子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第55回日本作文の会全国大会・福島大会

第55回日本作文の会全国大会・福島大会

           2006年7月28日(金)~30日(日)
二十一分科会 「平和教育と生活綴り方」東京都墨田区立堤小学校

平和教育を大切にしていこう!

「年配の人に、戦争中の体験を聞き書きする」を終えて
(1)原爆体験の聞き書き   2005年 7月の六年生の実践
(2)「在満少国民」吉岡数子さんとの出会い
2005年 10月の6年生の実践
(3)「ガラスのうさぎ」の作者高木敏子さんをお迎えして
2006年 2月の6年生の実践

文章を生き生きと書くための、 6つの大事なこと

作文がうまくなるキーワード
① いつ、どこで、誰(だれ)がなにをしたかが、はっきりわかる文にする。
② その時はなした自分や相手(あいて)の言葉は、会話として「・・。」を使 って文にする。
③ その時、思ったり、考(かんが)えたりしたことは、(・・。)を使って文にする。
④ その時の動きや、周(まわ)りの様子(ようす)にも気がついたら書くようにする。
⑤ 自分はわかっていても、読み手がわかるように、説明(せつめい)も入れる。
⑥ 必要(ひつよう)なところは、ものの形や色や大きさ、手触(てざわ)り、においなど、五感(官)を 働(はたら)かせたことを、よく思い出して書く。

教科書から、表現力を高める単元が減少

 情報・伝達に役立つ作文、絵や写真を見て想像する作文などが、わずかにあり、子どもの表現力を真に高める単元が、皆無と言っていいほどなくなりつつある。

戦争体験の聞き書き

 日本が戦争に負けて、今年で61年の歳月が流れ去った。私が、この墨田区に転勤してきたのは、今から31年前であった。保護者の中にも、戦争体験者の方が何人かおられ、戦争体験は、自分の親から直接聞けるこどもたちが半分近くいた。父親が兵隊で、外国にまで行き、戦って帰ってこられた方が数人おられた。祖父母の年令も、60代前後で、記憶も鮮明に覚えておられ、貴重な体験が語られ、当時のこどもたちは、割合苦労せずに聞き書きができた。また、墨田区が東京大空襲で、被害を被った地域であったことも他の地域に比べ、取材しやすい。

祖父母や曾祖父母(そうそふぼ) からの聞き書き

(二〇〇四年七月 五年生のときの実践)
 夏休みは、父母ののふるさとに帰られ、祖父母や曾祖父母(そうそふぼ)の方に、一緒になって聞き書きをすることを勧めた。六十年以上前の戦争中の貴重な生活を語っていただき、「平和の大切さ」や「戦争のむごさ」を身をもって感じ取ることができる文が完成し、みんなで読み合った。

聞き書きは、ワンランク上の書き方

 「書き手」「語り手」「励まし手(教師や親)」の三人が、うまくいかないと、この仕事は、なかなか「ひとまとまりのきちんとした文章」にはならない。今回の取り組みをして、こどもたちの表現力が、一回りも二回りも向上してきた。「鑑賞」することによって、平和の意味をもう一度考え合い、「ものの見方」「考え方」が深まり合うことが出来た。
 戦争の聞き書きを進めるために (昨年度の飛び込み提案の内容と同じ)

保護者の方へ

 こどもたちに戦争体験の聞き書きを休み中の課題にしました。身近なところにいらっしゃったら、こどもたちに情報を提供していただければ、ありがたいです。田舎にご両親や祖父母の方がご健在であったら、事前に連絡をしておいていただくと、こどもたちが取材するのに、大変助かりますので、よろしくお願いいたします。子供さんと、一緒になって、お話を取材されてもかまいません。

みなさんに

 最初に、自分の身近なところにいる方で、戦争体験をされた方がいらっしゃる方をさがす。家の人や近所の人に聞く。祖父母が近くにいたり、いなかにいたら、電話などで確かめておく。あらかじめ、取材に行く前に、事前に訪ねて、お聞きする内容をお手紙やメモの形にして、お渡ししておく。このようなお話のできる方は、現在七十才(戦争に負けた年、十才)以上の方です。東京大空襲や兵隊の体験者の話が聞けたら、すごいことです。

