子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

玉田勝郎・国分一太郎の教育観と生活綴方

玉田勝郎・国分一太郎の教育観と生活綴方

 中野重治と教育(第十二回)

伸びて繁るものは必ず根あり――国分一太郎の教育観と生活綴方――

●はじめに  
●小西健二郎『学級革命』のこと
●国分一太郎との出会いのこと  
●ものいいのやわらかさ
●『しなやかさというたからもの』のこと
●「しんぼうづよい文章」と生活の理法
●〈共生〉というたからものと「日本語指導」の課題
                       玉 田 勝 郎
 前回(「書評」第143号)「生活綴り方における『生活の理法』と文章表現指導」において、国分一太郎の『新しい綴方教室』に言及しつつ、私はつぎのように書いた。
〈これまで本論考(「中野重治と教育」)において、文学者・中野重治が〈生活綴り方〉(とりわけその作品)に注いできたまなざし、批評、提言、等について、幾度かとりあげ、紹介・考察してきた。(第三回、第八回、第十一回)。生活綴り方運動、そこから生み出された作品、それらと文学との関係、表現(法)の特質、等について、中野重治ほど強い関心をよせ、いわゆる〈綴方教師〉の実践を励まし続けた文学者はいない、といっても過言ではあるまい。彼のそうした関心、生活綴り方への評価観を引きだす上で陰に陽に力を貸した、また彼の教育観に影響を与えもした一人に、国分一太郎がいたことは広く知られていよう。〉
生活綴方といえば、立ちどころに国分一太郎の名が浮かんでくる。戦前・戦後を通して、また理論面、実践面において、彼は、生活綴方、作文教育、「文章表現指導」、さらには広く日本語(国語)教育とよばれる教育の研究にまことに大きな足跡を残した。彼の著作は『新しい綴方教室』(1952)をはじめ、全国の数多くの教師たちの実践に強い影響を与え、優れた「綴方教師」を生み、育ててきた。
 中野重治とのあいだ柄についていえば、国分一太郎は、「中野さんとの旅」と題する短文の中で、つぎのように記している。「普通には気むずかしいと思われている中野さんを、私はひっぱりまわした。/・・・一九五三年一月、私は、中野さんにけしかけて、高知市で開かれた日教組の第二回教育研究集会に、中野さんをつれていった。」あるいは、日本作文の会の、秋田での大会(一九五四年)に「ひっぱっていった」ことなどを紹介しつつ、それぞれ興味深いエピソードを披歴している。そして、その文章の最後を、「私は、たえず中野さんといっしょの『旅』をしつづけてきたように思う」と、結んでいる。(『中野重治全集』第二十二巻・「月報」21)
 さらに、付言しておけば、『国分一太郎文集10』に載せられている年譜(一九八四年の項)によれば、彼は、雑誌『解放教育』誌上に「中野重治の教育論」について連載する予定で、「構想を立てていた」。まことに残念ながら、その構想は、彼の死(一九八五年)によって、〈中野重治の教育論〉としては、文章化されず、まとめられなかった。想うに、彼のその「構想」の中には、中野重治の「文学観」・「教育観」の特質をはじめ、小説『梨の花』や中野の児童文学論、「生活綴方論」、〈育ちざかり〉の子どもへの信頼、「子どもへの愛」と「日本語への愛」、「押しつけ」や「甘やかし」への厳しい批判、さらには〈理性的なものに感性的にかじりつく精神とねばり強さ〉、政治と文化・教育に関する論考、等々の問題項目が捉えられ、焦点化されていたであろうことは、明らかである、と思われる。
 中野重治と「いっしょの旅をしつづけてきた」、その国分一太郎の、没後三〇年の集いが、彼の郷里・山形県東根市で、七月一八・一九日開催された。(「こぶしの会」、国分一太郎「教育」と「文学」研究会の共催)。私は、墓参を兼ねて、当研究会に参加した。そしてその研究会において、以下に掲載の「講演」――「伸びて繁るものは必ず根あり――国分一太郎の教育観と生活綴方――を行なった。主催者のご厚意により、その講演録を「中野重治と教育」・第十二回としてここに再録する。

はじめに

 ご紹介いただきました玉田勝郎です。当地、東根の国分先生のお墓にお参りするのは、今回で二回目です。没後三〇年という記念すべき年に、この研究会に招いていただき、「記念講演」という機会を与えていただきました。大変恐縮しています。田中定幸会長、榎本事務局長はじめ主催者の皆様に感謝申し上げます。講演の依頼を受けましたとき、皆さん方の前で、どんな話ができるのか、なにか意義ある問題提起ができるだろうか、あれこれ悩みました。尻込みする自分がいました。ですが、「綴方このよきもの」という、教育実践、研究に携わってこられた皆さん方の前に立つわけですから、私の経験、私が学び、考えてきたことを率直に語れば、その真意をくみ取ってくださるだろうと思い定めて、思い切ってやってまいりました。
 それで、私の時間がきたのでありますが、先ほどの佐竹直子さんのお話〔「作文教育が罪にされた時代」――「獄中メモは問う」北海道綴方連盟事件――〕を拝聴しておりますと、きゃしゃな、といいますか、ほっそりした腕といいますか、一見痛々しいようなお姿を拝見しながら、私は強い感銘を覚えました。北海道綴方連盟事件といわれる問題にそれこそ噛り付いて、執念をもって、その真相にねばり強く迫って行かれる姿に感銘を受けました。「事件」そのものの重さもむろんありますが、その重さ、隠された史実というものをか細い腕で引き寄せられていくお仕事に胸を打たれました。皆さんも同じ思いを持たれたのではないでしょうか。それに加えて、あの切ないような(笑)お声で、涙もろとも、証言・「作文」を紹介、朗読されるのを聴いていますと、じいーんと響いてきますね。しまった!このあと、いったいどんな話をすればいいのか!(笑)。できるのか?私の話術では無理ですよ(笑)。
それで、私は田中先生にお願いして、このあとは「佐竹講演を聴いて」という、感想を語る会に切り替えたらどうですかと、申し上げたくなりました。それはともかく、私の番になりましたので、佐竹さんのお話、重い問題提起をうけて――こんにちいっそう重さを増している問題状況を見据え、かの史実を噛みしめながら、私の話に移らせていただきます。

