子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第四指導段階について  国分 一太郎

第四指導段階について  国分 一太郎

一 この段階の指導目標・指導内容・指導の実際についてのべる前に

 わが日本作文の会は、全国にわたり、小学校から中学校をへ、高等学校までの文章表現指導が、これから後、こうあってほしいとの展望を持ち続けている。この「指導段階の定式」もそれの現れである。けれども実際をいうと、この第4段階の指導が行われている場合は、たいそう少ない。したがって実際に生まれている作品もまだ多くはない。これは小学一年生から六年生まで、又中学一年生から三年生まで、さらに高等学校までと、学級・学年をもちあがって指導するような組織にはなっていないからだろう。それに日本の教師たちのすべてが、このような指導段階にそって文章表現指導にあたっていくという意思の統一はまだできていにいからだといえる。
 それゆえ、みなさんはあせらなくてもよい。いままでに解説されたような第一と第2段階の指導を十分にやり、次には第三段階といわれる指導も、個別指導と一斉指導のなかとに取り入れるようにしながら、次の第4段階が、どういう目当てを持ち、どんな指導内容を含めているのか、それを近い、あるいははるかな展望として持ちつつ、いわば、「子どもたちのこの段階にふさわしい学問の文章・論文」ともいってよい。この段階での文章の表現指導を、受け持ち学級の実情にそくしてこころみていくようにしたらよいだろう。
 戦前に「調べる綴方・調べた綴方」がとなえられたとき、そのねらいはよかったが、うまれる文章に子どもの心の燃焼がたりなかった。今文部省側その他が意見文」「小論文」みたいなものを、むやみと書かせたがるが、そこには書き手の内側からの真実性・必然性が乏しい。このような過去と現在の欠点をも頭におきながら・・・。

二 どんな文章を書かせたいのか

 これを、わかりやすくするため、まず、大人の文章をあげてみよう。ABCDと、それぞれに違いがある。そして、これを読むと、子どもの場合も、程度は違うにしろ、こうかと類推されるだろう。
 A フランスは、欧州第一の農業国である。その農用地面  積は、三二00万ヘクタールに達し、欧州ではイギリス  (一八00万ヘクタール)イタリア(一八00万ヘクター  ル)西ドイツ(一二00万ヘクタール)などを大きく上回  っている。
 国内消費量に対する生産量の比率を意味する自給率は、一九七八、九、八十年産のへいきんでみると、穀物(米をのぞく)一七三パーセント、砂糖二00パーセント、チーズ一一五パーセント、バター一一九パーセント、牛肉一一二パーセント、生鮮野菜九十五パーセント、生鮮果物九七パーセント、ぶどう酒一0四パーセントなど、このように食料自立を達成しているだけでなく、フランス農業は輸出産業としてフランス経済に大きく寄与している。(現代農業 是永東彦)
 B 納豆の消費が伸びているといっても、残念なのは、国産大豆で作った納豆がまだまだ少ないということです。現在、納豆に使われている大豆のうち、約七十パーセントは中国産大豆、国産の大豆を使った納豆はわずかに二十パーセント。残りの十パーセントはアメリカ産大豆という状態です。国産大豆の方が、はるかに味のよい納豆  ができるのですが・・。(現代農業 永山 久夫)