どんな内容をたずねるか(「原博おじさんの戦争体験」「母の姉は中国に」など参照)

 一つの例(この通りでなくて良い。自分で質問することを、メモして、相手に手渡しておく。)
①いつどこで、お生まれになったのか?
②その時のご家族は、何人おられたのか?
③その後、ご兄弟は何人になられたのか?
④ご家族のお仕事は、どんなことをされていたのか?
⑤小学校に入学される前の心に強く残る思い出があれば、いくつかお話ください。幸せだった家族として、時代のことを、たくさんあると思われますが、今なつかしく鮮やかに残っておられることがあれば、お話ください。
⑥何年になんという小学校に入学されたのか?
⑦その時代は、戦争前で、どんな暮らしを人々はしていたのか?
⑧学校で行われていた教育は、どんな教育が行われていたのか?ご自分が受けられた教育を、具体的に思い出してお話ください。
⑨一九四一年十二月八日太平洋戦争開始のときは、何才であったか。また、そのニュースをどのように受けとめておられたか。  
⑩今、一番こどもたちに語りたいことはなんでしょうか。

書くとき(記述)

①小見出しを書き、分けて書く
②「・・・だそうです。」という(伝聞推定)書き方はせず、「・・です。」「・・ました。」と「歴史的過去形表現」する。
③できるだけ、心に残る言葉は、会話の形にする。
④会話の後に、「・・・と言いました。」と言うだけでなく、そのしゃべっている、相手の顔の表情や声の調子などをじっくり観察して、そのことを思い出して、書き込めるとすばらしい。
⑤その話を聞いていて、そのとき感じたことや思ったことは、文章の中にはさみこんで書く。
⑥難しい言葉は、説明をいれて書くようにする。
⑦インタビユーの時につっこみ質問をして、語り手の思い起こしを手伝い、深めたことを書く。

(1)原爆体験の聞き書き  2005年7月の6年生の実践

 今年で、その原爆が落とされて方ら、60年目の暑い夏を迎えます。1945年8月6日の午前8時15分のことでした。その頃、日本は、アメリカ、イギリスを中心とした連合国を相手に、太平洋戦争をしておりました。日本は、1941年12月8日に真珠湾を攻撃して、戦争が始まりました。不意の攻撃で、最初は、どんどん勝ち戦(いくさ)でした。しかし、その翌年のガダルカナルの戦いで敗北し、それ以後は負けの連続でした。当時の日本の新聞やラジオは、その事実を正確に伝えませんでした。したがって、その後は、尊い命がたくさん奪われていきました。なかなか敗北を認めない当時の日本政府に、連合国は、世界で初めての新型爆弾を製造しました。それが、広島・長崎に落とされた原子爆弾でした。あまりにひどい被害があったので、その後は、戦争があってもそれは使われずに今に至っています。福地義直さんは、その犠牲者のお一人でした。この原子爆弾の落とされた瞬間に、二十四万にの人々が犠牲になっています。その後放射能を浴びた人々は、何年か元気にしていても、突然具合が悪くなり、病気になり亡くなっていく人々がたくさんおられます。2005年の現在でも、その死の恐怖を背負いながら生活されている方が、たくさんおられます。福地さんもそのお一人です。現在も、月に何回か必ず病院に通っています。放射能におかされた内蔵の健康診断を受けておられます。現在は、広島で被爆された方には、誰でも被爆者と認める運動をされています。