小西健二郎『学級革命』のこと

 最初に、国分一太郎の没後三〇年ということですから、国分先生を偲ぶという意味をこめて、また自己紹介を兼ねて、私と生活綴方、私と国分一太郎先生との出会いといいますか、その忘れ難い思い出の一端を話させていただきたく思います。
 先ほど田中定幸先生よりご紹介をいただきましたが、この本、小西健二郎の『学級革命』です。田中先生がご持参されたのは、初版本です。牧書店から一九五五年に出版されました。ちょうど六〇年前。私の、これは、後に国土社から新装、再販(一九九二年)されたものです。国分先生の『新しい綴方教室』(一九五二年)――むろんそれだけではありませんが――を読んで、兵庫県の丹波地方、山奥の小学校で〈綴方教師〉となった、わが恩師・小西健二郎の「実践記録」です。当時、氷上郡大路村といっていましたが、そこにあった大路第二小学校で、五・六年生の二年間、私は小西先生の指導を受け、生活綴方教育を体験しました。私の受けた、その生活綴方の体験、忘れ難い「記憶」については、このたびの研究会の〈資料〉として印刷していただいた拙論――「生活綴方の教育思想」(その一)――に個人的な体験談を記しております。目を通してくだされば有難く思います。
 さて、小西先生のこの本、『学級革命』は、毎日出版文化賞を受けました。また、日本作文の会の、小砂岡忠義賞を授けられました。当時、「綴方教師」だけでなく、広く、多くの教師たちに読まれました。余談ですが、関西人というのは、初対面の人に対して臆面もなく銭カネの話をする、銭カネの話から始めるという、「悪い」癖があるそうですが、お許しください。この本、現在品切れのため、出版社から取り寄せることはできません。まあ、絶版状態になっているわけです。古書店、古本屋では入手できるそうです。ときたま知人などから問い合わせがあるものですから、私、古本屋さんに尋ねてみました。この本、一冊の価格、今いくらだと思われますか?一冊の値段。三万四千円するそうです。びっくり仰天しました。驚きました。なんとかならないものか。それで、先日、小西先生の奥様に電話することがあり、ことのついでに、そのことをお伝えしたのです。奥様は来年九〇歳になられます。すこぶるお元気でいらっしゃいます。(ちなみに、小西先生は二〇年前、一九九五年にお亡くなりになりました。)奥様いわく。「まあ!そんな値がついてるの!主人が亡くなった時に、香典返しに添えて、お礼として、国土社版二五〇冊購入し、みなさまにお渡ししたのです。今じゃ、そんなことはできないわね。」
 もう一つ余談ですが、この『学級革命』、私は六〇年前、初版本を小西先生からいただきました。まあ文字通り私の宝物のひとつです。大学の講義の中で、テーマとして生活綴方をとりあげ、『学級革命』についても紹介し、論じてきました。「教育実践史」の遺産に学ぶという視点から年に何回か論及してきました。そうすると、学生がやってきて、「先生、その本貸してもらえませんか。コピーをとりたいのですが、いいですか」と言ってくるわけです。私、やはり嬉しくなって、「関大図書館にあるから借りだせ」、とはいわないで、これ(私の所蔵している二冊のうちの一冊)をどうぞ」と貸してきました。ゼミの学生でもありますから。するとコピーをとりますね。表紙が汚れ、だんだんぼろぼろになる。糸が切れて頁がバラバラ状態になる。学生が恐縮しながら、返しに来ます。私は、「ぼくの宝物だぞ。困るなあ」と内心では思いつつも、そうは言わないで、ですね。「気にするな。本というものは、それを読んだ君のなかで新しく蘇ることが大事であって、元の形がボロボロになろうと、バラバラになろうと、それはたいしたことではないのだ。君のなかで別個の形で蘇ることが大事なんだ。本というものはそういうものだ。気にするな。」なんて、無理をして、ええかっこして(笑)応答していました。ですが、別の年にですが、また学生がやってきて「読みたいので、貸してほしい」いうわけです。別の初版本を貸したのですが、同様の事態になったのです。何人かで回し読みしたり、コピーを取ったりしたようです。かくして私の「宝物」は二冊とも見るも無残な状態になってしまいました。それ以降は「大学の図書館へ行け」と言ってきました。
 なんでこのような余談めいた話をしたかといいますと、『学級革命』が出版された翌年、国分先生が『教師』と題する本(岩波新書)を出されました。ここに持ってきましたが、これも私の宝物です。これ、国分先生から署名入りで、手渡しでいただいたものです。あんまり「宝物」なぞと心やすくいうのは、いかがなものかと思いますが、この『教師』の中で、「教師の技術」と題された「終章」で十三頁を費やして、小西健二郎の仕事、実践が紹介されています。そのなかに私の書いた詩二編と、「母の病気」という作文がとりだされ、国分先生は、「子どもの本気さ明るさに心をうたれます。」と評してくれています。それらの作品は、私たちの学級文集『たけのこの兄』・第四・五号に載せられていたものです。今日ここに一冊、第五号だけを持ってきました。これです。一九五二年六月二〇日と、発効日が記されています。この文集は、何にもまして私(たち)の、かけがえのない「宝物」です。同級生の女性たちは、「お嫁に行くとき持ってきた」と語っています。ちなみに、この文集を評して、詩人の坂本遼――雑誌『きりん』の編集者の一人。教科書教材「春」の作者――は、「日本に三つ以上はない、優れた文集」と記しています。(1953年・『きりん』5月号)
 私にとって『学級革命』も、国分先生の『教師』も、そして文集『たけのこの兄』も、確かにかけがえのない「宝物」なのですが、生活綴方運動が生み出した作品、著作に対して、それを軽々しく〈宝物〉と呼ぶことは、やはり一考を要するのではないでしょうか。先ほどの佐竹さんのお話を聴きながら、あらためて気づかされたのですが、刑務所に入れられた坂本 亮先生が編み笠を被らされ、刑務所に出入りさせられる姿を目にした子どもたちが、その網笠の中を覗きこむ場面、「先生、早く帰ってきて」とか何とか言って声をかける場面、あの光景はやはりこたえますね。私、涙が滲んできました。その先生が『ひなた』という文集を出しておられたのです。その文集が治安維持法違反の「証拠」とされ、特高警察の手で綴方教師が「犯罪者」に仕立てられていったのですから、子どもたちの書いた作文・作品というものは、無垢な、真空状態に置かれていたわけではありません。国家権力の、厳しい監視下に置かれていたわけです。弾圧の口実に使われもしたのです。ここに持参しましたこの『たけのこの兄』、私は「宝物」といいましたが、甘い思い込みでもって、「作ってもらって嬉しい。懐かしい。わが宝物」などといって、その心情を吐露していては、いるだけでは、やっぱりいけないのではないか。佐竹さんの話をききながら、そんなことを考えさせられました。痛感させられました。
この学級文集。わが恩師・小西健二郎も鉄筆をにぎって、原紙を切り、『たけのこの兄』を出していたわけです。むろん時代状況は違っていますが。この文集『たけのこの兄』、日色先生がコピーを取ってくださり、印刷し、きれいに製本してくださいました。資料として同封されています。日色先生、どこで、このわが文集、手に入れられたのでしょうか。まことに有難く思います。〔坂本 亮指導『文集 ひなた 10』も資料として、当日、参加者全員に配布された。〕
もう一度、国分さんの『教師』に話をもどしますが、『学級革命』が広く読まれた背景、ないし所以として、なんといってもこの『教師』の影響が大きかったと、私は思います。国分さんは、ですね。学級を民主化して、いわゆるボスを「退治」したという問題については、ひと言も触れないで、そこには論及することなく、むしろ文集『たけのこの兄』四・五号に目を向けて、そこに表わせられている指導の「ちみつさ、辛抱づよさ」、手間ひまかけた仕事ぶりを指摘しています。まあ非常に高い評価をしているわけです。さらに、これは恥ずかしい思いがあって、私はあまり話してこなかったのですが、この本の終章で、私の詩二編、「叱られた」と「父母」、そして作文「母の病気」をとりあげて、丁寧な紹介をしていただいています。

