子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

綴方理論研究会 1月例会の報告と2月例会のご案内(2017年)

綴方理論研究会 1月例会の報告と2月例会のご案内(2017年)

★ 1月例会の報告
《参加》乙部武志、添田直人、榎本 豊、田中定幸(司会)、早川恒敬、左川紀子、中山豊子、工藤 哲(記録)、日色 章(敬称略)。
*諸事情あり、「休みます」の連絡。小山 守さん、大須賀敬子さん、高橋朱美さん。
《事務連絡》(1)山形の国分恵太さんから、榎本さん、田中さん宛てに資料が送られてきたとのこと。山形新聞の記事で、昨年の12月4日(日)、11日(日)、18日(日)と、3回にわたって国分一太郎が取り上げられています(「やまがた再発見―国分一太郎」)。筆者は、児童文学者の鈴木実さん。山形新聞は、地域で広く読まれている新聞なので、国分一太郎が改めて取り上げられたことは喜ばしいですと榎本さん。その新聞の記事をコピーして、配ってくださいました。(2)榎本さんのところに、日本作文の会常任委員会の委員長名で(?)ハガキが届いていたとのこと。『作文と教育』の購読者数が「危機的状況」なので、購読者を、各人あと一名でも増やして欲しいという訴え。榎本さん、出版元の本の泉社の担当の方に話を聞いてみたようです。現在は、購読者数が700部程度とのこと(桐山さんの話では多い時には一万部前後売れていたらしいです、百合出版の頃ですが)。本の泉社としては、このまま、このような状況が続くようでは赤字でやっていけないので手を引かせていただきたいと、作文の会の方に話しているとのことでした。なぜ、こんなふうに減っていったのか。機関誌の中でもそう、研究会などでも、系統案に基づいた指導の実践報告などが組織的に否定され、自由な議論が保証されなくなっていったことに対し、きちんとした総括もなしに増やして欲しいでは、広めるつもりにならないというのが榎本さんの弁。日色さんもずっといい続けてきましたが、機関誌「廃刊」などとなったら、どうするのでしょう。
◆講義・「とつおいつ88」(乙部武志さん)
*乙部先生からご指摘がありました。前回の12月例会「とつおいつ87」の報告の中で、誤記載をしてしまいました。訂正をお願いします。
《 ②国土社の社長からの依頼で、国分一太郎、寒川道夫、倉沢栄吉等の監修(?)によって出されていた月刊雑誌『国語の教育』。 》 → 寒川道夫ではなく、滑川道夫の間違いでした。ちなみに、この時には、寒川道夫はすでになくなっていたとのことでした。
(1) 「とつおいつ」の冒頭で、一冊の冊子の紹介がありました。1985(昭和60)年8月27日付けのもの。北原白秋の門下として著名な、童謡で鳴らした巽聖歌。百合出版の社長を務め、縁の下の力持ちのようにして日本作文の会を助け、運営に当たった後藤彦十郎。国分一太郎曰く、「死ぬまで委員長」だと言われ続けてきた今井誉次郎。『山芋』の寒川道夫。それと国分一太郎。この五人の先生方を偲んでということで、記念の講演会が開かれ、その時の様子をまとめたのが、この冊子だとのこと。この冊子の中に、「野名竜二」という名前が出て来ます(系統案について反対する急先鋒のようになっていく人物、後に、田宮輝夫、野名竜二の「田宮野名論争」として、名前を馳せていく人物)。この人物の名が出ており、そういう人物が主催、追悼の講演会を開いた形になっていることが紹介されました。乙部先生からは、冊子の中身に関して詳しく説明があったのですが、資料に語ってもらいます。資料(1)、資料(2)をじっくりご覧ください。(2)現在、日本作文の会の機関誌『作文と教育』にSOSの火が灯っているということと関連させて、戦後の日本作文の会、始動の頃の話が出ました。日本作文の会の常任委員の人たちには、民間側(民間教育団体側)人たちと官製側(文部省寄り)の人たちが混在していたとのこと。革新的なことが旗印といってもいいような日本作文の会に、なぜ官製側(文部省寄り)と言われるような人たちがいたのか?この頃は、文部省も少しはまともだったということなのでしょうか。三笠宮を顧問に迎える算段をしたのは「知恵者」の国分一太郎だったとのことでした。官製側の人たちとして名が挙がっていた人物としては、倉沢栄吉。滑川道夫の名も挙げられていました。滑川道夫は、秋田の成田忠久のもとで北方教育に直接たずさわった人物なのですが、結局は、官製側という烙印を押されるようになっていったとのこと。官製側、民間側、根っこの部分は全く違っているというのは否めない事実だけれども、お互い同士、罵りあいながらも、同じ団体で研究を続けていた時期があったということは、ひじょうに面白いことですとのことでした。
(3)「吉沢久美子」さんという、成田忠久さんの娘さんからの手紙の紹介がありました。
 1989(平成元)年6月29日の消印。この方、乙部先生が杉並区浜田山小学校に勤めていた時に、その学区域にお住まいだったとのこと。その吉沢久美子さんが、どうして便りをくれることになったのか?榎本さんが関係しているようです。墨田区の東向島というところに、吉沢久美子さんの妹さんが住んでいて、第九の合唱をするメンバーだったということ。同じ第九のメンバーの一人だったのでしょうか、「養護教諭」の方という言い方が出ていました。おそらくこの養護の先生と榎本さんが知り合いだったのでしょうか。たぶんそんなことから、吉沢久美子さんが書いた手記、父成田忠久を語る、みたいな手記が、乙部先生の手に入ることになったみたいです。そういった事情があり、乙部先生と吉沢久美子さんの間で交流が始まったようです。
 成田忠久氏のことも、話に出てきました。九段小学校を会場に、東京作文の会の会合を持っていたそうですが、成田忠久氏が中央公論社の編集の仕事をしていた関係で、中央公論社の社員の人の案内で、研究会にいらしてくださったそうです。その後も、いろいろとご援助いただいたとのことでした。私などにとっては、伝説上の人物みたいな方ですが、そんな方と身近に接する機会を持っておられた乙部先生がうらやましいなあと思います。(4)もう一冊、『文集について』という冊子、資料(3)の紹介がありました。国分一太郎は、全国行脚という形で、作文教育、生活綴方の普及ということに頑張っていらしたのですが、文集というものの大事さということを考えて、新書版がはやり始めた頃、新書版の冊子を自費で作って、無償で配ったのだそうです。何かの機会に、欲しい人がいたら配ってくださいということで、その冊子を10冊くらい乙部先生にくださったそうです。国分一太郎は、具体的に教師にどういうことを要求していたか、どういうことをしてもらいたいと考えていたのか、そういったことが分かる冊子ですとのことでした。