福地さんの目からあふれるなみだ

    墨田区立緑小学校     六年  男子
 6月25日に福地さんの戦争体験を聞きました。福地さんの出身地は、広島で、そのころは中学三年でした。福地さんが寝ている時に、悪魔が音もなく空から降ってきて、地に着いた瞬間に爆発しました。ものすごい風圧でとばされました。でも奇跡的に、家の下じきになって、助かりました。このころ、広島に落とされた爆弾の名前は、ピカっと光ってドーンて言うのから、ピカドンと言うのになったそうです。ピカドンの温度は、八千度~一万度だったので、広島市の人は、かなり即死でした。福地さんは、お母さんを、無我夢中で探しました。そしたらお母さんが家の下じきになっていたので助けたら、母の顔が、お化けみたいで肉が、丸見えでした。でも、母には代わりはないので、なんとか応急処置をしようと、はだしで脱脂綿を探しに行きました。でもこのころの道路はアスファルトだったので、熱が伝わってあつかったので、とても歩ける状態ではありませんでした。偶然にあった電車にかけこんで、そこで、休んでいると、偶然に、座席に脱脂綿がありました。それを母のところに、持っていって、母に応急処置をしました。
 話のとちゅうに、福地さんの、目からこぼれるような涙が出てきました。その涙をみて心がきゅっとしめ付けられました。きゅっとしめ付けられる心は、前回にも体験している痛みでした。前回とは、五年生のころに聞いた、戦争体験、福田稔さんの話の時と、夏休みの宿題のとき祖母に聞いた戦争体験でした。ぼくは福地さんの戦争体験を通して、今までの戦争体験談で共通なことが、うかび上がってきました。それは、祖母も稔さんも福地さんもみんな同じ苦しみを、味わっているんだなということが・・・・・
 ぼくはこれから、戦争体験談を聞いていきたいです。それで、戦争被爆者の心が和らげるなら、うれしいです。今日本は戦争をする方向に向かっていると、福地さんは言ってくれました。また戦争を起こしたら、戦争被爆者に、二度の苦しみをあたえることになります。戦争被爆者に、2度の苦痛をあたえないためにも、ぼくは戦争に反対です。でも今の人は、戦争の話を聞いていないので、ふざけ半分でやっているのかもしれません。でも、ふざけ半分でも、やっぱり戦争反対の側についてほしいと思っています。なので、僕は、戦争には反対の人が、増えてほしいと願っています。

伝えていくことは大事

墨田区立緑小学校     六年  女子
 6月25日(土)の3、4時間目に、74歳になる福地義直さんに、広島の原爆のことについての話を聞きました。最初、福地さんはすわっていたのに、話をするときは立ちました。
「すわって話してもいいですよ。」
 榎本先生はそう言ったのに、福地さんは、
「ああいいです。立っていた方が話しやすいので。」
と言っていました。私は、
(元気な人だなぁ。)
と思いました。広島原爆の話を始めました。
「爆心地から一千二百メートル先の所の自分の家にいて、その時の圧力で家がくずれました。 私と母が家の 下じきになってしまいました。私の足には、くぎと木がささっていて、それ をぬいたけど痛くありませんでした。それで必死になって『おかあさーん!』っていって呼 んで探して見つけたら、お母さんがおばけみたいだったのです。額が溶けて骨が見えて、手 や足がどろどろに溶けて・・・。私のお母さんは、とてもきれいだったんですけど、おばけ みたいでしたよ。」
と話していました。私は、福地さんの足にくぎと木がささったり、福地さんのお母さんの額の骨が見えていたり、想像しただけでもゾッとしました。そのほかにも残こくな話がたくさんありました。でも、そういう、福地さんのお母さんみたいに、すごい大けがをしているのに、気絶したりしなかったなんて、今では考えられません。だから、
(昔は心まで、まひしてしまっていたんだな。)         と思いました。それで、しばらく話を聞いていると、福地さんが泣いて、ハンカチで目をふいていました。私は、
(やっぱり、こんな残こくなことは思い出したくないよなぁ・・・。)
 少し悪い気がしてきました。
 最後に『福地さんのお父さんはどうしたか?』の話を聞くと、
「私のお父さんは行方不明で、全く会っていません。」
と言っていました。
 最後に 授業参観で見に来てくれていた、大関さんのお母さん、大泉さんのお母さん、春日さんのお母さん、板東さんのお母さん、お父さん、石澤さんのお母さんにそれぞれ感想をもらいました。とくに心に残ったのが、大関さんのおばあちゃんの話でした。大関さんのおばあちゃんも3才のころ、戦争を体験したということが、とても驚きました。
 次に榎本先生の話を聞きました。そのとき、ふと気がつくと、榎本先生も泣いていて、ハンカチで目をふいていました。榎本先生も福地さんの話を聞いてとても悲しかったんだと思いました。今、少しずつ日本の国は、戦争をやりそうな感じになっています。だから、この戦争の話を伝えて、残していくことも大切だと思いました。 
 福地さん、今日はどうもありがとうございました。
*福地義直さんは、この語りをしてくださったその年の11月に亡くなられました。

