子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第三指導段階について  田中  定幸

第三指導段階について  田中  定幸

一 第三指導段階で書かれる文章作品

 この解説を読む前に、第一、第二の指導段階での指導内容がどのようなものであったか、また、第一、第二の段階で書かせる文章作品がどのような形のものであったか、それを、もう一度頭に浮かべてほしい。そして、それらと比較しながら、わたしたちが、第三段階の指導で、新しく生まれてきてほしいと期待するところの文章作品が、次のようなものであることに、鋭く注目してほしい。

作品例①
  父をおくって
             東京 四年 赤羽 清香
 この間の月曜日のことでした。五時半ごろ、父が名古屋にかえるので、みんなげんかんにあつまりました。母が、
「わすれ物なーい。」と、ちちにいうと、
「あ、そうそう、ママ、バス代の小ぜにちょうだい。」
と、父がいいました。母は、回数けんをわたしました。妹は、「たばこ代、ポケットに入れといたよ。」と、すこしいばっていいました。また母が、
「だれか、バス停までおくっていってあげないの。」
といったので、私は、まっさきに、
「清(さや)行く。」
といって、私と妹の部屋のおしいれのたなから、急いで上着をとってきて着ました。
 父が、大きな下着などを入れるバックとせびろを入れる黒いコート形のふくろをもっていたので、黒い方をもってあげました。くつをはいて、
「いってきまーす。」
というと、
「気をつけてね。」
と母がいいました。
 父は三年前に名古屋に転勤していきました。はじめは、父だけが名古屋にいったのですが、あとから私たちも行き、二年間、名古屋ですごしました。して、二年後の去年、父をぬいた家族がかえってきて、父は、東京の仕事のついでにかえってきてくれます。
 家にかえってくるくる日は、木曜日か金曜日が多く、時刻は、午後十時頃です。一ヶ月に三度ぐらいしかかえってこられないけれど、私は、いつもその日をたのしみにしています。そして、いつもかえる時は、あーあ、いっちゃうのか、さびしいなあ、と思います。きょうも、こうしてかえってしまうのです。
「さむくないかい。」
と、父がかいだんをおりながらいいました。
「うん。」
と、私もかいだんをおりながらいいました。黒いコート形のふくろには、せびろがはいっているので、ひきずらないように、おなかぐらいまで、手をまげて持ちました。
 かいだんが終わって、五日市街道の歩道に来ました。父が、「かえり、きをつけてかえるんだよ。」
といってくれました。私は、むねをはって、
「だいじょうぶ。」
といって、黒いコート形のふくろをもちなおして、父について行きました。 (後略)

作品例②
   おじいちゃん
             神奈川 五年  鈴木 澄子
 うちのおじいちゃんは、今、八十歳です。母がおよめにきた十二、三年ごろ前はぴんぴんしていて、どこか遠い所へ、水あめとか、お店に出すおかしの材料などを買いに出かけたり、屋根や戸がこわれるとなおしてくれたり、よく働いたそうです。仕事はおかしやさんで、あめやくしだんごやおまんじゅうをつくって、今の追浜公園の下で売っていたそうです。
 でも、今はちがいます。年をとったためか、あるいは、おかあさんたちがいうように、あまり動かない仕事のためか、今は身体があまり自由には動かないのです。おじいちゃんは茶の間でいつもいつもテレビを見ているか、ねているかのどっちかです。たまに車いすで外に出て、庭のようすを見たり、日光に当たったりして身体が動くようにしています。
 こんなおじいちゃんに、わたしは時々はらをたてたり、けんかをしたりすることがあります。
 ちょうどことしの秋のはじめのある日もそうでした。私が学校から帰ってきて、家に入るとテレビがついていたので、チャンネルを「10」にかえたら、おじいちゃんがひくい声で「こらやめろ。」
と、きびしい声でいいました。ふつうの人だったら、それを聞いてもわからないだろうと思います。いま、「こらやめろ」と書いたのは、ほんとうはもっとなまっていて、ふつうの人だったら、ただうなっているだけに聞こえたと思います。けれども、おじいちゃんといつもいっしょにいるわたしには、ちゃんとそれがわかりました。
「なんで?」
「今日からすもうがはじまるんだ。」
「うそでしょ。おばあちゃん、ほんと?」
「そうだよ。」
 すもうがあるとわかって、
「ねえー、いいじゃんよう。」
こんどはたのむようにいいました。するとおばあちゃんが、「おじいちゃんはね、いつも家にいるだけだろう。だからおすもうを見ることが楽しみなんだよ。」おまえたちみたいに外へ出て遊べないおじいちゃんの楽しみをとりあげちゃうのは、かわいそうじゃないか。おすもうだって、すこしすればおわるでしょう。だから見せてあげなね。」
 あの日も、こうなってしまったのですが、このようなけんかは、テレビのことだけではありません。それで、私はときどき、「もうおじいちゃんなんてはやくしんでしまえ、くそじじい」などと、こころのなかでいうことも、ときどきあります。  (後略)