国分一太郎との出会いのこと

私がそのことを知ったのは、大学一年のときです。小西先生から『教師』を頂きました。それで知ったわけです。その折、小西先生から、「今度東京へ行くことがあったら、紹介状を書いてあげるから、国分先生にお会いしてみるか」と勧めていただいたのです。「はい。ぜひお会いしたいです」とこたえたのですが、そのときは国分一太郎その人については、この『教師』を書かれた著者ということ以外あまり知りませんでした。生活綴方、その運動についても勉強していませんでした。ですが、小西先生が五・六年生の私たちに、国分さんからの葉書を見せながら、「ぼくは教員免許、免許状というものを、国分先生からもらったのだ。それでいま教師しているんだ。」とよく言っていましたから、小西先生の「先生」というイメージをもっていました。それは教え子たちみんなが持ってたのではと思います。それで、一九六一年の三月、六〇年安保闘争のあとですが、上京した機会に国分先生の自宅を訪ねたわけです。小西先生に書いていただいた紹介状をもって。ですが、その初対面の折りの記憶、どんな話を交わしたのか、国分先生がどんなことを話されたのか、ほとんど覚えていません。たぶん極度に緊張していただろうと思います。覚えてるのは、電話を、予告なしの突然の電話をしたときの、国分先生の、ぶっきらぼうな、不機嫌そうな声の調子でした。「兵庫県から今日出てきました。・・・」というような説明はしたでしょうが、電話の向こうの主が多忙な執筆に追われている事情など推測することさえできませんでした。ですが、小西健二郎の名をだし、教え子の勝郎ですと名乗り、紹介状のことを告げた時、「ああ小西君。お元気ですか?それじゃあ、お会いしましょう。自宅までこれますか。」と言っていただきました。私は飛んで行きました。
その初対面のときの、もう一つ忘れ得ぬ、嬉しい、有難い思い出があります。この本・『教師』、それから『生活綴方読本』の、二つの著書を持ってこられ、私の目の前で署名され、日付け(1961・3・11)を入れ、手渡しでいただきました。『生活綴方読本』には、かの有名な――舞台のあそこにも印刷されておりますが――二人のわらしの絵が書きこまれ、その横に「この道をゆきます  嵐吹くとも」の言葉が添え書きされました。「嵐吹くとも」――この言葉の意味が当時の私にはよくわかってはいなかっただろうと思いますが、嬉しかったです。とても感動しました。それ以来、この本の、国分先生のこの文字。幾度眺めたか、数えきれません。
 で、こういう私の中の「出会いの感動」といいますか、忘れ得ぬエピソードを続けると切りがありません。私自身が直接にお願いして、神戸大学の学園祭(1964年)で講演していただいたこと。関大の教育学科に来ていただいて、学科の教員や学生たちに講演していただいたこと。あるいは、神戸市で開催された日教組教研(1984年)のとき、宿舎のホテルへ迎えにあがり、神戸元町の炉端焼きの二階で、福地幸造さんらと会食した時のこと。その教研の全体集会で講演された国分さんは、某政治セクトに引きづられた教師集団の暴言、無礼極まりない仕打ちに憤怒の情をおさえきれず、したたかに酔っぱらわれました。帰りぎわ、国分さんの両肩を友人と支えて階段を降りたのですが、その時感じたお体、体重の軽さに私は驚きました。
 こうしたエピソードの一つ一つを、「展開的過去形」表現!で語って行けば、それだけで時間が来てしまいます。「これで私の思い出話を終わります」といって、引きさがってもいいのですが、私も大学の教員、研究者のひとりでして、また、生活綴方の伝統・遺産というものを自分なりに大事に抱きかかえてきたひとりとして、それでは、怠慢のそしりをまぬがれないと思います。第一、国分一太郎没後三〇年、お亡くなりになって三〇年経つのに、思い出にひたっているだけでは、国分先生、怒りますよね。そりゃあ怒りますよ。何をやっとるんかと。