◆報告:文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子―作品「さえぎられた光」の生成過程―
(添田 直人さん・豊田正子を愛する会) 
Ⅰ. 冒頭
榎本さんが配った3枚の資料の「下」の部分にある記述を取り上げて話がスタートしました。記述部分を下に要約します。
《国分は49年9月から「教育新報」に、連載論文「生活綴方の復興と前進のために」を執筆し始めている。51年2月になり、それが「新しい綴方教室」という書名となって刊行された。刊行する際、テーマとした「生活綴方の復興と前進のために」を国分はなぜ改題したのだろうか。あえて「綴方教室」という、鈴木三重吉の「赤い鳥」綴方教育の実践によりなった書名(「綴方教室」)を使ったのは、なぜなのだろうか。》 
鈴木実さんがそのように問題を投げかけているけれども、これへの回答が、実は今日、話そうと考えていた内容なのです、という説明がありました。
Ⅱ. 資料(7点)について
①文学雑誌『人民文学』時代の豊田正子、という表題のついたレジュメ。ご友人の勧めで、雑誌『労働者文学』に、400字詰め原稿用紙×50枚の評論を書いたばかりで、その中身に沿って、レジュメが作られているとのこと。②年表が2枚。「出来事」「年齢」「豊田正子」「執筆作品」の項で作成されており、豊田正子誕生から死去までを表にしたもの。12月例会の時に、田中定幸さんが国分一太郎の年譜を作ってきて紹介、国分一太郎について考えていく上で大変分かりやすいと好評でしたが、添田さん作成の年表も、大変分かりやすいものでした。③山田とき著『路ひとすじ』からの抜粋で、「おばあさんの手紙」。④岩波文庫『新編 綴方教室』から、豊田正子10歳の時の作品「自転車」の全文と大木顕一郎の指導記録の部分をコピーしたもの。⑤国分一太郎文集8「ひとのこと本のこと」より、「豊田正子『綴方教室』」の部分をコピーしたもの。⑥国分一太郎著『いつまで青い渋柿ぞ』より、「11 ヨウシュヤマゴボウ」の部分のコピー。⑦『人民文学』(1951年1月号)の「読者だより」のコピー(国会図書館でコピーしてきたもの)。裏面に、最近復刻版が出たとのことで、それからのコピー。⑧『人民文学』(1950年11月の創刊号)に豊田正子が出した作品「真夜中の爆音」全文のコピー。⑨豊田正子の作品「さえぎられた光」の中から、上の弟、稔の部隊葬の部分等をコピーしたもの。 添田さんからは、途中5分間の休憩を取りましたが、1時間半強、お話をいただきました。まとめきれませんので、最後の方に、レジュメのみ、資料(4)として掲載いたします。