作品例③
     悪いことじゃないのに
               青森 五年 柳原 直子
(前略)
「ただいま。」
といつものように家に入っていったら、
「ほら、これ。直子にたのまれていだ、鉛筆と消しゴム買ってきたよ。」
と、細長い紙ぶくろをテレビで見ていた母がくれた。
「うん、どうもありがとう。」
と言いながら、セロハンテープをはがして、中を開けた。
「なんだあ、これえ。」
私はおもわず小声で、不満をもらした。
「どうしたの、何が足りなわのが。」
母がきゅうに後ろを向いて、なじるような口調でいった。
「鉛筆はいいけど、消しゴムはいやだよ。これだっきゃ、なかなか消えないやつだよ。」
「どうしてさ。消しゴムだばみんな同じだべさ。」
「だって。砂消しみたいのだもの。」
「んだのが、せば(それなら)他のと取りかえてもらってこいへんが。あんた行って。和田の店がら買ったんだはんで。」と、母に言われて、しぶしぶ店に来たら、
「本当にここで買ったのが?」
と言われてしまった。
「本当に、ここで買ったんだの?本当だべ!」
 おばさんは、うたぐっているように、大声をあげた。店にいたお客さんが、変な目つきで私をじろじろ見ている。まるで、私が悪いことでもしたみたいだった。
「うん、おかあさんが買ったんだけど・・・。」
と、私が言っても、いすにすわって雑誌を見つづけている。何か言えば、ちらっとこっちに目を向けるだけで、何とも言わず動こうともしない。
 みせにくるひとも、だんだんとふえてくる。それでも、おばさんはだまりこんでいる。変にきんちょうして、息をするのも苦しくなってきた。
「本当に、ここで買ったんです。お母さんがちゃんと買ったんですから。」
 たえきれなくなって、少し大きい声でいったけど、何も聞こえないようにしている。お客さんたちは、おもしろそうに、クスクス笑って見ている。と、おばさんが雑誌から目をはなした。「よし、言おう。」と思ったけれど、のどにつかえたようになかなか言葉が出てこない。「とりかえるから。」ただ、それだけ言えばいいのに。
 そのうちに、おばさんはレジの方に行ってしまった。店にいた人たちがお金をはらってやっと出ていった。
「あーああ。」
 おばさんに聞こえるように、わざと大きくため息をついた。それでも気がつかないらしく、こっちを向いてはくれなかった。あるいは、気がついていても知らんふりをしていたかもしれないけど。
 (後略 例示の必要上原文のある部分を省略補正 田中)

二 第一、第二指導段階とのつながり

 前号までの解説をていねいに読んでいる人には、今あげた作品例①の「父をおくって」というさくひんは、第一段階の指導であった「ある日、ある時の一回限りの経験を再現するように書いた文章」の中に、どうして父親を送っていかなければならないのか、どうして父親と離れた生活をしているのかが説明されている部分(文中の太字部分)が入っていること。そしてこの説明の部分は、第二指導段階で身につけたまとめて説明ような書きぶりになっており、この説明がなければ、どの人にも父をおくっていく気持ちを理解してもらってないという、文章全体にかかわる大切な部分であることに気づくにちがいない。
 また、②の作品「おじいちゃん」の文章では、第二指導段階の「まとめて説明風」におじいちゃんのことを書いていく中に、おじいちゃんに対する書き手の気持ちをより具体的に書き表したい必要から、ある日の実例を入れて書いている。いうまでもなくこの実例の部分は、第一指導段階で指導された過去形を主にした文で書かれており、今までの指導が生かされている作品と見ることができるであろう。
 さらに、作品例③「悪いことじゃないのに」のぶんしょうでは、「ある日、ある時の一回限りの経験を再現するように過去形を主として書いていく」(第一段階の文章表現形体)文章のある部分に、そのとき、その場に今もいるように、父親が消毒している様子を目の前で見ているように、今もそのことが続いているように、あるいは緊迫感、緊張感を持たせるようにするために「~いる。」「~いる。」と言う継続態、またふつうなら過去形で書くところを現在・未来形の表現をはめ込んでかくというような表現上の工夫があることに気づくだろう。
 こうしたことに気づいたとき、この「指導段階の定式」の第三段階の説明の次の部分、
「この指導段階の指導は、子ども・青年たちの間から、おのずからそのような工夫のあとがあらわれた場合は、個別的に認めてやるほか、それをごく自然のうちに学級の中に紹介することとする。が、学級集団の状況により、意識的に一斉指導としておこなう必要を感じた場合は、第一、第二の段階の指導が、よく徹底した後のこととなる。」
と書き示している意味、内容についても、よく理解できるにちがいない。
 すなわちこの第三段階で書かれる文章は、第一段階、あるいは第二段階の指導で身についた、物やことのとらえ方と文章表現力を土台として、より深く、より豊かにより的確に自己の考えを示そうとしたときに生まれてくる文章であるから、意識的に一斉指導としておこなう場合には、ここでも、第一指導段階あるいは、第二指導段階より先にこの段階の指導を行うということは考えられないわけである。