ものいいのやわらかさ

 先ほど私は国分先生、小西先生との、直接の出会いの一端を述べたのですが、むしろ記憶にそのつどそのつど鮮明に残っているのは、私の知っている、身近な子どもが書いた、つまり丹波の子どもの書いた作文を通してなのです。どういうことかといいますと、小西健二郎が指導した作文――文集に載せ、国分さんの手もとに送られた作品――を、国分さんは実によく読んでいました。丁寧に目をとおしてくれていました。小西先生からよく電話で知らされるわけです。「勝郎君。今度、国分先生がこんな本を出された。そこにぼくの指導した子の作品が紹介されていて、誉めてくれている。また免許状をいただいた。」と。「どの本ですか?どんな作文ですか?書いたのは誰ですか?ぼくの作文ですか?」(笑)「いやいや、ちがう。君じゃない。ほそみとよひろという子の『おとうちゃん』という作文や。本の題は『生活綴方の今日と未来』や」。とよひろ君は私より七・八歳下の子どもです。どういう作文かといいますと・・・。時間が気になりますので、この作品のみ紹介します。
  おとうちゃんは、/いっつも山へ いってです。/大きいべんとうばこに、/山もり ごはんをいれて いってです。/いくとき、/「おかあちゃん、うしに えさをやってくれよ。」というてです。/ぼくには、「ようべんきょう してこいよ。」というてです。/まゆみには、「よい子して あそべよ」というてです。/おとうちゃんが じてんしゃにのって いってやとき、/「よう せいだして きとくれ、けがしたら あかんで。」/こんどは、ぼくがいうて 手をふります。(二年)
 これ、国分さんは(私の知る限りでは)六回、編集された本をふくめ、文章の中で引用しています。もっとも印象的なのは、『新日本文学』という文学雑誌(一九七七、十月号)の、「『文学の独習』へのはるかな夢」と題する文章の中で、日作が研究し定式化してきた〈表現形体〉について解説し、国分さんは、そこで四つの文例を挙げていますが、そのうちの二例は小西健二郎指導の作品です。その一つが今読んだ「おとうちゃん」です。この作品、私は国分さんの著書の中での引用から知ったのですが、知り得たのですが、国分さんは、なぜかくもしばしば引用しているのでしょうか。その理由について、私は、適格に、うまく説明することができないのですが、生前に国分先生に尋ねようと思ったりもしたのですが、いま私が思うのは、「表現形体」(説明形の表現)の、素朴な・典型的な事例であることもさることながら、なんといっても使われている言葉の、つまり表現の〈やわらかさ〉〈やさしさ〉〈素朴さ〉に、国分さんは感動したのではないか。山村に生きる人々、親子の情感が、言葉づかいの柔らかさと詩的なリズムとによって、作為なしに、歌うように表現されていること。それが、国分一太郎の感性ないし文学的資質と共鳴したのではないか。
 この「おとうちゃん」という、丹波の山奥の小学生が書いた作文。私は幾人かの、私の郷里の同級生に見せて、読んでもらったことがあります。その中の一人(女性)が、ですね。「なんという柔かい言葉づかいか。丹波弁がこんなにもやわらかい言葉だったとは気がつかなかった。なぜか涙が出てきそうになる。うれしいね。」といったあと、「この文を取りあげて、紹介してくださった国分一太郎という先生。私もお会いしてみたかったわ。感謝しないといけないわ。」と言ってくれたのです。私も同感でした。「涙が出そうになる」というのは、同郷人のセンチメンタリズムではなく、この文のもつ素朴、原始的な詩情のせいにちがいないと思います。
 国分先生はですね。怒るとき、憤怒の情を表現されるとき、かなり厳しい、きつい言葉を使われもしますが、同時にもう一方の極では、反対側ですね、とてもやさしい、やわらかな言葉を使われるわけです。後でちょっと触れますが、文学者中野重治が使った用語で
いえば、子どもへの愛と、言葉・日本語への愛。二つの愛が結びついた、滲み出ているような表現を大事にされ、そうした作品を自ら書き、さらにはそうした文を指導した教師を励まし続けてきたわけです。
 昨日、会の冒頭に、恒例になっている、国分一太郎作詞の歌が披露されました。斉藤文四郎さんの独唱や渡辺ゆき子さんたちの二重唱を、楽しく聞かせていただきました。たとえば、「こぶし花」。「こぶし花/北へ北へと/むいて咲き/北へなにかを/のぞむらし」。「かやしょい」。「かやしょい ゆさゆさ/日ぐれの 野道 野道 せまいに/かや丈 のびた/野道 帰りで/行きあう ひとは/ かやを くぐって/通って くれる/かやしょいかせぐ子/よい子だ だれだ/ほめて わらって/通って くれる」。「最上川」もあります。 
 こういう柔かい言葉、表現。やさしい心根が歌となって表わされています。子どもへの慈しみが滲み出ているような、まなざしですね。国分さんがこういう言葉、素朴でやわらかいものいいを大切にされていたことは、間違いありません。
 もう少し私の説明をくわえておきますと、国分さんは、文学者・中野重治の自伝的作品
『梨の花』の、おばば(おばあさん)のこと、とりわけそのおばばの使う言葉、言葉づかい、ものいい、ものの言い方について、何度か触れています。たとえば、その一例ですが、中野重治が『日本語実用の面』(全集二十二巻)の最後に、「ものいいの柔らかさ」という短い文章を書いています。彼の「好きな言葉」について書かれたものです。〈子供のとき、おばあさんがボタモチをつくる。それを見ていて、それはよそへやるもののようにも見えるが、できあがったら私にもくれろと孫が念をおす。するとおばあさんが言う。/「おお、おお、おまえにやらいで、だれにやろぞいや・・・」/これで孫は安心する。歌うようなやわらかい調子が安心させる。〉こういうおばばの、こころ根、やわらかいものいい。やさしさの滲み出ているような言葉づかい、ですね。国分さんもまた、こういう言葉、言葉づかいに目をむけ、救いあげ、拾い上げ、そうした文を書いた子ども、そしてそれを指導した教師を励ましてきたわけです。先ほどの『新日本文学』誌上の、国分さんの文章。小西指導の二つの作品のこと、私はすぐに小西先生に電話で知らせました。先生は、『新日文』は読んでおられなかったので、とよひろ君や、あらきようこさんの作文のことを知らせたのですが、「勝郎君、国分さんのその文章、すぐコピーとって送ってくれ。」といわれました。お声が弾んでいました。すぐに送りました。