 C 明治初年すでに日本の農地は四分の一以上は小作地になっていたといわれるが、地租改正がおこなわれた一八七二年、二九パーセントであった小作地は、その後の経済変動の中で、その比率を高めわずか一五年ほどの間に四0パーセント近くになり、その割合が最高であった一九三0年には、四六・七パーセントにおよんだ。その小作地の大部分は、全農家の四割をしめる寺小作農と、三割に近い小作農によって耕作された。(福永 直 日本の農村)
 D 昆虫学者V・G・ディアーは、地球上の三つの優占的な生き物である緑色動物、昆虫、ヒトのうち、地球の本当の優位者は緑色動物であり、地球が緑色をしているために、植物以外の生物も生息できること、全動物種の九七パーセントは昆虫であり、昆虫だけで百万以上の変異があること、したがってヒトは三番目に優勢な生き物にすぎないことを指摘し、「昆虫撲滅運動」が「近代農業と環境のジレンマ」を悪(化)させ「環境の不毛化と破壊」をもたらしたことを確認しました。(いいだもも エコロジーとマルクス主義)
 さてAは新しく手に入れた知識(ちかごろは情報などという)についてまとめた文章である。書く前には、さまざまな調査があったはずだ。文章の形としては普通体の概括的説明文となっている。
 Bも、やはり新しい事実・知識をあらましまとめて説明し、それに書き手の国産大豆が納豆作りに適しているのにとの所見(ここでは、あとを略してあるが)を述べている。(かたちとしては、ていねい体の文章)
 これに対してCは、日本の農地所有に関しての歴史的な事実やその変化のありさまを概括化し抽象的に述べたもの。これを書くのには、事実の調査や今までに書かれたものの研究などの参照があったはず。歴史的な事実やその経過を示すときは、ことがらの性質上、「過去形」表現を用いることとなる。 
 Dは、最近の日本農業が農薬や無機肥料などを多く使いすぎたので、自然・耕土のおとろえ、不毛化と破壊をもたらすにいたったことを、一昆虫学者の説を引いて説明したもので、文章表現の形は「ていねい体」となっている。
 ところで、わが会が公表しているこの段階での目当ては「新しく獲得した知識についてまとめたり、あることがらについて書き手の推理・判断・所見を作り上げ、それを概括的にまとめ、明快に説明するための文章の指導の段階」とするのにてらせば、ゆくゆくはこのABCDのような性質の「一般化し、抽象化した度合いのこい文章」を書かせるようにしたいということである。
 それで同じく説明風文章を書かせたいとする第二段階と比べれば、あの段階では、あくまでも具体的な、個別的な事実をあげて、やや一般化した書き方をするのに対し、こちらは、一般化・概括化・抽象化の度合いをいっそうこいものにさせるのである。便宜的に、例をあげれば、それぞれ次のような相違となる。
 ★ わたしの父には魚つりの趣味があります。それは「い  そづり」です。(「わたしの父」という題目で書いたも  のの一部)
 ★ 人間というものは誰でも何かの趣味をもつものであ   り、それにはさまざまなものがある。(「人生と趣味」  という題目で書いたもの)
 ただし、この第四段階のためにも、「第二段階の指導を基礎としながら」としたのは、ひとつには「一般化」(一般的表象)への指向をめざさせること、ふたつには、その文章を書くときの「構成」上の工夫が、第四段階のために下じきとなるという意味である。こう考えたらよいだろう。