三 子ども・青年の発達段階からのおさえ

 子ども・青年の成長、発達という面からの第三段階の押さえとしては、次のように書かれている。
「子ども・青年たちが、しだいに精神の発達をとげ、より複雑な題材・テーマをみずからとらえ、それにふさわしい、より豊かな表現方法について工夫を凝らすことに、悩み・とまどいを感じ始めるようになったときに、有効適切な援助をあたえることが、当然必要になった段階での指導。」
 さて、この、悩み・とまどいを感じ始めるようになったときというのは、どういうことなのだろう。
 子ども・青年のもののとらえ方・認識の発達のしかたから見ていくと、
① ものごとを、ひとつひとつバラバラに、羅列的に、直感 によって、個別的、局部的にとらえる段階
② 目につきやすい顕著な事実や現象に心を引かれ、それを、 時間的、空間的に脈絡をつけてとらえる段階。
③ ものごとをやや一般化した表象としてとらえる段階。
④ 目につきやすい顕著な現象を、本質のあらわれととらえ るようになり、それを全体の中に位置づけていこうと努め 始める段階。
⑤ 本質的なものに接近し、それを自然や社会や人間にまつ わる真実または美として追究していく段階。

 およそこのような段階があると考えてよいだろう。そこで少し強引かもしれないが、これに、私たちがかんがえている指導段階をあてはめてみれば、、この①②は第一指導段階の指導を徹底することによって事実を事実としてとらえる①や②の力が発達し、第二指導段階の指導をより深めることによって、ものやことをやや一般化してとらえる③④の力がついてくるというとらえ方ができるだろう。
 ところで、子どもたちというものは、実際生活の中で、また学校内外の学習活動の中で、日に日に成長し発達していくものであるから、今あげたような①②③④⑤の認識のしかたも、しだいにあいまじわって、かれらのものになっていくのにちがいない。つまり、ある日、ある時、あるところで体験し、見聞した現象をも、たんに、ある日、ある時の一回限りのことだと、割り切ったり、あるいはその部分だけで考えることができなくなる。その現象の背景には、さまざまな現実がおおいかぶさって、その現象をうみだしていることにも気づいていくようになる。人間の生活、あるいは自然、あるいは社会というものは、複雑なものであることに気づき始める。となると、そういうことを文章に綴ろうとするときには、
☆ ある日、ある時、あるところでの体験(具体的事実)を綴って いく中で、どうしてそういう現象が起こってくるのか、その文章 全体の中に位置づけて、やや一般化して、「いつも、こうだか ら」と説明しておきたいという要求にかられる。
  また、長い間にわたって、何度も何度も同じような経験をす るうちに、こう思う、こう考えるという思いが強くなってきたとき。

☆ いつもいつも、このような事実・現象が現れ、また、いつも、 このように考えるのは、こういう根拠があるからなんだと、実例 や証拠をあげて、「たとえば・・・」というように書き表したくもな る。

 さらに文章を書くことになれてきた子ども・青年の中には、もっと豊かな、よりよい表現のしかたはないものかと工夫をしだすものもでてくる。それは、国語の学習の中で読んだ文学作品の表現の形などにも影響されて、

☆ そのときのようすが、今も目にうつるように表現するには、どうしたらよいだろうか。もっと緊迫感を持たせるような表現のしかたはないものだろうか。

 こうした願いや表現上の苦労、悩みを持ち始めたとき、それを成長と発達へのバネと考えて、それに適切に答えるようにしようというのが、認識の発達と表現能力の発達とを統一して指導しようとする私たち教師の願いであり、その具体的工夫が、この第三指導段階を用意させるのである。