『しなやかさというたからもの』のこと

 ついでにもう一つ余談をします。国分さんの『しなやかさというたからもの』、あの本の中に、丹波の子ども、つまり私の書いた作文に触れた個所があります。私の作文「母の病気」(五年生)を国分さんが取り上げて、読んでくれていたことは先に述べましたが、『しなやかさというたからもの』の、「こぐ」の章、「根こぎにする」・「舟をこぐ」・「雪のなかをこぐ」・「川こぎ」・「さらふとこぎ」・・・のこぐ、ですね。その章で、国分さんはつぎのように書いています。正確にいうと、ちょこっと触れているのです。「兵庫県氷上郡のこどもが書いた文章によると、手押し吸いあげポンプのうでを上下におしうごかすことをも『こぐ』というらし。」この作文を書いた、氷上郡の子どもは、私・勝郎のことです。そのこと、この箇所を見つけたのは、実は私ではないのです。あるとき、郷里で開かれたクラス会に、私この本を持って行って、私たちの小学生時代の思い出――由良川で魚をとったり、牛やにわとり、ヒツジやヤギの世話をしたり、田畑で農作業の手伝いをしたり、遊んだりしたことを、あれこれ語りながら、この本の中の、「キル」「こく」「ゆう」「むく」「うつ」「あむ」・・・を紹介し、それが私たちの指、手、足腰、体全体のしなやかさを育て、育んだことを話したのです。鎌の使い方、鍬のもち方、釘の打ち方、力の入れどころ、牛の追い方、木登りの仕方、・・・等々、自慢話や失敗談にワイワイガヤガヤと花が咲きました。すると帰りがけに、同級生の一人から、女性ですが、その本を貸してほしいといわれ、「どうぞ」と手渡したのですが、数日後、彼女から電話があり、あの本の「こぐ」のところの「兵庫県氷上郡の子ども」というのは、勝郎さんのことじゃないの?と教えてくれたのです。それで知ったのです。国分さんは、この本の中で、「電動機つきの鉛筆削り器、これらを発明したものよ、その恥を知れ!子どもの手と指と神経と脳みそをしなやかに発達させたことのとおい歴史。それをついに断絶させてしまったものよ!のろわれてあれ!」と記していますが、彼女は、その一節もちゃんと読んでくれていました。