(2)「在満少国民」吉岡数子さんとの出会い 2005年 10月の6年生の実践

 大阪の堺市より、教研集会の講師として講演していただいた折りに、我がクラスにも来ていただき吉岡さんの思いをこどもたちに語っていただきました。
 「私のしていることの原点は、敗戦後、学校にいってまずさせられた墨塗りでした。国民学校で教え込まれ、丸暗記させられた国定教科書。国語と国史、地理、修身この四冊の墨塗りをしました。国定教科書は、明治の末から一期から五期とあります。全部、軍国主義教育、国家主義教育への路線を教育の場をつかって見事に教科書の中に織り込んでいっています。敗戦後、墨塗りをした時点でわたしは、朝鮮や、かいらい「満州国」で子どもの目から見てもおかしいなと感じたことは、やはり間違ってたのだとと思いました。私は朝鮮で生まれました。父は朝鮮総督府の官吏で、朝鮮侵略植民地支配の加担者として農地を取り上げる仕事をするために、朝鮮に渡りました。その当時、朝鮮総督府の発行した、朝鮮の子どもたちに強制的に使わせた教科書には、国史、地理、国語、修身もありました。そしてできるだけたくさんの資料を教材にして、学校の教師として教育現場で教科書にかかれていない真実を、伝えたいと思ってきました。」
「在満少国民」の20世紀「解放出版社」 吉岡数子著より抜粋

吉岡 数子さんの話     墨田区立緑小   6年 男子

 今日の3、4時間目に「吉岡数子」さんの話を聞きました。
「この教科書を丸暗記しなくちゃ、女学校の受験を受ける資格もとれないんだよ。」
と、聞いて
(大変だな。)
と思いました。更に、吉岡さんに教科書を見せてもらい、その大変さがとても強く伝わってきました。自分がもし吉岡さんと同じことをやれと言われても、とてもできないと思います。そういう意味では、吉岡さんはとても根気強いと思います。
 学校が小さな軍隊になったことを聞いて、僕はとってもショックを受けました。与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」のように、人を殺して死ねと教えられていたのだろうかと疑問に思いました。
 教科書に墨をぬるところで、吉岡さんは今まで正しいと教えられていたのに、何故急に間違っていると思ったと聞いたときに、
(それは混乱するな。今でもそんなことされたら、冷静にはいられないよ。)
と思いました。
(でも、これで少しは平和になったんだな。傷跡は大きいけど。)
と、思い、ホッとしました。音楽も戦争のことばかりでした。
(本当に戦争一色だな。)
と呆れました。今も、君が代や、緑小の校歌(*1)も、戦争に関係あるものだと聞きました。
 満州国で暮らしていたとき、友だちに
「君(あなた)が住んでいる家は、僕(私)が住んでいたところなんだよ。」
と聞かされた時は、とてもショックだったと思います。今日、吉岡さんの話を聞いて、とても勉強になりました。昔の勉強は今より難しいと聞きましたが、そんなに生易しいものじゃないことがわかりました。吉岡さん、ありがとうございました。
*1緑小校歌
1 千代(ちよ)の栄(さかえ)の本所(もとどころ) /松と名に負う町々の/有るが中にも目に立つは/深き緑の学園/園の掟を守りてん
2 誠実一つを心とし/あしき習慣(ならわし)皆すてて/君と国とにかきつくす/道をたどらん撓(たゆ)みなく/これぞ掟の要なる