四 第三指導段階の指導内容と方法

  今回から、この段階の指導内容とその方法についてふれていく。
 ところで前回、三つの作品例でも示したように、この段落では、
① 第一段階で習得してきた文章表現に、理由や根拠・由来 などを明らかにする必要から、説明的文章で書く「大きな 挿入部」をはめ込んだ文章を書かせる指導。
② 第二段階で習得したところの総合的説明形の表現の間  に、証拠や実例を入れて、叙述を具体的なものにしていく ために、再現的過去形文章を「大きな挿入部」としてはめ 込んで書かせる指導。
③ 一回限りの経験を再現するように書いていく中に、継続 態や現在・未来形の表現を文章の部分に入れて書かせる指 導。
の、それぞれ大きなちがいのある三つの表現方法の指導内容が含まれている。
 実際の指導においても、それぞれ別の機会に指導することになるので、この解説でも、①②のしどうについては、(1)題材・テーマの指導は、(2)構想=構成の指導は、(3)記述=叙述の指導は・・・というように、解説をしていくことにする。

(一) ①の説明的文章を「大きな挿入部」としてはめ込む文  章の指導

(1)題材・テーマについての指導
 この場合には、第一段階で習得したような文章表現のある部分に、新しい工夫を加えていくのであるから、自然や社会や人間にまつわる一回限りの過去の経験から取材させる。しかし、ここで題材として選ばせたいことがらは、一回限りの経験ではあるが、

 ☆ そのできごとは、父親の仕事の関係で、必然的におこっ  てくることで、父親の仕事のことを抜きにしては、その日のこ  とを語れない。(作品例① 「父をおくって」)
 ☆ こうした出来事が起こったのは、普段の自分の生活のし  かたや性格が原因となっているのだ。
 ☆ 自分がこうしたのは、(よくよく考えてみれば)こういう理由  があったからなのだ。
 ☆ 事実はこうだったが、その事実のうらには、こんなことが あるのだ。

というような複雑な、あるいは深刻な内容を含んだものでなくてはならない。
 実際の指導にあたっては、こうした作品をいくつかさし示して、その作品がどうして生まれてきたのか、そうしたできごとがどうして生まれてきたのかと考えさせ(くわしくは構想の指導と結びつけてあとでふれる)こういう題材を積極的に選ばせるようにさせるのである。

(2)構成=構想指導

 この指導では、第一指導段階で随時に指導してきたような文章の部分を書いていく中で、読み手を意識して、このことはこうだと説明しておこうと思いつつ書き進めていく「ことわり」としての「小さな説明」とは違って、主題を書き表す上で、あるいは文章全体にかかわることとして、その理由や根拠を説明する必要にせまられ「大きな挿入部」としてさしはさむ構成のしかたを理解させなくてはならない。
 したがって、ここでの指導のポイントは、
 ① 挿入部以外は、時間の推移と事件の進行の順に書き表  すこと。
 ② さしはさむ内容はどんなことか。
 ③ 全体の文章構成のうち、どこにさしはさむか。
である。
 そこで、つぎのようなほうほうで、このことをわからせていき、意識してこのような表現をすることを教えていくのである。

(ア)参考作品の鑑賞によってわからせる。
 たとえば、次のような作品、あるいは、作品の部分を印刷して子どもたちにあたえる。

 作品例④  番台にあがったこと
            東京 五年 伯耆田 充代
 夜の九時ごろ、お母さんが、
「ミッチー、おふろに行っといで。」
と言ったので、
「うん。」
と言って、おふろに行きました。
 そのふろ屋は、私の家から一分ぐらいの所にあって「日の出湯」とよばれています。そして、そのふろ屋は、私のおばあちゃんのうちなので、わたしは、いつもただです。それに私には、おじさんやおばちゃんは、「いらっしゃいませ。」と言いません。でもこの日は、私が女湯の戸をガラガラとあけると、おじさんが、
「いらっしゃいませ。」
と、気のぬけたような言い方で言ったので、
「あれえ、おかしいな。」
と思って、番台にすわっているおじさんの方を見ました。すると、おなかがすいているような感じで、ボサーッとすわっています。私が、
「どうしたの?」
と聞くと、
「ばあちゃんがいないから、番台にのる人がいないんだよ。」
と言いました。よく聞くと、おばあちゃんはかも川に旅行に行って、るすなので、おじさんしか番台にのる人がいない、ということらしいのです。このふろ屋は、私のお母さんのきょうだいである男三人が、おばあちゃんといっしょに仕事をしています。その一人が、いつも番台にあがるこのおじさんなのです。あとの二人は、かまたきの方の仕事をしているのです。それにこのおじさんには、まだ、おくさんがいないので、おばあちゃんがでかけていると、おじさんは店をはなれることができません。それで、
「かわってあげようか。」
と言ったら、
「うん。」
と、ホッとしたように言いました。こうして、私が番台にすわることになりました。(中略)