「しんぼうづよい文章」と生活の理法

 また、私の思い出ばなし、余談の類に時間をとってしまいましたが、国分一太郎没後三〇年、 私たちの生きている、現在ただいまの教育や文化の状況、そこでの問題・課題にきちんと向きあわなければいけませんね。国分先生に叱られるとおもいます。それで、残されされました時間、このような高いところからではありますが、生活綴方、さらにはもうすこし広い教育の、私たちの直面している課題について一つ、二つ論じてみたいと思います。私なりの問題提起ができれば、と思います。
 先ほどの佐竹さんの講演を拝聴しながら、佐竹さんがねばり強く、辛抱づよく、とつおいつ、かの事件の真相にせまっていかれる道行きに、私は感銘を受けたと申しましたが、国分さんは、一九六〇年代の終わりごろから、しきりに〈しんぼうづよい文章〉を書かせようと主張しました。たとえば『しなやかさというたからもの』の連載の頃から、そのころからしきりに、ですね。日本の子どもたちがものごとをよく見て、その事実に即した文章を書かなくなった、書けなくなったと、強く指摘するようになりました。そういう診断、指摘はいろんなところでされるようになるのですが、一例のみとり出しますと、「いまの日本の子どもたちは、なんと『もの』をつかまえるちからを衰弱させられていることか、書き綴るちからを失ってしまっていることか、それをしきりに悲しんだ。・・・『もの』の姿・形・大小、におい・感触等を含む性質、その顕著なうごきなどがちっともとらえられていない。」(1969年、『国分一太郎文集 3』)。さらには、その点では、かの「赤い鳥」綴方にはるかにおよばない、劣っている、とさえ指摘しています。綴方、作文指導のリーダーが、こういう苦渋の診断を下しているわけです。ここから、「辛抱づよい文章」を書かせよう、書かさねばならないと、訴えてるわけです。子どもにとって「苦役」――苦しい、辛抱づよさの要る、「苦役的な労作」・文章を書かせようではないか、と提唱しています。
 この背後には、まあ簡単に言えば、高度経済成長以降の、農村にあっては、農業基本法以降の、生活構造の変化・変貌があり、あるいは農村をふくめて大衆消費社会における商業主義の浸透に大人も子どもも引きずられていき、その結果、子どもの感覚・感情の画一化、受動性の強まり、子ども独自の抵抗感覚の鈍化が、顕著にみられるようになっていきました。しなやかさという〈たからもの〉を育んだ、自然とのなまなまし交渉・格闘という、かの母胎からも遠ざけられ、さらにはその母胎であった生態系そのものが壊され、寸断されていきました。こうした生活構造の変容は、子どもの〈もの離れ〉を引き起こし、外から与えられた、既成の観念、概念の受け入れ、それへの同化をもたらしました。
 ここにいう「もの離れ」。子どもが「もの」から離れていきますと、大人もそうですが、離れすぎていきますと、五感、感覚が働かなくなります。感覚がいっそう曖昧になりますから、ものの姿が見えにくくなりますから、ぼんやりとした印象、イメージとなります。「もの」をつかまえられなくなります。離れすぎると、対象には手が届きませんから、能動的に働きかけることもできません。自然なら自然となまなましく接触・交渉できなくなります。そうなると、どうしても、そこにかぶさってくる既成のイメージ、観念、概念に支配されます。引きずられていきます。いいかえれば、既成観念への抵抗感覚がうまれてきません。ありきたりの、いつのまにか受容した観念を、生活実践の中で検証していく、「辛抱づよい」能動性はうまれません。そうなれば、ものごとの事実をとらえ、とらえなおして、言葉で表すことはできなくなります。まあ簡単に言えば、慨して、今日の子どもは、こうした状況、〈もの離れ〉の環境に置かれているといえるのではないか。とはいっても、このような問題のとらえかたというのは、ものごとを事象、事実に即して、「ありのままに」認識し、いかにそれを表現させるかという視点からの分析でして、現実の子どもはその実生活において、遊びや手伝い、親や友だちとの付き合い、等をとおして、なまの生活からいろんなことを学びとっているわけでして、先述のように概括することは一面的になりますが、〈表現指導〉の課題という視点からいえば、もの離れにどう切り込んでいくか、という問題は、やはり吟味検討すべき課題だと思います。とりわけ、情報化社会の圧倒的な影響力のもとで、それに引きずられています。抵抗できない。その証拠のひとつが、あの『心のノート』、今は『私たちの道徳』ですが、そこに記されている作文は、ものごとの事実に即さぬ、徳目を教え込もうとする意図からの、悪しき概念文の典型です。国分さんは「もう一度ぶちこわさねばならない」と明言していますが、そうした(子どもの)文章が大手をふってまかり通っているわけです。徳目の一覧表に挙げられている、「親切心」・「家族愛」・「協調」・「公共の福祉」・「愛国心」・・・といった観念・概念にそって、それを頭の先っちょでなぞって、デッチあげたような、安易・安直な概念文が指導され、書かれています。実生活の理法や子どもの実感から遊離した、空疎な文章が載せられています。そこには、ものごと、出来事の事象、事実を追いかけていく、子どもなりのねばり強さというものは、微塵もありません。別の言い方をすれば、日本作文の会の教師たちが、長い実践史の中で開拓し、証しだててきた〈展開的過去形〉表現の意味・意義が省みられず、無視されているのです。