三 どう指導したらよいか

(1) 準備としての配慮

 ◆ この種の文章と思われるものが国語の教科書にあったときは、その題材・構成・叙述のしかたについて、その特徴をよくのみこませるようにする。また数学・理科・社会その他の教科書の中にある文章を、文章表現用の教材として参考にさせる。「・・だ、・・である、・・なのである。」と書く文章(理科や数学の教科書のとき)と「・・した、・・であった、・・になった。」といった記述についても(社会科歴史の場合などで)のみこませる。
 ◆ 百科事典などで、ある項目について説明した文章にあたるとき、その書き方の特徴に気づかせる。
 ◆ 小学五・六年生や中学生が書いた第二指導段階の文章の中に、よりよけいに「概括化」されている部分の表現が出ている場合は、その本人にも、また学級のみんなにも、その萌芽にちゅうもくするよう、その場にそくした指導言をあたえていく。

(2)題材の選び方の指導

 ◆ 他教科で学んだことや読書をして知ったことにつき、自分から進んでまとめてみたいと考えたことを題材とさせる。
 ◆ あるなまの事実・現象について、広く深く追求したり、それについて考えたり、主張したい意見を持ったりしたことを題材化させる。ただし「人生論」みたいなものはまだ無理だから、これを取り上げることをあまり奨励しない。(クラブ活動や自治活動についての反省などはよい)
 ◆ 祖父母や父母、近隣の老人などにたずねてそれについてまとめ、自分の考えを書くような課題をする。けれども、あまり大きな題目でないものとする。たとえば、
  ★ 市に合併する前のこの町や村はどうだったのか。
  ★ 昔の人が遊び道具にしたり、遊んだ方法にはどんなものがあったか。
  ★ 農家ではいつも「現金収入」が少なくてこまったという事実にはどんなことがあったのか。
  ★ 昔のころ、この村で医者にかかるときはどうしたのか。
  ★ 今のような施設農業になりかけたのはいつからで、そのようすはどうだったのか。
  ★ 道普請、川普請だのをどのようにしたのだったか。
  ★ 戦時中に苦労したことはどんなことだったか。
   けれどもこれらは、できるだけ「一般的」なこととして「この地方では」「この村で」「あるいは「国全体では」といった課題とする。
 ◆ 自分が自発的に研究したこと。調べたことをまとめさせる。たとえば、
  ★ 「するべえ」ということば(方言)は、それほど軽べつされるべきものではないことについて、「するべし」という古語にてらして書く。
  ★ 近頃の「流行語」のありさま、性質について書く。
  ★ 自分が趣味として集めたり、研究したりしていることのまとめを書く。
  ★ 地域の自然の移り変わっていく姿について書く。

(3)構成・構想についての指導

 ◆ そのぶんしょうに、かならずいれるべき「ことがら」  をよくえらび、それの配列の順序を考えさせる。(「序  論・本論・結論」といった組み立て、「起承転結」「小見出し」や「中見出し」をつけることなどについても、次第に知らせていく。これをわからせるためにも、あまりに多量のことがらを内容とするような複雑な題材は選ばないようにする。)

(4)叙述・記述の指導

 この点の指導については、さきにあげたような参考の文章について研究するときに、
★ 概括的・抽象的・一般的に述べた「文」と「文章の部分」に、読者として、具体的・特殊的・個別的な経験、見聞した事実をいちいちはめこんで、読まなければならないことを子ども・青年たちが痛感するような指導が前提としてなければならない。そうでないと、自分が、いざ書くときに、ここにふさわしいような一般的・抽象的・概括的な文章記述にしなければならないわけがわからないこととなる。
 また、学習指導要領などでよくいわれる「事実」と「自分の意見」とを、はっきり区分けして記述させなければならないなどということは、われわれの方がずっと前から心がけてきたことであることを確認したい。 
 このほかのことについても、もっと具体的にここに書こうとしたのだが、たとえば、八十三年版「年刊日本児童生徒文詩集」には、素材として取り上げることのできるようなものが皆無に近いので、そこから実例をあげ、新しい出発点とすべきことについてしっぴつすることは、どうにもできかねた。このことを、率直に告白しておく。ただし、私個人の見解については、「続みんなの綴方教室」に、もっとこまかなことを書いてあることを付け加えておく。

第五指導段階とおわりの「つけたり」について

1 第五指導段階のこと

 八二年三月に改訂公表された「指導段階の定式」では、この段階の指導目標を「第一、第二、第三、第四の指導によってえられた文章表現の能力、方法のあらゆるものを駆使して、よりよく成長した子ども・青年たちが、積極的・能動的にえらび決定した題材・テーマの文章を、伝達性、作用性(説得性)感銘性に富んだ質のよい文章が書けるようにすることをめざす。」としている。また、この段階を「第一から四段階での指導の結果としてたどりつく段階」ともしている。
 私たちが、このような段階をもうけ、そのなかみを、右のようにいうのには、三つのわけがあると考えてよい。
 ① いままでの解説者がくり返し強調したように、私たちは、小学一年生から高校生までの文章表現指導の体系を頭の中でしつらえておきたいから。
 ② 中学校を卒業して実務についたり、高校でやめて実社会で働くようになった後も、また大学生になってからも、必要な文章を、時に応じきちんと書けるようになることを望むため。
 ③ 私たちの教えた日本人民の男や女の子の中から、大人として、見事な生活記録、ルポルタージュ、自分史、詩、小説、戯曲、エッセイその他の文学作品、郷土とその歴史の研究物、各専門分野での科学論文、農耕飼育、民衆的諸種の制作の実務的な記録、ある組織や運動体の中での活動・奮闘・闘争の報告・訴えや声明などなどを書く  ものが、必ずやできるものであることを確信し、そのためのよい準備をしてやるため。