 そして、どこかに「書きぶり」の違うところはないかと考えさせる。そして、その部分(作品の太字の部分)を囲むとか線を引くとかさせる。そして、「そこは、なぜこう書いたのか、文章全体の中でどんな役目をしているのか。」考えさせる。この作品で言えば、線を引いた部分は、「番台にあがるようになったのは、このおふろ屋さんがしんせきであるということ。おばあちゃんが旅行に行っていて人手が足りないのでかわってあげたこと」などの説明の部分で、この作品の中では、それが重要な説明であることに気づかせる。
 また、この説明の部分以外は、番台にあがったその日のことであり、それができごとの順に書かれていることをつかませるのである。
 (イ) ここに「説明の挿入」があったらよいのにな、と思   われるようなクラスのなかで生まれた文章、あるいは、   その部分を、いくつか印刷しておいて、共同研究の中   で、作者である子どもに質問させる。
 そうした手ごろな作品がない場合には、先に示した作品例①「父をおくって」というような作品の挿入部である太字の部分をぬいて子どもに印刷してあたえ、そして、クラスのみんなから質問を出させてみるのである。すると「なぜお父さんが名古屋へ帰らなければならないのか。」「お父さんの仕事は、どんな仕事か。」「一年、あるいは一ヶ月に何回ぐらい帰ってくるのか。」などが出てくるはずである。「そうだね、そういうことは、ぜひとも説明しておいてほしいことだね。」と教師が確認したあとで、「実は、この作文を書いた赤羽清香さんは、このままでは、きっとそういう質問が出ると思って、ちゃんとそのことを、次のように書いているのだよ。」といって、挿入部がきちんと入った作品を子どもに示してやるのである。
 クラスの子どもの作品を扱った場合には、そうした質問を教師がまとめて、ここに、こういう具合に入るとよいねと示してやったり、挿入すべき部分を開けておいて、そこに書き入れさせたりもして、説明の必要性をわからせてもよい。
 また、この構想の指導では、「挿入部」の終わった後の指導をきちんとしないと、前の部分とつながらなくなるので、挿入部が終わったあとには、ちゃんと、その日のできごとにもどっていることの確認の指導を忘れてはならない。

(3)記述=叙述の指導

 この指導は、「すぐ前のパラグラフの部分とはちがい、「現在・未来形」を主として書き綴る表現技術の指導」とあるように、すぐ前のパラグラフの部分が、過去形を主にした文で書かれてきたのに対し、「~です」「~ます」「~からである」というような「言いきり」の形。文法的に言えば「すぎさらず形」(現在・未来形)で挿入部分を書きつづっていくことをわからせればよい。
 構想=構成の指導とも結びつけて、ある日の一回限りのことを書き綴る部分は過去形が主であり、挿入部は、説明している部分であるから「まとめて説明する文章」の書き方を思い出させれば、たやすく子どもに理解させられるはずである。そして、「必要な説明」が終わった後は、また、その日、その時のことを書くのであるから、「~した。」「~しました。」という過去形を主にして書き綴らせることにも目を向けさせてやればよい。
 読み方・文学教育の中で、文学作品とか記録文を読ませるとき、そのある部分に挿入された「説明的表現」に注目させ、そこの適切な表現の意義づけを、視写や聴写させたりもしながら、つかみとらせる。(作品とその指導については、ここでは省略する。)
 

(4) 推考指導

 この指導で重点を置いてきたことについてもう一度ふりかえらせ、それができているかどうか確かめさせる手だてを考えればよい。書き上げたら、まず、ていねいに自分の作品を読ませた後で、説明的文章を「大きな挿入部」としてはめ込む文章の勉強をしてきたのであるから、次のような点にとくに注意しながら推考の作業に入らせるよう指導する。
☆ 「大きな挿入部」としてはめ込んだ内容が、主題にかか わるような「必要な説明」であったか、また、その説明が 十分であったかどうか。
☆ 「挿入部」が文章全体の構成の中で位置が適当であった かどうか。
☆ 「挿入部」の表現が終わった後、またもとの文章の流れ にもどっているか、その続きぐあいはどうか。
☆ 「挿入部分」では、「現在・未来形」を主とした書き綴り方になっているか。(注 挿入部でも、「過去形表現」の説明もあるが)
 これらの推考の作業をより具体的にさせるためには、自分で書いた作品の「挿入部分」に赤い線を引かせ、その部分と、他の部分を比較させればよい。「挿入部分」の続き具合を確かめさせるためには、赤い線を引いた部分をぬかして読んで時間の推移と事件の進行の順序にそっているかどうか確かめさせるなどの方法がある。