Ⅲ 印象に残ったこと、いくつか
(1) 豊田正子は、1922(大正11)年に生まれて2010(平成22)年に亡くなっているのですが、関東大震災の前年に生まれて、東日本大震災の前年に亡くなっているという紹介。さらに、1945(昭和20)年の敗戦の年は、正子23歳。この年代、一番亡くなった人たちの多い年代だったらしいのです。弟たち二人、『綴方教室』に、「稔」(上の弟)、「光男」(下の弟)として出ている二人の弟たちの名前。厚木飛行場の整備兵をやっていた上の弟は、19歳で、「餓死状態」でなくなっており、下の弟(本所で、住み込みの労働者だった)も45年3月の東京大空襲で行方不明になっています。戦争に、大きく影響を受けた人だったようです。
(2) 1950年代はどういう時代だったのか(レジュメの4の部分)に関して、古井由吉の言葉を紹介。「1950年代に10代後半の自殺者が多かった」のはなぜなのかを分析しています。戦前の教育の影響と敗戦による価値観の崩壊を経験した若者たちが、絶望の中、多く自殺していったのではないか。添田さんは、統計などでこのあたりきちんと確認されているようです。(3)『人民文学』の「読者だより」(復刻版)に空蘭部分があり、「この箇所は、著作権の了解が得られなかったため収録できなかった(不二出版)」とあり、執筆者が(東京都墨田区 早乙女勝元)とあるので、どういう内容だったのか、国会図書館まで調べに行ったとのこと。中身は、豊田正子のことが書かれており、特に「著作権」云々というほどのことでもないので、経緯を知るために、早乙女勝元にTEL。会ってもらったそうです。何かの手違いがあったみたいです。この「読者だより」を早乙女勝元が原稿を書いた当時は、早乙女18歳(正子29歳)。関係ありませんが、私は、この時、2歳かな。いずれにしても、国会図書館まで出かけていき調べたり、早乙女勝元にアポを取ったり等、添田さんの行動力、研究姿勢には、頭が下がります。(4)今回は、時間の関係で取り上げることができませんでしたが、「さえぎられた光」を読んでいくと、「ファシズム軍隊の暴力と階級制度」(「眞夜中の爆音」)に対する正子、父親、母親たちの憤りがひしひしとが伝わってくるのを感じました。名作だと思います。北海道の古書店に購入依頼をしましたが、25日(土)までに届くかどうか……。(文責:工藤)

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