 次に「積極的・能動的にえらびだし決定した題材・テーマによる文章」というところでは、
 ① 真剣な生活者として意欲的にとらえた題材、その題材で書くことで、自己成長をはかれるとともに、読む他者・その集団に益をあたえられるような文章
 ② しっかりした学習者として学校で学び鑑賞享受した科学や芸術の知識と成果、また学校外の文化的活動からえたものを活用して、生きた題材・テーマととっくんだような文章。
 ③ 自主的、集団的な自治活動などの体験にてらして、世の中で、他人の中で生きることの意義を自覚していくような文章。
 ④ みずからも科学者や芸術にまつわる創造に積極的に参加していくために基礎となるような文章
 と考えてよいだろう・また、ここで「質のよい文章の備えるべき性質として、三つの特徴をあげるのは、 
 ① 伝達性 用意したよい題材・テーマを、誰にもわかる      明確さをもった日本語文章に形作っている性質
 ② 作用性イコール説得性 波多野完治氏がいうのを借り      れば、「伝達性のあらわれとして「おまえの言うことはよくわか  るというのにはとどまらず、おまえの言うこと、話すこと=書い  たことはもっともだと他者をうなずかせるような性質
 ③ 感銘性 その文章に、理性・理屈にあたえるものばか      りではなく、感性・感情に訴え、ほんとに感動したと受け取らせ  るものがこもっているような性質
 つまり、このようなことが、しだいに意識されることを、最終的には望むのである。

 くりかえすことになるが、私たちは、以上のような最終段階への展望をもち、これを第五指導段階とするのであるが、じつのところ、おとなであり、教師であるところの私たちにとっても、このような性質の文章を書き上げることは容易ではない。したがって私たちは、これをはるかな展望・願いとしているのだと考えればよい。第一から第四までに身についた、すべての表現方法と技術の応用・全体としてつちかわれてきた文章表現能力の意義ある題材・テーマにそくした活用だからである。
 それゆえにまた、私たちは、小学一年生から高校生までの、各紙道段階で表れてくる文章のいちいちを、こまかく緻密に分析し、どの部分が、このような最終段階のために、生きた蓄積物となるものであるかを、静かに検討していくことが望ましい。
 たとえば、このことを、八三年版「文詩集」の六年生の部にのっている小沢彩子さんの「祖母の家と五右衛門風呂」についてかんがえてみよう。これはすでにご存じのように成蹊小学校の教師、わが会常任委員の亀村五郎君が、昨年度に指導した作品である。
 前回の解説で、私は、第四指導段階での望ましい文章作品として引用できるものは皆無とまで言い切った。しかし、これは、文章全体として、単独に第四指導段階的な書き方のものは見られないということであって、そのようなものへの要素、性質が、部分としても、いっさい発見できないということではなかった。
 これを逆の方からいえば、この「祖母の家と五右衛門風呂」ばかりではなく、その他の文章作品にも、今いう部分的な要素、性質は発見できるのである。ここでは、便宜上、子の作品ひとつを例にして、それをながめてみよう。小沢彩子さんはこの作品を次のような組み立てと説明・描写で書きつづける。
① 十一月二十一日にいとこの結婚式があるので長野の祖母 の家へ行った。父の車でその家の玄関に近づくと、東京か ら客が到着したと祖母が玄関から出てきたと、まず書く。(この段落は第一指導段階の指導の結果)  
② 祖母の家の昔の職業、巨大な家屋の外見的な構え、周囲の自然、家の中の構造などを説明し、風呂場のことにおよぶ。(第二段階の指導の結果)
③ 五右衛門風呂の説明、入るとき浮きぶたにのってはいること、水のひいてきかた、どのようにしてわかすのか、わくのかなどを説明し、そのあいだに、父親と一緒に入ったある時の思い出を会話とともに書き、父も自分も、風呂のすきなわけ、いつ頃からあったかなどを挿入する。 
     (第二段階、第三段階の指導の結果)
④ この祖母の家に来るたびに、父と一緒に風呂に入り、父親が祖父と一緒に、こうして入浴した思い出の伝聞を書き、自分もその祖父と入りたかったなと、作者が四歳のころになくなった祖父(蚕種業をてびろくおこない、たくさんの人々を使った人)のことを追憶する。
     (第二段階と第三段階の指導の結果)
⑤ 「私の家の循環風呂」と「五右衛門風呂」の差について 説明し、「お湯につかりながら、まわりを見回すと」とし て、この風呂の時代をへた姿、「心がなごやかに」なる気 分など自己の主観を吐露する。ついでこのような風呂が、 浜辺にもなくなってしまったという時代の移り変わりにつ いて書きおよぶ。(ここには第一、第二段階のほか、第三 段階での力もにじみ出ているのと一緒に、第4段階の一般 化・抽象化へとふみいっているような萌芽をも示してい  る。)
⑥ 亡き祖父が代々庄屋の家のあとつぎとして村長の仕事もし、昭和の初めごろまでは蚕卵紙製造のほか、田畑も作り、人が大勢で入りし、そのため父には幼いころ、子守がついていて、学校に行っても「お坊ちゃま」といわれたことなどを今八十四歳で、足は悪いが健在な祖母のこと(その体つき・表情、皮ふの色まで)を書く。
(ここには、聞き取りによってわかった自分が生まれない前のこの家の歴史の一端を描くことで、歴史的なとらえ方の萌芽を示している。)
⑦ 最後の所では「戦後は世の中も変わり、農地改革などもあって、そういうこともなくなったのだというような話」をなつかしく話してくれる祖母の話の内容を紹介し、「牛も、ニワトリも祖父が亡くなって(から)、今では飼わなくなってしまいましたが、このいろいろな思い出を込めた、五右衛門風呂だけは、いつまでもなくならないでほしいと思いました。そして、祖母も、いつまでも長生きしてほしいと思いました。」と結ぶ。
(ここには戦後の農地改革以後の変化などを、社会科で知ったことなどを少し生かしたと思われる能力が、それほど十分ではないがあらわれている。また、この部分は、ある日の祖母の言で書くのだから、もう少し工夫が必要なのだがまだ小学六年生ゆえに、厳密な表現とはなりえない弱点も残している。)