(5)鑑賞批評

 この指導の過程で生まれた「質のよい文章」あるいは代表作とでもいえるような作品を選んで共同で吟味する。
 このばあい、ただ読み合うということだけではなしに、挿入部に線を引かせて確認したり、挿入部をぬかして読ませたりして、挿入部が、理由や根拠・由来などを明らかにする上で大変役立っていること。また、そうした説明の必要な題材・テーマをよくぞ選んだと言うことなどにもふれられるとよい。

*(二) 説明形の表現の間に「実例」を入れた文章を書かせる場合

*(1)題材・テーマの指導
「いつもいつも見聞きしていて思うこと。いつもいつも考え、感じていること、今も思い続けていること。そして、ぜひとも人に伝えたいこと」そういうことがあるだろうと、子どもたちに語りかける。
 そして、「いつもいつも、そう思う、こう思う。」と説明させるとき、どんなときに、より強くそう感じるのか、問いかけてみる。そして子どもたちに「たとえば、いついつのことだった。」「この前もこんなことがあった。」「なぜかというと、こんなわけがあるのだ。その時は・・・」というように、ある日、ある時の「実例」や「根拠」をあげて、話のできる子どもに育てるようにする。
 教師自身も、日ごろから話をするときに「たとえば」と、具体的な事実、実例をはめ込んだ話を意識的にする。
 読み方教材の中に、これから指導したいような「実例」がはめ込まれたような叙述の部分が出てきたときには、その部分に注目させた指導をする。
「いつもいつも考え、感じていること」をまとめて説明するように書いてくる子どもの中には、しぜんに、「たとえば」とか「この間も、こんなことがあった。」というように書いて「実例」をさしはさんで書いてくる子が出てくる。そうした時、「どうしてそう思うのか、その理由がよくわかる書き方ですね。」「こうやって、いちばん強く感じたような日のことを「実例」として入れて書いてあると、○○さんの、○○に対する気持ちが、よくわかりますね。」といって、とりあげたりもする。
 あるいは、このような「実例」の入った叙述部分を持つ、上級生や、他の地域の子どもたちが書いた作品などの読み聞かせを意識的にこころみたりもする。
 こうした指導を一方でする中で、「一斉指導」として、子どもたちに「総合的説明形表現の間に、部分として展開的過去形表現を入れる叙述のしかた」を身につけさせるには、やはり、「年刊日本児童生徒文詩集」などにあるような作品
 うちの祖父       五年 竹田 剛  八三年版
 学校に行くのをいやがるお兄ちゃんだけど、
  私にはやさしい 四年 河野 洋子 八三年版
 酒がすきな父 五年 斎藤 敏行 七九年版
などを指し示して、具体的にわからせていかなければならない。そして、題材指導の重点としては、いくつかの作品を読む中で、
☆ いつもいつも考え感じていること(自然・社会・人間)か ら取材させること。
☆ いくたびも、くり返し見聞きし経験していること、考え 感じていることで、「たとえば」と、ある日の具体例を入 れて話をしたいこと、人に知らせたいこと。
☆ 「・・・に対して、いつもこう思うようになったのは、 こんなことが何度もあるからなのだ。」
ということに、目を向けさせ、そういう題材を積極的に選ばせるようにさせる。

*(2)構想=構成指導
 この指導でも、やはり参考作品によって、「証拠」や「実例」が、文章のどこに「大きな挿入部」としてはめ込まれているか、そして、その「挿入部」には、どんなことがらが書かれ、どんな役割を果たしているのかをつかませ、こうした叙述の文章の構成を理解させ、実際に書くときに役立てる指導をしなくてはならない。たまたまこれも、「祖父」のこと(人間のこと)を書いた作品になってしまったが、たとえば、次のような作品を指し示す。

作品例⑤
       うちの祖父   山形 六年 竹田 剛
 祖父は八十四歳です。竹田繁吉と言います。髪の九割はしらがです。三、四年前に、軽い白内障にかかってから、ひとみのふちが青白い輪のようになっています。また、昔、きせる作りなどの金銀細工をしていた時に、金銀を分析するのに硝酸を使っていたので、鼻がまひしてしまい、においをかぎわけることは、あまりよくできません。  (中略)
 祖父のすきなことは、本や新聞を読むことや、帽子を集めることです。
 本は、トルストイの本や、ソクラテスの思想の本だったりです。
(挿入部①)
 ある時、祖父の読んでいる本の題がどんな意味なのか、わからないので、「なんて言う本。」
と聞くと、
「形而上学という本だ。」
「どんなことが書いてあるんや。」
「あらゆることが書いてあるんや。」
「哲学よりむずかしいか。」
「哲学も入っていて、・・・まあそういうもんだ。」
と言って笑っていた。
 山形の八文字書店に行ったときに選ぶ本も、また、独り静かに読んでいる本も、とてもむずかしそうなものばかりです。 (中略)
 また、祖父は、短歌を作るのがすきで、作り始めてから、七十五年にもなるということです。(中略)
(挿入部②)
 最近では、NHKのお達者クラブに入選しました。
  群すずめパッと飛びたちまいもどり
    こえだのゆれもしばしやまずも
 その時テレビの先生が、
「こういう歌は、無心の心境にならないと作れない歌だ。」と言ったそうです。祖父に意味を聞くと、
「その歌のとおりだ。」
といったが、ぼくにはよくわかりません。
「短歌の作り方教えて。」
と言うと、
「ありのままに書けばいいし、何回も何十回も読み返せば、自然とわかってくるものだよ。」
と教えてくれました。
 こんな祖父をぼくは大好きです。もっと長生きしてもらいたいと思います。

