子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

画文集の発刊によせて

画文集の発刊によせて

『画文集昭和の記憶』・発刊によせて
私の友人の[ツルピカ先生]のブログより転載

生活綴方のもつ意味と方法の大切さ

 鈴木三重吉の手によって『赤い鳥』が創刊されたのは、国分一太郎が小学校に入学した年の、大正七(一九一八)年のことでした。雑誌『赤い鳥』は,子どもたちに文学作品を読ませるだけでなく、童謡・綴方・自由画、さらには北原白秋によって見いだされた児童自由詩によって、子どもらしさ、子どもの“自由な表現”をことのほか大切にする潮流を生み出しました。
 そうした流れの中にもあった、国分一太郎は師範学校時代、昭和四年に発行された『綴方生活』とも出あい、あらためて「子どものための教育」について考えます。翌年、附属小学校への勤務をすすめられますが、それを断って、家から通うことのできるとなり村の長瀞小学校に赴任します。
 当時、長瀞小学校は、島根の馬木小学校、三重の早修小学校とともに、想画教育の三大校といわれ、その実践家、佐藤文利をはじめ、東海林隆など、優秀な教師がいました。とくに佐藤文利との出あいは、綴方教育とともに想画教育にうちこむきっかけになったといわれています。この学年の子どもたちのために文集『がつご』(1号・昭和六年)を発行します。
 それ以後、国分一太郎は長瀞小学校に在職した八年間に、『がつご』(3号まで)『もんぺ』(1号~5号)『もんぺの弟』(1号~8号)までの16冊を発行しました。
 この長瀞小学校で、国分一太郎は『生活綴方』『北方教育』などとも深くかかわり、「赤い鳥綴方」を批判し、現実生活を重視し、「科学的綴方」「調べる綴方」、さらには生活詩と、「生活教育」を重視した実践を展開していきます。この実践のあかしとなる文集は、元秋田大学教育学部戸田金一教授、教え子らの努力によって、長瀞小学校に保存されています。
 特に、今回この『画文集昭和の記憶』で数多くとりあげた「生活詩」「生活行動詩」は、昭和初期の東北の生活を語るうえで、「日本の子どもの詩」の発展してきた過程をふり返るうえで、また、子どもにとっての「表現」の大切さを問いなおすうえで貴重なものであり、こうした観点から作品を選ばせていただいています。
 昭和の恐慌の時代・農村危機の時代に直面した東北の教師たちは、子どもたちに自然だけに目を向け、感覚を鋭敏にさせるだけでなく、日々のくらしや生活と深くかかわるなかで、生活への目、社会への目を、すべての子どもたちに育てなければならないと考えました。
 白秋が言う、自由詩であるけれども、もう少し子どもらしい表現、つぶやきや叫び、願いを大事にしつつも、もっと具体的に行動したことを書いた詩、自分たちが生活の中で感じた喜怒哀楽を表現している詩。さらには、その感動が、生活のどのような場面から生まれて来たのか。その背景をしっかりととらえさせ、それを表現している詩。抒情詩を書くだけでなく、生活の一部を裁断したような叙事的な散文詩。こういったものも書かせるようということになったのです。
 その「生活を見つめ」「生活から学び」「生活を建設する」という考え方は、生活を描く「想画」とも深くかかわりあって、昭和の初期に、長瀞小学校で実を結んだのです。
 それは、「教える綴り方」の一つとして、『もんぺ』(3号)に「絵の書き方について」と題して、6人の子どもの作による「生活研究の綴り方」なども書かれていることからもわかります。
 今回の画文集には、生活綴方や生活詩のほんの一部しかのせられませんでしたが、ここで示された作品から、昭和の初期の日本の東北に住む人の生活や思い、日本の綴方、児童詩教育の歴史と、教育のあり方を問い返すことができるでしょう。世界に誇れる「教育遺産」ともいえます。
 どうか、この本を手にして、当時の「ことば」にもふれながら、世代をこえた方々が、ご一緒にご覧になっていただけたらと思っています。
田中 定幸(国分一太郎「教育」と「文学」研究会 会長)

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