 ここには、もう一つ重要な問題があります。それは、実生活、現実の生活活動を貫いている、〈生活の理法〉――ことわり、道理、生きた論理――が、子どもの皮膚感覚をくぐらせてとらえられていない、という問題です。〈生活の理法〉、みなさんあまり聞きなれない用語かとおもいますが、この用語、文学者中野重治が使い、強調したものです。生活綴方の特質、その大事な要所・意義について論じる際の、彼のキーワードです。(資料として同封されている)、二つの拙論でこの用語について説明を差し挟んでいますので、それを参照していただければたすかるのですが、簡単に、一般化していいますと、「生活の理法」というのは、大きくは自然の摂理や社会矛盾(の存在、現われ)を含みますが、実生活/仕事を貫いている、大小の因果関係、目的に対する手段・道具・働きかけの合理性、生きた慣習法、人びと(生活者)の思考法、さらには言葉づかい、等々を指しています。それは、生活の統制力であり、知恵であり、また「厳しい現実」というものの制約でもあります。むろんその現実を生きる〈抵抗力〉や〈実践知〉を含んでいます。中野重治は、子どもの作品にとらえられ、表現されている「生活の理法」に関して、「現実の事象から本質的なものと付随的なものとをふるいわける力」(の重要性)を指摘しています。そして、〈理性的なものに、感性的にかじりつく〉ことの必要を、繰り返し力説しました。そこに、生活綴方の要所、意義を見いだし、〈生活の理法〉とその表現(法)との統一をよびかけ、綴方教師たちを励ましました。生活の理法への着目、その重要さについては、国分一太郎も、つぎのように述べています。一つだけ引用しておきます。〈体を動かすこと、頭と胸をつかうこと(考えたり感じたり)をとおして、なにかの「わざ」「すべ」を身につけさせてやること、人々の間での「生活のおきて」(規範)について自覚させていくこと。・・・自然の美に気づかせたり、そこにひそむ「ことわり」に気づかせていくこと、自然と人間との共生の姿に接するようにすること、ひとは、みんなといっしょでなければ生きていけないとの道理をわからせていくこと〉(『国分一太郎文集 1』、「わたくしのそえがき」)
 この、〈生活の理法〉ということ。むろんそれは、さまざまな姿・形をとって、子どもたちの前に現われてきます。さきほど紹介した、とよひろ君の「おとうちゃん」を例にとれば、「おとうちゃんは、いっつも山へいってです。大きい弁当箱に、山盛り ごはんをいれて、いってです。」とか、「牛にえさを やってくれよと、いうてです。」とか、「けがしたら、あかんで。こんどはぼくがいうて、手をふります。」とか、山村に生きる人々の、山仕事の「理法」というものが、「山盛りの弁当」、「けがしたらあかん」という言葉、表現によって、ちゃんと写し取られていますね。その理法というものが、いわば詩的な表現、素朴なリズムをとおして、表わされている。つかまれているわけです。
 私の六〇年前の体験、すこし昔の話をしますと、私の小・中学校時代には、田植えの時期、農繁期休業といいまして学校が休みになりました。田植えどき、苗を運んだり、田のしろ掻きをしたり、綱を張ったり、牛の世話をしたり、まあ子どもにもできる、田植えの下ごしらえや、補助的な仕事をさせられるわけです。こき使われるので、私はとてもいやでした。「田植え休み」などと呼んでいましたが、「休み」ではありません。学校が休みとなるだけです。で、土手に腰をおろして、ひと休みしていますと、苗を植えている早乙女さんたち――親戚のおばさんたちですが、その声が聞こえてくるわけです。聞かぬふりをして、聴いているわけです。「夕べねえ。うち〔私〕のおとうちゃんら、かなんわ。人が田植えでくたくたになって寝とるのにねえ。夜中に、うちの布団の中にはいってきてね、ごそごそ手を入れてきてね。ちょっとこっち向け、言うてね。むりやり起こされてね。寝させてもらえなかったわ。うちはそんな気、ちっともないのに。ほんまにかなんわ。」そしたら、ですね。隣で植えているおばちゃんが、大きな声で言うのです。「まあ!あんたのおとうちゃん、なんとやさしいわね。うらやましいわ。いっぺん、うちもそんな身になってみたいわ。」(笑)そのやりとりをそばで聞いていた私の母親が、ですね。「これこれ!子どももおるんやで。そんな阿呆なこと、言うとってやさかいに、ほれ、苗が浮いてしもとるやないの。」
 この会話のこと、「田植えの手伝い」という題で、私は作文に書いたのです。会話そのものは、もう少しぼかした書き方をしたと思いますが、そしたらわが恩師は、その作文に「傑作の卵」――これ、国分さんが使った用語ですが――を示す三重丸を付けていました。そして、後ろに赤ペンで、評語が書かれていました。なんと書いてあったと思いますか?「もっと詳しく書け」!(爆笑)。「手伝いのこと、もっとていねいに書けば、もっといい文になります。」と。ですが、これ以上どう詳しく書けというのでしょうか!(笑)
 別に私がませていた、ませた六年生だったわけではありません。小西先生も先の「会話文」のことだけを指して「詳しく」といったわけでもありません。たぶん、先生は、早乙女さんたちの、田植え仕事のしんどさ、「浮き苗」を出すような植え方では駄目だということ、そして田植えという共同作業での、早乙女さんたちの「冗談」や笑いという、生活の理法に目を向けて、それに気づかせようとされたのではないか。いまは、そう思います。
 ところで、先に、生活綴方の特質として、〈理性的なものに感性的にかじりつく〉という、中野重治の言葉を紹介しました。これは、子どもが自分の五感・感覚をとおして、感覚をくぐらせて、大小さまざまな生活の理法・ことわりを引き寄せていく、ということです。その理法に気づき、それを追いかけ、それをつかみ、表現するということですね。こうした営み、その道行きというものは、「かじりつく」という言葉が示唆するように、なかなか骨のおれる、辛抱づよさを要するワークですね。かの『こころのノート』作文のように、徳目に付随する、外から与えられた観念・判断・思いといったものを書きこめば、それで感心、完了となる、というわけにはいきません。自分の行動や、出来ごとや、その場の状況をよく思い出して(思い出しなおして)、事実に即して、順序よく追いかけていかなければならないのですから。そのことを〈生活の理法〉が要請するわけですから、これはやはり国分さんのいう「苦役的労作」、「辛抱づよい文章」となります。とりわけ、「もの離れ」の趨勢、あるいは環境のなかでは、いっそう必要になる、なっている課題だと思います。私は拙論「生活綴り方における『生活の理法』と文章表現指導」(資料)のなかで、「曲輪」と「牛の直腸検査」という二つの作文を取りあげておきましたが、いずれも「辛抱づよい文章」、すぐれた作品の事例です。児童生徒は、こうした文章を書くことが出来るのです。書くことをとおして、様々な〈生活の理法〉を、国分さんのいう〈共生〉の理法をも含めて、引き寄せることができるのです。ねばりづよい・辛抱づよい文章に挑、むことによって、生活の理法に気づいていけるわけです。