☆ この文章全体の構成は、大まかに見ると、祖父の身体の こと、本好きなこと、性格、帽子を集める趣味、働き者、 短歌を作るのがすきなこと、こんな祖父が大好きであるこ とと、ことがらごとにまとめて説明風に書かれていること。
☆ また、「大きな挿入部」が二カ所あって、本好きの祖父 がどんな本を読んでいるか、ある日の例を書き入れた部分 と、短歌の好きな祖父の短歌に対する考えの一面を、NH Kのお達者クラブに入選したときのことを例にあげて述べ ていること。
☆ その挿入部分は、(この作品では、会話の部分が多くて、 「~した」「~した」という過去形表現はあまり使われて いないが)時間の経過にそって展開的に書かれていること。 などをつかませる。そして、①の挿入部分を書き出している文「本は、トルストイの本や、ソクラテスの思想の本だったりです。」との続き具合に注目させて、その具体的例として、こんな時もあったのだと「実例」をあげていることと、「実例」をあげた後、またいつもの祖父の説明「山形の八文字書店へ行ったときに選ぶ本も、また、独り静かに読んでいる本も、とてもむずかしいものばかりです。」にもどっていることをおさえておく。その確認をしておかないと、なかには、「実例」の部分から、いつもの説明の部分にもどれない子どもも出てきてしまうからである。
 したがって、実際に書く時の構想をねる段階で、主題意識の再確認と、どこにどんな「証拠」や「実例」をさしはさむかを明らかにし、その構想表にしたがって、記述をさせるような指導も当然ここでは必要になってくる。

(3)記述=叙述の指導

 第二段階で習得したところの総合的説明形表現のなかに、ある日、ある時の具体例をさしはさんで文章を書いていくことの理解が、題材指導や構想指導の過程でできているはずである。ここでは、全体の文章は、まとめて説明するように書く説明形表現、あるいは、「現在・未来形」の「・・です」「・・します」「・・である」「・・なのである」で書いていくこと。挿入部は、ある日、ある時にあったことを再現するように書く「・・・しました」「・・・したのだった」という「過去形表現」を主にした文になることの確認と、次の二点にふれればよいだろう。
☆ 「挿入部」の表現が終わって、もとの表現にもどる時に、 「いつものことを説明するのだから・・・」という意識を 強く持たせて、説明形表現にうつらせること。
☆ 「実例」を入れる時の「書き出し」例も示しておく。
 「ある時」
 「この前の日曜日のことだった。」
 「このあいだもこんなことがあった。それは・・・」
 「何年も前にもこんなことがあった」

(4)推考指導

 ここでは、とくに「実例」の部分の書きぶりがしっかりしているが、その書かれている内容が具体的な例として適切であったかということも含めて検討させる。
 また、文章全体を推考する視点としては、「実例」として述べている部分が、「まとめて説明した」部分かを確かめ、その文末表現が適当であるか確かめさせる。具体例を書いたのか、まとめて説明したのか、意識して書かないと文末に乱れが出てくるからである。すぐれた書き手によって書かれた作品であっても、こまかに文章を読んでいくと、一つや二つはあるものだ。先ほど例にあげた「うちの祖父」の文章にも、省略した部分であるが、次のような文章があった。

 こうゆう皮肉や当てつけを返します。小説について言った祖父の言葉は、母に対するあてつけのように思います。母は、小説が好きで、石川達三 丹羽文雄、曾野綾子、瀬戸内晴美などの本にこって、まくら元におき、本を読まないと、ねむれないほどなのです。だから母は、
「私に対するあてつけみたいだ。」
と、あとで言っていました。