吉岡 数子さんの話を聞いて  墨田区立緑小 6年  男子

 20日の木曜日に満州で戦争体験をした、吉岡数子さんの戦争体験を聞きました。日本で戦争体験をした福田さんや、福地さんや、海外で戦争をしたぼくの祖父の戦争体験は聞いたことがあったけど、満州でのことは聞いたことがなかったので、少し興味がありました。
 一番おどろいたことは、満州と日本とでは使っている教科書がちがっていたということでした。吉岡さんは、六年生のときにお父さんが亡くなって、日本へ来ました。満州では、五年生のときに、「皇国の姿」という国史と地理の合科の本を使っていました。しかし、日本に来ると、国史、地理、修身に分かれていて、内容も違いました。吉岡さんは、
「先生に、『大化のまつりごとを言いなさい。』
と、言われたので、
『それって大化の改新のことですか?』
と、聞いてしまいました。」
と言いました。
(この時代に先生に質問をしたりすると、『非国民』って言われるけど、教科書がちがってい たのなら仕方ないよなあ。でも、なんで教科書がちがうことに、みんな気づかないんだろう。)
と思いました。
 休み時間に、二つの教科書の大化の改新の部分の写真があったので、両方読んでみました。すると、最初の部分から聖徳太子が死んだ後のことが書かれているものと、産業のことが書かれているものに、いきなり分かれてしまいました。
(すごい違いだな。)
と、おどろきました。
 他には、戦争中の教科書の年代がすごいことになっていることにおどろきました。一四六七年の応仁の乱が二千年代になっていました。Bさんは、
「きっと神武天皇のときから数えてるんだよ。」
と言っていました。
(たしかに、こういう時代だったから、天皇をしたわせたり、日本をヨイ国、キヨイ国、神ノ 国、 強イ国、エライ国だと思わせるために、神武天皇からの数え年だったんだな。)
と、納得しました。
 戦後、全国で教科書に墨をぬらされました。吉岡さんは、なんで墨をぬるのかを疑問に思っていました。
(ぜったいよごさず、きずも一切つけてはいけないと言われてきた教科書に、墨をぬるなんて、だれでも疑問に思うよな。)
と、思いました。
 他にも、モモタロウの戦争の絵や、毎朝登校の時に「勝ち抜く僕ら少国民」を歌っていたことも分かりました。学校では、なにかをすると非国民と言われました。満州での
「ここは私の家だった。」
と、吉岡さんが言われたことも印象に残りました。とても悲しかったと思いました。
 満州国設立や、差別などで、中国の人たちも苦しみました。世界の全ての人のためにも、戦争はしてはいけません。