〈共生〉というたからものと「日本語指導」の課題

 先ほど私は、生活の理法ということについて、国分さんの主張・指摘――〈地域の人びととの共同作業やつきあいのなかから、ひとは、みんなといっしょでなければ生きていけないとの道理をわからせていく〉――を引きました。生活綴方の実践は、学級、クラスでの「共同の吟味」の指導を大事な環として、課題に据えてきました。個々の子どもの認識と表現を、共同(協同)の学びの場につなぎ、吟味し、共有していく営みは、生活綴方の遺産の一つです。不可欠の課題でもありつづけました。最後になりましたが、この課題について少し論じておきたいと思います。
 兵庫県において私たちは、兵庫県在日外国人教育研究協議会(略称「県外教」)という実践・研究団体を創りまして、在日外国人の子どもたち、青少年の教育と学びを支援、サポートする活動をやってきました。毎年開催している「教育研究集会」は、この二月の、宝塚集会で二十回目となりました。現在、その県外教の会長を仰せつかっています。県下の後援・協賛団体とネットワークをつくり、いわゆる「多文化共生」時代/社会の教育課題に微力ながら取り組んできたわけです。外国人生徒の高校進学・教育の保障、そのための奨学金制度とか、日本語指導(日本語教室)とか、彼・彼女たちの居場所づくり、地域でのマダンや交流会の開催、等々。
今日ここでは県外教会長という立場からというよりも、生活綴方教育との接点といいますか、国分さんの主張を引き継いで、あえて言えば、「共に生きる」・共生というたからものを引き寄せていくという視点、つまり〈共生〉の理法への接近について、述べたいと思います。結論を先にいえば、綴方―作文指導のなかにもっと意識的に、〈共生〉の課題を引き寄せ、取り入れていくことが必要ではないか。「日本語指導」に限定しても、もっと積極的に生活綴方の伝統・遺産というものが省みられ、生かされるべきではないか、ということをいいたいわけです。
たしかに「自然との共生」、子どもが自然となまなましく接触し、そこでの格闘のなかから〈しなやかさ〉というたからものを手に入れていく。これは、比較的よくわかる話です。同時にですね。外国人とか、障害者とか、あるいは年寄り・老人とか、そうした人々と子どもが出会い、交流し、つながり、つきあっていくこと。外国人についていえば、一般化していえば、ちがった文化や歴史、ちがった出自・ルーツ、異なる在日(定住)の経緯、さらには民族固有の名前を持っている人びととの共生です。
いま、日本政府、行政も「多文化共生」という標語を盛んに使いますが、あれは日本の経済・産業構造の最底辺を、外国人労働者に担わせ、不景気になれば容赦なく首を切り、あるいは「退職」に追いこんでいく政策・施策(雇用調整)と表裏一体のものです。その端的な実例が、九〇年代急増していった在日ブラジル人が、かのリーマンショックによって職を失い、本国への帰国を余儀なくされ、在日ブラジル人が急減していった経過のなかに如実に示されています。こうした生存権の保障なき、人権無視の、利用主義のもとで、「多文化共生」が唱えられている現実を見据えなければなりません。あるいはヘイトスピーチ問題。在日コリアンに浴びせかけられる憎悪、排斥の「スピーチ」という暴力。これにたいしても、日本政府は法的規制に反対し、規制の「条例化」にすら背を向けています。
 こうした日本人側の、自国民中心主義というべき、根深いまなざしのなかで、それに包囲されて、外国人の児童生徒は日々生活し、学校に通っているわけです。そこで日本人の
教師や子どもと出会い、「共に」学んでいるわけです。「国際理解教育」などと呼ばれたりもしますが、子どもたち、日本人と外国人との子どもが、互いの〈ちがい〉(差異)を認め合いながら、相互に関わりあう関係が生み出されます。出自、ルーツ、文化のちがいを消していくのではなく、それを学びと成長のルートにして、学びの「資源」に転じて、アイデンティティの自覚へと高めていくという、そうした望ましい共生の関係さえ生れてきます。すれ違いや、ぶつかりや、時にはいじめに近いいやがらせや、相互の葛藤が起こってきたりしますが、それらをねばり強くのり越えていく努力、実践も報告されています。
 とはいっても、いわゆるニューカマーの子どもの、母語を忘れていく子と、日本語を話せない親との間の断絶、ディスコミュニケーションの問題は、深刻なものがあります。ひとりの中国籍の子どもの作文を紹介します。 
 〈ぼくが、中国から日本にきて四年たちました。ぼくの家は四人家族です。お父さんとお母さんと中学一年のお兄ちゃんがいます。中国から四才できました。今は、中国語をちょっとずつわすれるようになりました。でも、お母さんと話をしていて、ぼくが日本語と中国語をまぜていったら、お母さんもちょっとわかるようになりました。ぼくは、もっと中国語をおぼえたいから、お母さんがテレビを見ているとき、「これ、なに」と、中国語で教えてもらいます。/十一月二八日のことです。お母さんが、五時半ごろくつ下の工場から帰ってきました。お父さんは、七時ごろに鉄をきる工場からかえってきました。八時ごろ、ぼくがわり算プリントをしていると、でんわがなりました。ぼくは、宿題をやめて、だれからかかってきたのかと思って、でんわのそばにいきました。お母さんがでんわをとりました。お母さんは、大声をだして、「中国のおばあちゃんやっ」と、中国がで言ったので、僕はびっくりして、「うそ!」と、声を出しました。中国にもでんわがあってんなあと思いました。お父さんは、うれしそうにわらって、「かわって」と、言いました。お父さんは、たくさんの中国語で話していました。つぎに、お父さんがでんわをお兄ちゃんにわたしました。ぼくは、おしっこがしたくなって、おべんじょにいきました。おばあちゃんと話をするのは、日本へきてはじめてでした。ぼくは、おしっこ早く出ろと思って、べんじょからもどってきました。おにいちゃんが、ぼくに電話をむけてきました。ぼくは、手をふって、「いい」と、小さい声でいいました。お兄ちゃんが、「なんで」と、言いました。ぼくは、「中国語、わからんから」と、言いました。お兄ちゃんは、おばあちゃんに、ぼくが中国語をわすれて話ができないと、中国語で言っているのがわかりました。お父さんとお母さんの顔を見ました。お母さんは手で目をおさえていた。お父さんは目になみだをためていました。ぼくが、中国語をわすれたので、お父さんとお母さんは、ないているのかなと思いました。ぼくもなみだが出てきました。ぼくも、おばあちゃんとでんわをしたかった。〉(四年) (『届け!私の思い』、全関西在日外国人教育ネットワーク)
 私は、在日外国人の子どもが置かれている、立っている位置、生活の現実、特に親の労働実態をみすえるとき、こうした作文がもっと書かれてもよい、書かれるべきだとも思います。日本の学校に在籍する外国人児童が、せっかく身につけた母語を「忘れて」いき、中国にいるおばあさんからの電話に出ない、出られないという、悲しみ、つらい現実が書かれています。学び取った日本語できちんと表現されています。必要な説明を入れながら、展開的過去形で書かれています。
 この作文の書き手の声、訴えが、日本人、その子どもたちにも読まれ、知られ、「共同吟味」され、共感されるべきだと思います。そこから〈共生〉の理法と課題――ここでは母語・母文化の学習の保障という課題――が、引き据えられていくべきだと思います。
 定住外国人児童生徒の日本語教育についていえば、たしかに言語(日本語)そのものの系統的な学習――表記法、発音、文法、語彙。漢字や「学習言語」(教科用語)――をはずすことはできないし、必要不可欠ですが、同時に、外国人の子どもも現実の、なまの生活のなかで、〈生活語〉を覚え、実際に、実用的に使ってもいるのですから、〈言語活動〉(話し方、読み方、綴り方)の指導も当然重要になります。中野重治流にいえば、〈生きることの表現として言葉を使う実践的立場〉がもっと大事にされねばなりません。中野重治は、「日本語実用の面」といいましたが、その実用の面が軽視されている、と私は思います。
 私は、外国人児童生徒の日本語指導に当たっている教師たちの骨折り、それに伴う子どもへの愛情、配慮を、いささかも疑うものではありませんが、日本語指導・「日本語教室」の実地のありようについては、教育効率、教科学習(「学力形成」)を重視する(あるいは急ぐ)あまり、言語の規範・形式に狭く限定されすぎていないか、という疑いを持っています。たとえば、テキストや問題集に取られている例文、文章というものが、あたかも自己完結した〈孤島〉のごとく、固定的で、独立した実体として、生徒に与えられるわけです。強くいえば、その言葉・概念が、生きた状況・文脈――各自の固有の経験――から切り離されて、その意味で空疎な言葉として提示されているのです。このような限定、制約を乗り越えていき、〈生きることの表現として言葉を使う〉地面に着地するためには、固有の生活を「話す」・「書く」といった、実地の言語活動が必要です。いいかえれば、与えられた言葉/規範/概念を学習し、受容するだけでなく、子ども自身がなまの生活と経験からつかみとったものを表現することが不可欠なのです。
 つぎの作文はベトナム人の子ども(三年生)が書いたものです。(姫路市立花田小学校)〈わたしのおかあさんは、まい朝五時にしごとにいきます。わたしと妹がおきたらいつももういません。あさごはんは、おとうさんがときどきつくってくれます。でも、わたしがつくるときもあります。たまごやきとおにぎりはつくれます。ごはんがないときは、なにもたべずに学校へいきます。いつも、妹をほいくえんにつれていってから学校へいきます。妹は、おなかがすいているから、九時になるとほいくえんの先生がごはんをたべさせてくれます。私は、小学生だからがまんしています。いつも、学校へいく時間になると、しごとばからおかあさんが、/「もう、いきなさいよ。」/と、でんわをしてきてくれます。わたしは、おかあさんのこえをきいたらうれしいから、がんばって学校へいこうと思います。・・・〉(後略)
 こうした作文がまずもって教師たちに読まれ、読み取られ、書き手との対話が重ねられ、つぎには学級の場に持ち出されてもいきます。「わたしのお母さん/お父さん」の仕事のことや、書き手の生活実感、思いについて話しあわれ、互いに受けとめられ、子どもたちの生活認識が肉感的・感性的に深められ、仲間としての共感が生み出されていくとき、そこは、学級成員の居場所となります。協同の学びが立ち上がってきます。子どもたちは〈共に生きる〉という理法を、経験として、励ましとして、引き寄せていくことができるのです。私は、生活綴方教育の作風と遺産が、在日(定住)外国人の子どもたちにも開かれ、〈理性的なものに感性的にかじりつく〉学びが指導されていくことを、強く願っています。
 最後は、いささか抽象的な話になりました。意を尽くしませんが、これで終わります。御清聴ありがとうございました。   (2015年7月19日、 長瀞公民館にて)
(たまだ かつろう・本学名誉教授)

玉田勝郎さんの律儀さ

 国分一太郎没後30年の記念集会に、お二人の方を記念講演にお願いした。玉田さんから、講演の内容をもとにして、中野重治と教育(第十二回)に載せるために、わざわざ書き加えて、また私の所に送って下さった。早く私のホームページに載せたかったのだが、山形から帰った翌日に、母が突然亡くなり49日までは、もろもろの仕事で慌ただしく過ごしてしまった。8月17日の「えのさん日記」に、母の聞き書きを書き加えて、49日の日に皆さんに配り読んでいただいた。また、佐竹直子さんのテープ起こしを2週間以上かけてやっと完成した。今、佐竹さんの所に送り、内容をこれでよろしいか問い合わせ中である。そんなことが続き、玉田さんからの講演記録を載せるのが遅くなってしまった。今、改めて読むと、玉田さんの律儀さが、いたるところに出てきて、胸に迫る。

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