 この部分は、おそらく、何度も何度もこういうことがあるということを、書き手は言いたいのであろう。そのことを書き手に確かめたあとで、「何度も何度も、こういう場面があったということを書きたいのだったら、太線の部分を「よく言うのです」とか「よく母は、・・・と言います。」となおした方がいいね」とそのなおし方を、作品で具体的に示したあとで、推考させるのである。

(5)鑑賞批評の指導

 この指導で生まれた作品のなかから、「実例」が生かされて書かれている作品を取り上げて、この指導過程でとくに重点を置いて指導してきた次のような点について、作品の具体的な部分にふれながら鑑賞させる。
 ① 題材・テーマの選び方
 ② どんなときに「実例」がはめ込まれているか。
 ③ 「実例」がどんな役目をしているか。
 ④ 「実例」の部分の書きぶりはどうか。
 ⑤ 「実例」の部分の「書き出し」はどうか。もとの文章へのもどり方はどうか。
 こうした点を鑑賞しながら、「実例」を入れて書くことの意味と、その表現方法についてのまとめをする。

(三) 継続態や現在・未来形の表現をさしはさむ文章を書かせる場合

(1)一斉に書かせることはむずかしい

 第三指導段階の指導、その(三)にあたる継続態や現在・未来形の表現を、部分の文、文章にはめ込む場合」のしどうとは、作品例③「悪いことじゃないのに」で例示したように、一回限りの経験を再現するように過去形表現で綴っていく間に、その文章に切迫感、臨場感(読むものがその場にいあわせているような感じ、目の前で今ことがらが動いているような感じ)を持たせたり、「・・・した」「・・・した」とだけ書いて類型的になるのを防ぐために、「見ている」「見つづけている」「動こうともしない」「ふえてくる」「だまりこんでいる」とひょうげんする「表現技術上の工夫」をさせるための指導である。
 普通には、「現在進行形表現」などとも言われているこの表現技術は、このように文章の部分に使われる表現であることと、現実感、臨場感をかもしだすため、あるいは類型化を防ぐための必要性から生まれてくるものであるので、「さあ、こういう題目に目を向けて、継続態や現在・未来形を使って書きましょう」と言って書かせるわけにもいかないむずかしさがある。
 そこで、次のようなことをふだんから意識的におこなって、こうした表現が出てきやすいようにし、出てきたものを、できるだけ学級のなかに紹介するように心がける。
 ☆ 目の前にあるものを観察して、観察記録を書かせる。
 ☆ 自然の事実・現象などをスケッチさせて描写する力を  つけたり、写実的な詩を書かせたりする。
 ☆ 継続態表現をさしはさんだ作品を、数多く読んであげ  る。
 ☆ 読み方教育で文学作品を扱ったとき、そういう表現の  部分に目を向けさせる。

(2)鑑賞によって理解させる

「一斉に書かせることはむずかしい。」と述べたが、ほおっておくわけではない。こうした表現のしかたがあることを理解させ、その表現の方法を学ばせる。
 そこで学級のなかにポツポツとこの種の表現が現れ始めたとき、あるいは、こうした表現が多く生まれてきてほしいと思ったとき、ていねいに作品を鑑賞させる。そして
 ☆ こうした表現のしかたがあること。
 ☆ 目のなかに、あるいは心の中に焼き付いて、今もその  情景が浮かんでくるような時には、普通ならば「・・・  ました」「・・・ました」と書くところを「・・・いま  す」「・・・しています」(ていねい体の場合)と書いて  いけばよいこと
 ☆ 今も目の前で見ているように書くと、文章におもしろ  さや美しさが出てくること。
 ☆ いつかは、こうした書き方をしてほしいこと。
などをどの子どもにもわからせておく。
 また、次のような詩を提示して、「・・・している。・・・している。」と現在・未来形で書かれている文末を「曲がった」「あげた。」と過去形で書いた場合との違いを話し合わせたりもすると、子どもたちは、さらにこの種の表現に注目し書く意欲を高める。

作品例⑥     しまだい
   青森 五年 勝又 弘之   
 ビグーン グググググ
 さおが、ぐっと曲がる。
 腰をおろし 力を入れて
 ビューンとさおを上げる
 石がきの上に
 しまだいが おどっている。
 かっと目をひらいて
 ピチッピチッ
 いせいよくはねている。
 しまもようを
 いっそうひらかせてはねている。
 尾でビタッビタッと地面をたたいて
 はねている。

 あるいは、画用紙などで筒を作らせて、その筒から見える世界を、「今見えているものを、見えているように書きなさい。」と言って書かせたり、子どもたちを校外に連れて行って、そこで写生の詩を書かせるような指導であったら、練習的なものといえるが、一斉に取り組むことができる。
 そしてひとりひとりが選んだ題材で、こうした表現が出てくるのを待つのである。

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