吉岡数子さんの話 墨田区立緑小 6年 男子

 吉岡数子さんは、1932年に満州で生まれ育ち、戦争の時代を生き、今は大阪府堺市に住んでいます。吉岡さんが、10月20日、僕達のクラスに戦争体験を話しに来てくれました。最初に、吉岡さんは、
「みなさんは、6年生なので、私が同じくらいの年代だった頃のことを中心に話します。」
と言いました。吉岡さんが6年生の時、吉岡さんの父親が急死しました。吉岡さんは、
「はじめは事故死だと思っていたんだけど、戦後アジアを回って調べてみると、そうではないらし いとわかったんです。」
と言っていました。父が死んだことで、吉岡さん達は、日本(内地)へ帰りました。ここで、吉岡さんは、小豆島と言うところに行き、毎日「勝ち抜くぼくら少国民」という歌をうたって登校していました。吉岡さんが1年生や2年生の頃は、まだアジア・太平洋戦争も始まっておらず、小学校も楽しい生活でした。『サイタサイタサクラガサイタ」と言う文がのっている内地の教科書は、桜が咲かない満州では、適切ではないと思った山下先生という先生が、『満州補充副読本』という教科書を使った総合学習をしてくれたからです。しかし、学校には、朝鮮・中国のこどもたちは来ておらず、町でも日本人は優先されており、吉岡さんはなぜ朝鮮や中国の子は、学校に行かないのか、なぜ日本人だけえらそうにするのか疑問に思ったそうです。また、それを実際の聞いてしまったこともあり、
「今となっては、とても失礼な質問をしたと思っています。」
と言っていました。三年生になると、「小学校」が「国民学校」という名になり、「ミニ軍隊」になりました。この頃には「五族協和」や「大東亜共栄圏」という戦争を賛美する言葉があらわれ、吉岡さんもこの戦争は正しいんだ、日本人がえらそうにしているのは、当たり前なんだと思いこんでいました。ちなみに、「五族協和」は日本の周りにすむ五つの民族が互いに助け合うのを目指すことで、「大東亜共栄圏」とは東南アジアで助け合って共栄していこうという意味です。しかし、これは口実で、実際にはアジアを侵略することが戦争の目的でした。ぼくは、
(国民はみんな、政府にだまされてきたんだな。)
と思いました。また、内地から満州にたくさんの人が移り住んできて、「沖縄は長男、台湾は次男、朝鮮は三男、満州は四男」と言われました。教科書も、それまでは「桃太郎」の鬼の絵が中国の蒋介石だったのが、アメリカ大統領のフランクリン=ルーズベルトの顔に変わりました。ぼくは、
(どんどん戦争色が濃くなったな。)
と思いました。四年生では、『内地の家族』や『斥候(せっこう)』と言う絵を模写しました。『内地の家族』は、非国民と叱られないようとてもていねいに描いたのに、先生から、
「こんな絵は、誰が見ても非国民だ!」
と叱られてしまいました。吉岡さんは、
「なぜ叱られたのかわからなくて、それ以来ずっとトラウマになってしまいました。」
と言っていました。トラウマとは、昔、経験した嫌なことが後になってからも心の傷として残ることです。ぼくは、
(ショックがとても大きかったんだな。)
と驚きました。戦後しばらくさがして、やっとの事でその絵の原版を見つけました。そこで、その理由がわかりました。当日、吉岡さんは実物を持ってきて並べました。僕は、見本と吉岡さんの絵を見比べてみましたが、色遣いや場所などが少し違うだけで特におかしいことはありません。実は、その理由とは、しょうじの開ける×印の位置がちがっていたというものでした。ぼくは、
(それくらいのことで、非国民といわれるなんてひどい。)
と思いました。
 内地へ帰ったあと、内地の小学校に入るとき、先生から、
「教科書を暗記していますか。大化のまつりごとを言ってください。」
と言われました。吉岡さんは、満州では大化の改新と習っていたので、
「大化の改新ですか。」
と聞きました。先生は肯定し、吉岡さんはスラスラと言いました。言い終わると、先生は、
「違いますよ。」
と言いました。満州と内地では、教科書がちがったのでした。吉岡さんは、
「このことを知っている人は、ほとんどいないんですよ。」
と言っていました。ぼくは、
(へえ、いわゆるトリビアっていうやつかな。)
と思いました。その当時、義務教育は小学校六年間だけで、それ以上にはすべて試験がありました。しかも、その試験は教科書の暗記で、今のように内容があっていればオーケーというのでなく、一言半句でもちがっていたら不合格でした。吉岡さんは何とか合格しました。しかし、1945年8月15日、敗戦すると、教科書の墨ぬりが行われました。今まで、教科書をよごしてはいけないと言われ、修身などは開ける前に、一度礼をしてから開けるなどと言われていたので、それを墨でぬるなんて相当なショックを受けたそうです。2,3日ずっと墨ぬりをし、国史、地理、修身はすべて、国語もかなりが墨ぬりになりました。それと、吉岡さんは、僕達に昔の教科書を見せてくれました。春日さんが、二千何年かに応仁の乱が起こると国史に書いてあるのを見つけ、前後の記述から、神武天皇が生まれたとされる年を一年としていることがわかりました。吉岡さんは、
「戦争と差別は、必ずセットになると言われています。」
と言っていました。こんなひどい戦争を、2度とやってはいけません。

 戦後61年たち、世の中、再びきな臭いにおいがしてきています。平和教育の大切さを実感しています。1969年に教師になり、37年「つづり方・作文教育」を、教育の根底にすえて歩んできました。70年代から80年代は、民間教育が大きく花開いた時代でした。九十年代は、組合が分裂して、権利が奪われ、教研が衰退した時代でした。官制教育が幅をきかせ、身動きが出来ないくらいに、管理統制教育がはびこっています。特に東京の教師は、パソコンによって加速された書類作りに追われ、多忙化し、多忙化への逃避による思考停止にいたっています。私のまわりには、多忙でないと、落ち着かない人もいます。その人は、子どもと向き合って、ゆったりと可能性を引き出して教育実践をしているようには見えません。