 もう一つつけ加えれば、この文章には、事実と事実関係、それと接触する書き手の内面の説明と描写にとどまらず、ある感銘性をあたえる(文学的なものへの接近)部分があることも指摘できよう。
 このように、この六年生女子の文章は、今まで、みんなが解説してきた第一から第四の指導段階での蓄積をへて、第五段階へと進む要素・性質もきざし始めているとしなければならない。ちなみに、この作者から、私あて昨年末に、祖母死去のため年賀欠礼の意味の葉書がきたので、「あのおばあさんが・・・」と葉書を出したら、亡くなった祖母は「母方の祖母」であって、作品の中の祖母でではないとの返事が、すぐさま届いた。

 2「つけたりふたつ」のこと
 標題に書いた「つけたり」については、次のことを考えていただけばよい。
 ① これを学校段階・学年段階に具体化するためには、「何を」「どう書かせるか」の両方をふまえたような「指導系統案」が必要であるが、これはまだ、日本作文の会として公表していない。「会内資料」としての文書を、二回にわたり会員に配布し、そのあいだで、目下検討をつづけているのである。その「部分」や「全体」を、自己  の論文や単行本に提示している会員もいるが、それは個人として、それは個人として、この系統案の大筋に賛成しているのであろう。しかし会としては「試案」と考えている段階で、公表できる最終のものとはしていない。
 ② この「指導の定式」の各段階を見ると、「何を、どう書かせるか」ということで、非常に原則的な題材の選び方、テーマのたてかた、表現意欲喚起、題材化=主題決定、構成=構想、叙述(説明と描写)、推考、鑑賞批評など指導内容、題材のいかんにより、どのような形体の文章になるのか、そこでの日本語文法のきまりのいかされかたなどを書き添えてある。けれどもこれは、あくまで原則的なことだけであって、 
★ この「指導の定式」を見ると、生活綴り方=正しい作文教育のこまかい指導内容が、みなわかるというふうにはなっていない。また、そのように受け止めることは、全くの誤りである。
★ 「なんのために、何を、どう書かせるのか」「そのかく指導領域におけるこまごまとした、的確で、効果的な指導のあり方をどうするか。か」などについては、私たちが公開した別のテーゼや、すでに世の中に出している単行本、またこの「作文と教育」誌上その他で、次々と公にされ、明らかにされているものについてご研究をお願いする。 
 このことを、くれぐれも断っておくというのが「つけたり」の趣旨である。

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