省略した。これらの問題への批判的論究は、別の機会に行ないたい。


① 小西健二郎『学級革命』(牧書店)・一九五五年。後に国土社より新装・再版される。
② 「生活の理法」という用語は、中野が生活綴方の特質、とりわけ書き手である子どもの綴方(そのすぐれた性質)について論じる際のキーワードである。彼は「現実の事象から本質的なものと付随的なものとをふるいわける力」とも述べている。「生活と生活にたいして責任ある位置にいることが、現実をつらぬく理法を彼ら(子ども)に見つけさせ、これを表現するにふさわしい生きた言葉を見つけさせたのである。」(「日本語の問題」)。〈生活にたいして責任ある位置にいること〉というこの捉え方が、重要である。それは、「言葉の具体的な肉感性」に関係しており、その〈肉感性〉は「現実(対象)にたいする能動的な働きかけから」出てくる。「概念的な言葉」は「ともすれば傍観者的であることに起因している。」それゆえ、「言葉の選び方の研究がもっともっと重要に見られねばならぬ」ということになる。(「歌集『生活の歌』」・1937年、全集第二十五巻)
③  ここに引用した中野の〈子ども像〉、それの詩的な表現は、子どものための文学や文学教育に関する論考、提言の中で、言葉を変えてくり返されている。たとえば、〈上等の風刺精神〉〈とんでもない大笑いの精神〉〈おかしさの精神〉〈洒落、滑稽の健康な力〉〈はつらつとした精神〉〈万物を生かす根源の力〉――「こういうものに強い教育の力のあることに目を注いでほしい。」「子供の感受性というもの」は、「一般的に信頼していいと信じている」(「一作家として文学教育に望む」)
④太田 堯「『たくましき原始子ども』をとりもどす」、(教育科学研究会編『教育』・二〇一〇・十二月号)
⑤南 悟『生きていくための短歌』(岩波ジュニア新書)・2009年
⑥  雑誌「綴方生活」・昭和六年三月号、「今日の子供がいかに目かくしされ、いかに物の正体を見誤っているかは、彼らの書く綴方を見てもその一班を想察される。」
⑦  周知のように、柳田國男は、「小賢しい者が中味をよくも考えずに形ばかりを模倣して、心にもないことを書くようになる」〈「口真似」と「片言」〉の国語教育を批判してやまなかった。その上で柳田は言う。「(言葉の)真似は誤って居らぬ場合にも、手本がぐらついて居るのだから滑稽なことが多い。こういう状態に処する最も賢こい方法は、根本に立ち戻って心の姿を省み、それをどうすれば安らかに、また有りのままに表白しうるかを、各自に考案させるより他はあるまいと思うのだが、それは今のところただ一つの理想といふに止まり、さういう練習をするだけの手段が、不幸にしてまだ備わっていない。将来の国語教育の最もむつかしく且つ大きな問題は、この方面に潜んでいるらしく私には感じられる。」(『国語の将来』・一九三九)。ここには、柳田と綴方教師、そして中野重治に通底する、共通の課題意識を見ることができよう。
⑧岩手県の子どもが書いたこの綴方(1937)については、中野は、強い関心を示し、「日本語の問題」・「国語と方言」・「愛と研究」等の中で引用し、それぞれ鋭敏な考察と問題提起を行なっている。
⑨ここで中野重治が文学者の想像力を介して提起している、「その子の身になって」作品を読み取ることの必要性について、現代の「綴方教師」(と私が呼ぶ)坂田次男は、そのことをつぎのように語っている。
「(子どもの綴方を)どう読むかということが大切やのに、その力のない教師は、先に『子どもへの質問』が頭にうかぶがよ。できる限りの自分の読み取り力で先に読んで、質問はその後にこないかんのに、逆になっちゅうがよ。子どもに文章表現力がついちゃあせん場合。書こうとしたことが書ききれてないことは当然あるろう。そのときでも、教師はまず自分の読み取った結果を子どもに知らせて、それで子どもが書きたかったことをたずねて、そこにずれがあれば推敲段階で正確に直す指導をせないかん。」「まだ表現になりきらん表現を教師がどれだけ読みとれるか、拙い表現や切れ端のことばに子どもの姿を読み込み、それを当の子どもに返し、確かに表現させていく力をつけることが教師に求められちゅうがじゃ。」(坂田次男編『どうすれば子どもはかくか』、解放出版社・二〇〇五年)。
 中野は、子どもの作品・表現に現れてくるある種の説明の〈混線〉――「ロクロを押してゆく力というものは、すばらしく力のいるものです」――に目を留め、その背後には「対象(ロクロ)への活発な働きかけ」が潜在している場合のあることをとりあげ、つぎのように指摘している。〈彼は、その力を自分の肉体からしぼり出して(ロクロを)「押してゆく」当の人間の立場に立っていた。自分が力を出した。そのときえらく力が要った、これからも、彼が自分の力を出して押してゆかねばならぬのだということから来た説明の混線であっただろう。・・・ここの「混線の能動的性格」ということは、それはそれとしてはっきり評価、観賞されるべきだ。〉(「日本語を大切にするということ」、全集第二十二巻)ここでは、まぎれもなく中野重治はすぐれた〈綴方教師〉の一人である!!
〈教師の仕事〉、教育実践の特質に関して、ドナルド・ショーンは、デューイの「教師論」を踏襲しつつ、その仕事の複雑(複合)性、不確実性、独自性、状況性、価値葛藤性を指摘し、教師の仕事とそれに伴う専門知識の〈難しさ〉について考察している。(邦訳『省察的実践とは何か』、鳳書房、2007)。中野重治がここで指摘している「いぶせい仕事」・「教育と文学との血縁関係」という把握、特徴づけは、ショーンの論議に通底している。この問題は、彼の〈批評論〉〈文学教育論〉のところ(第七回)で論じたい。

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