(3)高木敏子さん(ガラスのうさぎの著者)をお迎えして  2006年 2月14日

平和への思い  墨田区立緑小  六年 女子

 2月14日、体育館で『ガラスのうさぎ』の著者、高木敏子さんに講演会をしていただきました。高木さんは、今年で73才なので、学校などでの講演は終わりだそうです。その最後に緑小で講演会をしていただきました。私は、『ガラスのうさぎ』の本を2回ぐらい読んだので、高木さんの戦争体験はある程度分かっていました。時間になって、6年生と5年生が入場しました。私は、
(思ったより、人がたくさんいるな~!)
と思い、少し緊張しました。入場後、少ししたら高木さんが体育館に入ってきました。杖をついていて、横に付き添いの人がいました。最初に、戦争のビデオを見ました。途中で、高木さんのことを再現したような場面がありました。 とても、リアルで戦争の怖さがよく、伝わってきました。その後、高木さんの話が始まりました。やはり、千回ほど講演をやったようなので、話の仕方がとてもうまかったです。高木さんは、60年前の出来事を、ついこの前のことのように話していました。私は、
(ガラスのうさぎを読んで、高木さんがとてもつらい思いをしたことは分かったけど、生で聞くと、戦争の怖さがよく伝わってくるな~)
と、思いました。最後の方では、外国で出版されたガラスのうさぎの紹介をしてくださいました。たしか、階段のところに、校長先生のお気に入りの本コーナーみたいなところがあります。その中に、英語版のガラスのうさぎがあったような気がします。それを見て、
(ガラスのうさぎは外国でも、出版されてるんだ~!)
と、とてもびっくりしました。でも、すでに中国語、タイ語、ドイツ語、ベンガル語、(バングラディシュ)、スリランカ語、スペイン語、ハンガリー語、ポルトガル語まで出てるというので、
(こんなに、出てんの~?)
と、本当に驚きました。
 その後、みんなで「ガラスのうさぎ」の歌を歌いました。次に、校歌を歌いました。高木さんは覚えていたのか、何カ所か歌っているところがありました。
(もう何十年も前だけど、覚えているなんてスゴイな~!)
と思いました。私は、高木さんが緑小で、講演をしてくださったので、平和への思いが強くなったような気がしました。何事も武力で解決せず、話し合いで解決するのが理想です。でも、そんなに世の中は話し合いで解決できるわけではありません。だけど、だれもが平和への思いを忘れないでもらいたいです。私も、2度と戦争をしないよう、平和への思いは絶対忘れません。

高木敏子先生の講演 墨田区立緑小 6年 男子

 2月14日の火曜日の六時間目に、「ガラスのうさぎ」の作者の高木敏子先生が講演をしてくれました。「ガラスのうさぎ」は、太平洋戦争中の物語で、高木先生は緑小学校の卒業生(?)です。高木先生は、全国の小学校でしてきた一千回ほどの講演の最後を自分の母校でする事を決めたのです。
 当日は、NHKや新聞社の人たちがいました。
「人様に迷惑をかけないこと。人様に笑われないこと。自分がいやがることは人様にもしないこと。」
この言葉が一番深く印象に残りました。話は主に本に書いてあることでした。でも、改めて話を聞くと、また悲しみを実感しました。お父さんが二宮の学校に来て、
「敏子、3月10日の空襲で、お母さんも妹たちもいなくなってしまったんだよ。」
と、言って、高木先生が、
「えっ?」
と、驚いたとき、
(いきなり家族がいなくなってしまったんだから、悲しかったろうな。)
と、悲しさを実感しました。二宮の駅で、お父さんが機銃掃射で死んでしまったときも、僕と同じくらいの年だったのに、埋葬許可証とかをもらったりして、
(お父さんが死んでしまって、僕だったら気が動転してしまうのに、よく冷静に対処できたなぁ。)
と、思いました。高木先生が、
「両国のお寺でね、『敏子ちゃんはいったいいつ帰ってくれるのかな。』と住職さんが言っているのを聞 いてしまったんですよ。そのころは一人でも 人が増えると、生活が苦しくなってしまうんですよね。」
と、言いました。僕は、
(昔はすごく貧しかったんだな。)
と、思いました。高木先生は最後に、
「戦争は人の心の中で生まれるものです。平和の輪を、この緑町から発信しましょう。」
と、言いました。やっぱり、戦争はしてはいけません。高木先生みたいな人や家族全員をなくした人が、たくさんいたのです。今の世の中は、戦争に動こうとしています。絶対に戦争を起こさないようにして二度と悲しみを味わうことがないようにしなければいけません。高木敏子先生、ありがとうございました。

母校での最後の講演     墨田区立緑小  六年 女子

 2月14日の火曜日の六時間目に「ガラスのうさぎ」の著者である、高木敏子先生の最後の講演会が、緑小学校で開かれました。全国から大勢の方が来て、体育館には、人がたくさんいました。高木先生は千回ほど講演をしていて、多くの人に「平和」について語ったそうです。
(すごいなぁ。)
と思いました。高木先生と付き添いの人と、池田先生が一緒に体育館に入ってきました。拍手で高木先生はむかえられ、舞台のいすに座りました。十分ぐらいのビデオを見てから、講演が始まりました。
「いつもと違うからねぇ。」
と高木先生は、最初に言いました。
(やはり、最後の講演だから緊張しているのかな。)
と思いました。東京が空襲にあって、お父さんと高木先生がお母さん、二人の妹ことを探していくところを聞いて、
(戦時中は、辛いことがたくさんあっただろうなぁ。)
とガラスのうさぎの本を読んだとき以上に思いました。
「お母さんと妹は骨の一片も見つからなかった。」
と聞いて、
(かわいそうだなぁ。もし私が、高木先生の立場だったら、ずっとくよくよしていて、立ち直れな いないだろうなぁ。)
と思いました。でも高木先生は、くじけずに家族のために生きていきました。話の最後に、
「戦争を起こすのは人の心、戦争を起こさせないのも人の心。」
と何かの紙を見ながら、読み上げました。私はそれを聞いて、
(その通りだ。)
と心にドンと衝撃がきたような気がしました。戦争は絶対にやってはいけないことです。私は、大人になっても、そう思い続けたいです。平和であり続けることは大事なことだと思います。講演会の最後に、5、6年が「ガラスのうさぎ」という歌と、緑小学校の「校歌」を歌いました。ガラスのうさぎを歌っているときは、ウン、ウンとうなずきながら聞いてくれました。校歌は、高木先生もいっしょに歌っていました。私は、校歌の一番を歌っているときに、思ったことがありました。「君と国とにかきつくす」についてです。この言葉は戦争前に作られて戦争に関係あることなので、担任の榎本先生は、黙って聞いています。高木先生はどう思うのかと、疑問に思いながら私は歌っていました。校歌を歌っている途中で、高木先生はハンカチを目にあてていました。付き添いの人が肩をポンポンとやさしくたたいていました。
 こうして講演会が終わっていきました。この講演を通して、戦争は絶対にやってはいけないことだということを改めて感じ、家族を大切にするということも学びました。

日本経済新聞 朝刊コラム

「本を読む時間です。自分の席に座りましょう」。校内放送が流れ、元気な朝のざわめきがピタリと消えた八時半、「朝の十分間読書」の時間だ。三年は静寂そのもの。一斉に本に向かう姿は自然で、子供たちがりりしく見えた。▼東京・墨田区立緑小学校は、朝の読書運動のモデル校的存在だ。東京大空襲(一九四五年三月十日)を語り継ぐ「ガラスのうさぎ」の作者・高木敏子さんの母校である。たった十分間でも読書によって子供たちは変わっていくものだ。
 原則は毎日やるみんなでやる、好きな本でよい、ただ読むだけ、というもの。▼授業中、落ち着かない子供も本を媒介にして静と動の切り替えを覚えていく。なるほど黙読とは「黙る」ことであり、集中することである。18年前、千葉県の女子高で誕生した「朝の読書」は同推進協議会の調べで、曲折を経ながらも、全国の小中高約4万校のうち2万1300百校、790万人へと拡大している。
 ▼朝の読書の効用は、韓国の視察団を驚かせ、隣国でも脚光を浴びているという。上級生が紙芝居の要領で読み聞かせたり、教師、保護者、地域が一体となって本の魅力と優しい心を伝え合う。学級崩壊など荒(すさ)んだ学校が乗り越えてきた時代の流れに、こうした小さな運動の積み重ねがある。読書の力、再認識だ。春秋2006年3月5日(日)

墨田区に転勤して、三十年間、「平和教育と作文教育」が生涯のテーマになった。緑小に来て、高木敏子さんの講演を聞いて、ぼくのささやかな教育実践のまとめをしていただいた。こどもたちは、いつも輝いていた。「平和、それは、バター付きのパンダ。」(PTA新聞の一部より)

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